松本零士 『オーロラの牙 戦場まんがシリーズ③』: やぶれさる誇り高き兵士たち

▷ 書評:松本零士『オーロラの牙 戦場まんがシリーズ③』(小学館・少年サンデーコミックス)


私はかつての「松本零士ブーム」の渦中にいた人間だ。

「松本零士ブーム」が起こったのは、無論『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットによるヤマトブームによってであり、それをきっかけにして、さらにSFアニメブームが巻き起こり、『宇宙戦艦ヤマト』で監督やキャラクターデザインを担当して注目された、漫画家・松本零士の別のSF漫画作品までもが、アニメの原作となって、次々とヒットを飛ばしたからである。

そうした作品の代表格が『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』だろうし、松本零士に原作漫画がない、アニメの企画アイデア出しに止まって原作者となったような『SF西遊記スタージンガー』といった作品もあった。
だが、この種の企画ものは、松本零士原作を名乗ってはいても、松本零士らしさが皆無だったので、おおむね評判にはならず、今となっては松本零士との関係さえ忘れ去られた作品となっている。言うなれば、こうした作品は、当時の「松本零士ブーム」の水増し分だったのだ。


ともあれ、『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットに起因するものだったとは言え、当時の松本零士の人気は大したものだったし、それまでは一部好事家の向けの漫画家という印象の強かった松本零士が、いっきにスターダムにのし上がって、その漫画作品も広く読まれるようになった。
私は、その頃の松本零士ファンだったのである。

そんなわけで、松本零士の漫画といえば、『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』そして、アニメより後に描かれた、松本零士版『宇宙戦艦ヤマト』を思い出す人が多いだろう。
松本零士には、それ以前の作として『男おいどん』『聖凡人伝』といった、モテないカッコ悪い主人公の奮闘物語を描いた傑作もあったのだが、こちらはやはり『宇宙戦艦ヤマト』ブーム以前からのファンにのみ支持されるに止まったようだ。

(ろくに洗濯もしていないサルマタ(男性下着)のなかで、酔っ払って眠る主人公・大山昇太)


しかし、松本零士には、『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『宇宙戦艦ヤマト』あるいは『ダイバー0』『ミライザーバン』のようなSFものでもなければ、『男おいどん』などの日常系でもない、特異なシリーズがあった。
それが「戦場まんがシリーズ」である。


この「戦場まんがシリーズ」は、初版の少年サンデーコミックス版では全9巻となるもので、むろん私は、この版で全冊読んでおり、特別な愛着のあるシリーズだった。

なぜ特別な愛着があるのかというと、私は『宇宙戦艦ヤマト』に出逢って、自覚的なアニメファンになる以前は、プラモデル作りに熱中していたからで、その中でも特に「戦車」の模型が大好きだったからだ。
スーパーカーF-1カーなどの現代車両ではなく、また戦闘機や軍艦でもなく、あくまでも戦車が好きだったのである。


そして当時、戦車模型の中心にあったのは第二次世界大戦で活躍したものであり、その中でも花形だったのが、ドイツ戦車であった。
本作品集の第2話『ラインの虎』で描かれるキングタイガー戦車のほか、タイガー1戦車、パンサー戦車などが、最も人気のある戦車だった。

ドイツの戦車は、その性能もさることながら、とにかくデザインが頭抜けていた。性能などわからない子供であっても、とにかく一目見て「カッコいい」のである。


戦後、ドイツ軍には「ユダヤ人を虐殺したヒトラーの軍隊」というイメージが抜きがたく貼りついてしまったので、その優れたデザイン性を積極的に賞賛するような声は上がりにくくなった。


だが、第二次世界大戦時のドイツ軍のデザイン性の高さは、その軍服のデザインにも典型的に示されたとおりであり、それが実用品である戦車にまで及んでいたのだから、その徹底ぶりは驚くべきものだった。

だから、その「デザイン性の高さ」という否定しがたい事実は、イデオロギー的に否定できるものではなければ、否定して良いものでもないはずだった。
だが、その事実が、一部の反抗的文化からの賞賛を除いては、今もなお、無視黙殺されて続けているのである。


しかし、そんなドイツ戦車やドイツの戦車兵が、松本零士に作品では、忠実かつカッコよく描かれていた。

「勝てば官軍」のアメリカ映画によくあったような、冷酷かつ憎たらしいドイツ軍という紋切り型の「悪役」ではなく、祖国のために戦った当たり前の兵士たちと、その命を預けた、「鉄の棺」とあだ名された兵器として描かれていたのだ。
だから、ドイツ軍戦車のファンであった私が、こんな稀有な漫画を喜ばないはずがなかったのである。



