磯崎純一 『幻想文学怪人偉人列伝 国書刊行会編集長の回想』: 怪人偉人のいた時代

▷ 書評:磯崎純一『幻想文学怪人偉人列伝 国書刊行会編集長の回想』(筑摩書房)


かの『世界幻想文学体系』で知られる出版社・国書刊行会の編集長であった著者による、回想的人物録とでも呼ぶべきが本書である。

本書著者は2019年に、編集者として親交の深かった作家・澁澤龍彦についての決定版評伝とも評された 『龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝』を刊行して、読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞している。


ちなみに、国書刊行会の歴史的偉業たる『世界幻想文学体系』の刊行は、本書著者が編集者になる以前のもので、著者自身「あの『世界幻想文学体系』の国書刊行会」という思いがあって、同社に就職した人である。

そして、そんな磯崎は1959年生まれということだから、私の3つ上の同世代であり、私は長らく磯崎の編集した本や叢書をいそいそと買っていた、それなりに上得意であったはずだ。

例えば、各種単行本は無論、《バベルの図書館》全30巻とその新編《日本幻想文学集成》全33巻とその新編《書物の王国》全20巻などを含む、主に幻想文学関係書である。


ちなみに、これらの本の大半は、未読のまま、先年の蔵書整理で処分してしまった。
無論、買っていた当時は「いつか読もう」と思って、ひとまず揃えていたのだが、その時々、読みたい本は引きも切らせないから、こういう叢書ものや、出版社は違うが『澁澤龍彦全集』や同『翻訳全集』、『稲垣足穂全集』『森茉莉全集』といった全集ものというのは、その版で読むことは絶えてなかったのである。


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さて、本書で語られているのは、次のような面々だ。

澁澤龍彥
松山俊太郎
種村季弘
矢川澄子
橋本治
須永朝彦
田辺貞之助由良君美曽根元吉
南條竹則
山尾悠子
・佐藤今朝夫


澁澤龍彦松山俊太郎種村季弘矢川澄子までは、間違いなくいわゆる「澁澤組」である。


須永朝彦山尾悠子は、ひとまわり上の澁澤組に直接的な影響を受けた、同系統の後続世代作家。


田辺貞之助由良君美曽根元吉の3人は、著者が編集者になる前からその存在を注目しており、編集者としてもつきあいのあった、博識で目利きの文学研究者であり翻訳家。

橋本治は、一人だけ系統ちがいだが、その独自の存在感で、著者を惹きつけた異色の作家であり評論家。


南條竹則は、著者が学生時代から知っていた、同世代の作家で翻訳家。
作家としては『酒仙』で「日本ファンタジーノベル大賞」の優秀賞を受賞した実績があり、翻訳家としては、イギリスの伝統的な幽霊小説という実に渋いところを好んで翻訳する個性派だ。

そして、最後の佐藤今朝夫は、多くの読者が初めて目にする名前だろうし、私もそうだったのだが、じつはこの人、国書刊行会の創業者である前社長だ。
著者は、この幻想文学には何の理解もない、けれども自身の趣味や興味を部下に押しつけるようなことはしなかった社長の下で、のびのびと数々の特筆すべき仕事を成し遂げてきたのである。

そんなわけで、本書を読んで、私が個人的に面白かったのは、これまでそれなりに読んできた澁澤龍彦やその周辺の作家、あるいは橋本治などの方ではなく、名前くらいは知っていたけれども、詳しくは知らなかった、田辺貞之助・由良君美・曽根元吉といった学者や、国書刊行会の創業者・佐藤今朝夫の人柄を紹介する、本書後半の文章の方であった。

なお、南條竹則については、その存在はよく知っていたが、正直なところあまり興味が持てなかったので、読まなかった作家・翻訳者である。
ただ今回、磯崎による紹介文を読んで、その浮世離れした人柄に興味を持ったので、いくつか読んでみてもいいなとは思っている。

さて、田辺貞之助・由良君美・曽根元吉についてだが、田辺貞之助については、名前に特徴があるので、翻訳者として何度もその名を見かけた記憶がある。しかし、何を訳していた人かまでは思い出せなかったのだが、本書を読むと、やはりフランス文学の翻訳者で、私が読んだのは、創元推理文庫から出ていた、J・K・ユイスマンスの『彼方』であった。


