▷ 書評:アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』(集英社文庫)
いわゆる「ラテンアメリカの文学」としては、ひさしぶりに面白く読めた。

すっかり忘れていたのだが、このジャンルで最初に読んだのは、たぶんマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』で、これは面白かった。
映画にもなった作品だが、それで話題になった頃、映画より先に原作小説の方を読んだらこれが面白くて、映画を見る必要がなくなった一一というような経緯だったはずである。
ちなみに、『蜘蛛女のキス』は、私がホモセクシャル文学に興味を持っていた頃に、そっち系の作品として読んだから、「ラテンアメリカの文学」という印象の方は薄かったのかも知れない。
またさらに言えば、その後に読んだガブリエル・ガルシア=マルケスの短編集『ママ・グランデの葬儀』がぜんぜん合わず、読むのがひたすら苦痛だったので、そこでいったんはラテンアメリカの文学から離れてしまい、さらにずっと後の近年に、「ラテンアメリカ文学の代表作」として読んだマルケスの『百年の孤独』が、やっぱりぜんぜん合わず、その際「私は、ラテンアメリカの暑苦しい文学向きではないのかも知れない」とまで考えるに至った。
それで、面白かったプイグの『蜘蛛女のキス』の方ついては、ラテンアメリカの文学だという印象が、さらに薄れたのかも知れない。
しかしそれでも、私は文学作品を、単なる娯楽(エンタメ)としては読んでいないから、個人的には面白くなくても、読んでおくべき作品は読み、自分の目で確かめておかなければならないと、そう考えている。
また、そんなスタンスだから、読んでもいないくせに「たいがいのものは読んでいます」みたいな顔をしている奴というのは、読書家の風上にも置けない一種のペテン師だと思っているので、友達が「世界的な傑作」だと言っていた、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』も、「たぶん合わないだろうな」と思いつつも読み、マルケスほどではなかったけれど、やっぱり合わなかった。一一合わなかったのだが、しかし、読んで良かったとは思った。
なぜなら、合わない作品を読むことで、自分の「好み」の輪郭を確認することが出来、それによって自身の「限界」を実感して、愚かな万能感にひたる誤りを、避けることも可能となるからである。
所詮、すべてをわかる人などいないのに、「読めば、わかりました」などという、後付けの自己正当化など、みっともないだけだからである。
そんなわけで、今回読んだ、カルペンティエルの『失われた足跡』も、さほど期待していたわけではなかった。
私に「合わない」という意味において「面白くなくても当たり前」であり、少しでも面白いところがあれば「見つけ物」くらいの気持ちで読んだのだ。
一一で、どうだったかというと、これがかなり面白かった。これは素直に、読んで良かったと思える作品だったのだ。
ある意味では「私好みの作品」だったとさえ言っていいだろう。
どういうことかと言うと、本作の冒頭から8割くらいは、ラテンアメリカの文学らしい、ゴテゴテと暑苦しく面倒くさい作品であり、ある意味では、難解で知られるドノソの『夜のみだらな鳥』に似た感じさえあったのだが、残りの2割でそれがガラリと変わって、それまで見せられていた「世界」が見事にひっくり返ったのだ。
つまり、ある意味では、本格ミステリ的な「どんでん返し」のある作品なのである。
だから、結果としては私好みの作品ということになったのだし、その意味で本作は、本格ミステリと同様、最後まで読まなければ評価し得ない作品だったのだ。
もちろん、本作はミステリ作品ではないし、作者の狙いも、読者を驚かせることにあるのではない。それはあくまでも結果であって、目的ではない。
だから、私がこのように褒めたからといって、本作に「本格ミステリ」を期待するのは間違いである。
ではなぜ本作は、本格ミステリではないのに、本格ミステリ的な作品になったのだろうか?
それは、本作が「時間」の問題を、テクニカルに扱った作品だからである。
本作での時間に関わる主題とは、「文化的な時間というのは地域によって速さが違うし、地域的なズレもある」といったような問題なのだ。
つまり、カルペンティエルが本作で描いているのは、そうした「文化の時間的な断絶」といったことであり、それを「時間の操作」によって、鮮やかに描いて見せたのである。
私が読んだ集英社文庫版の解説者である、スペイン文学者の柳原孝敦は、カルペンティエルの特長を、次のように紹介している。
『魔術的(※ 魔術的リアリズム)と評されたさまざまな要素のなかでもとりわけカルペンティエルの真骨頂とされたのは、『時との戦い』の諸短編および中編の『追跡』や『バロック協奏曲』で見せた、決して直進せず円環を描いたり遡行したりする時間の操作であった。』(P391)
このカルペンティエル特有の「時間の操作」が、本作の場合、結果的にではあれ、本格ミステリ的な驚きを私に与えてくれた。
「えっ、そう来るの⁈」という作品であり、その驚きは「時間操作ミステリ」の傑作である、綾辻行人の『時計館の殺人』に似た、「二つの時間」のズレと一致を利用したものだったのだ。

