ジョエル・コーエン監督 『バートン・フィンク』: 「不穏な空気」の沸点

▷ 映画評:ジョエル・コーエン監督『バートン・フィンク』(1991年/アメリカ映画)


作品タイトルと眼鏡の主人公の顔だけはポスターか何かで知っていたのだが、内容的な予備知識は無かったので、とても楽しめた。
本作は、オチ云々ではなく、とにかく内容を知らない白紙の状態で見るべき作品なので、未見の方は本稿を読まない方がいい。


だだし、単純なエンタメ作品ではなく、「あとを引く奇妙な味」の作品が好きな方には、ぜひ本作を見てほしい。

そこに暗示されている「意味」を理解しようとすれば、たしかに本作は難解な作品ではあろう。
だが、本作の鑑賞法(鑑賞態度)として、私が強くオススメしたいのは、ブルース・リーの名言として知られる、かの「考えるな、感じろ」なのである。

「感じる」センスのある人には、是非ともお薦めしたい傑作。
本作は、カンヌ国際映画祭では、パルム・ドール(最優秀作品賞)、監督賞、男優賞の、史上初の3冠を受賞した作品なのだ。

さて、本作『バートン・フィンク』は、ジョエルとイーサンのコーエン兄弟による第4作で、二人による共同脚本を、兄ジョエルが監督し、弟イーサンがプロデュースするという、いつもの製作体制で作られている。

私の場合、コーエン兄弟の作品は、『ファーゴ』(1996年)に続くまだ2作目なのだが、本作『バートン・フィンク』は、文句なしに私好みの作品であった。
コーエン兄弟の作品の中でも、きっとこれ以上に好みの作品などもうないんじゃないかと、2作目にしてそう確信している。

そして、本作の何が好みなのかと言って、それは「どこまでが現実で、どこまでが(悪)夢なのかががわからない」という、そんな不思議な雰囲気に満ちている点だ。


「映画.com」カスタマーレビューを見てみると、複数のレビューが、デイヴィッド・リンチの名を挙げて「似たところがある」と指摘しているところからも、本作の「悪夢性」とでも呼ぶべきものをご理解いただけるだろう。

だが、同じ事件がらみの「悪夢」的な作品ではあっても、やはりデイヴィッド・リンチとは、その質やその感触が違っている。

どこが違うのかというと、本作『バートン・フィンク』の場合、明らかに現実にはあり得ないような飛躍といったものはなく、物語最終盤のホテルの廊下が燃え上がるシーン以外は、不思議な暗合的なものはあっても、物理的にあり得ないような描写はないのだ。


あえて「不可解」な現象を挙げれば、主人公のバートン・フィンクの宿泊したホテルの立地が、乾燥した砂漠地帯であるにもかかわらず、なぜか一日じゅう異様に蒸し暑く、土地柄いないはずの蚊が出て刺されたり、暑さのゆえに壁紙が剥がれたりといった、そんな「暑さ」くらいだろう。
しかしこれは、超常現象などではなく、あくまでも主人公の、落ち着かないイライラした心理を描写するものだとの印象の方が強いのだ。

(暑さで壁紙が何度も剥がれてくる)

このように、本作にも「ほぼあり得ない」ことが多少は起こるのだが、絶対にあり得ないと言えるほどのことは、前述したホテルの廊下が燃え上がるシーンくらいなのである。

したがって、本作を悪夢的な映画だと考えるのならば、最初に書いたような「どこまでが現実で、どこまでが(悪)夢なのかががわからない」作品だと評するのは、たぶんあまり正確ではない。
なぜなら、本作は作品全体として悪夢的な世界を構成しているからで、「殺人事件」の発生によって、その悪夢性がはっきりとしてから以降だけを悪夢だとするような考えは、あまり論理的ではないからだ。

