▷ 書評:伊藤昌亮『曖昧な弱者の時代』(岩波新書)
本書の帯には、次のような惹句が刷られている。
「弱者叩き」と「弱者争い」が加速する一一
不可解な現象の〈合理的〉な論理
「弱者叩き」と「弱者争い」一一私はこの両方に、長く関心を持ってきた。
私にとっての「弱者叩き」とは、まず在特会(在日特権を許さない市民の会)などによる在日朝鮮人やその他の在日外国人に対する差別であり、日本の侵略戦争の歴史に由来する従軍慰安婦問題、あるいは、日本国内的なものとしての伝統的な部落差別問題、あるいは、こちらも日本の近代史的な問題である、米軍基地問題などを含む沖縄差別問題、あるいは、アイヌ差別問題。ほかには、生活保護受給者差別問題などなどがあった。
一方、「弱者争い」と聞いて即座に思い出すのは、LGBTQ問題。つまり、女性差別を含む性的弱者でありマイノリティの問題だ。
また最近では、LGBTQ問題とも関連のある、アメリカでの没落中流白人問題と、それの日本版とも言えよう、本書でも中心的に扱われている「新しい弱者」としての、没落中流(ロウアーミドル)階級の問題だろうか。
私にとっての前者は、在特会などの「ネット右翼」による在日差別を除けば、ずっと昔からある積み残された問題であり、後者のLGBTQ問題あるいは広く性差別の問題や、没落した中流の問題は、比較的最近の問題だ。
なぜ、後者が比較的最近の問題と感じるのかと言えば、その問題性が日本において社会的に認知されるようになったのが、比較的最近のことだったからであろう。
もちろん、女性差別の問題意識については、日本においても100年以上の歴史を持つが、それ以外のLGBTQとまとめて呼ばれる人たちの権利というものが認知され始めたのは、まだごく近年のことでしかない。
それまでは、「普通の人」たちからの一定の嫌悪や軽視の感覚をともなった呼称「変態」として、ひとまとめにそう呼ばれていたのだ。
つまり「普通ではない人々=異常な人々」、あるいは「変わっている人々=少数派の人々」と見られてきた。
こうした見方において問題なのは、「普通ではないこと」「少数派」であることが、そのまま「悪いこと」であるかのように思われてきた点であろう。
私に言わせれば、彼らを「普通ではない=異常である」と見ること、「少数者」であると見ること自体は、間違いではない。
当然ここでは、「異常である」という表現が問題になるだろう。
つまり、性的少数者にとっては、「自分たちは、異常なのではない。これは持って生まれた特性であり、その意味で、当たり前なことなのだ。その意味で〈普通〉なのである」と。
たしかに、この意見は間違いではない。
だが、問題なのは、「自分(私)は」という主観視点に立てば、誰もが「普通」だという点であろう。
つまり、「異常」だというのは、普通「多数者」から見た場合の「少数者」のことであるから、性的少数者が、性的多数者から「異常」視されるというのは、論理的な必然であり、良し悪しの問題ではないのである。
だが、こうした「異常」視の問題は、「異常」であることが、何やら「悪徳」であるかのように理解されてしまう点にある。
すべての人間には「個性」があり、厳密に言うならば、同じ人間など一人も存在せず、その意味で、すべての人は「異常」だとも言えるのだし、「普通」とは、ある種の(雑な)幻想でしかない。
しかし、人間は「社会的な動物」の最たるものだからこそ、同類に「同質性」を求める「本能」があり、だから、同質性の高いものを「普通」だと考え、それが「正常」だと考えるようになり、そうでないもの、つまり「異質性の高い存在」を「異常」なものとして、まるでそれが「社会的な悪徳」であるかのように、低く評価するようになったのであろう。
だが、人間というのは誰だって、「かけがえのない私」でありたいのであり、「その他大勢(の一人)」という評価に甘んじることは出来ないはずだ。
「おまえの個性なんて、誤差の範囲でしかないものなんだから、そんなものは配慮する価値など無いものだ」などと言われたら、普通なら「(この私を)馬鹿にするな」と、そのように腹を立てることだろう。
つまり、人は誰しも「かけがえのない個性を持つ(特殊な)私」性というものを大切にしており、当然それは、他者や社会から尊重されなければならないものだと、そう「感じている」。
ところが、これが「他人(自分以外の人)」のことになると、「普通の私という、社会の主流」性を重視して、他者の「個性(特殊性・異質性)」を蔑ろにしてしまう。
「特殊なもの=少数例」を「反社会的な存在」視して(みなして)、それを「悪しきもの」だと否定的に評価し、時に差別排除することも辞さないのだ。
だが、ここまで縷々説明してきたとおり、これはあきらかな、論理的矛盾であろう。
自分については、その「個性(特殊性・少数性)」を尊重せよと要求しておきながら、他人がその「個性(特殊性・少数性)」を主張することは「反社会的」なことであり、つまり「悪」だと否定的に評価したり、またそうすることで、他人の「個性(特殊性・少数性)」の存在を圧し潰そうとする。