○ ○ ○
本作『失われた足跡』のあらすじは、次のようなものである。
『アメリカの大都会に住む音楽家である私は、ある大学から未開種族の楽器の入手を依頼される。気乗りのせぬまま、愛人を伴って(※ 南米の)オリノコ河上流へと出発する…。近代から未開へと遡行するなかで、自然そのもののような女と出会った。しかし、(※ 行方不明となった主人公=私を)捜索にきた(中略)に発見され、私は文明世界へ連れ戻されてしまう。数か月後、再び女のもとへと旅立ったが、かつて私がたどった足跡は消し去られていた。』
(集英社文庫版カバー背面の紹介文)
このように、音楽家の文化人であり都会人でもある主人公が、未開種族の楽器を手に入れるべく、小さな乗合船でオリノコ河の上流を目指すところから、物語は動き始める。
これは、ここに『近代から未開へと遡行』と書かれているように、「河」が「時間の流れ」を象徴しており、河下から上流へと遡るというのは、時間を遡るということを寓意している。
都会人であり現代人の主人公が、象徴的に時間を遡って、未開の世界へと入っていくのだ。
で、私は本作のこの「あらすじ」を知って、すぐに、フランシス・フォード・コッポラ監督の名作『地獄の黙示録』と、その原作となったジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を思い出し、面白そうだと感じた。
いずれも、船で河を遡り、近代の論理が通用しない、未開の空間へと入っていく物語である。
私はもともと、「生活的な現実世界から、徐々に異世界へ」と踏み込んでいくような作品が好きだったし、この「河を遡る」というのも、象徴的で面白いと思うようになっていた。
だから、本作『失われた足跡』も、ラテンアメリカの文学的な作品として「合わないかも知れないな」と思いつつも、「もしかすると」という期待が捨てられず、読まないではいられなかったのである。
さて、読んでみて驚かされたのは、本作が単に「時間を遡る」だけでは止まらず、それが、まさに急転直下というかたちで、「未開社会」と「現代社会」が、暴力的なまでに直結させられてしまう点だった。
本作は文学作品であり、ネタバレもへったくれもないのだが、やはりそのあたりことを知ってて読むのと知らずに読むのとでは、読む楽しみに違いがあるので、ここではこの「直結」方法については、ボヤかした紹介に止めたい(上の「あらすじ」でも、その部分は略した)。
ともあれ、本作を読み進める読者は、主人公と共に船に乗って時間を遡ってゆき、徐々に未開の世界へと入っていく。
そして、都会にいた時の愛人の存在が徐々にうとましく感じられるようになってきたところへ、新たに運命の女と出逢うことになる。そして、病気になった愛人を途中から帰らせて、その女と旅を続け、やがて目的地に辿り着いて目的の楽器を手に入れたときには、もはや主人公からは、都会に帰ろうとという意志が失われている。
この女とこの原始的な世界で生きていこうと、そんな気持ちになるのである。

ところが、そんな主人公の足を引っ張ったのが、「(現代)音楽」という「(現代)文化」であった。
主人公は、その原始的な村の生活において、これまでになかったインスピレーションを得て、作曲を始める。傑作になるという手応えを感じたのだ。
しかし、その村には、それを書き留めるノートが数冊しかなく、途中でそのノートを使い果たしてしまい、主人公は焦りを感じる。
そんなときに、その「過去=昔=未開社会」を象徴する村と「近代・現代」を象徴する都会とが、ある方法で直結され、主人公は曲を書き留めるためのノートを手に入れるべく、一時的に都会へ戻ろうと決心する。
予想だにしなかった「直結」を知って、こんなに簡単につながっているのなら、都会に戻っても、すぐにまたこの村に帰って来られると、そう思ったからだ。
ところが、彼のそんな思いを聞いて、途端に女の態度がよそよそしくなる。
「あなたは所詮、違う世界の人なのね」という感じになるのだ。
だが、主人公は、すぐに村に帰ってくるつもりだったから、途中まで書いた作曲ノートを女に託して、都会へと戻っていく。
しかし、実際に都会へ戻ってみると、彼を取り巻く状況は(都会的・現代的に)複雑化しており、村へ帰ろうにも帰れない事態に立ち至ってしまう。
そして、やっとのことで、最初の訪問時と同じように船で河を遡行しようとしたのだが、すでに南米の熱帯雨林は雨季に入っており、河の風景が増水によって一変していた。
そのため、一度たどっただけの村へのルートがどうしても見つけられず、やむなくいったんは引き上げざるを得なくなってしまう。
そして、数ヶ月後、雨季がすぎ、やっとの思いで村に戻ったときには、すでに女は、別の男の妻となっており、作曲ノートも失われていた。
未開の世界に生きる女にとっては、過去の男への義理などはなく、いま愛するものを愛するだけであるし、彼女にとっては、現代の音楽の楽譜ノートなど、何の価値もなかったためである。
つまり、ここで決定的に、二度目の「時間の断絶」が訪れるのだ。
断絶していると思い込んでいた時間が、一度は思いもかけない方法によって、あっさりとつながってしまった。
だから、主人公は、そのショートカットルートを頼って、あっという間に元の世界へと戻ることができた。
そして、すぐまた村へと戻るつもりだったのだが、いざ村への戻ろうとしたときには、すでに「過去の楽園」へのショートカットルートは、永遠に閉ざされてしまっていたのである。
これは、ある意味では、「浦島太郎」の民話に似た物語だと言えるだろう。
ひょんなことから、海の彼方の楽園である竜宮城へ行った太郎は、そこで夢のような楽園体験をしてあと、元の世界に帰ってくる。
ところが、戻ってきた元の世界は元のままではなく、それに失望した太郎が竜宮城へ戻ろうとしたときには、もはやその機会は決定的に失われており、元の世界になど帰らなければよかったと、後悔することになるのである。
ではなぜ、本作『失われた足跡』の主人公であれ、浦島太郎であれは、楽園へと行きながら、そこに止まり続けることなく、元の世界へ戻ったりしたのだろうか?

