▷ 映画評:ジョン・カーペンター監督『ニューヨーク1997』(1981年/アメリカ映画)
カルト的な人気を誇る、ジョン・カーペンター監督の代表作のひとつ『ニューヨーク1997』。
本作制作当時としては「近未来」だった、1997年のニューヨーク・マンハッタン島を舞台とした、SFアクションである。

私は昔から、カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982年)が大好きだったのだが、その前年に作られた本作には、ほとんど興味を持つことがなかった。
なぜかと言えば、主演のカート・ラッセルの顔が、あまり好きなタイプではなかったのに加えて、何よりもあの黒いアイパッチ(眼帯)が好きではなかったのだ。
写真などで見るかぎり、カート・ラッセルの演じた主人公スネーク・プリスキンは、コメディ・アクション映画の主人公にしか見えず、私はコメディ映画には興味がなかったからである。

それにしても、アイパッチ姿にコメディを感じるのは、私が子供の頃に見た、アニメなどを含むいくつかの映像作品で、アイパッチ姿の人物は「わかりやすくコミカルな悪役」が多かったためなのかも知れない(例えば、ゾル大佐とか)。
そうしたものの印象が強すぎたせいで、私は本作の主人公スネークのビジュアルに、まったく的はずれな、しかし抜き難い偏見を持ってしまっていたのである。
さて、すでに書いたように本作は、制作された1980年(翌年公開)の17年後である、1997年という「近未来」を舞台にしている。
つまり、空を車が飛び交うような、いかにもSF的な未来世界(都市)が描かれるわけではない。
建物などは、当時の現実のものそのままであり、ただマンハッタン島について言えば、急増した犯罪者を収容するため、周囲を高い壁に囲まれた、丸ごとの「監獄島」(刑務所)と化していたから、道路には廃車などのゴミが散乱するなど、荒廃した都市風景となっている。
だがまた、それだけだと言えばそれだけで、大掛かりな未来的科学装置などは、まったく登場しない。
なにしろ、ベトナム戦争で使われたヒューイコブラ型ヘリコプターや、アンテナの突き出た弁当箱よりも大きいトランシーバーなどが使われているくらいなのである。
本作の翌年には、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』が公開され、そこでは本格的な未来世界が描かれたのだが、そうしたものに比べると本作『ニューヨーク1997』は、制作の前年(1979年)に公開されたオーストリア映画『マッドマックス』(ジョージ・ミラー監督)に近い、「荒廃した近未来世界」を描いた作品だと言えるだろう。
しかし、じつのところそれもこれも、多くの点では、本作が「低予算」という大きな縛りがあったためだったというのは、否定し得ない事実であろう。あまり「壮大な世界観」を描くわけにいかなかったのだ。
だから、それが理由のすべてではないにしろ、本作の大半が「夜間シーン」なのも、そうした縛りを回避するための、策のひとつではあったはずなのだ。
さて、本作のストーリーは次のとおりである。
『1988年、犯罪増加率が400%を突破したアメリカは、ニューヨーク・マンハッタン島を15メートルの巨大なコンクリート壁で囲み、一帯をまるごとアメリカ最大の刑務所とした。そこには終身刑の重犯罪者たちが集められ、週に1回セントラル・パークに投下される食料の配給以外は全て所内の囚人による自治に委ねられていた。
エネルギー危機によって米ソが開戦した第三次世界大戦が終結しつつあった1997年のある日、大統領専用機がテロリストに乗っ取られ、マンハッタン島内に激突墜落させられる。大統領は脱出用ポッドで機外に逃れたが、救助に向かった強行突入部隊が発見したのはこじ空けられたポッドだけであり、大統領はすでに囚人たちによって拉致され、渡されたのは刑務所周辺を警備する全兵力の撤退を要求する囚人たちの要求書と、切り落とされた大統領の指1本だった。
大統領は米中ソの三国サミットへ向かう途中で、サミットでは参加国に対し、戦争の原因であるエネルギー問題を解決する核融合技術に関する発表内容が吹き込まれた録音テープを提示する予定だった。
警察本部長のホークは、元特殊部隊員で叙勲された英雄ながら、武装強盗の罪で終身刑の判決を受け、収監される予定だったスネーク・プリスキンを、放免を条件に刑務所内(※ マンハッタン島)に単身潜入させることを思い付く。
嫌々ながら大統領救出作戦に同意したスネークは、頚動脈に24時間後に爆発するマイクロチップを注入されたうえでサプレッサー付きMAC10などの武器を渡され、グライダーで世界貿易センタービルへ着地すると、大統領を人質に取ったギャングのリーダーや、街に蠢く囚人たちを相手に孤独な戦いを開始する。』
(Wikipedia「ニューヨーク1997」)
本作は、監獄島であるマンハッタン島の中で拉致されてしまった大統領を、元は軍の優秀な特殊部隊員であり、今は極悪犯罪者として終身刑を受けていたスネークが、特命を受けて大統領の救出に向かう、というお話である。