その頃すでに私は澁澤龍彦のファンであり、ユイスマンスの名前も澁澤の本で知ったのだが、澁澤訳のユイスマンスの長編は『さかしま』だけだった。
『彼方』は神秘主義思想を扱った作品で、『さかしま』はデカダンス(退廃)思想を扱った作品だったのだが、私は神秘主義の方に興味があったので、澁澤訳ではなかったけれど、『彼方』の方を先に読んだのである。
いま思えば、田辺は澁澤のフランス文学における先生格の人であり、事実、田辺の教室に若き澁澤がいたこともあったのだそうだ。

由良君美の本は、そのほとんどを初版本で所蔵していたはずだが、結局は今日まで1冊も読むことが出来ず、こちらも先年の蔵書整理で、すべて処分してしまった。
後年、四方田犬彦が『先生とわたし』で由良の思い出を書いて刊行した際も、気になったが購入するにはいたらなかった。なにしろ、肝心の由良の本を1冊も読んでいないのに、伝記的な事実を先に知ってしまうというのは、本末転倒的でつまらないと思ったからである。

だからこの機会に、文庫になっている由良君美の本を読みたいと何冊か注文したのだが、さて本当に読めるかどうかは、いささか心許ないところだ。
なにしろ、本書『幻想文学怪人偉人列伝』を読んだせいで、あれも読んでいなかったな、これは存外おもしろいかも知れないなどと、結局10冊以上の本を注文してしまったからである。
こんなことをしているから、未読本がどんどん溜まってしまって、結局はその大半が読めないままになってしまうのだ…。

さて、そんな本書の中で、最も面白かったのは、佐藤今朝夫の思い出を記した、最後の章である。
そもそも私は、国書刊行会という出版社の謎めいたところに興味を持っていたから、そのあたりがかなりのところ明らかされたこの章は、それだけでもとても面白く読めたのだ。

例えば、この国書刊行会は、もともとは復刻本を手掛けていた印刷所から発展した出版社で、その初期に日本の古典籍の復刻本の印刷製造を手がけており、それらの本の出版社が「國書刊行会」という社名だったことから、それをほとんどそのまま、自社出版部の社名としていただいた、というのである。

それから、国書刊行会は、「坊主丸儲け」などという悪口が叩かれた時代に、長らくお寺向けの専門書で稼ぎ、そうした基盤があって『世界幻想文学体系』のような無茶な叢書の刊行もできたようである。

まあ、普通に考えて、国書刊行会の刊行するような私好みの本は、とうてい金儲けのできるような代物だとは思えなかった。
実際、そういう趣味に走った出版社が、短命で終わった例をいくつも知っているから、どうして国書刊行会だけは、こんな道楽めいた出版を長く続けることができるのだろう、何か裏があるはずだ、などと思っていたのである。


詳しくは知らないが、例えば教科書出版や図書館収蔵本など、安定した収入が見込める出版をしつつ、その一方で、私のような一般の読書家の目につくような文芸書も刊行するといった出版社もあって、そうしたところは、そういう経営基盤があってこそ、言うなれば「趣味的な出版」も可能だったようなのだ。

まあ、素人に「趣味的な出版」と言われては、それを何とかして売ろうと苦労している出版社の方には申し訳ないんだけれども、しかし、私はそうした出版に感謝しこそすれ、決して道楽出版だなどと軽んじているのではない。そういう奇特な出版社や編集者がいるからこそ、私たちはさまざまに面白い本を読むことができるからだ。

ともあれ、国書刊行会という出版社のユニークさは、そのすべてではないにしろ、本書に語られるところで、かなりのところ知ることができ、腑にも落ちた。
しかしまた、そんな国書刊行会のユニークさとは、佐藤今朝夫という個人のキャラクターによるところが大きいというのも、よくわかったのである。


本書の場合、著者が編集者としてつきあった作家たちについて書いた部分は、やはり、多少なりとも「良く書かねばならない」という配慮が働いているだろう。なにしろお世話になった先生方のなかでも、個人的に高く評価していた書き手たちだったのだから、悪く書けるわけがない。

