panpanya 『つくもごみ』: panpanyaの隠し批評性

▷ 書評:panpanya『つくもごみ』(白泉社)


本書『つくもごみ』panpanyaの最新刊だが、昨年(2025年)8月に刊行されたもの。
昨年あたりからはすっかり新刊書店へ行かなくなってしまったために、刊行に気づくのが遅れてしまったのだ。


さて、本冊短編集の表題作タイトル「つくもごみ」だが、これは無論、「付喪神とゴミ」の掛け言葉である。

付喪神つくも神(つくもがみ)とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに精霊(霊魂)が宿ったものである。』

(Wikipedia「付喪神」


さて、本書を読み始めて、私が最初に感じたのは、すっかり「異世界彷徨譚」が無くなってしまったな、ということだった。


もちろん、基本的には「ちょっと不思議な世界」を描いた作品ばかりなのだが、初期作品には時どき登場した「暗く怪しげな別世界」というのが登場しない。
いま流行りの言葉で言えば、「バックルーム」のような、裏側の世界である。


この点については、すでに私も既刊本のレビューで、それが「減ってきた」という指摘はしておいたはずだが、本集からは、もはやすっかりその影をひそめてしまっている。

その事実を典型的にしめすのが、panpanyaのデビュー10周年の企画作品である、「カニに誘われて2」だろう。

「蟹に誘われて」(漢字表記の「蟹」)は、2014年刊行の、panpanyaの第二著作の表題作で、そのオリジナル「蟹に誘われて」は、たしか、一一いつもの主人公の女の子が、住宅地の道路にはいかにも不似合いな大きな蟹(タラバガニ?)を見つけ、これを捕まえようと追いかけたところ、怪しげな地下世界に入り込んでしまった一一という、『不思議の国のアリス』をふまえた「異世界彷徨譚」だったと思う(もしかすると、「おにぎりの転がる町」かも知れない)。

(短編集『蟹に誘われて』の表紙。中央のイラストには、今のpanpanyaの作風との違いが際立つ、暗さがある)

だが、今回の「カニに誘われて2」の方は、前作と同様にカニを見つけて追いかけるのだが、いったんは逃げられてしまう。
そしてそこへ、いつもの眼鏡の女友達がやってきて、なにやらそれらしい理屈はついている「カニ捕獲機(捕獲罠)」なるものをその場に仕掛け、一晩たってそれを見に行ったら、大量のカニがかかっており、主人公の女の子もカニを1杯(1匹)もらって帰る。一一という、お話になっているのだ。

つまり、どちらもあり得ない話ではあるのだが、旧作には登場した、見るからに怪しい「異世界」は新作には登場せず、あえて言うなら、主人公の住んでいる世界の「ちょっと不思議なおかしみ」の方に、力点の置かれた作品になっているのである。

本書を読み終えた後、Amazonのレビューを見てみると、当然のことながら、私と似たようなことを感じている人もいて、「Tommy」氏は、「悪い夢は、もう見ない?」と題したレビューにおいて、本集を全体としては高く評価しながらも、次のように書いていた。

『ただ夢は夢でも、panpanya先生の持ち味でもあった、ページにびっしり描かれて覆い被さってくるような昭和テイストの街並みや、暗くて怪しい地下道などはほぼ登場しなくなり、寝覚めの悪い夢に迷い込んだような世界が見られなくなったのは、少し残念。

子供が怖がって夜トイレに行けないと、PTAから苦情でも来たのか、コンプライアンスが厳しい昨今の風潮に呑まれてしまったのか…単に、作者自身がそんな夢を見なくなった、心穏やかになってきたのなら、喜ばしいことなのだが。次の作品集も、楽しみに待ちたい。』


前半についてはまったく同感なのだが、後半の推理については、「Tommy」氏には悪いけれども、「今どき、その発想は20年以上古い」と思う。
それとも同氏は、わざとpanpanyaの「レトロ趣味」をもじったのか?

