▷ 映画評:エミール・アルドリーノ監督『天使にラブ・ソングを…』(1992年/アメリカ映画)
とにかく楽しい映画だ。未見の人には、是非にとオススメしたい。

ストーリーは、次のようなものである。
『しがないクラブ歌手のデロリスは、殺人現場を目撃したためにギャングに命を狙われている。身を隠すための意外な場所は、なんと、お堅い修道院!
命惜しさにじっと我慢のデロリスだったが、やっぱりとってもミスマッチ。
ところが一転、聖歌隊のリーダーに任命されてからは実力発揮。それまでのヘタクソなコーラスに代って教会から流れてくるのはソウルやロックの“賛美歌”!?
たちまち街中の人気となり、この話題は全米に報道されてしまったからさあ大変! テレビに写った尼さん姿のデロリスを、ギャングが見逃すハズがない! デロリス危うし!?』
(DVD裏面のストーリー紹介文より)

本作を見ていて思うのは、このストーリーは間違いなくファンタジーであり、現実には、こううまくはいかない一一と、それは分かりきっているのに、そういう「甘さ」が弱点にはなっていない、という強みの存在である。
そして、批評的に言うならば、どうしてその「甘さ」が弱点になっていないのか、という点が、問うてみるべきところであろう。
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主人公のデロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)は、しがない二流の歌手だけれども、ネバダ州リノのクラブ「ムーンライトラウンジ」の専属歌手として、それなりに満足した生活を送っていた。
なぜ、彼女が恵まれているのかというと、このクラブやカジノのオーナーであり、裏ではネバダ州一帯に縄張りを持つマフィアのボスであるヴィンス・ラ・ロッカ(ハーヴェイ・カイテル)の愛人におさまっていたからである。

ロッカは彼女にはとても優しく「今の妻と別れて、おまえと結婚する」という口約束だけはしてくれているのだが、いっこうにその約束を履行しようとしない。
それで業を煮やしたドロリスが、ロッカに別れを告げてクラブを出ていこうと、ロッカの事務所に乗り込んだところ、ちょうどその時、警察に内通していたお抱え運転手の頭を銃で撃ち抜いて殺害するという場面に出くわしてしまう。
それまでドロリスは、自分には甘いロッカしか知らなかったから、強気で別れを告げに行ったのだが、そのとき初めて、隠されていたロッカの冷酷な本性を知る。
焦ったドロリスは、要件を誤魔化して事務所から退散すると、そのままトンズラしようとするが、まずいところを見られてしまったロッカは、ドロリスを放っておくことは出来ないと即座に判断して、子分の2人に、ドロリスを捕まえてくるか殺すようと指示をする。
そして、すぐさま子分の2人はドロレスを追ったのだが、間一発、ドロリスはその追手から逃れて警察署へと駆け込み、自分を守ってくれと訴える。

一方、かねてから警察は、裁判でロッカを有罪にするための証人を確保しようとしたのだが、その証人が殺されてしまい、手詰まりの状態になっていた。
そしてそこへドロリスが飛び込んできたのだから、渡りに船とドロリスにロッカを有罪にするための証人になってくれと要請する。
しかし、ドロリスは、そんなことをしたら殺されるに決まっていると断るが、その事件の担当者であるエディー・サウザー警部(ビル・ナン)は「逃げているだけでは、いずれ君は殺されるしかないだろう。だからこそ、ロッカを捕まえなければならない。君の命は絶対に守る。ついては、裁判が始まるまでの潜伏先として、絶対安全な場所がある」と、そう保証するのだ。
そして、その潜伏場所こそが、リノの街からは遠い、カリフォルニア州サンフランシスコにあるカトリックの女子修道院だったのである。

そしてここから、ドロリスの修道院での活躍が始まり、それまでは、良い人だが保守的な修道院長の下で、修道の一環として聖歌隊をやっていた修道女たちが、歌うことそのものの喜び、そして歌が人々を感動させることの喜びを知るようになる。