そもそも、「普通の日本人」だって、「外国」へ行けば、「少数者(マイノリティ)」なのである。
つまり、自分が外国へ行った時に、「外国人」であるという理由で「人間扱いされなかった」としたら、それは当然、人間扱いにしなかった人たちの方が悪くて、自分が「少数者だから悪い」とは、普通は考えないだろう。
多数派であろうと少数派であろうと、事の良し悪しは「頭数」で決まるものではないと、普通はそう考えるからだ。
ところが、自分が「多数派」に所属する場所においては、一転「多数派に従え。多数派が正義なのだ」となってしまうところが、「大衆」の知的問題点(脆弱性)なのであろう。
私がしばしば「愚かな大衆」「9割のクズ」などという挑発的な表現を用いるのも、それはそうした「普通の人々=多数派」の、認知的な矛盾を指摘したいからなのだ。
「この程度の自己矛盾にも気づけないようなオマエが、一人前の人間だなんて思うな。オマエは猿同然なんだよ。そう言われたくなければ、自身の自己矛盾くらいには気づいて、他人に求めることは、自分も他人に対して為せ」
と、そう言いたいからなのだ。
○ ○ ○
そんなわけで、私のとっては、無論「弱者叩き」も愚かであれば、ましてや「弱者争い」など、狂気の沙汰だ。
「弱者叩き」というのは、自分もまた「弱者=少数者」だと気づくことのできない「馬鹿」がすることであり、「弱者争い」する者というのもまた、同様の意味で馬鹿である。なぜなら、すべての人はもとから「弱者=少数者」なのであり、そのことを承知しておれば、わざわざ他人と争ってまで「弱者」認定してもらおう(してもらわないと損だ)などとは考えないからである。
したがって、そんなことを考える人というのは、長らく無自覚なまま、自身を「多数者」であり、「多数派として、尊重されるのが当然だ」という「偏見(誤った見方)」を持って、無自覚なまま「少数者」を差別してきた人なのだ。
だからこそ、「弱者」の方が「得そうだ」となると、「私も弱者だ!」などと、臆面もなく今さら主張するなんていう、恥ずかしいことが出来もする。
自分たちの、それまでの「多数者性=強者性」を棚に上げて、「弱者・少数者」という「新たな強者」の側に加わろうという、厚かましくも恥知らずな態度。
だから私は、「弱者争い」に参入するような輩を嫌悪し、自分自身は「個人としての強者」である、という立場を採るのだ。
例えば、私が「生活保護」を受けることになったとしても、それは私が「弱い」からではない。私を生きさせないような社会が間違っているからだと考える。
私を助けてくれる社会には感謝するが、私をむざむざ死なせるような社会を容認することはしないのだ。
したがって、そんな私の「強さ」は、多数派に所属するからでもなければ、少数派に属するからでもない。
私は私として、究極の少数派であり、その意味では、仲間のいない弱い存在ではあるけれど、しかし、私は私であることにおいて強者なのだと、そう誇っているのである。
だから、そんな私からすれば、今の世の中は、嘆かわしきかぎり。ひとことで言えば、負け犬たちの「権益奪取合戦」ばかりなのだ。
私が「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆のからみ合い」だと嘆くのも、そういうことなのである。
だが、世の中には、事実として「弱い立場」に生まれてきた人もいる。
言うまでもなく、「生まれ持ってしまった属性」は、そのひと自身に帰責されるものではないのだが、しかし、そのように生まれてしまった以上、否応なくそれを背負わされているのだから、その「宿命」と闘わざるを得ない。
だから私は、そうした意味において、そういう「負性」を、「不公平」にも背負わされてしまった人たちに同情するし、その力になりたいとも思う。
幸運にも、そうした「負性」を免れた私には、その責任があると、そう思えるからである。
そんなわけで私は、長らく「差別」の問題に関心を持ち続けてきた。
私は個人の損得の問題ではなく、それは私が「誇り高き強者」として、引き受けなければならない責務だと感じたからだ。
そしてこれは「ノブレス・オブリージュ(仏: Noblesse oblige)」というものなのである。
私は別に、貴族でも金持ちでもないし、社会的強者でもない。
けれども、自身を、誰にも劣ってはいない誇り高き人間だと考えるから、そうした社会的な責任を引き受けなければならないと感じるのだ。
それをすることが「損だ」などとは、金輪際、考えたりはしないのである。
だが、資本主義経済が社会の隅々にまで浸透してしまった今、ほとんどの人は「損が得か」でしか、物事を考えない。考えられなくなっている。
昔の言葉で「損して得取れ」という言葉があったが、これとても、単なる金儲けのための迂回論などではなく、それ以上に大きなものを想定した言葉だったのだ。
