映画評:グレッグ・モットーラ監督『宇宙人ポール』(2011年/イギリス・アメリカ映画)
テレビの映画紹介番組か番組の映画紹介コーナーかで本作を紹介しているのを見て、面白そうだと見ることにした。
本来私は、コメディにはあまり興味はないのだが、傑作なのであれば、ジャンル分けになどさほど意味はない。
本作もまた、そのことを再確認させてくれる傑作であった。

私にとって本作の魅力とは、「宇宙人」でもなければ「SF」作品であることでもない。ましてや「コメディ」だからなどではない。
ならば何だったのかといえば、それは「童心」の美しさだ。
本作で描かれるのは、そうしたものであり、それが「オタク」に仮託され、誇張されて描かれているのである。
当然、現実のオタクは、大人でもあるのだから、童心を失っている場合も少なくない。
それに、オタクというのは、高度資本主義消費社会の欲望と直結するものでもあるから、その点で「大人」の貪欲と結びつきやすくもあって、本作に描かれたような「オタクの童心」というものは、なかなかそれそのもの的に純度の高いものとしては、現実には存在しにくいものではあろう。
だがだからこそ、かつては蔑視された「オタク」という存在も、今どきのテレビ番組などでは、その魅力的な一面だけしか見せないし、本作のような映画でも「童心の象徴」としてのオタクを描くしかなかったのではないだろうか。
しかしまたこれは、「オタクの美化」ではなく、「童心への憧れ」だと捉えれば良いのではないだろうか。
そしてそれは「資本主義社会における貪欲さ」への「批判」であると、そう考えるべきだろう。
そして、だとすれば本作『宇宙人ポール』の根底にあるのが、「笑い」どころか「祈り」に近い感情だというのも、素直に理解できるはずなのである。
○ ○ ○
本作に登場する異星人のポールは、典型的なグレイ型の宇宙人なのだが、およそ宇宙人らしい神秘性を備えてはいない。
それは彼が、科学的調査のために地球に訪れ、宇宙船(いわゆる「空飛ぶ円盤」)の故障事故によって人間に捕らえられ、「エリア51」として知られるアメリカ空軍施設に60年間も幽閉されて、その間、人間と密な交流してきたという経歴によるものだ。
エリア51では、ポールを形式上は「外来の客人」として丁重に扱いはしたものの、その目的は、生態研究であった。
ポールは、友好的に接してくる人類に対して同じく友好的に接して、その知識を惜しみなく提供した。
だが、それも十分に引き出したと判断したアメリカ政府は、彼の待つ超常的な治癒能力や一時的に姿を消す能力(息を止めている短時間のみ可能)などを手に入れようと、ついに彼の解剖を企てた。
しかし、その事実を知った政府職員の内通によって、ポールは間一髪で収容施設を脱走したのである。

そしてその時にたまたま出逢ったのが、コミコン(コミック・コンベンション)へ参加するために、イギリスからアメリカにやって来ていた、オタクの中年男性の二人組、グレアムとクライブだったのだ。



