▷ 書評:ルネ・ドーマル『類推の山』(河出文庫)
本書は、昔懐かしい叢書「小説のシュルレアリスム」(白水社)から刊行された巌谷國士訳の文庫化である。

叢書「小説のシュルレアリスム」には、澁澤龍彦訳のアルフレッド・ジャリ『超男性』も入っていたから、当然そちらは所蔵していた(例によって、まだ読んではいないが)。
しかし、ドーマルという作家は知らなかったし、澁澤龍彦の友人である巌谷國士については、別にファンだというわけでもなかったから、同白水社版の『類推の山』を買ってはいなかった。
だが、同書が河出文庫に入った際、その表紙を、私の好きなルネ・マグリットの絵が飾っており、これがとても気に入ったので、この文庫版を購入した。一一購入はしたのだが、しかしこれも例によって、積読の山に埋もれさせてしまっていた。
そんな本書を今回読むことができたのは、先日読んだ松山俊太郎の本に、澁澤が本書を好んで読んでいたということと、本書は澁澤の遺作である『高丘親王航海記』を構想するのに参考とされた作品だったという趣旨のことが書かれていたからで、『高丘親王航海記』が「私の長編幻想小説ベストワン」である以上、これは読まないととそう思い、今回ついに読むことができた、という次第である。
(ちなみに、私の幻想小説短編集ベストワンは、中井英夫の『幻想博物館』)

さて、そんなわけで本書についても、中身的にはほぼ事前情報なしで読むことができた。
ただ、本書(河出文庫版)の帯には、
『シュルレアリスムから生まれた珠玉の名作!!』
とあるので、てっきり、まるっきりの「シュルレアリスム小説」なのかと思い込んでしまい、訳のわからない(超現実的に)夢幻的な物語を覚悟して読み始めた。一一と言うのも、私はそういう前衛的な小説を、必ずしも得意とはしなかったからだ。

つまり、澁澤龍彦の愛読書じゃなかったら読まなかった作品だったのだが、『高丘親王航海記』に関わる作品だというのなら「読んでおかねばなるまい」と、そんな気持ちで読み始めたのである。
だが、作品冒頭から、「案外これは、私好みの作品かも」と、そう思わせるところがあった。
それは、第一章の章題部分に、次のような章の概要紹介文があり、その内容が、なんとなく私好みであったのだ。
『 第一章 出あいの章
作者の生活におこった異変一一象徴的な山々一一ひとりの真面目な読者一一長老横町での登山一一ソゴル師一一内部の庭園、外部の頭脳一一知りあう技術一一思考を逆なでにする男一一うちあけ話一一ある悪魔的な修道院一一悪魔役がひとりの器用な修道僧を誘惑におとしいれた次第一一勤勉な<物理>嬢一一ソゴル師の病一一スパイの話一一死の恐怖一一狂おしい心に鋼の理性一一単純な三角測量の問題に帰するばかげた計画一一ある心理法則 』
この文章のどこに惹かれたのか、あらためて考えてみると、それは「異変」「象徴」「内部」「庭園」「技術」「思考」「悪魔」「修道院」「物理」「スパイ」「死」「理性」「三角測量」「心理法則」といった言葉に、澁澤趣味に通ずるものを感じたためであろう。
澁澤龍彦の著書名で言えば、『思考の紋章学』とか『貝殻と頭蓋骨』といったタイトルにどこか通ずる、言うなれば「理系少年の標本箱」的な軽快さを、私はそこを感じたのである。