彼女たちは生き生きとした輝きを発しはじめ、またそれまでは柄の悪い下町に所在するこの修道院に引きこもって祈りの生活に専心していたのが、進んで人々の中へ入ってゆき、神の救いを実践しようという、積極的な気概を持つようにも変わっていった。

そしてそうした中で、この修道院の聖歌隊の評判がテレビでもとり上げられて、それを知った法王(ローマ教皇)が、訪米の際に、その歌を聴きに修道院に訪れることになった。
しかし、その法王を迎えての本番に向けて猛練習に励んでいた矢先に、ドロリスの居場所がロッカにバレてしまう。
サウザー警部が急遽、ドロリスを修道院から連れ戻しに来たのだが、ドロリスは「今みんなを置き去りにして、修道院を去ることなんて出来ない」と抵抗し、サウザー警部をまこうとして、きっちりロッカが派遣してきた子分たちに誘拐されてしまう。

しかし、この子分の2人は、修道服に身を固めたドロリスを見て「修道女を殺すことはできない」と、ドロレスをロッカの下に連れ帰ってしまう。

子分たちからその知らせを受けたロッカは「こいつ(ドロリス)が修道女なわけないだろ。こんな格好をしているだけだ」と手下を説得しようとするのだが、彼らはイタリアン・マフィアであり、敬虔なカトリックだったから、なかなかドロリスを手にかけられない。
それにドロリス自身、修道院での経験が影響して、冗談や演技ではなく、ごく自然に「神よ、この罪人たちを許したまえ」なんて言葉が出てくるようになっていたものだから、余計に手にかけにくくなっていたのである。
一方、ドロリスがロッカの下に連れ戻されたと知ったサウザー警部だけではなく、すでに自分たちのかけがえのない仲間であるドロリスの身の安全を、警察だけに任せておくわけにはいかないと、修道院の仲間たちが、修道院長まで含めて全員で、クラブ「ムーンライトラウンジ」あるリノまで、はるばるヘリを飛ばしてやって来て、カジノの中に修道女が多数まぎれてのドタバタが演じられることになる。
そしてその直後に、サウザー警部ら警察隊もカジノに踏み込んで、めでたくドロリスは救出され、彼女を殺そうとしていたロッカたちは現行犯逮捕されるのである。
そんな本編のラストは、法王の列席のもと聖歌を披露するミサのシーンだ。




おとなしい古典的聖歌に始まり、途中からはソウルやロック調にアレンジされた聖歌を生き生きとして歌い、それを晴れやかに歌い終えた彼女たちに、教会を埋め尽くした人たちから満場の拍手をおくられ、法王も観覧席から立ち上がって、彼女たちに拍手を送る。
そんな拍手と歓声を受けて、晴れやかな笑顔を浮かべるドロリスのアップで、この物語は幕を閉じるのだ。
そのあとのエンドロールでは、このミサ(コンサート?)がまた、大変な話題になって、有名ニュース雑誌『タイム』などに取り上げられた様子が、その表紙写真を見せるかたちで紹介される。
つまり、典型的なハッピーエンドというわけである。
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このように見てくると、本作の魅力とは、とても分かりやすく「人間らしさの肯定」だと言えるだろう。
修道院の中で、厳しい戒律を課され、変化に乏しい生活をしてきた修道女たちが、ドロリスの登場によって、「自分らしさ」を表現することの喜びを知って、生き生きと輝きだす。
また、ドロリス自身も、ただ歌手として歌うだけではなく、仲間たちと力を合わせて歌うことに喜びを感じ始めるようになり、さらには、歌うことは、稼ぐための仕事ではなく、人々を幸せにする、聖なる仕事なのだという充実感を得ることにもなっていった。
つまり本作はこのような、ごく常識的な「生の肯定」を高らかに歌っているから、見ていて素直に楽しい作品なのである。


