▷ 書評:奈良原一高 写真集『王国 Domains』(復刊ドットコム)
写真についてはぜんぜん詳しくはない。写真家・奈良原一高の名前もぜんぜん知らなかった。
私の場合、写真のど素人だから、とにかく、パッと見て面白い写真だなと思ったら、ひとまず他のものも見てみたいと思うだけで、写真家が、どういう系統の人かとか、そういったことにはまったく頓着しない。
ひたすら、自分の趣味だけでの好きか嫌いかだけである。
そんなわけで、この写真集も、どこかで表紙の写真だか中身の写真だかを見かけて、ちょっと面白そうだと思っただけだったはずだ。タイトルもカッコいい。
しかし、定価を見てみると、10,000円以上するものだったので、そこまでの興味はないから、いつか古本で安く手に入ればその時でいいし、手に入らなくても別に困りはしないと、そんな感じでブックオフ・オンラインに登録しておいた。
それが先日入荷されたので、手に入れたという次第である。
さらに正確を期するならば、私は、どうせなら初期作品を見たいと思い、初期の写真集をいくつか登録しておいたのだが、そのなかで最初に手に入ったのが、奈良原の第2写真集である、この『王国 Domains』だったのだ。
もとより写真家の経歴になど興味はないのだが、絵画とは違い、写真を眺めただけでは、好き嫌いは語り得ても、どこを捉えて論じれば良いのか、途方に暮れてしまう。
それで、本書所収の、蔦屋典子の解説文「壁 一一 奈良原一高「王国」再考」と、奈良原のWikipediaだけは読んでみると、どんな写真かなのか、その大筋のところはわかり、この写真集に満ちている雰囲気の一端を掴むことまでは出来たように思う。
『経歴
大牟田に生まれる。本姓は楢原。判事であった父親の転勤にともない日本各地を転々とし3歳から6歳までを長崎で過ごす。1950年、島根県立松江高校(現・島根県立松江北高等学校)卒業。1954年、中央大学法学部を卒業し、早稲田大学大学院芸術専攻(美術史)修士課程に入学。
前衛美術に傾倒し、1955年には、池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。桜島の黒神村、長崎の端島(軍艦島)における人々の生活から鮮烈な印象を受け、両島の取材を開始。その成果を問うべく1956年5月に開催した初個展「人間の土地」が大きな反響を呼び、写真家としての道を進めた。
「人間の土地」は、福島辰夫や重森弘淹のような同世代の批評家たち、そして細江英公や東松照明のような若い写真家たちによって、圧倒的な支持を受ける。その一方で、名取洋之助や土門拳(例:『サンケイカメラ』1956年9月号の「人と作品」欄の土門拳の発言)のような旧世代の編集者、写真家には嫌悪された。
1958年、個展「王国」で日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。
1959年、東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」(エスペラント語でライフという意味)を結成(1961年解散)。『ヨーロッパ・静止した時間』(1967)で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1986年「ヴェネツィアの夜」に対して、日本写真協会年度賞を受賞。1987年、東川賞国内作家賞を受賞。1996年、紫綬褒章を受章。2002年、パリ写真美術館で、2004年、東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2005年、日本写真協会功労賞を受賞。2006年、旭日小綬章を受章。』
(Wikipedia「奈良原一高」)
ここに登場する芸術家の中で、文学畑の私が知っているのは、池田満寿夫、細江英公、川田喜久治、佐藤明、そして奈良原批判者としての土門拳くらいだ。
最近はまったく名前を見なくなった池田満寿夫だが、一時期は大変な人気作家で、私が池田の名を知ったのは、たぶん『エーゲ海に捧ぐ』で池田が芥川賞を受賞して人気作家となり、妻でヴァイオリニストの佐藤陽子と、二人でテレビコマーシャルに出ていたりもしたからであろう。
またその後に知ったことだが、池田は小説を書くぐらいだから、文学にも造詣が深く、私の好きなフランス文学者・澁澤龍彦とも親しかったので、澁澤の限定本『マドンナの真珠』などに版画作品を提供したりもしていた。
だが、私の場合、池田にはテレビタレントのイメージが先行し、それが強かったせいか、池田満寿夫の作品に興味を持ったことは、これまで一度もなかった。
だが、この人はもともと「前衛芸術家」ということで、若い頃は尖っていたのだろうし、そのあたりで、若き奈良原ともつきあいがあったようである。

細江英公といえば、私にとっては、三島由紀夫を被写体とした、かの切腹写真集『薔薇刑』を撮った人という一点に尽きる。
だが、三島の筋肉ムキムキの肉体美や、まして切腹写真になど興味はなかったので、写真集の中身を見たことはない。
ちなみに、三島由紀夫も澁澤龍彦と近しかった人である。