 ○ ○ ○

そんなわけで、今回またまた「紙の本」を入手して、数十年ぶりに読んだ『オーロラの牙』は、「戦場まんがシリーズ」の3冊目の短編集である。
現在ではKindle版も販売されているが、そこまで手を広げるとキリがないので、「紙の本で手に入ったら」という条件でいたところ、この第3巻が手に入ったという次第である。

本集の収録作品は次のとおりだ。

第1話 オーロラの牙
第2話 ラインの虎
第3話 ベルリンの黒騎士
第4話 ゼロ
第5話 音速雷撃隊
第6話 幽霊軍団


この中では、第1話から第3話と第6話がドイツ軍の潜水艦乗りや戦車乗り、飛行機乗りを主人公としており、第4話と第5話が日本軍の飛行機乗りを主人公とした物語だ。

このような紹介すると、多くの人は「松本零士は、ドイツ軍が好きなんだな」と考えるだろう。
なぜなら、日本人である松本零士が、日本軍を描くのは当たり前だけれど、戦後、アメリカ映画のせいで、かつての同盟国であった日本でさえ、ドイツ軍には悪役のイメージが 貼りついていたため、ドイツ軍人を主人公に描くような漫画家は、皆無と言って良かったからである。

実際、「戦場まんがシリーズ」の全作品を、今回あらためて確認したわけではないけれど、このシリーズで、英米などの連合軍側の軍人を主人公にした作品は、無いか、あっても数作に止まるはずだ。

つまり、松本零士がドイツや日本の軍人に肩入れしていたのは間違いないのだが、しかし、松本零士がドイツ軍に肩入れしたのは、私と同様、ドイツ軍兵器のカッコよさということも、ないわけではなかっただろうが、決してそれだけではないということを、私は今回の再読で、ハッキリと確信するに至った。

松本零士がドイツ軍人に肩入れした理由とは何か?

それは「ドイツ軍」が、敗戦国の軍隊であったからだ。

言い換えれば、松本零士が日本軍人が主人公の作品を描くのも、それは日本の軍隊が敗戦国の軍隊であったからで、松本自身が日本人であったからでもなければ、ましてや日本軍人やその兵器がデザイン的にカッコよかったからなどではない。

田宮模型のボックスアートから、上はドイツ国防軍戦車兵とキングタイガー戦車。下は、日本軍歩兵と九七式戦車チハ


むしろ日本軍の場合は、軍服も兵器のデザインも、全体に垢抜けないダサいものが多かった。
その唯一の例外と言ってもいいのが、機能美の果ての美しさを獲得した「零戦」であろう。本巻第4話「ゼロ」で描かれている、「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」である。

つまり、松本零士が日本軍を描いたのは、祖国の軍隊だったからではなかったのだ。
ドイツ軍と同じ、敗戦国の軍隊だったからであり、なぜ、わざわざ敗戦国の軍隊を好んで描いたのかと言えば、それは松本零士が、根っからの「判官贔屓」の人だったからである。

そんな松本零士だからこそ、彼には『男おいどん』のような、カッコ悪いしモテない男が、しばしば「ぢぐじょー(ちくしょう)」と悔し涙を流しながらも、希望を捨てずに生きていくといった、およそヒロイズムとは真逆の作品があったのだ。

そして、この「戦場まんがシリーズ」も、その基本はこれとまったく同じなのだ。
負け戦が決まっていても、それでも戦士としての誇りを捨てず、祖国の将来のために、最後まで命を賭して戦い、死んでいく男たちの姿が描かれるのである。

松本零士の「戦場まんがシリーズ」とは、「敗者のための戦史」であり、彼らを追悼するためのフィクションだったのだ。

だから、松本零士の「戦場まんがシリーズ」を評して、「戦争の美化」だと批判するのは、間違っている。

むしろ「戦場まんがシリーズ」は、戦争の残酷さや不条理をこそ描いている。
真面目で前向きな青年たちが、無為に死んでいかなければならなかった残酷な世界が、そこには描かれているのだ。

だから、そこで「美化」されているのは、「戦争」そのものではなく、そんな不幸な時代に生まれ合わせ、自分の意志どおりには生きられない社会のなかで、完璧ではないにしろ、それなりに精一杯生きた「敗者」の姿なのだ。
松本零士は、「敗者」をこそ、意図的に「美化」して描いているのである。