だが、ひとつだけ引っかかるところがあるとしたら、それは「修道生活」というものが、旧弊な「生の抑圧」にしか見えない、そんな描かれ方で終わっている点であろう。
この点で、世俗的な「生の積極的な肯定」に正義があり、修道院的な「生の抑圧」は間違いであったかのように、本作では単純化されて描かれている。



つまり、歌うことの喜びをもたらしたドロリスが正しく、古いやり方に固執した修道院長のやり方は間違っていた。
だからこそ、その修道院長も、最後はドロリス的な「生の積極的な肯定性」の立場に立つように「変わった」のである。

一一しかしながら、これを現実の修道女たちが見れば、「なんと浅はかな」という印象を持つのではないだろうか?
たしかに、修道院の生活というものは、余計なものをすべて切り捨てて、ただ祈りの生活に専心するものであり、ある意味では「生の積極性」を否定するものではある。
けれども、それは「生」そのものを否定するためのものではなく、「生」そのものを見つめ直し、最も大切な「神との直接関係」を取り戻すための「修行」なのだ。
「生の欲望」を全肯定するのではなく、「生の中の、何が大切なのか」を見つめなおし、枝葉に目を奪われるのではなく、最も大切な「神」との関係を見出すための作業が、「修道」ということなのである。
たしかに、物語の中では「生の肯定」が、すべて「良い結果」を生むように描かれているから、「生の肯定」が全面的に素晴らしいもののように見えてしまう。
しかしながら、「生の肯定」を全面的に認めてしまうならば、それはロッカたちの「我欲による犯罪」すら肯定することにもなりかねないのが、現実というものなのである。
だからこそ現実には、「修道」という行為には、重要な意味がある。
自身を世俗の生活とその欲望から切り離して、本当に大切なものとは何かと問い、見つめ直すことは、日々の生活に流されやすい私たちにとってこそ、特別な価値を有するのであり、修道院とはそうした意味を有する「特別に恵まれた(祝福された)環境」でもあるのだ。

無論、私は無神論者であり、キリスト教カトリックを含めた、すべての宗教的な迷妄や自己欺瞞を批判する立場の人間だから、「生の欲望を切り捨てて、自分を見つめ直す」という修道的な生活が、そのまま「神との直接的な関係の重要性」に結びつくとは、考えない。
例えば、「生の欲望」を見つめ直した結果、「信仰もまた、生の欲望が見せる虚妄にすぎない」と喝破する機会にもなり得るし、そうなるべきだとも思っている。
「神との直接的な関係」というあらかじめの「結論ありき」ではなく、「虚心に自己を見つめる」ことこそが肝心だと、そう考えるのだ。
ともあれ、本作の場合は、そこまでのことは考慮しておらず、単純に「生の肯定性」を無条件に良きものとして、肯定的に描いているにすぎない。
だからこそ分かりやすいし、気持ちよく見られるのだが、ただ、この気持ち良さは、あまり、知的でもなければ深いものでもない、ということにはなるのだ。
だがまた、それでも本作が、きわめて感じの良いエンタメ作品に仕上がっているのは、たぶん、本作が描いたのは、単なる「生の肯定性」讃歌には止まらず、他者のために尽くすことの喜びを描いていたからではないだろうか。
歌うことの喜び、歌を聴いてもらうことの喜びだけではなく、それを通して、人々の幸福に貢献できることの喜び、自分のためであると同時に、それが人のためでもあり得ることの喜び、人に尽くすことの喜びが描かれているから、本作は、安直な「甘さ」を免れ得ているのではないだろうか。
自分の快楽を追い求めることよりも、他人の喜びのために尽くすことが自分の喜びとなった人の方が、たぶんその喜びも大きければ、人として強くもあるはずだ。
ドロリスが仲間たちのために身の危険を犯し、仲間たちも彼女のために身の危険を犯した。
それは、彼女たちが「命よりも大切なもの」を見つけていたという、何よりの「証し」だったのである。

(2026年5月23日)
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