だか、本作を見ると、アクション映画とは言っても、ドカンバカンといった爆発シーンがあるわけでも、大掛かりなアクションシーンがあるわけでもない。
格闘シーンだって、地味にリアルな、殴る蹴るが中心なのだ。
物語の中盤、スネークは娯楽観戦用の「殺人ゲーム」のリングに上げられ、「東洋の怪人」といった風情の(だけど白人の)大柄のレスラーと、釘の打ちつけられたバットとゴミ箱の蓋で、グラデュエーター(剣闘士)さながらの死闘を演じるというユニークなシーンもあるのだが、それとて、特撮的な演出の入ったような派手なものではない。
つまり本作は、アクション映画としては、わりと地味な(渋い?)作品なのだ。

それでは、本作をカルト映画にした、その魅力とは何なのかというと、それはたぶん、登場人物たちの、少々いかがわしいと言ってもいいような、独特にクセのある、しかしバラエティな富んだ、そのキャラクター性にあろう。
当然のことながら、監獄島であるマンハッタン島を舞台とした本作に登場するのは、その大半が、終身刑を受けた極悪犯罪者である。それ以外で登場するのは、スネークを島へ送り込む、非情と言ってもいいだろう警察官僚と、拉致された大統領だけなのである。
つまり「普通の人=一般人」というのは、一人も登場せず、モブに至るまでが犯罪者であり、「普通ではない」のだ。




下は、合衆国大統領:ドナルド・プレザンス 演)
だから、そんな中に登場するメインキャラクターたちは、否応なくそれなりの個性を持っており、それが本作の魅力となっている。
例えば、主人公のスネークは、言うまでもなく「正義の人」などではない。
大統領救出の任務を、嫌々ながらも受けざるを得なかったような犯罪者なのだから、島の犯罪者たちを相手にしての闘いでも、正々堂々と、なんていう気はさらさらなく、みずからの命を救うためだけに、使える手を使って、大統領救出の任務を遂行するだけなのだ。
だが、その「主人公らしくなさ」が、たぶん微妙に魅力的なのだ。
たしかに元特殊部隊員として、きわめて優秀なのだが、当然のことながらそれは、人格の高潔さを意味してなどいない。ただ有能だったから、任務を遂行できただけなのだ。
だが、たぶんそのあたりが、当時の作品としては「新しかった」のであろう。
典型的な正義のヒーローでもなければ、積極的な反逆のヒーローでもない。本来なら自分勝手に生きているだけの男が、嫌々ながら、重大な任務を自分のやり方で遂行していくところに、多くの人が「親近感」のようなものを覚えたのではないだろうか。
個人的には、私は、「高潔なヒーロー」か「反逆のヒーロー」といった、非凡に徹底的なヒーローが好きなタイプだから、本作のスネークには、正直なところさほど魅力を感じない。
だが、例えば、前述の「殺人ゲーム」のシーンに登場してスネークと死闘を演じた、本物のプロレスラーであった、オックス・ベーカーなどは、いい味を出していた。
というのも、彼は当時のプロレスラーらしく、今では当たり前のボディービル的な逆三角形のムキムキ筋肉マンタイプではなく、ごく当たり前の(フランケンシュタインの怪物的な)「強そうな大男」で、しかもそれが、当時のプロレスラーらしく、わざとらしいまでに「猛獣的な怪物性」をアピールする、いつもの(リング上での)泥くさい演技そのままなのだ。

