野矢茂樹 『哲学の謎』: 哲学するとは、こういうことさ。

▷ 書評:野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)


「名著」の名に値する、実に面白い本である。
本書に書かれているのは「〝哲学する〟とはどういうことか」ということだ。

これは、「哲学という行為」の意味や、ましてや定義の問題などではない。
「哲学という行為」そのものであり、実践の問題。つまり、知識の問題などではない。

だから、本書で読んで、そこで紹介されている、各種の哲学的な根本問題(基本問題)についての知識を得たところで、それでは本書を理解したことにはならない。
例のよって、「雑学的な、話のネタ」を手に入れただけにすぎない、ということだ。

本書が「対話形式」で書かれているのは、決して、読みやすくするためではない。

哲学とは、個人的な考えとしての「思想」とは違って、もっと普遍的で根源的なものを捉えようとする営為なのだから、「自分はこう考える」に止まってはならないものなのだ。
だから、「哲学をする」ためには、是非ともツッコミ役が必要となる。

さて、ひとまず人は、誰でもそれなりの「思想」を持っている。
例えば「リンゴは赤い」。

こう書くと、「リンゴは赤い」は「事実」であって「思想」ではないと、そう思う人も多いだろう。
だが、「リンゴは青い」と本気で主張する人も存在するだろうし、彼が間違っているという証拠・保証は、どこにもない。
あるのは、彼が圧倒的な少数派だというだけであろう。

だから、「リンゴは青い」と本気で主張する人がいたら、私たちは普通、その人が「色盲」であるか「頭がおかしい」か、と考えるだろう。

しかし、その人が「リンゴは青い」と主張すること以外は、他の物については皆の同様の色彩認知を語り、当たり前に常識的な判断をして常識的な行動を採れる人だったとしたら、どうだろう?

その場合、「彼は、なぜかリンゴの色彩認知のみが狂っている」とでも言うしかないはずだが、この説明の言葉には「なぜか」という言葉がふくまれていることからも明らかなとおりで、これは、形式的には説明の言葉だけれど、論理的な普遍性を持つ言葉にはなっていない。
つまり、この説明は「リンゴは赤い」と主張する「仲間(身内)」向けの(約束事の確認的な)説明にしかなっていない、ということだ。

したがって、普遍的かつ客観的な立場に立って言うなら、「リンゴは青い」と主張する彼の方が正しいのか、「リンゴは赤い」とする彼以外のみんなの方が正しいのかは、わからない。確定しようがない、ということになる。

なにしろ、多数派が正しいとは限らないというのは、人間の歴史がくり返し証明してきた事実なのだから、まともに歴史の知識があり、その意味するところを理解していれば、「こっちが圧倒的な多数派なんだから、こっちが正しいに決まっている」などという、馬鹿丸出しな主張は出来なくなってしまう。

しかしまた、彼一人が「リンゴは青い」と主張するくらいなら、無視することも出来るだろうが、例えば、みんなが「赤信号」だと認知するものを、「青信号だから渡った。私は悪くない」と主張する人が大勢出てきたらどうだろう?

当然のことながら、交通用信号機の例に限らず、人間間の「共通認識」が成立しなくなれば、社会は混乱を来す、というか、そもそも社会は成立しなくなるだろう。

だから、私たちはやむなく「リンゴは青い」と主張する人に対しては、あれこれ理由をつけて、「君は間違っている」「少なくとも君のその認知は狂っている」「だから、われわれに合わせてもらうしかない。つまり、リンゴは赤いのだ。君には青く見えていたとしても、それは君が狂っているだけなんだから、こちらに合わせてもらう」ということで、治療の対象にしたり、強制入院させて社会から隔離したりするのだ。彼が否応なく、社会の「規範」に従うようになるまでは…。

そんなわけで、そうした「理不尽な社会」に生きている私たちだからこそ、普通は多数派の認識が正しいものだと思い込んでいる。
だがまた、歴史の勉強をしてみると、必ずしもそうとは言えないというのを知って、驚いてしまうし、困ってしまう。
一一私たちは、果たして正しいのか?