だから本作は、このうつし世(現実世界)の悪夢性を、感覚に訴えるかたちで描いた「象徴的なドラマ」とでも考えるべきものなのである。

また、デイヴィッド・リンチは、本気でこの世の裏側の世界や邪悪なものの存在を実感していた、いわゆる「霊感の強い人」だったのだけれど、コーエン兄弟の場合は完全にリアリストであり、本作では、現実世界の現実的な不条理を、誇張し、変形して、象徴的に描いたから、悪夢的な作品になったと、そのように理解すべきなのであろう。
「悪夢的」か否かではなく、その質を問題とすべきなのだ。

本作のストーリーについては、Wikipediaに最後まで詳しく紹介されているので、ここでは、私が見たDVDのケース背面に書かれていた、比較的短いストーリー紹介を引用しておこう。

前途洋洋だったはずの人生
 スランプに陥った脚本家の悪夢


1941年、ロサンゼルス。ハリウッドに招かれた社会派劇作家バートン・フィンクジョン・タートウーロ)は、みすぼらしく不気味な雰囲気を持つ“ホテル・アール”にチェックインする。彼はキャピトル映画の社長リプニックに会い、B級レスリング映画の脚本を依頼されるが、隣の部屋の笑い声が気になって一向に筆が進まない。
声の主は大柄な保険セールスマン、チャーリージョン・グッドマン)だった。彼とは妙に気が合い、すぐに打ち解けたバートンだったが、この出会いこそがすべての不幸の始まりだった…。』



主人公のバートンは、ブロードウェイの舞台演劇の脚本を書いてヒットを取った、注目株の若手脚本家だった。
そして、そんな彼のところに、ハリウッドから映画の脚本を書かないかというお誘いの声がかかる。

だが、バートンは「庶民の生活を描く作品を書きたい」という、真摯な志のある作家だったから、ハリウッドへの進出には、あまり乗り気にはなれなかった。

本作の舞台となるのは1941年、つまり戦前のアメリカで、その頃のハリウッド映画と言えば、世界恐慌後という暗い世相を受けて、むしろ「現実逃避のための夢」を売る、浮世離れしたエンタメ作品が主流となっていた。そうした作品の主人公は、都会の上流階級であり、そんな人たちのハッピーな物語ばかりだったのである。

例えば、私が大好きなフレッド・アステアが主演したミュージカル映画なんかが、その当時の映画の雰囲気をよく伝えているし、ウディ・アレン監督の『カイロの紫のバラ』(1985年)には、1930年代の世界恐慌さなかの庶民を描いて、女性主人公が映画館で(当時の)アステア主演映画を見て慰められる、というワンシーンが登場する。


つまり、本作の主人公バートンの書きたかったドラマは、当時のハリウッドとは真逆に等しい、現実の中に生きる庶民の姿を肯定的に描いた「社会派」の作品だったのである。

彼は、そうした当時としては決定的に「新しい作品」を書こうとし、それがブロードウェイにおいてやっと評価されたところでの、ハリウッドからお誘いだったのだ。だから、素直には喜べなかった。
ハリウッドが、彼の書きたいような脚本を求めているとは、とうてい思えなかったからである。

だが、ブロードウェイで脚本家をやっているかぎりは、作品の届く範囲はごく限られているし、実入も少ない。だから、彼の代理人は「ハリウッドで頑張って名を挙げてから、やりたいことをやっても遅くはないんじゃないか。こんなチャンスはそうそうあるものではない。現実を見て考えてみるべきだ」と言い、結局バートンは説得されて、ハリウッドに出てくることになるのである。

しかし、金持ちだの上流階級だの著名人との社交だのといったことを嫌悪していたバートンは、だからこそわざわざ、貧民街に近い二流のホテル「ホテル・アール」に逗留することにした。

(パッとしない従業員たち)

そして翌日、彼を呼び寄せた映画会社の社長リプニックに会いに行ったところ、彼が依頼された仕事は、人気プロレス映画の新作のシナリオだったのである。

もっとも、そのかなり個性的でワンマンな成り上がり者の社長は、バートンの庶民派の作風というものを否定することはないし、芸術家としての彼を軽んずるわけでもなかった。


リプニックとしては、バートンの庶民派としての個性は、上流の人々も含めて、上から下まで多くの人を「感動させる」魅力だというふうに理解していたし、自分は芸術はわからないが「良い映画」ならわかるから、「きっと君なら良い脚本を書いてくれるだろう」と、妙にバートンを高く買って、とても好意的だったのである。