さて、すでに書いたとおり、ポールは「人類との交流経験」の長さから、きわめて人間くさくなっており、宇宙人らしくなくなっていた。
『地球暮らしが長いのもあってか、英語はもちろん汚い言葉(※ スラング)と嗜好品(※ 酒タバコ、マリファナなど)に堪能した陽気なおっさんのような性格で、サンダルに半ズボンのみのラフな格好をしている。』
(Wikipedia「宇宙人ポール」)
しかし、ポールがこんな「らしくない」感じなのは、本作が「宇宙人」の神秘性やSF性を売り物とした作品ではなく、宇宙人という存在(異邦人・異人)との向き合い方を通して「人間というものを描こうとした作品」だからなのである。
事実、本作の監督であるグレッグ・モットーラは、インタビューに答えて、次のように語っている。
「金のかかったCG大作ではなく、当たり前のドラマとして撮りたかったんだ。ロードムービーの中に、ただ宇宙人が加わっているだけなんだよ」
こうしたスタンスは、例えば、スティーブン・スピルバーグ監督の大ヒット作『未知との遭遇』の対極にあるものとも言えよう。
スピルバーグは、本気で宇宙人の存在に憧れ、その憧れを込めて宇宙人を描いたがため、『未知との遭遇』で描かれる宇宙人には、「神」にも似た、文字どおりの「神秘性」が与えられていた。
だが本作『宇宙人ポール』には、そんな感情は無い。
むしろ、「神秘化としての理想化」がなされているのは、人間側の主人公である、グレアムとクライブなのだ。
彼らの性格設定は、次のようなものである。
『グレアム・ウィリー
演 – サイモン・ペッグ、日本語吹替 – 横島亘
本作の主人公。イギリス人。クライヴの小説の挿絵を描いているイラストレーター。クライヴとは幼いころからの親友で、同じSFオタク。クライヴが時々話すクリンゴン語を話せないものの理解できる。初めてポールと会ったときにクライヴは気絶してしまったが、グレアムは平気だった。物語終盤、ムーアクロフトでモーゼのショットガンからポールを庇って流れ弾を受け、絶命してしまうが、ポールの能力で生き返った。その後、クライヴと共にポールを主役にした小説を出版、SF小説の賞を受賞し売れっ子の仲間入りを果たした。
クライヴ・ゴリングス
演 – ニック・フロスト、日本語吹替 – 茶風林
もう一人の主人公。同じくイギリス人。SF小説家。グレアムとは幼いころからの親友で 同じ趣味。いつも一緒にいるため、ゲイとよく間違われる。のちに旅仲間になるポールとルースを最初は快く思っていなかったが、それはグレアムが自分より先に仲良くなっていることに腹を立てているだけであり、嫌っているわけではない。冒頭では、小説家としての知名度は低かったが、終盤では、グレアムと共に売れっ子作家になった。SF好きが高じてか、スタートレックに登場する架空言語「クリンゴン語」を話せる。』
(Wikipedia「宇宙人ポール」)
「オタクどおしで、子供の頃からの親友」というのは、「オタク」であること以上に「童心」というものの重視された設定だと言えるだろう。
言うなれば彼らは、非凡に純粋な「聖変人」なのである。
クライブのセリフだったと思うが、本作の中で、
「ずっと、この地(エリア51のある宇宙人ファンの聖地、アメリカ・ネバダ州)に憧れていたけど、やっとその夢が叶ったんだな。俺たちはオッサンになっちまったけどさ」
と、二人で笑い合うシーンがある。
これなどは、彼らが、子供のままであるのを示すと同時に、大人というものへの違和感を感じ続けているという証拠でもあろう。
では、彼らが抵抗を覚える「大人」像というのはどういうものなのかと言えば、それはたぶん「金や地位や名誉」を追い求めるようになった大人、というようなものだったのではないだろうか。
実際、彼らはいかにも、かつての「オタク」らしく、オシャレなどにはまったく興味のなさそうな身なりをしている。
SF関連らしいロゴやイラストの入ったTシャツにリュックサックという、いでたちだ。
そして、そんなオタクである彼らが、世間から蔑視されていることも、本作では間接的に描かれている。
それは、彼らにからんでくる、アメリカ人の「田舎のヤンキー」たちの舐めきった態度だとか、「オタクは引っ込んでろ」的なことを言う政府のエージェントの態度などに示されている。
そこには「オタクはへなちょこであり、実社会的には役立たない、変なやつら」だというニュアンスが込められているのだ。
また、彼らは何度もゲイ(同性愛者)と間違われるのだが、ゲイもまた当時は被差別者だったのである。
ともあれ、たしかに彼らは、ケンカに強くもなければ、金持ちでもないし、社会的な地位も高くはない(と言うか、そもそもそんなものは求めていない)。
しかし、彼らには、危険を冒してまで、逃亡する宇宙人を助けてやろうとする、優しさがある。

