マルセル・シュオップ 『黄金仮面の王』: 「伊達の薄着」と反権威主義

▷ 書評:マルセル・シュオップ『黄金仮面の王』(河出文庫)


シュオップという作家を初めて知ったのは、1959年に東京創元社から刊行された『世界恐怖小説全集9 列車〇八一』の表題作としてである。私は同書を、澁澤龍彦の訳書の1冊としてコレクションしたのだ(正確には、青柳瑞穂との共訳)。
まるまる1冊が澁澤訳というわけではなかったけれど、表紙に訳者として澁澤の名前が並んでいたので、コレクターズアイテム的に欲しくなる本だったのである。


しかし、この本をコレクションはしても、読んではいなかったので、シュオップという作家については、特に注目もしなければ、その名前を記憶することもなかった。

澁澤龍彦の著書はほとんど読んでいるため、何度となくシュオップの名には触れていたものの、作品そのものには触れていなかったから、「澁澤龍彦の好きな作家の一人」という、いささかぼんやりとした位置づけに止まっていたのである。

無論、シュオップの訳書が、国書刊行会やコーベブックス(南柯書局)など、いささかマニアックな書店から刊行されたことは知っていたので、機会があれば読みたいとは思ってはいた。


けれどもそれは、あくまでも「澁澤龍彦が好きな作家」としての興味だから、澁澤の好きな作家の本(訳書)を読むとしたら、まず、サドマンディアルグといったところを優先せざるを得なかった。
ところが、このあたりを読んでも、あまり面白いとは思わなかったのだ。

それで「澁澤のエッセイや評論は好きだけど、澁澤の好きな小説は、あまり趣味には合わないようだ。実際、遺作『高丘親王航海記』は大好きだけれど、それ以外の小説でそれほど好きなものは、あまりないし」と、そんなふうに気づいたのである。

なにしろ私は、澁澤龍彦が好きな反面、とうてい澁澤的とは言い難い、ドストエフスキー大西巨人といった「熱苦しい」作家も大好きだし、一方の澁澤龍彦が、ドストエフスキーの五大長編や大西巨人の『神聖喜劇』を読んでいるとはとうてい思えない。楽しむことさえ出来ないはずだ。

そんなだから、澁澤趣味的なシュオップについても「たぶん私の趣味ではないだろう」との予測もあって、積極的に触手が動くということはなかったのである。

しかし、シュオップの作品で、唯一例外的に読み、かつとても面白かったのは、詩人・多田智満子の訳した、『少年十字軍』であった。
これは、私の子供好きとキリスト教への興味が共に満たされて、とても「共感できる」作品だったのだ。


しかしながら、私がこの小説を読んだのは、シュオップの作品としてではなく、キリスト教の歴史への興味からであった。
宗教批判的な立場から、私は一時期、キリスト教関係書を、ジャンルを問わず片っ端から読んでいたのだが、その中に本書も含まれていたのである。

だから、『少年十字軍』の表紙に、シュオップの名を認めても、それが澁澤龍彦の訳した「列車〇八一」の著者だとか、国書刊行会やコーベブックスから訳書の刊行されていた作家の本だとは、すぐには気づかなかった。

また、しばらくしてそれに気づき「『少年十字軍』の著者なら、他のも面白いかも知れないな」とまでは思ったものの、さほど積極的に読もうとまでは思わなかった。
そもそも、私の気に入った『少年十字軍』が、澁澤龍彦の好みだとは思えなかったからである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、マイナーポエットの作家だと呼んで良いだろうシュオップが、文庫に入ったということで、この機会に読んでみることにした。
これを逃せば、もう死ぬまで読むことはないだろうと思ったからである。


で、結果はどうだったかというと、総じて言えば、私の趣味ではなかった。
しかしまた、本書を読むことで、例外的に楽しめた『少年十字軍』という作品を、シュオップという作家の中で位置づけることは出来た。
シュオップという作家は「悲劇的な寓話」の好きな作家であり、『少年十字軍』も、そういう意味では、いかにもシュオップ的な作品だったのである。