だが、バートンにしてみれば、プロレス映画なんてものは見たこともなかったから、出だしからいきなりつまづいてしまい、筆(タイプライター)が進まなくなってしまう。

しかも、なまじリプニックの期待が大きいために、いい加減なものは書けないと、暑苦しいホテルの部屋(当然、当時はエアコンなど無い)で、タイプライターを前に悩んでいたところ、隣の部屋の、一見コワモテの男チャーリー・メドウズと知り合い、見かけによらず「気のいい奴」だとわかって、友達になるのである。
一一この男が後に、やはり「とんでもない人物」だったことがわかるのだ。


さて、本作が、一種独特の「異様な感じ」を見る者に与えるのは、前述のとおり、不自然な「暑さ」に関わる描写や、バートンが妙に執着する、壁にかかった「ビーチパラソルの下に横座りする後ろ姿の水着美女」の絵などといったこともあるのだが、それだけではなく、とにかく登場人物の多くが、「性格の分かりにくい人物」だという点が大きいだろう。


前述の映画会社の社長リプニックは、いかにも自信家の威張った男なのだが、なぜかバートンにだけは妙に好意的である。
友達になった隣室の巨漢メドウズも、一見コワモテだが、話してみれば気の良い男だ。

また、バートンが映画会社で知り合った老脚本家は、なにより著名な小説家であり、とても紳士的な人物なのだが、今では書けないという悩みを抱えてアルコール依存症となっており、人目のないところでは、同居の秘書兼愛人に、当たったり泣きついたりという醜態を晒している。

また、その愛人も、彼女に一目惚れしたバートンに対し、最初は「私には彼がいるし、彼を愛している」などと言っておきながら、結局は、わりあい簡単にバートンと寝てしまったりするのである。


そしてこの女性が、バートンの部屋で寝たその夜のうちに、同じベッドのなかで「何者か」によって殺害され、怯えうろたえることしか出来ないバートンは、唯一の友人であるメドウズにより救われる。メドウズがその女性の死体を、どこかへ処分してくれたのだ。


そんなわけで、こうした類型的ではない、あるいは、その二重人格性が妙にリアルな登場人物たちというのは、観客目線からすれば、その「行動が読めない」のである。
「このパターンの人物なら、普通はバートンの味方になるだろうな」とか「敵になるだろうな」というような予測ができない。
だから、いつどのようなきっかけで、その態度が反転豹変してしまうかわからない「不安定」感がつきまとう。

そんなわけで、ハリウッドへ来て以来、バートンはいつもどこか落ちつかないし、そんな彼を見ている私たち観客は、そうした環境の中にいるバートン以上に、なにが起きるか予測できないという不穏さを感じさせられる。
つまり、そうした「不穏さ」こそが、本作に「悪夢」的な印象を与えているのである。

さて、ここで私の「悪夢学」を少々ひけらかしておくと、「悪夢」というのは「怖いことが起こる」から悪夢なのではなく、「怖いことが起こりそうな雰囲気に満ち満ちている」から悪夢なのだ。ここが肝心。

例えば、その夢が、真っ昼間の閑静な住宅街の道路であろうと、自分の家の中であろうと、「なにか良くないことが起こりそうだ」という雰囲気がそこに満ち満ちていれば、それはもうそれだけで、なにも起こらなくても「悪夢=怖い夢」なのだ。
逆に、怪物が登場しようが、幽霊が登場しようが、自分に万能感のようなものが感じられているような夢なら、それらを少しも怖いとは感じないから、それは「悪夢」ではない。むしろ、漫画的なほどに楽しい夢の一種ともなり得るのである。

