宮崎夏次系 『と、ある日のすごくふしぎ』: しりあがり寿直系の不条理マンガ家

▷ 書評:宮崎夏次系『と、ある日のすごくふしぎ』(早川書房)

早川書房の隔月刊小説誌『SFマガジン』に連載された、連作読み切り掌編漫画を基本に集成した一書。
各篇8ページで、2013年から2020年まで『SFマガジン』に連載された30本と、2016年1月に刊行された早川書房創立70周年記念コミックアンソロジー『Comic M』と『Comic S』に収められた2本、そして本書書き下ろしの1本の、都合33本が収められている。

それぞれの作品タイトルが「と、ある日の○○○」で統一されており、書籍タイトルが『と、ある日のすごくふしぎ』となっているのは、藤子不二雄が自身の「SF」を「すこしふしぎ」と表現したのを踏まえて、それをもじった「すごくふしぎ」にしたということなのであろう。『SFマガジン』の連載マンガとしては、卓抜なタイトルである。

すでに宮崎夏次系の本は8冊ほど入手しているが、先日、最初に読んだのが第一長編(刊行は、長編としては5冊目)の『夕方までに帰るよ』だったので、今回は短編集を読もうと思った。
そこで、第一連作短編集(掌編集)となる本書を読むことにしたのである。


さて、本書を読み始めて、まず最初に思ったのは「この人は天才だな」ということである。
特に、本書冒頭付近の作品は、どれもすごい傑作なのだが、その水準が後半に至るも、ほとんど下がらないのだ。

(巻頭収録作品「都、ある日の忘れもの」)

たしかに冒頭付近の作品は、『SFマガジン』という特殊な「ジャンル小説誌」での初の連載ということで、そうとう力が入っていたのではあろうが、これだけ長い連載で、高い水準を保つというのは、生半な実力で出来ることではない。

ただ、さすがに7年間の連載の中では、作風に微妙な変化が見られるというのも、たしかだ。

私は前記の『夕方までに帰るよ』のレビューの中で、次のように書いた。

『基本的には「切ない系」の作品なのだ。

だがそこに、一種の「不条理ユーモア」的な色合いもあって、生々しくはなりすぎないし、重くもなりすぎない。
かと言って、軽いわけではないから、読んだ後にちょっとため息をつきたくなるような、そんな独特のリリシズム(叙情性)を湛えた作風なのである。』


この認識を踏まえて、本書『と、ある日のすごくふしぎ』所収の諸作を読んでみると、初期の作品ほど「切なさ」が前面に出ており、それに不条理ギャグ、つまり「かなりふしぎ」な要素が加味されることで、重くなりすぎないよう、微妙なバランスが取られているという感じなのだが、後に進むにつれ、「切なさ」要素が徐々に薄れて、不条理ギャグが前面に出てくるようになる。

私は、『夕方までに帰るよ』のレビューの中で、主人公の男子中学生である「僕」の独白を模倣するかたちで、同作の語らんとしたことを、次のように表現した。

『こうして、両親も姉も、変なままではあったけれど、家族の平穏な生活が初めて実現したのであった。

一一でも、そんな僕らの今は、果たして幸せだと言えるものなのだろうか?

だが僕は、これはこれで満足している。だからこれも、幸せのうちなのではないだろうか。
一家の幸せや人の人生の幸福って、案外そんなものなんじゃないかと、そう思っているからだ。』


つまり、宮崎夏次系という人は、世間一般には「不幸」だとされていることを、単純に「不幸だから、改善されなければならないもの。改善されなければ、その人は不幸なままである」とは、考えないようなのだ。

本書の帯に、

世界からはみだしても、きみはひとりぼっちぼっちじゃない。


とあるとおり、なのである。


本書のほとんどの作品において、そうした考えが、かたちを変えて変奏されており、どの作品のことかはあえて明かさないが、こんな具合だ。

「傷ひとつない存在でなくてもいいじゃないか」
「偏屈者でもいいじゃないか」
「ひとりぼっちでもいいじゃないか」
「パンツの穴に転生したっていいじゃないか」
「異形の宇宙人でもいいじゃないか」
「言葉が通じなくてもいいじゃないか」
「流行に合わせなくてもいいじゃないか」ect

無論、これをこのまま語ったのでは、ある種の「説教」になりかねないのだが、世間一般には「ダメなもの=立派とは言い難いもの」の側からそれを描くことで、笑いとともに、読者を固定観念から解放する作品となっている。

こうしたことが、特にわかりやすい作品を、ひとつだけ具体的に紹介しておこう。
最後から4番目に収録されている「と、ある日の氷上釣り」である。

ある凍結した湖の上で、女の子2人が氷に穴を開け、そこに釣り糸を垂らす、氷上釣りをしている。
そこへおじさん数人がやってきて、その代表格らしいおじさんが、彼女らを見て「かわいそうに」と言う。
それで彼女たちが驚いておじさんの方を見ると、おじさんは、彼女たちが「かわいそう」だとする理由を語り始める。
「この湖は、環境汚染のために生き物は死滅しており、湖の底にあるのは、使い捨てられたドローンくらいだ。そんなことも知らずに、無邪気に釣りをやってる君たちが、あまりにもかわいそうだ」一一そう言うのである。