だがまた、その優しさは、逃亡しているのが「夢にまで見た宇宙人」だから、特別に示されたものだというわけではない。
実際、グレアムとクライブの二人は、宇宙人の実在を本気で信じているわけではなかっただろう。
あくまでも彼らは、宇宙人というものを「夢の存在(非実在)」として憧れていたのだ。
だから、クライブは初めてポールを目の当たりにした時には気絶してしまったし、ポールとすぐに仲良くなったグレアムに対しては「正気なのか!」とまで言って、腹を立てたのである。
だが、だからといって、クライブの「宇宙人への憧れ」が偽物だということにはならないだろう。
彼が愛したのはあくまでも、テレビや映画の中に登場する「宇宙人」であって、実在するであろう「宇宙生物」のことではなかったのだ。彼が愛したのは、あくまでも「夢(イメージ)としての宇宙人」だったのである。
だから彼は、そんな宇宙人と、目の前の異形を、当たり前に区別して考えようとしただけなのだ。その意味でクライブは、立派なリアリストだったのである。
そして、本作を撮ったグレッグ・モットーラ監督や、脚本を書きグレアムも演じたサイモン・ペッグもまた、同様のリアリストであり、若きスピルバーグのような「夢想家」だったわけではない。
彼らもまた、本気で「宇宙人」の存在を信じているわけではなく、グレアムやクライブのような、オタクだったのである。
だからこそ彼らは、「宇宙人」というイメージと戯れる楽しさを忘れない「オタク」という存在には共感しているし、その意味で彼らには、自身が「オタク」であるとの自認もあるのだ。
したがって彼らは、「宇宙人というイメージ」と戯れ得ることと、「宇宙人というイメージ」をそのまま実在のものだと信じる「短絡」とを、同一視してはいない。
その点において本作で注目すべきなのは、グレアムとクライブ、そしてポールの「3人」と、途中から逃避行の旅を共にする4人目の仲間である女性ルースである。

登場時のルースは、ごりごりの「キリスト教原理主義者」として、批判的に(滑稽に)描かれるいるのだ。
彼女は、キリスト教原理主義者で、子供に支配的な父親との父子家庭で育った人だったのである。
私は前述の『未知との遭遇』のレビューの翌日にアップした、哲学者・野矢茂樹の著書『哲学の謎』のレビューにおいて、こうしたキリスト教原理主義者について、次のように触れていた。
『アメリカのキリスト教保守派の中に実在する、ダーウィンの「進化論」を否定して「人間は、猿から進化のではなく、最初から人間として、神に作られた存在だ。したがって、進化論が想定する、地球が生まれたのは約46億年前で、生物が生まれたのは約40億年前であり、そこから生物は時間をかけて徐々に進化してゆき、その過程で猿から分化したのが人間だなんで、そんな馬鹿なことは考えなくてもいい。この世界は、神が数千年前に、一瞬にして一挙に作ったものであり、そのときはすでに、猿も人間、その他の動物も、今のままのかたちで生まれたのだ(化石も、化石として神が作ったものなのだ)」なんてトンデモ理論も、哲学的理論の「濫用的誤用」だということで、簡単に却下することも出来るはずである。』
ここで私は、ダーウィンの進化論を否定するキリスト教原理主義者が『この世界は、神が数千年前に、一瞬にして一挙に作ったもの』だと主張をすることを紹介しておいたのだが、本作でルースは「4000年前に、神がこの世界をお創りになった」と主張していた。
さて、そんなルースは、ひょんなことからグレアムとクライブたちのキャンピングカーに同乗することになる。
それで、事情を知らないルースに見つかってはまずいと、しかたなくキャンピングカーのトイレに姿を隠していたポールだったのだが、強くを主張しないグレアムとクライブに対して、強気の主張をするルースの頑迷な進化論否定に業を煮やし、ポールはトイレの中から反論し始める。
だが、ルースは「神は人間のためにこの地球をお作りになった。したがって、人間以外に知的な生物など存在しない」と主張するので、ついにポールはルースの前にその姿を表して「ここに宇宙人が実在するが、それでもそんな(非科学的な)たわごとを言うのか」と迫る。
するとルースは、人間の特権的な価値を相対化してしまう存在としての「宇宙人などというものは存在しない。したがって、神のみわざを否定するあなたは、宇宙人ではなく、人間を誑かす悪魔なのだ」などと反論して、ポールを呆れさせるのである。
そして結局最後は、ポールがその脅威的な蘇生能力に使って、失明していたルースの片方の目を癒し、その奇跡のわざによって信頼を得ることになるのである。

つまり、ここで何が語られているのかと言えば、それは無論「神の実在」を信じるような「頑迷さ」への批判なのだが、しかしこれは、スピルバーグ的な素朴な「宇宙人」信仰への批判でもあるのだ。
「宇宙人」を、愛し楽しむのは良い。しかし、そのイメージをそのまま信じるような、原理主義的な信仰は、反理性的なものでしかないと、そういう批判なのである。
じつは、本作には、『未知との遭遇』に登場した「デビルスタワー」が登場するだけではなく、じつはスピルバーグその人が、カメオ出演していたのだそうだ。
だが、私はそれにはぜんぜん気づかず、このレビューを書くために、本作のWikipediaを読んで、初めてその事実を知ったのだあった。