ともあれ、今の親世代は、たぶん昭和の御代に盛んだった「悪書追放運動」のことも知らなければ、悪書というものをそもそも手に取ったことがなく、下手をすると、そういうのは全部ネットで済ませた世代かも知れない。
なので、そういう親が「こんな怪しげな本は、子供に読ませられない!」などと言って、版元に苦情の電話を入れたり、教育委員会に通報したりはしないと思うのだ。

むしろ、「私はpanpanyaの作品が理解できます」という「進んだ親・物分かりの良い親」顔をしたがる者の方が多いんじゃないだろうかと勘ぐってしまう。

昔の漫画やアニメに登場した「なんて、お下品な漫画ざまーす!」なんて感じの、わかりやすく「金縁メガネをかけた教育ママ」の方が、カニよりもむしろ絶滅危惧種というか、もう絶滅したんじゃないだろうか。

まあ、それは冗談だとしても、panpanyaの「興味のあり方」が変わってきているというのは、間違いのないところだろう。

それを「洗練」と呼んでいたレビュアーもいて、その評価も間違いではないと思うが、従来の作風が好きな従来のファンからすれば、「Tommy」氏と同様、本音としては「そんな洗練など、クソ喰らえ」といったところだろうし、私自身はそっち派だ。

しかしながら、人の趣味指向や物の考え方が変わっていくのを、他人がとやかく言っても仕方がないので、本稿では、panpanyaがどう変わったのかということ、そして、なぜ変わったのかということを、考えてみたい。

まず言えるのは、かつてのpanpanyaは、「この現実世界」よりも「別の世界」に惹かれていたというのは間違いのない、ということだ。
言い換えれば、「この現実世界」にさほどの愛着がなく、だからこそやむなく、「この現実世界」に存在する、しかし、非主流的に「何気ないもの」に着目することで、それを「別の世界への抜け穴」にしてきたようなところがあったのではないかだろうか。

ところが、だんだんとpanpanyaは、その現実世界にある「何気ないもの」そのものへの興味を強めていき、そこから逆に、むしろそれらの存在する「この現実世界」そのものへの愛着を深めてっていったのではないか。

そして、そうした目で、あらためて「この現実世界」を見てみると、幼い頃、若い頃には「揺るぎないもの」と感じられ、それ故にこそ疎ましくさえあった「この現実世界」が、実は少しずつ変化し、少しずつ何かが失われ続けているということに、気づくことになったのではないか。


例えば、作品集『おむすびの転がる町』や『魚社会』に収録された「カステラ風蒸しケーキ物語」連作で扱われた、実在の菓子パン「カステラ風蒸しケーキ」などが、その最たるものである。
一一あの菓子パンは、その後も生き延びているのだろうか?

だが、仮に「カステラ風蒸しケーキ」が生きのびていたとしても、失われてしまった愛着あるあれこれが他にあるというのは、否定しがたい事実である。
だからこそ、panpanyaの目は、かつての「別の世界」ではなく、「かつて存在した世界」の方にこそ、向けられるようになったのではないだろうか。

本作の表題作である「つくもごみ」は、捨てられたぬいぐるみをめぐる物語で、表題作になるだけなって、とてもよく出来た「感動作」ではある。

だが、その感動作ぶりが、panpanyaらしくないほどにストレートなもので、だから、よくできた感動作であることを認めながらも、そこに引っかかりをおぼえた、古いファンもいたし、私もそれに違和感を共にした。
レビュアー「ひょいほい」氏は、同作に満点の5つ星をつけ、

『相変わらずどの話も面白い。つくもごみは万人受けしそうなひねくれてない話で作者には珍しいタイプの話かも、表題作に選ばれるのも納得の完成度です。』


と高く評価しているのだが、このレビューのタイトルは「つくもごみは万人受けしそう」というものなのである。

たしかに、panpanyaの作風は、昔よりも明らかに「万人受け」の方向に変わっていると思う。「Tommy」氏が指摘した「子供が怯えそう」な暗さやまがまがしさが無くなっているからである。

しかしながらそれは、世間に迎合したというようなことではなく、panpanyaが徐々に、昔の「逃避指向」から「現実指向」へとシフトしてためだと私は思う。

では、なぜpanpanyaは「現実指向」的になったのかと言えば、それは、「この世界ではなく別の世界へ」というベクトルではなく、「失われていくものへの愛着」ということから、それを生み出す「現実世界への批判的な注視」へと、シフトしたからなのではないだろうか。

つまり、本書で扱われる、捨てられる玩具、捨てられる道具、捨てられるペットといったものに対する愛情から、この「消費社会」という現実を、批判的に見つめる視線が強くなっているのだ。


