▷ 書評:榎本博明『じつは残酷な「ほめ育て社会」』(日経プレミアシリーズ)
なんで本書を買ったのかと言えば、本書のタイトルが、私の考えていることそのままだったからである。
そして、本書の内容も、タイトルどおりのそのまんまだ。
本書の内容を要約すると、次のようになる。
1990年頃から流行りだした「子供はほめて育てよう」というのが、今や行きすぎて、様々な弊害を日本の社会にもたらしている。
ひとつには、「ほめ育て」世代の若者たちの「打たれ弱さ」「堪え性のなさ」「ほめられないと頑張れないという主体性の欠如」といったようなことだ。
しかし、こうした傾向は、当然のことながら、子どもたち、若者たちのためにはならない。
なぜなら、社会に出れば、必ずしも相手がチヤホヤしてくれるとは限らないからだ。
例えば、今どきの会社の上司が「無理を言わない優しい人」だったとしても、お客様や営業先のような立場の強い人たちが、いつも優しいとは限らない。
優位な立場にあぐらを描いて、無理難題をふっかける人だっているからで、しかしだからといって、そういう相手には物も言えず「心が折れました」などと落ち込んでいるだけでは仕事にならない。
だから、そんな「ひ弱な大人」に育たないように、子供のうちから、ある程度は「打たれ強さ」だの「根性」だのといったことを育ててあげる必要はあり、その場合、ある程度は「ダメなことはダメ」「やるべきことはやれ」と言い、時には厳しく咎めることも必要なのだ.
つまり、親は無論、学校の先生も、子供たちを厳しく叱ること、躾けることが出来なければならない。
今や、近所のおじさんおばさんなどの赤の他人が、子供に注意をしてくれるような時代ではないからだ。
ところが、今どきは「怒るのではなく叱る」のだなどと言って、そのあたりを曖昧に誤魔化している。
言うまでもなく、間違ったことをしている人を見れば、それが大人であろうと子供であろうと「けしからん」と腹を立てるのは、天然自然の感情である。
ただし、腹が立ったからといって、その感情をむき出しにして怒鳴りつけただけでは、相手は何を言われているのか、何を叱られているのかがわからないから、そんなものは「指導」にはならない。
したがって、腹を立てるのは良い。しかし、その誤った行いを正す気があるのであれば、単に感情を爆発させるのではなく、適切にその意図を伝えなければならない。
つまり「目は怒っていても、言葉は冷静かつ論理的でなければならない」ということだ。それが、適切に叱るということなのだ。
ところが、前述の「怒るのではなく叱る」というもっともらしい言葉は、そもそも「怒りの感情を抱くこと自体を否定する」ような、偽善的なニュアンスがある。
「相手(子供)のことを心から心配しているのなら、感情的に腹を立てる以前に、心配するという思いやりが先に立つでしょう?」とでも言わんばかりなのだが、こんなものは、所詮「綺麗事の建前」である。
そう言ってる本人だって、実際には実行が困難なこと間違いなしなのだ。
くり返すが、人間だれだって、「許し難い言動を目にすれば、腹が立つのは当たり前」。それが、自然の生理だからである。
だが、問題は、腹が立ったあとで「どうするか」という問題であり、だからこそ「腹を立てるだけ」じゃなくて、問題事象への冷静な対処方法を考えなければならない。
しかしながら、世の中この程度の理屈も理解できない大人が多いから、「ほめて育てれば、万事うまくいく」などと本気で思い込む単細胞も、現に少なくない。
私がよく引用する言葉に、SF作家シオドア・スタージョンの、次の言葉がある。
『SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割がクズである』
したがって、「子供の親」の9割も、道理のわからないクズと考えて、ちょうど良いくらいなのだ。
普通の頭があれば「ほめて誤りを正す」なんてことが容易じゃないことくらいはわかるはずなのだが、それがわからない大人が多いからこそ、本来、正しい方向性であったはずの「ほめて育てる」というのが行きすぎてしまい、弊害をもたらすことにもなった。
「ほめて育てる」というのは、言うなれば「理想」なのだ。だから、その理想どおりにできるのなら、誰も苦労はしない。
しかし、「理想」というのは、そう簡単には実現しないからこそ「理想」なのだから、その「理想」を掲げながらも、現実には、あれこれ按配をしなければならない。
つまり、叱る時には叱るし、怒る時には怒らなければならない。
そもそも、怒ると叱るに、明確な線引きなど不可能だ。
こっちは「叱って」いるつもりでも、叱られた方は「めっちゃ怒られた(怖かった)」としか感じないかもしれないし、逆に、こっちが感情的になって怒鳴りつけたとしても、人によっては「本気で叱ってくれた。ありがたい」と感謝してくれるかもしれない。
つまり、それが「叱る」か「怒る」は、叱られた方の「主観」次第なのである。
したがって、感情を抑え、良かれと思っても叱ったとしても、「怒られた」と思われ、批判非難される場合は、当然ある。
だから、本書にも書かれているとおり、今どきの学校の先生は、そもそも叱らない。