どうやらおじさんは、それ系のインフルエンサーのようで、撮影録音のスタッフを引き連れてきたようだ。

ところが、おじさんのマジメ腐った話が途切れたところで、女の子たちは何事もなかったかのように、また釣りを戻ってしまう。

おじさんは「話を聞いていなかったのか!」と突っ込みを入れるも、理解できなかったのかも知らないと思いなおして「おじさんが子供の頃には、いろんな魚が釣れたものだ」的な話を始める。
だが、女の子たちはそれを気にするふうもなく釣りを続けていると、片方の女の子の糸に獲物がかかり、「これは大物だぞ」と力いっぱい引き上げてみると、それは湖の底で眠っていたドローンのひとつで、釣り上げられた勢いからか、ドローンはそのまま高く飛び上がり、釣った女の子まで空中に吊り上げてしまい、女の子は女の子で、それを喜んではしゃいでいる。一一というところで、この物語は終わるのだ。

環境破壊に反対するのも運動するのも、それは大いに結構なことだが、人には様々な価値観があり、それで生きているのだから、ひとつの価値観で人の生き方を測り、裁くべきではないし、それだけが正しい生き方でもないはずだ。
だから、そうした正論的な価値観を、問答無用で押しつけるようなことはするな(また、それで商売をするな偽善者め)と、おおよそそういうような主張の込められた作品なのである。
つまり「意識低い系でもいいじゃないか」というわけである。

もちろん、作者は「意識が低くても良い」と言っているのではなく、すべての人が意識が高いわけでもなければ、意識が高ければ「偉い」というわけでもない。
高い意識(や知識)とは、必要だから身につけるだけであって、偉くなるためのものではない。説教をするためにあるものでも、違った考えの他者を否定したり見下したりするためにあるのではないと、おおよそそういうことを言いたいのである。

作者は「ダメ人間の自由権」とでも呼ぶべきものを主張しているのだ。

人は誰しも、すき好んで不幸になりたいわけでも、切ない立場に立ちたいわけでも、無知でありたいわけでもない。
しかし、この世の中には、否応なくそういう立場に立たされる人もいて、それがゼロになることは金輪際あり得ないのだから、そうした人たちの存在は、否定して済まされるものではないと、宮崎夏次系は、そのように考えているのであろう。

無論、私は「啓蒙」は必要だと考えるし、無知はしばしば罪でもあると考える。
しかし、だからと言って、それを否定しても、世の中は変わらないということを忘れてはならないと思うし、宮崎夏次系もまた、そうした立場なのであろう。

なにしろ、本書における宮崎夏次系の主張自体が、一種の「啓蒙」だというのも、否定できない事実なのである。

つまり、上の「と、ある日の氷上釣り」で語られているのも、「知識は、必ずしも人を賢くするわけではない。それどころか、人から想像力を奪い、傲慢にすることさえ珍しくない」のだという「知識」を、人に与えることで啓蒙しようとしている作品なのである。

だから、ここで私たちが考えなければならないのは、今なぜ、このような「啓蒙としての反啓蒙」が語られるのか、ということであろう。

そして、そうした「啓蒙としての反啓蒙」を語る人が、そもそもは人生における「切なさ」について敏感な人であるという事実を、忘れてはなるまい。

言い換えれば、こんな啓蒙をしなければならないほど、世間には「頭の悪い、傲慢な啓蒙主義者」が少なくないということなのだ。

宮崎夏次系は、そうした人たちの横行に対して、「人の世の中って…」と「切なさ」を感じており、それでもしかたなく「啓蒙としての反啓蒙」をせざるを得ない自分の立場にも、きっと「切ない」ものを覚えているのであろう。

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ちなみに、本書の後半で強く出てくる「不条理ギャグ」を見ていて気づいたのは、この宮崎夏次系という作家は、たぶん、『真夜中の弥次さん喜多さん』などで知られる漫画家・しりあがり寿の影響を強く受けた人なのであろう、ということだ。
絵柄的にも、たしかに一脈通ずるところがある。


しりあがり寿は、ほとんど読んでないので詳しいことは知らないが、例えば『真夜中の弥次さん喜多さん』は、同性愛者である弥次さん喜多さんの、クイアな不条理珍道中マンガなのだが、しかし、しりあがり寿のマンガというのは、潔癖なまでに強固な倫理観に支えられており、その反動としての「世の常識に意を唱える」クイアな表現だったのではないかと、そんな印象が私にはある。

であるならば、宮崎夏次系は、そんな尖ったしりあがり寿よりは、ちょっとマイルドで可愛い、しかしその直系の作家だと、そう評価してもいいのではないだろうか。

現時点での私のこの読みが、どのていど当たっているのかいないのか、他の作品を読むのが今から楽しみでならない。



(2026年5月24日)

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