しかし、そこでどういう態度を採るかで、その人が、哲学できる人かそうでない人かが決まると言ってもいいだろう。

「哲学できる人」とは、「ひとまず私は、このことに関して、こうだと認識している。一一けれども、その認識は、確実な事実なのだろうか?」と考えられる人が、哲学できる人なのだ。

そして、この、

「ひとまず私は、このことに関して、こうだと認識している。一一けれども、その認識は、確実な事実なのだろうか?」

という思考形式が、まさに「対話形式」なのだ。

「私はこう思う」
「それって本当?」

これは、「一人二役」の思考形式であり、その形式をわかりやすく文章化したのが、本書なのだ。

だから、「哲学的なできない人」の特徴的とはその逆で、自分の「今の認識」に対し、自分で疑義を呈したり、反論することのできない人だと、そう言えるだろう。

SNSでよく見かけるのは、何やら自信ありげに「これが真相だ」的なことを語る人である。

こうした人の文章の特徴は、自身の「今の考え」に対して、疑義を呈したり、反論したりする「思考実験」というができない。「反省」することができずに、自分の「今の考え」を補強する意見を、いくつか他所から引っ張ってくる程度のことしかしない、という点だ。

「今の考え」というのは、当然のことながら、いくつかの(他所にあった)根拠によって形成されたものなのだから、当然のことながら、その「今の考え」を支持する意見にも、それなりの根拠はあるだろう。
だが、そうした根拠があるから、自分の考え(意見)は正しいと考えるのは、所詮「同語反復」でしかない。

つまり、
「みんながこう言っている」
「だから、私もそう思う」
「私の考えの正しさの証拠は、みんながそう言っているからだ」
「だから、私の考えは正しい」
といった循環論法であり、その事実への無自覚なのだ。

私は先ほど『こうした人の文章の特徴は、自身の「今の考え」に対して、疑義を呈したり、反論したりする「思考実験」ということができない。「反省」することができ』ない点だと、そう指摘したが、ここで言う「反省」という言葉を、誤解している人も少なくないだろう。

「反省」という言葉は、本来「自分の過去の言動や判断を振り返り、その是非(善悪や適切さ)を改めて考えること」であって、「ごめんなさいと言うこと」ではない。

他人の物を盗んだことについて「反省しなさい」と言われて、「わかったよ、私が悪うございました。ごめんなさい。一一これでいいだろ」というのが「反省」にならないのは、彼が少しも、自身の行いの悪かったと「わかっていない」からである。
「わかったよ」と言っているが「わかっていない」。

では、彼が「わかったよ」と言って、わかったつもりになっているのは、何をわかって、そう言っているのであろうか?

彼は、「反省しなさい」と言われたことを「謝罪しなさい」と言われたと「誤解」し、それを「正解」だと思い違いしたまま、「あなたの言いたいことは、わかったよ」と言ったのである。

だが、「反省しなさい」という言葉が本来意味するのは、「謝罪しなさい」ということではなく、「あなたの考えの、どこが間違っていたのか、それを自分で再検討しなさい」ということだった。

その「再検討」こそが「反省」であり、「反省」の結果「やっぱり俺は悪くない」ということになる可能性もあるけれど、しかしそれは単に形だけ謝罪した人とは違って、「反省」したことにはなる。

(本当の反省は、そう簡単なことではない)

ただし「反省したけど、やっぱり俺は間違ってない」と言えば、多くの場合「反省が足りない」と言われるだろう。
そう。それは「反省してない」のではなく、「反省が足りない」から、正しい答えに到達していないので「もっと反省しなさい」という話にもなるのだ。

もっとも、彼が深く深く「反省」し、「反省しろ」と言った人よりも深く反省した結果「やっぱり俺は悪くない。あなたの方が間違っているんだ」ということにもなりかねない。
つまり、「盗み」に正当性のある場合だって、あり得るからだ。

ともあれ、そこまで考え抜いた時に、その思考は、常識にとらわれない「哲学的思考」に達したと言えるだろう。

哲学とは、このような、自分の中の「反省しなさい!」という人との対話なのだ。

もっとも、「反省しなさい!」だけではあまりにも不親切なので、「それ、ホント?」とか「それ、絶対確実なこと? 例外はないんだね?」などと、事細かにツッコミを入れてくれる人を、自分の中に持っており、それとの対話を避けない人を、「哲学者」というのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、「書評」と名乗りながら、少しも本の内容を紹介しない、以上の議論に対してイライラするような人は、哲学とは無縁の人だと、そう自覚すべきである。