仮に、世間一般の常識からすれば欠点でしかない点について言及したとしても、しかしそれは、その作家の価値を下げるような書き方ではなく「そういう欠点があったればこそ、あの独自な世界も創造し得たのだ」的な書き方をして、嘘ではないにしろ、結果としては、読者に好印象を与える書き方をしなければならないし、事実そうしているのである。

だが、本書におけるそうした配慮の例外が、元上司の佐藤今朝夫について書かれた部分だ。
佐藤はご存命のようだが、すでにご高齢で隠居の身だし、著者自身、国書刊行会を定年退職してフリーの身だから、佐藤に対しては、作家に対するような「気遣い」は必要ない。

と言うか、元上司であり元身内だからこそ、下げこそすれ持ち上げるようなことは出来ないから、磯崎はこの元上司のあれこれの逸話を忌憚なく紹介しており、佐藤が決して文学に精通した人ではなかったという事実も、遠慮なく指摘している。

けれども、この佐藤今朝夫の章を読んでいて感じるのは、著者の懐旧の情のようなものであり、それを象徴するのが、今では珍しいであろう磊落かつ個性的な社長、佐藤今朝夫その人なのである。

この章は、著者の若かった頃、個性的な作家たちの中を駆け回った、あの「良き時代」を背後で支えてくれた佐藤今朝夫という存在に捧げられたオマージュであると、私にはそのように感じられたのた。

もちろん、時代が良かったということもあるのだろう。だが、本書に登場する古い世代の多くは、とにかく個性的で器が大きく、ケチな金儲けに汲々としたり、つまらない知ったかぶりをして偉ぶったりするような小物はいなかった。
人としての器が大きいからこそ、知らないことのあることを受けいれることが出来たのだろうし、だから殊更に偉ぶる必要もない、そんな傑物たちだったのである。

私は若い頃、作家や学者の本を読んで、しばしば「なんでこんなに、あれもこれもよく知っているんだ。一生かけても、この境地にはとうてい到達できないだろう」と、そんなふうに圧倒されることがよくあったし、たしかに澁澤龍彦をはじめとした古い世代の人たちには、いま読んでも圧倒されるところがある。


ところが、昨今の作家や学者は、自分を大きく見せようとしているというのが、しばしば目につき鼻について、ウンザリさせられることが少なくない。

もちろん昔だって、そういう人の方が多かったのかもしれないが、少なくとも、私が読んだ範囲では、そんなわかりやすい小物は少なかった。
一一だから、どうしてこんなことになってしまったんだろうという思いが、どうにもこのところ禁じ得ないのである。

私自身が歳をとり、長い時間をかけてそれなりに知識を蓄積してきたから、その目で今どきの作家や学者を見ると、物足りなく感じられるということようなことも、多少はあるだろう。だが、それだけだとは、どうしても思えない。

佐藤今朝夫のような個性的で人間味のある経営者が少なくなったであろうことと同様の理由で、作家や学者も、無難に小粒な人が増えたのではないだろうか。

失敗を許されない社会、「儲けるのが当然」「株主のための経営」みたいなものが、社会の隅々にまで浸透した結果、手堅く金儲けの才はあっても、面白みのない人の成り上がる世の中になったせいで、作家と学者もおのずと小粒になったのではないだろうか。


私のこうした感覚が、単なる年寄りの懐古趣味から出たものなのであれば、それはむしろ幸いではある。
けれども、どんどんと便利かつ窮屈になっていく世の中を見ていると、私の感覚もあながち間違いではないように思えてならないのだが、一一さてどうだろうか。

本書著者の磯崎純一も、私と似たような感覚を、少なからず持っているように思える。

例えば本作のタイトルは「怪人偉人伝」となっているが、今の世の中で、敬愛を込めてそう呼べるような人が、果たしてどれくらいいるだろう?

むしろ、今の世の中は、そうした人たちをイレギュラーな存在として排除する、良くも悪くも「無菌化」の進んだ、安全かつ、つまらない世の中なのではないだろうか。



(2026年5月22日)

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