無論、生きている以上、誰だって「損か得か」を考えるし、考えなければ生きては行けないのだが、しかし問題なのは「損か得か、しか考えない」ことなのだ。
私が幼い頃には「ボロは来てても心は錦、どんな花より綺麗だぜ」という「心意気」を謳った歌謡曲があったし、先日亡くなった美輪明宏(丸山明宏)が作詞作曲したヒット曲である「ヨイトマケの唄」にも、こんな歌詞がある。
子供の頃に小学校で
ヨイトマケ(※ 日雇い土工・土方)の子供
きたない子供と
いじめぬかれてはやされて
くやし涙にくれながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
姉さんかぶりで泥にまみれて
日に灼けながら汗を流して
男にまじって綱を引き
天にむかって声あげて
力の限りにうたってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
慰めて貰おう抱いて貰おうと
息をはずませ帰ってはきたが
母ちゃんの姿見たときに
泣いた涙も忘れはて
帰っていったよ学校へ
勉強するよと云いながら
勉強するよと云いながら
日本人は一体いつから、こうした「誇り高さ」や「思いやり」を失ってしまったのだろうか。
そこには、思想の左右には関係のない、人間としての大切なものがあったはずなのに、それが今ではすっかり忘れられて、「私が弱者だ。私が被害者だ。だから私のことを大切にしろ」などと、臆面もなく訴えるようになってしまった。
もちろん、弱者や少数者の権利のために闘う必要はある。私も私なりに、それをやってきた。
だが、そうした「弱者・少数者のための闘い」とは、自分のためではなく、他者のためのものでなければ、どこかでそれは「独善」へと転化してしまわざるを得ないだろう。
人間とは容易に「自己中心的な主観」にとらわれてしまう存在だからである。
○ ○ ○
さて、ここまで私は、本書『曖昧な弱者の時代』の内容については、まったく紹介してこなかった。
本書は、岩波書店の『世界』誌に掲載された、ここ3年ほどの記事をまとめたものであり、いかにも「戦後リベラルの本流」向けという印象のある一冊だ。

言い換えれば、「アイデンティティ・ポリティクス」に明け暮れるような「今どきのリベラル」とは、一線を画した場所から、現状を分析し、いま可能な範囲での提言をした本である。
だから、いささか「高みに立っての物言い」という印象は拭えないものの、しかし、教えられることはたくさんあったし、その意味で一読の価値のある本だというのは間違いない。
だが、本書に、どんなに良いことが書かれていようと、またそこにどんな限界があろうと、そもそも私たち読者個々に、「他者(異質な存在)」を思いやる「力」がなければ、本書著者の見解に、賛成したり反対したりして、それでおしまいになるだけであろう。
本書に学びたければ、本書を読むべきだし、概要を知るだけで良いという人なら、Amazonのカスタマーレビューでも覗けば良い。AIの普及もあって、内容要約が得意なレビュアーなら、いくらでもいるからである。
だが、結局のところ重要なのは、自分はどうなのか、ということなのである、
本書の与えてくれるものを生かすも殺すも、結局は読者個々であり、読者の「力」しだいなのだ。
「弱者叩き」と「弱者争い」という、「弱者の合わせ鏡」の時代に、私たちはその狭間に閉じ込められたままであってはならない。
「脚の引っ張り合い」のごとき、今の閉塞状況を脱するためには、他者の立場を思いやれる「個人としての誇りの力」こそが、必要なのではないだろうか。
事の善悪だけを論じているかぎり、私たちにはもう、この状況からの解放は無いと、私にはそのように思えてならない。
美輪明宏の遺した、
『「こんな世の中を生き抜く武器は愛の言葉しかありません。この世のすべての問題を解く鍵は愛です。愛があれば戦争なんか起こりません』
という言葉を、多くの人は「なにが愛だ。そんなもので戦争が無くなるものかよ」と、本音ではそう思ったことだろう。
だが、美輪が言いたかったのは、たぶん、人の心の根底に、他者への「愛」が無ければ、どんな正義も理屈も、私たちを救いはしないと、そういう意味だったのではないだろうか。
美輪明宏が私たちに「愛」を求めたのは、それは今の時代ほど「愛」の失われた「損得打算」の時代はない、ということであり、そして、このままでは、私たちは自滅するしかないと、そんな厳しい認識を示すものだったのではないだろうか。
我こそは状況が見えているなどと、そんなふうに利口ぶっているうちに、私たちはどんどん破滅に向かっている。
だが、私たちはそんな愚か者であってはならない。
私たちは、私たち自身の「愛を欠いた利口さの愚」に気づかなければならない。
そうでないと、誰が良いの悪いのといった言い争いの果てに、すべてを無駄事に帰してしまわざるを得ないのである。
(2026年7月10日)
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