哲学する習慣のある人なら、以上のような「面倒くさい議論」を読まされても「そうそう、それって私かいつも考えてたことだ」と思って、むしろ楽しく感じるはずだ。
なぜなら、こんな議論は、哲学書以外では、滅多に読めない、珍しいものだからである。

言い換えれば、コスパだのタイパだのには還元できない、今どきは流行らない、哲学的思索だということである。


本書著者・野矢茂樹は「はじめに」の中で、こう書いている。

『 世に哲学の専門家は少なくない。しかし、根本的な問題に捕われ続けて言葉少なになるよりも、そこを手際よく擦り抜け、枝葉の剪定で植木の枝振りを競うという、より仕事の多いところに身を置く者もまた、少なくない。それはまた、哲学を職業として成り立たせるために無理からぬことでもある。そして数多くの論文が生産される。だが、根本的な問題であればあるほど、もとの粗野な姿のまま残されている。もし、学問や職業と無縁の素人たちが、成熟も洗練も無視して無邪気で強靱な思索をそこに投げ掛けたなら、哲学の専門家たちも立往生するしかないだろう。必要なのはただ、知的蛮勇なのだ。』(P4)


ちなみに本書の初版発行は1996年である。そして私が手にしているのは、この初版の「第35刷」分(2014年増刷分)だ。


私が今回、本書を手に取ったのは、本書の「新版」が刊行されたというネットニュースを読んだからで、そこで本書は「長く読み継がれてきたロングセラーの名著」だというふうに紹介されていたからだ。
また、この著者の本は、若い頃に何冊か読んで、その好印象だけが残っていたのである。


そんなわけで、本書も読んでみる価値があると思ったのだが、しかし「新版なんて、たいがいは旧版にちょっと増補しただけのもので、基本的なところはそう変わってないだろうから、読むのは、古本になって安くなってる旧版でいいや」と考えて、私は本書の旧版を入手したのである。

で、読んでみると、さすがは名著で、実に面白い。
一一だが、50ページも読まないうちは「これは昔読んだぞ」と、そう気づいてしまった。

昔読んだ時も、かなり面白く感じて、著者の名前だけは記憶していたのだが、この平凡な著書名の方は、すっかり忘れていたのである。

まあ、その話は一旦おくとして、著者による「はじめに」からの上の引用部分のどこが大切なのかと言えば、それは当時すでに『根本的な問題に捕われ続けて言葉少なになるよりも、そこを手際よく擦り抜け、枝葉の剪定で植木の枝振りを競うという、より仕事の多いところに身を置』く、そんな哲学研究者の方が多数派であったという事実である。

まして、その数十年後である現在であれば、少なくとも日本において哲学者を名乗る人の出している「哲学書」と言われているものの少なからぬ部分は、この『枝葉の剪定で植木の枝振りを競うという』類いの哲学書なのではないかということだ。

そして、昨今の日本の哲学シーンでちょっとした話題になった「令和人文主義」なるものを知っている人なら、まさに「あれのことだな」と気づくことも出来よう。
「明るく楽しい知」みたいなことを標榜する、ポストモダン思想の劣化版みたいな、あれのことである。


で、そんな時代だからこそ、本書を読む価値もある。

本書で語られているのは、哲学における『根本的な問題』だ。

章題で言えば、「意識・実在・他者」「記憶と過去」「時の流れ」「私的体験」「経験と知」「規範の生成」「意味の在りか」「行為と意志」といったことで、一一こう書くと、もうむちゃくちゃに難しい言葉の並んだ、その意味で難しい議論の書かれた本かと誤解するかもしれないが、そうではない。

本書で具体的に検討してされるのは、「私の見ている赤と、君の見ている赤って、本当に同じ色だと言えるのだろうか?」とか「時間は流れるって言うけど、時間という物質的なものが存在しない以上、時間が流れるという比喩表現で私たちが表現しようとしているのは、実際にはどういうことなのだろう?」とか「私たちは、過去を記憶しており、その意味で過去は実在したと信じ込んでいるけれど、例えば、催眠術などで植え付けられた擬似記憶と、本物の記憶とは区別がつくのか? 区別がつかないのだとしたら、私たちが過去と思い込んでいるものも極めて実態のあやしいものであり、実際、記憶違いなんてこともよくあるんだけど、それなら過去って、本当にあると、そう確言できるような性格のものなのだろうか?」とか、そういった、面倒くさい議論である。