下が実物のデビルズタワー)
だが、『未知との遭遇』のレビューにも書いたとおり、本作『宇宙人ポール』に出演した頃のスピルバーグは、すでに「友好的な宇宙人」という都合の良い夢想をそのまま信じることは出来なくなっており、その意味では、良い意味で大人になっていた。
まただからこそ、「宇宙人のイメージ」と戯れる本作を肯定的に評価し、本作に出演することもできたのであろう。
『実は、私が見た『未知との遭遇』のDVDには、特典映像としてスピルバーグのインタビューなども収録されており、その中でスピルバーグは、自身の「甘さ」についての自覚を語っていた。
「この映画には、良くも悪くも若かった私の甘さ、若さゆえの甘さが見で取れる。歳をとり人生経験を重ね、社会の中で責任を負わなければならなくなった今の私には、もう本作のような映画は撮れない。帰ってこれないかも知れないのに、マザーシップに乗り込んでいく政府職員の姿など描くことはできない。まさに、若さゆえの思いのままに飛び込んでいく無謀が、当時の私にはあったのだ」
という趣旨のことを語っていたのである。』
そんなわけで、本作は「宇宙人信仰」を含む「原理主義」的な、知的に頑なな態度を肯定しているのではない。
そうではなく、無邪気にあそび戯れることのできる「童心」とその柔軟な想像力をこそ、支持しているのである。
考えてみれば、「金や地位や名誉」をむやみに追い求めるというのも、じつのところは「信仰」の一種だと言えるのだ。
なぜなら、人がそうしたものを求めるのは、本来なれば、「楽しく生きるため」だったはずだからである。
「楽しく生きるため」には、「金や地位や名誉」といったものも、ある程度は必要な「道具」なのだけれども、決してそれが「目的」なのではない。
だから、「金を稼ぐためには、遊んでる暇などない」という態度は、本末転倒な「金(カネ)」崇拝であり信仰であって、「資本主義」の歪んだ価値観(資本の蓄積)を内面化したものでしかないのである。

そんなわけで、本作が描いているのは、「宇宙人」でもなければ「SF」の面白さや「オタク」の姿でもない。ましてや「CG映画」のど派手なスペクタクルでもない。
一一本作に描かれているのは、「夢と戯れることを忘れない童心」の重要性なのだ。
だからこそ本作は、リアルな物語ではなく、子供っぽさの強調された、意外にもロマンチックで、ハッピーな物語となっているのである。


なお、本作を撮ったグレッグ・モットーラ監督には、邦題で『スーパーバッド 童貞ウォーズ』という、『童貞の高校生3人組が卒業パーティーで、それぞれ意中の女子生徒と初体験を目指して奮闘するさまを描いている』(Wiki)青春コメディ映画がある。
『宇宙人ポール』以前の、同監督の出世作だが、この作品で描かれる「童貞」が、本作『宇宙人ポール』に描かれた「オタク」に通ずるものであるというのは明らかだろう。
実際、本作『宇宙人ポール』の中でも、クライブの初体験に触れるシーンがある。
私はこの『スーパーバッド 童貞ウォーズ』をまだ見てはいないけれど、しかしこの作品が、「童貞の若者」たちに温かい共感の視線を向けた作品であるというのは、間違いのないところであるはずだ。
一方、本作『宇宙人ポール』の脚本を書きグレアムを演じもしたサイモン・ペッグは、『スター・トレック』の映画シリーズで、メカオタクの乗組員スコットを演じたことでも知られるし、ジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ映画の金字塔『ゾンビ』(原題: Dawn of the Dead)をパロディ化した作品『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年/エドガー・ライト監督)へも脚本と出演の二役で参加していることでも知られている。要は、ノリがオタクの人なのだ。

つまり、グレッグ・モットーラ監督と脚本のサイモン・ペッグは、共に「童心」を大切にする人なのであり、そんな彼らの作った作品だからこそ、本作は、俗っぽくこれ見よがしなCGによるスペクタクルSF映画などではなく、「人間を描いた」微笑ましいロードムービーとなったのだ。
だから、「宇宙人映画」だなどと、ゆめゆめバカにするなかれ。
そうした「有用性重視の価値観」もまた、資本主義経済における価値観を内面化したものに他ならないからである。
それがすべてではないにしろ、人間とは「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」であり、「童心=遊び心」を忘れた時に、人間は、自らがグロテスクなモンスターになってしまうのである。

(2026年6月9日)
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