遅刻しようが、授業中に寝てようが、(大学の話だが)授業中におしゃべりしていようが、スマホをいじっていようか、「どうぞ、ご自由に」という調子である。
また、会社の上司も、叱らないで、褒めておだててやる気にさせる、というのが標準的なやり方になっている。

もちろん、本書にも紹介されているとおり、それで良いと思っている人ばかりではないのだが、先生の場合だと「うちの子が、先生に叱られて傷ついた。ほめて育てる時代に、なんて先生だ」なんていうモンペ(モンスターペアレント)の親にねじ込まれたり、教育委員会に通報されたりするので、もうアホらしくて、やる気を無くしている先生も少なくないようだ。まあ、当然のことである。
これは会社の上司だって同じことで、仕事をできるよう育ててやろうと思えば、「そういうやり方ではダメだ」「もっと頑張れ」くらいのことは、当然言わなければならないのだが、そもそも今どきは「頑張れ」という言葉が禁句になっており、「言われなくても頑張っているのに」などと反発されもしかねないし、またその打たれ弱さの故に過剰に落ち込まれて、出社して来なくなるとか、辞めてしまわれるとか、パワハラだと触れ回られたりとかいったことにもなりかねない。
だから、会社の上司先輩も、本気で指導することなどせずに、適当に「優しく」して、その場を凌ぐことしかしないといったことも標準化しているらしい。
誰も、自分の首を賭けてまで、他人のため(と会社のため)に憎まれ役になろうとは考えない。それが当然なのだ。
無論、学校であれ会社であれ、全部が全部そうだというわけではないけれど、「ほめて育てる」「叱りつけてはダメ」みたいなことが、マスコミを通してもはや「常識」となり、それが20年以上も続けば、こうした現象が起こっていても、何の不思議もないのである。
さいわい私は「賢い=狡い」から、職場では人を指導しなければならない立場には立たなかった。
つまり、上司幹部にはならず、単に「影の薄い年寄りの先輩(平社員)」でしかなかったから、上司から「後輩の指導をお願いしますよ」なんてお世辞半分で言われても「いやいや、私ごときが、やる気満々の若い人に、教えることなんて何もないですよ。むしろ、彼らに助けてもらってるくらいですから」などと謙遜ぶって、先輩としての責任を負わされることから逃げていた。
そもそも、会社に責任を負うつもりがあるのなら、言われなくても、自ら出世しているのである。
ともあれ、私は5年ほど前に退職して隠居の身であり、本書に書かれているような、手間のかかる新入社員に直接出逢うようなことはなかったのだが、しかし、すでに上司たちは、パワハラ呼ばわりされるのを恐れて、叱ることをしなくなっており、私はそれを「大変だな。でも、好きで幹部になり、そのぶん給料ももらっているんだから仕方ないよ」と、覚めた目で見ていたのである。
そんなわけで、今なら状況はもっと酷くなっているというのは、容易に想像のできるところなのだ。
しかし、そうした推測だけではなく、最近の現場がどんな具合なのか、それを具体的に知るためには、本書は役に立った。
基本的には、繰り返しが多く知っていることばかりだったが、やはり現場の「生の声」は聞いておくべきなのだ。
だがまた、それでどうにか出来るのかというと、ほとんど絶望的だとも思える。
つまり、今の状況では、先生や上司が、当人(子供や若者)のために、良かれと思って「本気で指導」するには、リスクが大きすぎるためだ。
だから本書著者も「本来なれば、先生や上司が使命感を持ってそれをすべきだ」と、そう考えてはいる反面、それを彼らに強いることは、もはや出来ないとも考えている。
ということは、残るは、「指導してくれない世の中」において、若者たち自らが「どうすれば、生きる力を身につけられるのか」という、そんな助言をするくらいのことしかできず、本書著者も若者たちに対するアドバイスをいくつか並べて、本書を締め括っている。
しかしながら、こうした助言が効果を発するのは、「ぬるま湯に浸かったままではダメになる」という危意識を、自ら持てる賢い若者に限られている。
だが、当然のことながら、そうした若者は全体の中でのごく一部でしかないことも、著者は認めている。
著者としては「このままではダメだ」という問題提起だけでは、あまりにも救いがないので、いちおう積極的な提案をしているという体裁だけは整えてはいるのだが、その効果を、書いている当人が本気で信じているとは、とうてい思えない。
だから、私のように、誰に気兼ねなく発言できる立場に立った者が、言えることは言わなくてはなるまい。
私がしばしば、大岡昇平の次の言葉を引くのもそういうことなのだ。
言葉はキツイが、小説であれ人間であれ、「駄作は駄作だ」という現実を直視したところからしか、改善の可能性はひらけないのである。
「筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり」
(大岡昇平『成城だより3』1985年10月15日より)
(2026年6月14日)
○ ○ ○









コメントを残す