一一だが、この面倒くさい議論が、面白い人には無闇に面白いのだ。
なにしろ、フィリップ・K・ディックなんかが、よく小説にしてるようなテーマなのだから。


だから、哲学的な「知識」ではなく、その「素養」がある人には、本書は無闇に面白いし、現実にも役に立つ。

こうした議論のできる(ついていくことの出来る)人なら、例えば「フェミニズム」方面の「トランスジェンダー」問題で対立点となっている、性別は「男女の二つだけ」か、あるいは「男女という概念を両極とする、グラデーションがあるだけ」か、といった議論も、ぜんぜん難しいものではなくなる。
少なくとも、後者の意見が「意味不明」だとか「現実無視の観念論」だなどと、本気で腹を立てることもないだろう。


また、アメリカのキリスト教保守派の中に実在する、ダーウィンの「進化論」を否定して「人間は、猿から進化のではなく、最初から人間として、神に作られた存在だ。したがって、進化論が想定する、地球が生まれたのは約46億年前で、生物が生まれたのは約40億年前であり、そこから生物は時間をかけて徐々に進化してゆき、その過程で猿から分化したのが人間だなんで、そんな馬鹿なことは考えなくてもいい。この世界は、神が数千年前に、一瞬にして一挙に作ったものであり、そのときはすでに、猿も人間、その他の動物も、今のままのかたちで生まれたのだ(化石も、化石として神が作ったものなのだ)」なんてトンデモ理論も、哲学的理論の「濫用的誤用」だということで、簡単に却下することも出来るはずである。


そんなわけで私も、かつて本書から学び、そして自分なりに深めてきた思考を、ここでひとつご披露しよう。
本書には書かれていない「私のオリジナル」だ。

本書では、次のような議論がなされている。
第三章「時の流れ」の締めくくり部分だ。

(A) ぼくらの(※ この章での)議論で、時は流れるようになったんだろうか。
(B) ‥‥‥‥‥‥
(A) 複視点的時間了解っていって、いくつかの世界の見方を搔き集めはした。でも、それはまだ断片の集積で「流れ」てはいないんじゃないか。得られたのは相変わらずたんに複数の視点からの静止画像の束にすぎないんじゃないだろうか。そんな気がするんだ。
(B) やはり、君もか。
(A) 「君もか」って。
(B) 私もそう感じていたのだ。
(A) やれやれ。

(P74・原文では、文頭に「一一一」という棒付きの人物の、棒なしの人物との会話となっているが、引用に当たって、紛らわしいのでAとBに変更した)


さて、ここで何が議論されているかというと、「時は流れる」というけれど、それを仔細に見ていけば、「ある時点でから想起される、ある時点における過去」というものの「連なり」しか確認できない、という問題だ。

つまり、たくさんの「観測対象点(ポイント)」の連なりまでは観測可能で、それは一見したところ、連続した「線」のように見えるけれども、厳密に言えば、それは「点の連なり」でしかない。
要は「点と点との間は見つからないから、それが一連の連なりであるとは、立証できない」。

したがって、「時は流れている」という場合に想定する、「水が流れている」時のような「A地点からB地点まで、途切れることなく水が移動している」といったようなものではなく、「時」とは「点の寄せ集め」でしかなく、よく言っても「量子ジャンプの繰り返しが見せる虚像」でしかない。
しかし、それでは「流れる」というイメージは正確ではない。厳密なものではあり得ないと、そういった議論である。

さて、ここまではついて来れただろうか?

しかし、この「AとB」の達した「暫定的な理解」が正しいとすれば、私たちが考えている「時は流れる」という時間論は、間違いだということになる。
つまり、パルメニデス大森荘蔵八木沢敬ではないけれど、「時は流れない」ということになる。

では、どうして私たちは、「点の寄せ集め」でしかないものを、「一連の流れ」だと理解(認識)してしまうのか?