つまり「悪夢的」とは、具体的に何か良くないことが起こることではなく、それが起こりそうだという「不安の高まった状態」におかれる夢が「悪夢」なのだ。
怪物だの幽霊が出てしまうことよりも、今にも出そうだという、高まる「不安」こそが、まさに恐怖であり、「悪夢」と呼ぶべきものなのである。


ただでさえ、ハリウッドにやって来てばかりのバートンには友達がいないから、それで不安なところに加え、彼を取り巻く人物は、正体の読みきれない人物ばかり。
だから「いつ、その態度が豹変してもおかしくない」という雰囲気において、彼らは、バートンの不安を惹起する存在なのだ。

まだ具体的には何も起こっていない段階からすでに、観客は「何か起こるぞ、きっと何か起こる」と、そんな予感を抱かされ続ける。
そしてそれが、予想もし得なかった殺人事件に、唐突に巻き込まれることで、バートンをとりまく世界は、一気に非現実の様相を「露わにする」のである。

本作が「悪夢」的だとは、こうした「雰囲気」を指して言われるものであって、決してデイヴィッド・リンチ的な「異界」や「人ならぬ邪悪なものの存在」とかいった「具体的なもの」ではない。
「どこか変で、何か起こりそうだという雰囲気」にこそ、悪夢的な雰囲気の源泉があると考えるべきなのだ。

実際に起こった殺人や、非現実的な「ホテルの燃え上がる廊下」といったことよりも、「中身不明の不審な小包」といったものにこそ、本作固有の「悪夢」性を見るべきだと、私はそう考える。

では、こうした「何かが起こりそうだ」という「不穏さに対する不安」というのは、いったい何を暗示しているのであろうか?

それは、本作の終盤で、日米開戦が伝えられて、映画会社の社長が予備役の大佐に任じられたと、軍服姿でバートンに語るシーンや、「見かけによらず、気のいい奴」だと思っていたメドウズが、じつは警察に追われている猟奇連続殺人犯だったと判明し、その彼が、彼を追ってバートンのところへも聞き込みに来た底意地の悪い刑事たちを、燃え上がるホテルの廊下で射殺し、その際に最後に口にする「ハイル、ヒトラー」という言葉にも、それは表れているだろう。


バートンをハリウッドに呼んだ映画会社の社長もユダヤ系なら、バートン自身もまた、わかりやすくユダヤ系なのだ。

つまり、本作には明らかに、戦争とユダヤ人虐殺という「悪夢」が予示されている。

「何か起こるぞ、きっと何か起こるぞ」と思っていたら、やっぱり起こった連続殺人。
一一しかし、そうしたものが、本作に満ちた「不安の大元」なのではなく、もっと大きな「悪夢」の到来を伝えるものとして、本作の「不穏さ」は描かれているのではないだろうか。

本作の中で、かの隣室の男メドウズが、燃え上がるホテルの廊下で、猟銃を手にして、逃げる刑事を追いかける際、日本語吹替えでは「人の心の中を見せてやる!」と繰り返し叫び、そのセリフに付された字幕は「精神の生命を見せてやる!」というものだったのだが、このセリフが、見ている最中にはまったく意味不明であったために、「なんだこれは?」と、否応なく引っかかってしまった。


ところが、「映画.com」のカスタマーレビューを見ていたところ、「ソドム対ゴジラ」氏が、この謎を見事に解き明かした、「誤訳を補えば氷解するテーマ 〜「精神の生活」とは〜 」というタイトルのレビューを投稿していらした。


同氏が言うには、上のセリフは誤訳であり、正しくは「精神の生活」だと言うのだ。
「「精神の生活」というものを教えてやる!」と、メドウズは叫んでいたのだ。

では、この「精神の生活」とは、何なのか?