で、読んでみると、これは「シュルレアリスム小説」と言うよりは、「フランスのナンセンス・ユーモア小説」という感じの方がつよく、思っていたほど「幻想的」な作品ではなくて、かえって読みやすかった。
つまり、「幻想的」じゃないから、つまらないというのではないのだ。
「幻想的ユーモア」に満ちた楽しい作品であり、イデオロギー的に肩肘張った「前衛」作品ではなかったところが、かえって良かった。
なるほどこれなら、コクトー的な「軽さ」を愛した、澁澤趣味だと納得できたのである。
さて、本作のストーリーだが、これはひと言で言えば、本書冒頭に掲げられた次のエピグラフ、そのままだ。
非ユークリッド的にして
象徴的に真実を物語る
登山冒険小説
「非ユークリッド的」とは、ここでは「シュルレアリスム」とは、似て非なるものである。
シュルレアリスムは、基本的には「夢」に代表されるような「融通むげにして非論理的(非ユークリッド的)」なものだと言えようが、ここで言う「非ユークリッド的」とは「論理癖があって理屈っぽいが、その理屈が普通ではない(変なものだ)」というような感じのものなのである。
つまり、シュルレアリスムが「軟質の非ユークリッド的」であるとすれば、ドーマルの、そして本書『類推の山』のそれは「硬質の非ユークリッド的」なのだ。一一だから、澁澤龍彦的だと感じられたのである。
さて、そんな本作のストーリーは、次のようなものだ。
『類推の山』と題する文章を文芸誌に発表した「私」のもとに、数ヶ月後、ソゴル師なる人物から、
「あなたの書かれていた類推の山なるものの実在を、私は承知している。その山の存在を確信しているのは、私たち二人だけだから、一緒にその山へ登る旅に出ませんか。ついては私にお電話をいただきたい」
と、こういう趣旨の手紙が届く。
しかし、「私」の書いた「類推の山」とは、実際の山のことではなく、言うなれば、「山における類推的な象徴としての山」のことだった。つまり、実在はしない。一一しないはずなのだ。
だから、読者から熱烈な手紙をもらったこと自体はうれしかったが、「類推の山」の存在を本気で信じている様子なのには、少々薄気味悪いものを感じないでもなかった。
だが、その一方で「私」自身、この世のどこかに「類推の山」が存在するというような気持ちもどこかしらあったので、ソゴル師と会ってみることにする。
会ってみると、ソゴル師は、万学に通じた人であり、登山家としても超一流の人物であることが判明。
「私」は、ソゴル師と「類推の山」を目指すことにした。

しかし、ソゴル師が言うには、「私が考えるに、天にも達する類推の山は、海の彼方のかなり巨大な島に存在するはずで、そこへの旅は、二人っきりで簡単にできるようなものではない。だから、類推の山が存在するという学術的に論理的な証明を、私が数日中に完成させて、それによって有志を集め、それなりのチームを組んで、類推の山への旅に挑もう」という話になり、「私」もその提案に賛成をした。
そしてその後ソゴル師は、十分に詰め切れてはいなかったものの、類推の山の実在を論証する文章を書き上げ、それによって有志を集めたところ、個性的な面々が集まってきた。
そしてその人たちと、類推の山を目指すための意見交換や打ち合わせが行われた。