さて、本書には表題作「黄金仮面の王」のほか、かつて澁澤龍彦の訳した「列車〇八一」の新訳も含まれており、シュオップという作家を概観するのに、本書はうってつけの一書であった。

で、シュオップという作家をどう見たのかと言えば、「いかにも澁澤龍彦が好きそうな、硬質感のあるマイナーポエットの作家」だというのが、私のシュオップ理解であった。

澁澤龍彦と言えば、まず最初にマルキ・ド・サドのイメージが来て、サドと言えば、けっこう大部の作品も多いから、澁澤はそういう重厚な作品も好きなのかと言えば、実はそうではなかった一一ということを、私は時間をかけて徐々に悟っていった。

「澁澤龍彦と言えばサド」という印象が、かつては、それほどまでに強かったのだ。
なにしろ、澁澤はサドの翻訳で、刑事裁判の被告となり、彼を訴追したお上と徹底的に法廷闘争を闘って、前科者の栄誉を受けた人だったからである。


だが、ある程度、澁澤龍彦を広く読んだ今となっては、澁澤にとってのサドとは、小説家であるよりも、思想家であったのだと理解できるようになった。

若い頃の澁澤は、シュールレアリスムをはじめとした、反主流的な反逆の思想に惹かれていたようだから、サドについてもそうした思想家の一人として惹かれていたのだろうし、サドの「人を人扱いにしない」小説も、甘っちょろい「人間主義」への反抗の書として高く評価していたのではないかと思う。


しかし、少年神たる澁澤龍彦の「本来の趣味」とは、そういうものではなかったのだ。

澁澤龍彦の肖像写真の傍に登場したり、澁澤その人を象徴するオブジェとしてしばしば登場するのは、例えば、髑髏であったり、オウム貝などの貝殻であったり、四谷シモンの人形だったりするわけだが、これらに共通するのは「漂白された死物の硬質感」だと言えるだろう。
つまり、生き物としての「生々しい肉質」を欠いてた存在なのである。


澁澤龍彦の評伝『龍彦親王航海記』を書いた磯崎純一は、澁澤龍彦の美学を「伊達の薄着」と表現したけれど、これは澁澤が、ゴテゴテした飾りつけ(虚飾)や権威主義を嫌って、自分の好みに素直な「軽味」を愛した人だったからであろう。


私は以前、このことを澁澤龍彦が敬愛した作家ジャン・コクトーとの関係で論じている。


エッセイ「コクトーの文体について」のなかで澁澤が、コクトーの魅力として強調していたのは、つづめて言えば「硬質感のある軽やかさ」ということだった。

つまり、澁澤龍彦をサドのイメージだけで見ると誤解してしまうのであり、私は長らくそんな誤解に捉われていたのだが、コクトーに接することで、澁澤龍彦本来の趣味ということがわかったのだ。
ちなみに、澁澤初期の訳書には、コクトーの『大胯びらき』や『ポトマック』がある。

こうした、澁澤本来の「硬質感のある軽やかさ」という観点から見ると、澁澤が、シュオップの(すべてではないとしても)何に惹かれたのかも、おのずと見えてくる。

本書・河出文庫版『黄金仮面の王』の四人の翻訳者の一人である西崎憲が、解説「絢爛たる死物」で、シュオップを語って次のように書いている。

(1)『初期の作品にかんするかぎりでは、(※ シュオップが)もっとも影響を受けた作家はエドガー・アラン・ポーであることは間違いないようだ。しかし発想や修辞の面で作品に多く負っていると思われる「黄金仮面の王」や「ペスト」には、ポーの作品の湿った暗さはなく、同じ「グロテスク、アラベスク」(ポーの最初の短編集はTales of the Grotesque and Arabesquというタイトルだった)でもどこか恬淡としている。』(P240)