それは、ユダヤ人思想家ハンナ・アーレントの最後の著作のタイトルであり、同書には、全体主義を生むにいたる大衆の「思考の欠如」というものを批判して、それに陥らないための生活が、同書に「精神の生活」として語られていると、「ソドム対ゴジラ」氏はそう解説しているのである。


猟奇連続殺人鬼のメドウズ(実は偽名)が、バートンに対しては終始「気のいい友人」であり、ユダヤ人であるバートンを馬鹿にした刑事たちを殺し、しかもその際に「ハイル、ヒトラー」と言うのは、普通に考えれば、いささか矛盾した話だ。猟奇殺人鬼が、反差別主義者だと感じられるからだ。

しかし、「ソドム対ゴジラ」氏は、メドウズを『劇中の様々な描写から、主人公の別人格(あるいは分身?)であることがわかります。』としており、これこそが、前記の矛盾を解く達見だと言えるだろう。

つまり、主人公のバートンは、クソ真面目だが腕力には自信のない頭でっかちのインテリだから、その彼がハリウッドでの孤独の中で、無意識のうちに「イマジナリーフレンド」を生んだのだとすれば、それは「犯罪をも辞さない、倫理を超越した腕力のある男」ということになる。
そんな自分には無いものを持った男が、自分に好意的に接し、親身な友達になってくれるのだ。


だから、そんなメドウズが、差別的な刑事たちを殺す際に「ハイル、ヒトラー」と言うのは、メドウズがヒトラーを信奉しているということではなく、差別者たちへの「あばよ、差別主義者さん」という意味の、皮肉なのだ。
本当は、ユダヤ人であるバートンが「やりたいけれども、やってはならない」と、自らに禁止していることを、メドウズが代わりに、存分にやってくれたのである。

実際、それ以前にバートンが、彼に親身になってくれるメドウズに対して、どうしてそこまでしてくれるのかと尋ねた際、「お前だけが、俺の話を聞かなかったからだ」と、なにやら意味不明の返事をするのだが、これはたぶん、バートンがメドウズに象徴される「暴力性(そんな奴らは殺しちまえばいいという考え)」に耳を貸したことが無かったということを指しているのであろう。

というのも、保険のセールスマンを名乗っていたメドウズは、あるときバートンに仕事上の愚痴をもらす。「保険を断られるのはかまわない。でも、あんなことを言うなんて酷いじゃないか」と。
彼がセールスマンであること、肥満体であることを馬鹿にするようなことを言った女性客たちのことを、心底落ちこんだ様子で語っていたのだが、のちに彼の正体を知り、彼がそうした女性たちを殺していたことを知ったバートンに、彼は「俺は心の貧しい、可哀想な人たちを救うために殺してやっていたんだよ」というような言い訳をしていた。

これも、意味不明な言葉のようだが、これを「人を差別するような、他人を思いやる想像力を欠いたような人間を、その歪んだ心から解放してやったのだ」という意味に解釈すれば、刑事殺しと同様の主婦殺しもまた、「差別者殺し」だったと理解し得るのである。

つまり、知的で真面目な理想主義者であるバートンの場合は、相手がいくら酷い差別者であったとしても、だからと言って、そうした人たちを暴力的に罰しようなどとは考えない。

しかしながら、その頃すでにヨーロッパでは、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺は遂行されていたのだし、その事実ははまだ、連合国側のアメリカにまでは伝えられていなかったとしても、本作が、何か良くないことが起こりそうだという「不穏な予感」に満ちた作品である以上、ユダヤ人虐殺もまた「予感」されたものへの「不安」として本作で描かれたと、そう考えても良いのではないだろうか。


つまり本作は、デイヴィッド・リンチのような「悪夢」そのままの世界を描いたのでもなければ、かと言って「現実」の世界をそのまま描いたのでもない、言うなれば、コーエン兄弟の中にあった、世界に対する「不信感」的なものを、「不安な世界像」として描いた結果、「悪夢のような世界」というかたちになったのではないだろうか。

本作は「どこまでが現実で、どこまでが(悪)夢なのかががわからない」というような作品ではなく、まさに丸ごと「不安の世界像化」とでも呼ぶべきものなのではないか。

したがって本作は、単純に、過去の「ユダヤ人虐殺」や「戦争」への批判を描いたと言うような作品ではないのであろう。
本作が、ハリウッド批判的なものを含むのも、そのあたりのことからなのではないか。