だから、ある意味では、漫画チックで「馬鹿馬鹿しくも幼稚」な感じではあるのだが、しかしこれはこれで、妙な「親しみ」が湧いてきて、このキャラクターにも、このシーンにも、妙な愛着が湧いてしまう。
たとえば、スネークのこの対戦相手が、逆三角形の筋肉ムキムキの(ハルク・ホーガン)タイプだったら、このシーンはずいぶんと味気ないものになっていただろう。
ましてや、今どきのようにCGで作った人型モンスターだったとしたら、そのデザインや動きがいかに優れていたとして、「あっ、そうですか。なるほどね」くらいの印象しか受けなかったはずだ。
本作のアクションは、CGや合成はもとより、ワイヤーワークすら使用しない、形式美化されていない生身のアクションにおいて、かえって味があったように感じられるのである。
そしてそうした魅力は、マンハッタン島のボスと呼ばれる、「いかにも」な感じの黒人ボス・デュークの乗る車が、キャデラック(?)的なひと昔前の高級車でありながら、ボンネットの前寄り左右に「シャンデリア」を(逆さに)設置しているという、何ともユニークなものである点にもにも、よく表れている。

現実には「そんな奴おらんやろ」と思うのだが、しかし、荒廃して、文化的には少し先祖返りしたかのような世界においては、そういう独特な感性も、あり得るものと感じられ、そこがかえってユニークなものとして、親近感や好感さえ覚えてしまうのだ。

つまり本作は、夜のマンハッタン島への潜入シーンなどの要所要所に、低予算とは思えないほどのよく出来たミニチュアワークやマット画などによる特撮(実は、無名時代のジェームズ・キャメロンが特撮スタッフとして加わっていた)などを使用しながらも、しかし人間の登場するシーンでは、作りすぎない生身の魅力をストレートに出しており、そこが本作の魅力なのではないかと、私には感じられた。
で、こうした魅力がどのあたりに由来するものなのかといえば、それはやはり、ジョン・カーペンター監督の「人柄」なのではないだろうか。
単純な正義でもなけれは悪でもない。
そういったところから、数歩ひいた立ち位置にあって、それでも現実にかかわらないではいられないというような、微妙な距離感が、カーペンター監督にはあるように感じられる。

だから、本作のラストで、大統領の身柄と共に無事救出された大切な「録音テープ(カセットテープ)」を、スネークはこっそり別のもののとすり替えて、勝手に廃棄してしまう。
それをしたからといって、スネークには何のメリットもないどころか、バレれば自分の身が危うくなるだけなのに、スネークはそれをせずにはいられなかった。
なぜなら、大統領救出のために、敵味方ともに多くの血が流されたというのに、しかし当の大統領は、それを何とも思っていない様子だったのが、スネークの癇に障ったためである。

たしかに、大統領は、彼を救出したスネークに対して感謝してはいた。
だがそれだって、どこか「当然すべきことをした部下」に対する「ねぎらいの言葉」のようで、「同じ人間」に対する感謝とは感じられなかった。
そのあたりが、スネークには「気に入らなかった」のであり、だから「嫌がらせ」として、戦争終結の帰趨にかかわるかも知れないような大切なカセットテープを、勝手に廃棄してしまったのである。
それでその先、「世界がどうなろうと、俺の知ったことか」という、そんな行動だったのだ。