その後、何人かのメンバーは、旅の目的に疑義を呈して、類推の山を目指す旅から脱退するものの、ソゴル師と私、そして残ったメンバーは、「不可能号」に乗って、類推の山を目指す旅に出発する。
そしてついに、類推の山のある島へと到着し、その麓にある村へと入るのだが、そこでトラブルが発生して、旅はいったん頓挫してしまうのだが‥‥‥。
といったところで、この作品は作者ルネ・ドーマルの夭折によって未完に終わってしまう。
上の物語のあとには、そうした事情を伝える、妻ヴァラ・ドーマルの「後記」がつき、そのあとには「覚書一一ルネ・ドーマルの遺稿のなかから発見された」と題する覚書がつき、さらに文学上の同士だったA・ロラン・デ・ルネヴィルによる「初版への序」がついて、そのあとに訳者・巌谷國士による「解説」がつく、と、本書はこういう構成になっている。
で、私は、本書を読み進めた際、妻ヴァラの「後記」や作者の遺稿である「覚書」や友人ルネヴィルの「初版への序」は、てっきり、ルネ・ドーマルの「小説の内(一部)」かと思い、面白がって読んでしまった。
作者であるルネ・ドーマルが死んだことになっている、メタ・フィクション構成の作品だと、そう思い込んだのだ。
一一だが、実はそうではなくかった。
ヴァラの「後記」や本人の遺稿である「覚書」や友人ルネヴィルの「初版への序」は、正真正銘の本物であることを、私は、訳者巌谷國士の「解説」により、否応なく知らされたのであった。
どうして私が、そのような誤読をしたのかと言えば、それは本作がそんなことをやりそうな小説だったからに他ならない。
すでに、説明したように本作の中であれこれ語られる「理屈」は、「非ユークリッド的」なものである。
論証がどこかでおかしな方向へとずれてゆき、あり得ない結論に至るような、そんな「反理屈」だったのだ。
だから、この物語自身も、どこかで思わぬ方向に反転してもおかしくはないと、そう感じていたためである。
また、それに私は、この物語をこのまま書き続けても、そううまい着地は困難なのではないかと感じていたので、妻ヴァラによる「夫は死にました」という趣旨の「後記」を読んで、私は「そうきたか。うまくやったな」と、そう思い込んでしまったのだ。
だが、作者ルネ・ドーマルが本作『類推の山』を完成させられないまま若くして亡くなり、それを妻と親友が補足して刊行したという本書成立の経緯もまた、ある意味では本作にぴったりなものであり、まるで「あらかじめ想定されていたこと」ででもあるかのような印象を、私は禁じ得なかった。
なにしろ、本書は、存在しないはずの山を目指す物語なのだから、そもそも、その山に到達できるわけがないのだ。できたとしても、それは普通の意味でのそれではないはずだ。
だから、そうした不可能事を描いた本作もまた、目指された結末には到達できないという結末の方が、むしろ「らしい」ことなのではないかと、現実を知ってもなお、私にはそのように感じられたのだ。
実際、前述のとおりで、本書冒頭のエピグラフは、
非ユークリッド的にして
象徴的に真実を物語る
登山冒険小説
というものだったのだから、この物語は、作者自身の人生を象徴するものでなければならなかったのだし、事実、未完に終わることによって、夭折した作者の人生を象徴するかような物語になったのである。
それに、本作が「作者の人生」を象徴する作品だというのは、そんなイレギュラーな結末に限定されたものではない。
巌谷國士が「解説」で縷々紹介しているとおり、ルネ・ドーマルはその実人生において、若くして芸術上の仲間と出会い、その中からは方針の違いで離脱する者も出、そののち、ソゴル師にあたる導師とも呼ぶべき人と出会って、神秘主義的な高みを目指すことにもなるのである。
だが、このあたりの詳細まで、ここで紹介するのはやめておこう。
興味のある方は、本書の「解説」を読めばいいし、Wikipediaにも簡単な紹介はなされているから、そちらを参照してもらえは良いと思う。
肝心なのは、そうした歴史的事実ではなく、傍目には、どちらかというといろいろ苦労のあったように見えるルネ・ドーマルの実人生だったにもかかわらず、本作『類推の山』には、そうした暗さや重さを感じさせるところがまったく無い、という点にこそあろう。
巌谷國士は、ルネ・ドーマルが同人誌「大いなる賭」の、「天使的」な側面を代表する人であったと紹介しているが、たしかにそんな個性の持ち主だというのが、本書を読んでもよくわかるのだ。
『 ルネ・ドーマル (一九〇八 – 四四)という作家について語るためには、まず、大いなる賭(ル・グラン・ジュ一一熱演、全力投球、あるいはタロットカードの一揃いをも意味する)と名のるグループのことを思いおこしておく必要がある。
これは、一九二〇年代前半の北フランスに生まれ、シュルレアリスム運動の影響下に成長し、一九二八年から一九三〇年にかけて同人雑誌「大いなる賭」を活動の拠点とした若い(※ 十代半ばの)詩人たちのグループで、一九二七年ごろから年長のシュルレアリストたちと交流しはじめ、一時はその集団に吸収されそうにもなったが、一九二九年三月十一日、いわゆる「シャトー・バーの会合」の折に批判され、けっきょく「社会的関心の矢如」のかどで遠ざけられることになったというような事情があるため、一般には、シュルレアリスム運動史に一挿話を提供した傍系、亜流、といった程度にしか知られていない。
けれども、じっさいには、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(一九二四年)よりも前にさかのぼるこのグループの発祥から、ほぼ十年間にわたってつづいた彼らの活動を追いなおしてみるとき、そこにはシュルレアリスムからも他のどんな運動からもはっきりと区別されるにふさわしい、独特の思想の軌跡があとづけられるのである。』(P225〜226)
つまり、一時は、年長組であるシュルレアリスムグループに接近したものの、その反体制的な政治性とは相容れない、個性としての、精神の冒険主義のようなものを、ドーマルたちは確固として持っていた。
そして、シュルレアリスム運動的な「現実変革」には固執しない、明朗かつ楽天的な性格が、ドーマル個人の個性でもあったから、それが本作にも表れているのである。
私は、シュルレアリスムの政治性、つまり「近代理性主義への反発」であり、そこからの「従来の政治性への反発」を否定するものではない。
それはそれとして面白いと評価する立場ではあるのだが、そうしたある種の「暗い力」とは一線を画したドーマルの軽く明るい力にも、私は惹かれずにはいられなかったのだ。
アンドレ・ブルトンに深く傾倒した澁澤龍彦が、しかし晩年には、そうした過激性とは真逆に見えるコクトー的な軽さへと変わってゆき、その果てに『高丘親王航海記』という作品を書いたという事実。
そして、その作品の参考としたのが、本書『類推の山』だったという事実は、私にはとても納得のいくところに思える。
闘いを避けるわけではない。だが、闘い方にもいろいろあって、アンドレ・ブルトン的な「黒い魔術」もあれば、ドーマル的な「白い魔術」もあって良い。
どっちか一方を選ばなければならないということはないと、そう考えるのだ。
では、ここで言う「白い魔術」による抵抗とは、一体どのようなものなのか?
それは、本書『類推の山』を読んで、読者各々に考えていただきたいと思う。
それは、これこれこうと、お教えできるようなものではないのである。

(2026年7月8日)
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