その答は、本書には書かれていないが、私が暫定的に与えた、ひとつの「オリジナル解答」では、一一それは「アニメと同じことだ」ということになる。


人形(三次元)アニメでもセル(二次元)アニメでもそうだが、私たちは「不連続なもの」を、早い連なりとして次々と魅せられると、それが「連続したもの」であるかのように、錯覚してしまう。
アニメのキャラが「動いている」ように、錯覚してしまうのだ。

そしてこれは「時間認識」においても同じことで、現実には「跳び跳びの点の連なり」でしかないものの「隙間」を、私たちは脳の中で「補完」しており、それで「連続したもの」だと、誤認的に認知しているのである。一一なぜなら、その方が便利(実用的)だからである。

例えば、これと似たような例として、「盲点」の問題がある。

私たちの目には「盲点」がある。
目から入った電波信号が、目の奥の網膜に当たり、それが電気信号に変換され、視神経を通して脳に送られ、その電気信号が脳において「色彩」というかたちに変換されることで、人は「物を見ている」。

しかし、眼球の奥には、外から得た情報を脳へと送り込むための、視神経用の穴が開いており、そこには情報の受容体である網膜が無い。だからその部分は、実際には見えていないのであり、それが「盲点」だ。

しかしまた、私たちは通常、その「盲点」が意識できない。盲点があるとは思っていない。一一これは、なぜか?

それは、脳がその「情報の抜け落ちた部分=盲点」を、周辺の情報によって、疑似的に補完し、穴埋めをしているからである。
だから私たちは、すべてが欠けることなく見えているように、錯覚してしまうのだ。


で、これは「時間」でも、同じことなのだ。
時間が、跳び跳びの「点の集まり」だとしか感じられなけば、私たちは「予測」ということが出来なくなってしまう。
だから、便宜的にそれを「連続的なもの=流れ」だと錯覚するように出来ている、という寸法である。

だが、では実際に、この「世界」は、「時間」を含めて、「不連続な点の集まり」なのだろうか?

「いや、そうではないかもしも知れない」と、あとの章で仄めかされている。

「仄めかされいる」と言うに止めるのは、たぶん、私たちの認知能力では、すべてのことを、一挙に理解(把握)すること出来ず、分割した点の集まりとしか認識できないだろうからだ。

つまり、原理的に認識できないことは「立証のしようがない」ということだから、「こうだ!」とまでは言い切れず、「こうなんじゃないか?」と仄めかすに止まるしかないのであろう、ということである。

(B) 経験の反復によって身につくものは、あるタイプの行動傾向であり、思考習慣なのだ。連想のようなものと言ってもよいだろう。そして、連想は正当な推論とは異なる。例えば、ある動物が豚だということからその寝床が汚れていると判断するのはたんなる連想で、正当な推論ではない。豚が汚れた寝床に寝ているとする論理的な根拠はないからね。ある偏った経験の反復によって、「豚」から「汚れ」を連想してしまうよう習慣づけられてしまったのだ。
(A) それはむちゃだ。人間の知識と、(※ 引用部以前に語られた)牛の条件反射を同じレベルで捉えてしまうなんて。(※ 人間の論理的な)知性はどうなっちゃうのさ。
(B) 知性は介入してこない。つまり、個々の経験の蓄積から一般的知識へと移行するところには、飛躍がある。そして、この個から一般への(※ 推測的)飛躍、過去から未来への(※ ミクロな時間的な)飛躍は、知性の為しうるわざではなく、むしろ想像力の為すことにほかならない。われわれは知的にガイドされて(※ 論理に導かれて)そこ(※ 点と点の隙間)に架橋するのではなく、本能的にそこを飛び越える。そうではないというのならば、うまく橋を架けていただきたい。君はたかだか斉一性の原理のような、それ自身一般的知識であるようなものしか出せないのではないか。
(A) 橋を架けろと言われたってねえ。どうしたって、それ自身がまた一般性をもつに決
まっているだろうし。困ったね。
(B) 困らないでもいい。ただ、諦めればよいのだから。

(P103〜104)


つまり、私たちの「時間は流れる」も「アニメは動いている」も「目の前のものは、すべて見えている」というのも、ぜんぶ『経験の反復(※ 点の集積)によって身につくもの(※ 推測)』としての「錯覚」だということである。

私たちはそこで、自覚なしに、経験の反復による「癖」によって、無意識のうちに『飛び越え』、それで『橋を架け』るということをしているのだ。

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ちなみに本書「新版」についての、前記ネット記事に付された「新版」の書影には、著者の、

「30年の私の歩みを反映させたら、ほぼ全面的に書き直すこととなった。もっと深く謎へと分け入ってゆきます」


という言葉があるのに、あとで気づいた。


そういうことなら、この「新版」の方も読んでもいいなと、そう思い直したところである。



(2026年6月5日)

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