現実の彼らは、松本零士がこのシリーズで描いたほど、カッコ良くもなければ、立派でもなかっただろう。
だが、彼らは、その「儘ならぬ」時代の中で、可能なかぎり立派に生きようとして、その望みどおりには生きられないまま、無念の死を遂げた人が大半だったのだ。

だからこそ松本零士は、彼らが「そうありたかった理想の姿」を描いてみせ、そうは生きられず、虫ケラのように死んでいった名もなき兵士ためのために、このシリーズを描いたのである。

だから、このシリーズで描かれるのは、いつでも現場の兵隊であって、決して軍上層部の人間ではない。
自身の望まぬ戦争の、自身の望まぬ戦場で、死んでいかねばならなかった兵隊たちの姿をこそ描いている。

だから、ヒトラーへの批判の言葉を口にするドイツ兵たちの姿も描かれているし、特攻兵器である「桜花」を描いた第5話の「音速雷撃隊」では、特攻という戦法を決めた軍上層部への批判を、敵のアメリカ兵の口を借りてに「きちがいめ」と語らせている。


だが、その桜花に乗る日本兵には、直接的な日本軍上層部への批判は語らせない。
そうではなく、本当はロケット工学の技術者であった主人公が、自身、自爆用ロケット兵器の乗員となったことの運命の皮肉を語り、それでいて、桜花を開発した技術者のことをどう思うかと尋ねられて「とても悲しかったに違いない」と、そう言葉少なに語らせるのだ。
そして、もう少し遅れて生まれてきていれば、自分だって月にロケットを送るような、人類に貢献できる仕事をしたはずなのにと、そう語らせる。


ちなみに、この「音速雷撃隊」のラストでは、突っ込んでくる自爆兵器「桜花」に対してなすすべもなく、「きちがいめ」とうめくしかない米空母艦長のもとに、アメリカが長崎と広島に原爆を投下したという打電が届き、それを聞いた彼は、

おれたちもきちがいか
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
敵も味方も、みんなきちがいだ‥‥‥‥‥‥


そう漏らしたあとに、艦と共に運命を共にするのである。


さて、ここで問われなければならないのは、いま現在の私たちは、はたして本作で言うところの「きちがい」であること、免れ得ているだろうか、ということだ。

(最後の米空母艦長のセリフが、オリジナルの「きちがい」から「バカ」に書き換えられている点に注意。オリジナルの「きちがい」は、現在のKindle版では、すべて「バカ」や「大バカ者」に書き換えられている。だが、人間兵器としての特攻や原爆投下が「バカ」と呼んで済むことであろうか? むしろ「きちがい」と呼ぶことの方が、正確なのではないだろうか?)

例えば、松本零士の「戦場まんがシリーズ」を「戦争の美化」だと批判する人たちは、本作で描かれる「やぶれさる兵隊」たち以上に、平和を語る資格があるだろうか、ということである。

平和な社会のなかで、平和を語るのは簡単だ。
なぜなら、平和の側にあるということは、じつのところ「勝者の側」にあるということだからだ。

だからこそ、銃を取らなければ、こちらが殺される(敗者となる)という局面において、それでも、殺されてでも、銃を取らないという「個人的な覚悟」の無い者に、「戦場まんがシリーズ」に描かれた「戦って死んでいった兵隊たち」を責める資格など無いのではないだろうか。

人間的な理性や理想以前にある、動物としての、殺し殺されるという運命、食うか食われるかの運命。それに下支えされた「戦争」というものを超えるためには、「殺されても殺さない」一一そんな覚悟が必要なのではないだろうか?

しかし、妻や子供を持つ者に、その覚悟がある者などいまい。
目の前で、妻が殺され、子が殺されても、それでも自分は相手を殺さず、自分自身が殺されることをも受け入れる。一一そんな人はいないと思う。無論、私だって無理だ。

つまり、戦争を否定し、平和を語るということは、いつでも、そうした「自己欺瞞」を抱えたまま、それでも、それを語る必要があるからと、後ろめたさを抱えながらもそれを語るという、そういうことなのではないだろうか。

だが、そのことをわかって、平和を語っている人が、いったいどれほどいるだろう。

しかし、本気で平和を語る人というのは、人殺しなどしないと確信している人ではなく、むしろ、自分も「きちがい」になるということを知っている人なのではないだろうか。

本作品集に描かれた「やぶれさる誇り高き兵士たち」は、その無言のうちに、私たちに何を問うているのであろうか。




(2026年6月5日)

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