それはたぶん、人の欲望というものには、際限がないからであろう。
詳しいことは忘れたが、浦島太郎が村への帰ったのは、そこに親などを残してきたからであろう。だから、自分だけが楽園で楽しんでいるわけにはいかなかった。
親だの妻子だのを放り出したままでは後ろめたくて、竜宮城の楽しみも半減したからであろう。
つまり、悪く言えば、太郎は「楽園での楽しみ」と「現世での楽しみ」の、二股を掛けてしまい、その結果、どちらも失うことになったのである。
では、『失われた足跡』の主人公は、どうだったのであろうか?
彼が「二股をかけた」のは、「未開の楽園世界」と「現代音楽に象徴される文化的な近代社会」ということになるだろう。
それを象徴するのが、彼の都会での愛人と、旅の途中で知り合った運命の女、ということになるわけだ。
彼は、「現代音楽に象徴される文化的な近代社会」を捨てて、「未開の楽園世界」を選んだつもりでいたけれど、結局は前者を捨てることができず、二兎を追って、結果としては両方を失ってしまう。
そして、こうした主人公の姿は、たぶん私たちの似姿でもあるのだろう。
インターネットやAIに象徴されるような「便利なもの」を必要としつつ、しかし「ありし日の自然や温かな人とのつながり」といったものをも求めてしまい、その結果、どちらにもそっぽを向かれてしまうのである。
つまり、本作が批判的に描いたのは、そんな「欲深く愚かな現代人の姿」だったのではないだろうか。
一一だが、私の場合は、そうしたテーマ性よりも、前述のとおりで、「時間をかけて遡行したはずの未開社会が、思いがけないかたちで現代=都会と直結してしまう」という、そんな「意外性」の方が面白かった。
その面白さは、言うなれば、本格ミステリ作家・島田荘司の初期代表作のひとつ、『斜め屋敷の犯罪』に似たところがある。
どんなところが似ているのかというと、誰も想像だに出来ない角度から、かけ離れた二点が「直結」するという、そんな意外性だ。

『斜め屋敷の犯罪』のメイントリックは、ある意味ではバカミス的な物理トリックなのだが、この作品の素晴らしさは、作品タイトルが、メイントリックのヒントとなっており、それでいて、同時に引っかけにもなっている点である。
そこがわかっていないミステリファンには、この作品の凄さがわからない。
話を『失われた足跡』に戻せば、この作品の凄さは、いかにも「ラテンアメリカの文学」的な「魔術的リアリズム(マジックリアリズム)」が、一種の「叙述トリック」になっている点なのだ。
読者は、その「文体」に騙されて、ラストの意外な「直結」を予想することが出来ない。また、本作の8割方は、そんないかにも「ラテンアメリカの文学」的な展開となっているのだ。
だが、カルペンティエルは、そのような読み方をするだろう読者の「臆見」の裏をかいて、皮肉な結末をつけたのである。
そしてこのあたりが、「ラテンアメリカの文学」らしくない、西欧的に「理知の勝った」ところであり、またそのあたりで、「本格ミステリ」的だと感じさせもするのである。
柄谷行人は、「カントとマルクスを並べて論じたのは自分くらいだろう」という趣旨のことを語ったが、カルペンティエルと島田荘司を結びつけるなんてトリッキーなことは、世界中で私以外、誰ひとり思いつかないはずだが、さて、いかがなものであろうか?
(2026年6月17日)
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