まただからこそ、じつのところ、その頃の人たち、あるいは、全体主義を生み他者を差別した人たちと、「今の私たちは、なにも違わないのではないか」と、そんな「不安」と共に、「今」を批判したのが本作だったと、そう考えるべきなのではないだろうか。

あの頃だけが「悪夢」のような時代だったのではない。「今だって、そうだ」とコーエン兄弟は、そんなリアリティをもって、過去の物語を描いたのである。

しかし、だとすれば、そうした「不安」は、今だって変わりはないどころか、むしろ本作が作られた頃とは比較にならないほど、不安と言って済まされないほどの、「不穏な現在」となってしまっている。

不法入国者を厳しく取り締まり始めた米トランプ政権だけではなく、反難民感情の高まってひさしいヨーロッパ諸国だけでもなく、なによりも、わが国での反外国人感情の高まりも、決して欧米のそれとは別扱いにして正当化することなどできないものだろう。


本作において、主人公バートンの感じる「不穏さ」と似たものを、すでに私たち日本人も、うすうす感じ始めているのではないだろうか?

この常態化した異常気象のなかで…。




(2026年6月19日)

 ○ ○ ○



“ジョエル・コーエン監督 『バートン・フィンク』: 「不穏な空気」の沸点” への2件のフィードバック

  1. moha the foolのアバター

    私が住んでいる地区で毎年9月に開催していた運動会は、例年の猛暑でとてもじゃないがもう無理という事で、10月に後ろ倒しになりました。中高年の参加者が多かったので、死人が出て三面記事を飾る前に変更されて良かったです。

    気候変動もそうですが、少子高齢化問題、年金問題、過疎化問題などなど、悪い予感が提示されても自分達の身を切る覚悟が持てないために、ジワジワと悪化してきたものがいくつもありますね。しまいには、まさかクマが町に降りてきて人に害をなす未来になろうとは、子供時分には思いもしませんでした。思えば、銀色の全身タイツ姿で透明パイプの中を空飛ぶ自動車でドライブする未来とは、随分と遠くへ来たものです。

  2. 年間読書人のアバター
    年間読書人

    > moha the fonlさん

    コメント、ありがとうございます。

    まったくですね。
    「悪い予感しかしない」と言えば、まったくそのとおり。
    昔の歌謡曲の歌詞ではありませんが、「幸せの予感」なんてものは、もうほとんど誰も感じなくなってるんじゃないかな(笑)。

    クマの問題で気になるのは、クマを街中に出さない方策だとか、人との生存圏の棲み分け、みたいな話はしても、クマを殺して数を減らすという話は、誰もしない点ですね。
    その必要性を感じている人は少なくないはずなのに、誰も自分からは言い出さない。

    それと同じことで、野球の7回までの短縮問題もそう。
    このまま温暖化が進めば、大人のプロだって、昼間に9回をやるのは危険になってくるのは目に見えている。

    それでも、出来ればこれまでどおり9回まででやりたいとか、高校野球などの場合、大人が一方的に決めるのではなく、当事者である子供たちの声を聞いてはどうか、とか言ってる人がいますが、死人が出た時に、誰が責任を取るのか、という話なんですよね、最後は。

    いくら、子供たちが望もうが、有識者の意見に従おうが、現に死人が出たら、責任を問われるのは現場の主催者であり、「何も問題は無かったのか」「万全は尽くされていたと言えるのか」なんて言われるんなら、最初から、絶対安全なところで無難にルールを決めようとするのは当然でしょう。

    「意見を言うからには、それで何かあった時には、あなたも連帯責任をとるんですよね?」と言われたら、たいがいの人はコメントなんかしないと思います。
    匿名の無責任発言と同じで、責任が問われるとなると、途端に逃げ腰になるんじゃないかな。

    ま、そんなことだからこそ、いつまで経っても、抜本的な解決策を出さないまま、ズルズルと流されてしまうのではないでしょうか。

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