川田喜久治も同様で、澁澤龍彦が川田の写真集『ルードヴィヒ2世の城』という、ノイシュヴァンシュタイン城の写真集の解説文を書いていたので、澁澤関連書として、この写真集はコレクションしていた。澁澤の方は、もたもとその著書『妖人奇人館』で、ルードヴィヒ2世を語っていたはずだ。
なお、川田の写真集の中身については、当然のことながら、観光用の写真ではないから、小綺麗に撮られたものではなく「う〜ん、なるほど(芸術写真なんだ)ね」という感じだったが、今回、奈良原一高の写真集『王国』を見たところ、どこか共通するところも感じられた。


佐藤明は、これも澁澤龍彦と親しかった小説家・中井英夫と一緒に本を出したことのある写真家である。
中井と一緒に外国へ取材旅行を行き、その時の中井による旅のエッセイに、佐藤の写真を添えたものが、『薔薇幻視』と『香りへの旅』の2冊として、書き下ろし刊行されている。
私は、澁澤龍彦にもまして中井英夫のファンだったから、中井英夫の著書はすべてコレクションしていたので、この2冊についても、何冊もダブって所蔵していた。

なお、奈良原ら若き「前衛派」に批判的だったという、旧世代を代表する土門拳は、かつては、日本の写真家といえば土門拳だというくらいに有名だったように思う。たしか、テレビコマーシャルでも、土門の名前を見たような、おぼろげな記憶がある。
まあ、名前に特徴があったので記憶に残りやすいということもあったのだろうが、初版本コレクターとして古本屋巡りをしたり、古本目録などを見ていると、いやでも土門拳の名と、写真集『古寺巡礼』が目に入ってきたものだ。
もっとも、写真に興味のない私は、土門の写真集と和辻哲郎の『古寺巡礼』が、関係があるのかないのか、そもそも和辻も読んでいないから、その両方をごっちゃにしていたように思う。

そんなわけで、文学畑の私としては、奈良原一高を周辺から攻めてみたわけだが、奈良原は1931年生まれだから、澁澤龍彦の3つした、三島由紀夫の6つ下という、おおよそそのあたりの世代であり、ちょうど私の親の世代ということになる。
戦争の惨禍を若くして経験し、国家への不信をつのらせた若者たちが、人間の生そのものに向き合うことで、その主体的な生き方を模索した「実存主義」という思想に惹かれた時代(1945年頃から1960年代にかけて)である。
しかしながら、私が幼児の頃まで続いた実存主義ブームもやがて過ぎ去り、その後に資本主義の欲望が全面化する新しい時代になって、奈良原らもそれなりに、そうした時代に順応していったということになるのであろう。
言うならば、奈良原らも、私のような欲望まみれ人間に近いところまで降りてきたと、そう言えるのではないだろうか。
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さて、そんなわけで、肝心の写真である。
本書『王国 Domains』の特徴は、前半を北海道のキリスト教「男子修道院」、後半を和歌山の「女子刑務所」に取材する、2部構成になっている点だ。
これは、Wikipediaにもあるとおりで、奈良原の最初の写真集『人間の土地』が、「桜島の黒神村、長崎の端島(軍艦島)」という、どちらも過酷な土地でたくましく生きる人たちを撮った2部構成作品だったので、その形式を踏襲したものだと言えるだろう。

この『人間の土地』と『王国 Domains』の共通点は、2部構成によって、二つの題材の「共通点と相違」が際立つという点にあろう。
『人間の土地』では、過酷な環境の中でもたくましく生きる人たちの姿を描いたのだが、その土地の方は、環境的に過酷という点では共通していたものの、「広々とした土地と狭い島」という対比的な相違が、見る者に強い印象を与えたはずだ。
一方の『王国 Domains』は、共通点としては「世間から隔絶された、閉鎖的な場所」という点であり、相違点としては、「修道院」は自ら求めて入った特殊空間であるのに対し、「刑務所」は国家権力によって強制的に放り込まれた、望まない場所だったということであろう。
つまり、『人間の土地』の場合は、場所的には対照的であっても、そこに生きる人たちの姿勢は基本的に同じで、それを見つめる奈良原の視線も、極めて肯定的なものだったと言える。
ところが、『王国 Domains』の場合は、場所の形態は「隔離施設」ということで極めて似通ったものでありながら、そこにいる人たちの精神的な構えは、対照的に相違しているのだ。
つまり、『人間の土地』から『王国 Domains』への変化とは、『人間の土地』の方は、比較的オーソドックスに人間肯定的であったのに対し、『王国 Domains』の方では、人間が社会から切り離された際の、「裸形の姿」をこそ問題とするようになった、というようなことなのではないだろうか。
『人間の土地』の場合は、私たちが「常識」的に考える人間的なたくましさや前向きさを素直に肯定していたのだが、それに対し、『王国 Domains』の場合は、そうした「社会的に肯定的な価値観」とは、果たして人間本来のものなのか、それとも社会的に刷り込まれた「社会的な都合による価値観」であり、「他者の価値観」なのではないかと、そんな懐疑的な視線だったのではないだろうか。
だから私たちは、そうした「価値観」の本来性を確かめるために、いったんは社会から切り離されてみるべきなのではないか。裸の人間であり、裸の私を見つめ、見つけるべきなのではないだろうか一一と、そんなことを奈良原は考えていたのではないだろうか。