こんな具合で、本作に登場する犯罪者たちには、どこか「古き良い人間くささ」がある。
特別な「思想」や「正義感」など無いが、人間として「それが欲しい」「それは嫌だ(不愉快だ)」といった、当たり前の感性が生きている。それが、まだ死んではいないのだ。
それをすれば「得か損か」ではなく、それを自分が「したいか、したくないか」で行動してしているという、当たり前な「生身の人間性」が感じられる。
本作には、個性派の名優アーネスト・ボーグナインが、タクシー運転手のギャビー役として出演している。
このキャビーは、スネークの過去の実績をよく知る「スネークファン」として、無償で彼を助ける、気のいい陽気なオヤジである。
しかし、考えてみればそんなキャビーだって、終身刑の重罪犯罪者なはずで、いったいどんな罪を犯したのだろうと考えてしまうし、またその彼が「ここで30年もタクシーの運転手をやってるんだ」と、つまりマンハッタン島が刑務所になる前から、そこでタクシー運転手をやっていたと言うのだが、マンハッタンが監獄島になった後まで、同じようにタクシーの運転手をやっているのは、一体どういうことなのか?
自治区である以上、多少はタクシーの需要もあるにはあるにしても、やはり「不自然」な印象は否めない。




下が、昔スネークを裏切った元同僚ハロルド・“ブレイン”・ヘルマン:ハリー・ディーン・スタントン 演)
つまり、じつは重罪犯罪者であったはずの彼キャビーが、ぜんぜん悪人には見えず、気の良いオヤジとして登場し、そのイメージのまま死んでいくというところに、カーペンター監督の「人間観」というものが、よく表れているのではないだろうか。
人間とは、いろいろあって、潔癖に完璧でなどあり得ないけれど、しかしその根底には「人間らしさ」がなければならない、といったような、そんな人間観である。
だから、本作の主人公であるスネークも、結局のところは、社会的な敗者のままだし、カーペンター監督によって翌年に作られる『遊星からの物体X』の主人公だって、いちおう最後まで生き残りはするものの、その先には人類の絶滅が暗示されていて、その意味では「敗者」なのである。
カーペンター監督の作品には、どこか「敗者」への親近感があり、それに由来する「敗者の矜持」のようなものが描かれているように、私には思える。
だからこそ、どこかで「庶民的な共感」を呼ぶ、人間的な作品になっているのではないだろうか。
本作は「カルト映画」と言われるけれど、しかし、その魅力は、意外に正統派的な「人物造形」にこそあるのではないかと、私にはそのように感じられるのだ。
なお、最近の情報によると、本作は、『300 スリーハンドレッド』や「ジャスティスリーグ」三部作などで知られるザック・スナイダー監督による、リメイクが決まったと言う。
そして、このリメイクにおいて興味深いのが、このリメイク版は、最新技術による豪華なバージョンアップ版などではなく、オリジナルに敬意を表した、原点重視の作りになりそうだ、という点である。
『今回のリメイク版における具体的なプロットは伏せられている。関係者によると、スナイダー監督の長編デビュー作『ドーン・オブ・ザ・デッド』のように、実写特撮やロケ撮影を多用した、より泥臭くリアルな映画を目指しているという。なお、オリジナル版を手がけたカーペンター監督も製作総指揮としてリメイク版に参加する。』
『 注目されるのは、スナイダー監督が狙う方向性だ。「300 スリーハンドレッド」やDCコミックスの大作で知られる様式的で華やかな映像ではなく、出世作のゾンビ映画「ドーン・オブ・ザ・デッド」のように、CGに頼らずロケや特殊メイクを多用した、泥臭く荒削りな手触りを目指しているという。』
だからあとは、オリジナルの持っていた「人間的な魅力」に、どこまで迫れるかということになるだろう。
だが、この点についても、「ジャスティスリーグ」シリーズで、批評家筋からは「暗すぎる」と酷評されながら、それでも自身の美学を貫いたスナイダー監督だからこそ、オリジナルの持っていた、人間的な魅力を、また違ったその個性において、再現してくれるのではないかと、私はそのように前向きに期待しているのである。

(2026年7月7日)
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