(2)『 (※ 『芸術は個人しか描かず、個別性しか求めない。分類はしない。分類を解体する。』という)シュオッブのこの言葉はそのまま受け取っていいのだろうか。シュオッブは(※ 自身語ったとおりに)小説において個人しか描かなかったのだろうか、個別性しか求めなかったのか。(※ シュオップの作である)『架空の伝記』には博物館のようなところ、「博物的」なところがある。登場する人物についてのシュオッブの描写には(※ シュオップ自身が主張するとおりで)たっぷり恣意性が感じられるのだが、読後感としては博物館を訪れたあとのそれに近い。『架空の伝記』の文は博物館の展示物のラベルに近いような印象を受けるのである。そして先立つ「黄金仮面の王」の収録された絢爛たる作品も『架空の伝記』を通過したあとにはわたしには博物的なもののように思える。グロテスクやアラベスクもまた博物的に見える。
 わたしの印象が正しいのかそうでないのか、良いのか悪いのかは判断できない。ただ、博物館にあるものがすべて死んでいることを思うと、シュオップの世界にたいする態度は死物にたいするそれであると考えると腑に落ちるような気がしないでもない。』(P243〜244)


西崎憲のこうした「印象」は、まったく正しい。
つまり、ポーのように「湿った暗さはなく」、「博物館」の展示物のように、生を漂白されて枯れた死物の「硬質感」が強いのだ。

たしかに、シュオップには、ポーの衣鉢を継ぐ「血みどろグロテスク」なところがあるのだけれど、それがポーほど生々しくはなく、どこか「抽象的」なのだ。つまり「死物化」されている。
だから「博物館」的なイメージを与えるのである。

だが、まさにこの点において、私と澁澤龍彦との趣味には、ズレが生じている。

わかりやすく言えば、私はシュオップの乾いた死物性よりも、ポーの湿った生々しさの方が好きであり、澁澤の場合は、まさに「博物館」的に漂白されて乾いたものが好きなのだ。
澁澤の著書タイトルで言えば『貝殻と頭蓋骨』ということになるのである。



○ ○ ○

本書の立場は、そんな澁澤趣味に立つものであるのはたしかで、澁澤龍彦や、その抽象趣味を同じくするホルへ・ルイス・ボルヘスといった「権威」に、最大限に寄りかかっていて、いささか反澁澤的「厚着の権威主義」である。


だから、西崎憲の前記のような直感には共感するものの、この解説文には、とうてい共感し得ない。

(3)『 シュオップは我が国では有名作家ではない。しかし、ついにこの日がやってきた、シユオッブが文庫化されるときが一一といった感慨を抱く読者は間違いなく一定数存在するはずである。なにしろ澁澤龍彦や多田智満子やホルへ・ルイス・ボルヘスなど内外の名だたる読書する人からの惜しみない賛辞を受け、天才奇才が扈する小説の世界でほぼつねに別格と目されてきた作家なのである。その作家の名が手軽に、たとえば電車のなかで吊り革につかまりながらでも読めるようになったことはただただ悦ばしく、まことに長生きはするものである。そして今回の文庫化は物理的にも読者に益するだろう。シュオッブの本は重かったり函つきだったりして、とにかく手軽には読めなかったのだ。二〇一五年に刊行された国書刊行会の全集などはなんと一・五キログラムの重量である。あまりじっくり読んだら腱鞘炎になってしまうかもしれない。物理的な意味でシュオッブは重く面倒な作家だったのである。そこへ本書の登場である。史上最軽量、最新、そしておそらくもっとも読みやすいシュオッブ、我が国では手に軽いシュオッブというものは誰もがまだ未経験である。今回の文庫化は読者のシュオッブ観や声価に相当の影響を与えるはずである。』