だが、panpanyaの場合は、だからといって、「資本主義消費社会」を否定しようというところまで直裁には政治的になれず、そうした「捨て去られ失われていくものたち」の救済法を、あくまでも「頭の中」で考えて、空想の中で「弔う」という感じになっているように思える。

無論これを、政治的に不徹底だと批判するのは容易だが、しかし考えてみれば、panpanyaという人は、もとから「現実逃避」的な作家だったのだから、いまさら「現実的ではない」と責めても仕方がないとも思う。

そしてそうした意味では、panpanyaは、やはり本質的には、変わってはいないのだ。

panpanyaの、こうした「現在の心理」をよく表しているのが、本書所収のエッセイ「ライブカメラ」(P71〜72)であろう。

これは、昔よく見ていた「風力発電所の風車のライブカメラ映像」の思い出を語ったものだが、その締めくくりは次のようなものなのだ。

『いつしか風車のライブカメラを見ることもなくなっていった
まさかまだ同じような設備で映像を流してはいないと思うけど
もしかして新たな機器にアップデートされて見ることができるようになっているかもしれないと思って調べてみたら
なんと昨年の1月末でもって、風力発電所自体が撤去されていた

自然エネルギーの利用促進の広告塔のような役割で
20年間運用するという計画のもと、稼働していた風車であったらしく期間の満了に伴い、予定通り解体されたのだという
そうでしたか

グーグルマップで中央防波堤を見てみたら
南西側の地名が「和島」となっていた
埋め立てで出来た土地をどこの区のものにするかという問題が決着したことで、新たにつけられた地名なのだという今まさに、最新の景色があるんだろうと思わせるネーミングだ

低画質のライブカメラの映像は、遠い記憶にふさわしい
もう見れないけど

2025年1月31日』


すぐには気づかないかも知れないが、ここで描かれる「風力発電所」もまた、人間に弄ばれ、捨てられた「物」なのである。

本気で自然エネルギーの利用のために作られ、その役目を終えて取り壊されるのならいい。
しかし、この発電所の場合は、最初から「自然エネルギーの利用促進の広告塔のような役割」しか与えられていなかったのであり、その役割さえ、期間限定のもので、「そのほとぼり」が冷めたら、あっさりと捨てられてしまったものなのだ。

原子力発電所のように、活動期間を延長されることもなければ、再稼働されることもない。そんな議論など一切なく、あっさりと廃棄されてしまったのである。

このエッセイには、そうした「人間の身勝手や欺瞞」に対する、静かな怒りや抗議のようなものが感じられる。

「そうですか」「もう見られないけど」という、つけ足されたような短い言葉には、そんな「恨めしさ」が漂っているのだ。

panpanyaは、そうした負の感情をハッキリとした言葉にはせず、むしろ、失われていく物たちの存在を「遠い記憶」として止めることこそが、自分の抗議のかたちなのだと、そう語っているように、私には感じられる。

panpanyaにとって、かつては「この現実世界」が、傲岸なまでに不動のものと感じられ、それで、この世界から「別の世界」へエスケープしたかったのだが、歳をとるに従い、この世界の中に愛おしいものを見つけられるようにもなった。

だがまた、「この現実世界」は、その愛おしいものたちを情け容赦なく捨て去っていく、「非情な世界」であることにも気づき始め、そして何よりも、その一端を担っているのが自分自身であったことにも気づかざるを得なくなった。

だから、panpanyaは、この世界から自分だけが逃げるということが出来なくなり、また正面切って「この現実世界」を非難することもできないと感じて、自らが葬ったも同然の愛おしい物たちを「弔う」、そんな作品を描くようになってきたのではないだろうか。

自分が「ここ」から「どこか」へと逃避するのではなく、「ここ」における責任の一端を担う者として、ここに止まって、「失われたものたちの墓標」としての作品を描くようになったのではないか。

その意味では、たしかにpanpanyaも「大人」になったのである。

それを寂しく思う気持ちは否定できないが、そうした姿勢の変化を、逃避的な懐古趣味ではない、今の社会に対する一種の「批評・批判」を、panpanyaは意識的に担うようになったと、そう肯定的に評価することなら、可能なのではないだろうか。





(2026年6月21日)

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