例えば、修道院というものは、祈りと労働に特化した生活を営む場所であり、祈りとは当然「神と私の直接的な二者関係」を根本的な価値とするものである。それ以上の価値は無い、ということだ。
したがって、修道院での労働とは、そうした祈りの日々を支えるための最低必要限度のものでしかない。つまり、マルクス的に言うならば「剰余価値」を生むものであってはならないのだ。

だが、こうした修道院の生活とは、世間にある私たちからすれば「何も生まない、自己満足だけの世界」とも映るだろう。なにしろ、社会に対しては、具体的には何も益するところがないからである。
だがまた、「社会」的な価値、対他関係的な価値を自明とする「社会的な価値」は、果たして自明に価値のあるものなのだろうか?
実際のところ、私たちは「社会のため」「他人のため」というお題目において、私が私であることを「搾取されている」とは考えられないだろうか?
もしも、「神」との関係が最も大切なものなのだとしたら、「神と私の二者関係における直接的な祈りの生活」とは、最も大切な価値の体現そのものだと言えるだろう。不純物ゼロの生活である。
そしてそうした価値観からすれば、世間の生活とは、なにやら正体不明の「不純物」によって濁り、真の姿が見えなくなった場所での生活だとは言えないだろうか。
そして、そうした「当たり前の生活」における「欺瞞」を見抜く目を持つためには、社会から切り離されて、その目を「洗う」必要があるのではないだろうか。
では、修道院に対して、刑務所とは、何を意味する場所なのか?
それは、「社会的な価値」を疑うための目を回復させる場所とは真逆の、「社会的な価値」を再教育するための場所であり、社会的な色眼鏡の正しい掛け方を教える場なのではないだろうか。
そこは、社会から強制的に切り離すことで、社会のありがたみを教える場所、裸形の私から目を逸らしていられる「社会」のありがたみを実感させることで、社会に復帰させるための場所、なのではないか。

つまり、奈良原は「人間が社会から切り離されて、自己を見つめることの価値」において、対照的な二つの場所を選び、私たちの求めるべき道を、見る者に問うたのではないだろう。
いかにも人間的な「女子刑務所」と、非人間的なまでに多くのものを切り捨てた場所としての「男子修道院」。
奈良原が、どちらに価値を見出していたかは、言うまでもないことだろう。
だが、私がひとつ引っかかるのは、本書の題材が、なぜ「男子修道院と女性刑務所」であって、その逆ではないのか、ということである。
私はここに、時代的な「性差別的偏見」を感じないではいられない。
つまり、男性である奈良原は、男性に「抽象性」を期待し、女性には「抜きがたい生活性」を配したのではないだろうか?


だが、この程度のことを、深追いする気は、私には無い。
そうではなく、私が問題としたいのは、裸形の人間と向き合おうとした奈良原でさえ、「男性は観念的であり、女性は身体的である」といった紋切り型の「社会的通念」を、無自覚なうちに受け入れていたのではないか、という点である。
だから、私がより重要だと思うのは、「社会的通念」としての「正しさ」を疑い、「裸形の人間」と向き合おうとすることは、大切なことでもあれば必要なことでもあるけれど、それは「完全なかたちでは、実行できないこと」だという事実認識である。
平たく言えば、私たちは、どんなに社会から切り離されても、社会的な価値観から自由にはなれない、そんな「社会というものを内面化した動物」だという事実であり、そんな厳しい認識の必要性だ。
私たちは、社会的な生き物だからこそ、社会を疑うこともできれば、そこからの離脱を図ったりもするのであろう。
それは、たしかに意味のあることではあるのだが、しかし、そうした意味や価値もまた、社会的なものなのだ、という事実認識が必要なのである。
だから、この写真集に感じられる「裸形の人間」指向は、面白いものだとは思うのだけれど、私はそこに、どこか観念的な作り物感のようなものをも感じる。
若い奈良原の、若者らしい「観念性」を、強く感じるのだ。

だが、人間社会の「欺瞞性」のしたたかさは、そうした若者らしい観念性よりも、格段にうわ手であり、やがてはそうした観念性をも併呑するものなのではないだろうか。
だから私たちは、この「社会」と向き合う際には、それが対象化しきることのできる「敵」ではなく、「私」自身の写像でもあるのだということを、忘れてはならないのだと思う。
だからこそ、写真であろうと、絵画や小説であろうと、社会派であることの究極の姿は、社会に内属する私自身の姿を、呵責なく暴くことなのではないだろうか。
全肯定でも全否定でもない。そんなことはできない、「私」自身と対決することなのではないか。
奈良原一高は、その後、果たしてどのような写真を撮るようになっていったのであろう。

(2026年6月7日)
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