(4)『 シュオッブほど高踏的な批評家や翻訳者に愛されている作家を見つけるのは難しいだろう。澁澤龍彦は『架空の伝記』中の二備を「エンペドクレス(抄)」「パオロ・ウッチエロ(抄)」という形で訳しているし、自身の作品集『唐草物語』収録の「鳥と少女」には、「パオロ・ウッチェルロ」の少女セルヴァッジャを登場させている。
『架空の伝記』はひじょうに人気がある。アルゼンチンのこちらも稀代の作家ホルへ・ルイス・ボルヘスは『汚辱の世界史』の序文で同作の趣向が『架空の伝記』から想を得ていることを明確に述べている。
 愛され執着されるがゆえにシュオッブ作品の訳は名訳と呼ばれるものが多い。訳者も
そうそうたる顔ぶれである。澁澤龍彦、渡辺一夫日夏取之介日影丈吉上田敏鈴木信太郎種村季弘堀口大學矢野目源一、多田智満子など、マルセル・シュオッブの翻訳の歴史は名手たちの奮闘の歴史でもあった。』(P244)


せっかく文庫化されたのだから、売れて欲しいという気持ちは、わからないでもない。しかし、

『その作家の名が手軽に、たとえば電車のなかで吊り革につかまりながらでも読めるようになったことはただただ悦ばしく、まことに長生きはするものである。そして今回の文庫化は物理的にも読者に益するだろう。シュオッブの本は重かったり函つきだったりして、とにかく手軽には読めなかったのだ。二〇一五年に刊行された国書刊行会の全集などはなんと一・五キログラムの重量である。あまりじっくり読んだら腱鞘炎になってしまうかもしれない。物理的な意味でシュオッブは重く面倒な作家だったのである。』


といった、いささか調子に乗りすぎて揶揄めいた、この軽薄な表現はいただけない。

国書刊行会やコーベブックスの本が、重厚かつ高価なものになったのは、シュオップがマイナーポエットの作家であり、大衆ウケしないことが自明の前提であったからだし、それでも刊行しようとすれば、限られた読者が喜んで手に入れたがるような「貴族趣味」的な本にするしかなかったというのも自明であろう。
また実際、過去の刊行者には、ある種の「エリート趣味」があったればこそ、さして売れないであろうシュオップを、あえて刊行しようという気にもなったのである。そういう「奇特な人」がいたからこそ、シュオップの翻訳書の刊行が可能だったのだ。

それが、時代が変わり、文庫とは言え、昔のような大部数を期待されなくなったからこそ刊行が可能になったといって、このように、はしゃいで見せるのは、俗物根性丸出しで、いかにもみっともないではないか。

私がこの文庫版の刊行を知った段階で、早くも「三刷」したとかいう話だったが、それは何もシュオップの読者が増えたわけではないということくらい、まともな本読みなら百も承知であろう。

つまり、澁澤龍彦やボルヘスといった「金看板」を担いで回るのと同様の、軽薄な権威主義者たちが、読んでもピンとこないシュオップを買い、「解説文」などを参照することで理解者ヅラをして見せたり、いま流行りの(いかにもFacebook向きの)「見せ本」にぴったりだと、それで本書に飛びつくような輩が増えたと、それだけの話ではないのか?


もちろん、シュオップが「お手軽」に読めること自体は悪いことではない。
だが、お手軽に読めるようになったからこそ、その消費速度も早くなるだけで、これまでは手に取りにくかったがゆえにこそ纏っていた、その「アウラ」まで失ってしまうことにもなりかねない。

そうした「幻想の権威」など失われて、真にシュオップを愛せる「伊達の薄着」的な読者だけが残るのなら、それは悪いことではないだろう。
だが、今の世の中がそんなものかどうか、普通に考えればわかることだ。


澁澤龍彦が「軽やかさ」を愛したというのと、文庫本の「お手軽さ」とは、決して同じものではない。
「軽やかさ」と「軽薄さ」は、別物なのである。

シュオップの文庫化が、果たして、澁澤龍彦的、あるいはボルヘス的な「美意識」の広まりを意味するものなのか否かなど、私ではなくとも、わかりきった話なのではないだろうか。



(2026年5月25日)

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