小泉喜美子 『弁護側の証人』: 連帯保証人の判子を印す!

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▷ 書評:小泉喜美子『弁護側の証人』(集英社文庫)


言わずと知れた歴史的名作」一一だと思ったのだが、最近では必ずしもそうではないらしい。
だが、今でも本作は、読まれるべき傑作であり、読まなければ損な傑作である。

今どきの書評家は、新作ばかりを紹介したがるが、それは、新作に傑作が多いからではない。
新作を紹介しないことには、「商売」にならないからなのだ。

雑誌であれ新聞であれ、あるいはネット記事であれ、仕事としてそうした媒体から執筆依頼が来るのは、当然のことながら、「新作」についての、紹介記事あるいは論評文だ。
稀に歴史的傑作の紹介・解説を依頼されることもあるにはあるだろうが、研究論文的なものの需要がないに等しい今日、それは例外中の例外でしかない。

いくら読みきれないほどの傑作がすでに存在しておろうと、この資本主義経済を回していくためには、とにかく次々と新商品としての新作が書かれ、それが売れなければならない。
賢い読者が、すでに評価の定まった旧作ばかりを、古本やなんかで手堅く読んでばかりいたのでは、作家も出版社も資本主義国家も、あがったりなのである。

だから、翌年には消えてなくなるような、どうでもいいような新作だって、実際以上の宣伝をしてでも売らなければならないから、書評家などの仕事も、おおむねそういうものになってしまう。

また、そんなものしか読んでいないアマチュアが、プロの書評家の真似をして、古典的な作品を押さえないまま、臆面もなく安直に「オールタイムベスト」なんてネット記事を書き、またそれを真に受けるネット読者も少なくない。

そんなことだから、『弁護側の証人』(1963年)なんていう歴史的名作までが、うっかり忘れられてしまったりするのである。

(1963年刊行の初版)

さて、そんな傑作である『弁護側の証人』を、なんで今さら読んだのか?

それは、本作が歴史的名作であることを知っていながら、じつのところ長年読み逃していたからである。

もう40年も昔、紅顔の美少年(あるいは美青年)だった私がミステリを本格的に読み始めた頃、私は『東西ミステリーベスト100』(文春文庫・1985年度版)という本を選書の助けとし、同書に載っている、国内・国外(翻訳)ミステリそれぞれの「ベスト100」を、すべて読もうと考えた。

(1985年にアンケートが実施され、翌年暮れに刊行された「1985年度版」)

だが、そこに載っている作品だけでも、ある程度読んでくると、自分の好みというものも徐々にわかってきて、好みではなさそうな作家の作品や、同じミステリだとは言っても、あまり好みではない冒険小説やハードボイルドなどの作品は避け、ベスト100にはランクインしていなくても、好きな本格ミステリ作家の、別作品を読むようになる。
また、好きな作家の好きな作家にも興味が出てきて、そっちに手を出すということもし始める。

そんな具合で、おのずと読む本が、当初の目標であった『東西ミステリーベスト100』の「ベスト100」作からはどんどん遠ざかってゆき、結果として、今に至るも読み落とした「ベスト100』作品もいくらか残ってしまった。
つまり、そうした本の一冊が、本書『弁護側の証人』だったのだ。

しかし、「本格ミステリ」である本作に関しては、(小)ジャングルとしては当初から興味があり、読むつもりでもいたから、これまで何度か購入してもいるのだが、その時々に読みたい新刊を優先することで後回しとなり、そのたびに積読の山に埋もれさせるということを繰り返してしまったのだ。

なぜ、そうなったのか。
その一因は、著者が女性だったからである。

別に女性作家が嫌いなわけではないのだが、(少なくとも40年前当時は)一般に、男性作家の方がオタク性(マニアックさ)が強く、女性作家は物語性が強いという傾向があって、前者が好きな私は、女性作家に苦手意識があったのだ。
だから、作品としては「本格ミステリの傑作」だと知っていながらも、どうしても本書を後回しにしてしまったのだと思う。

ところが先日、いま最も注目すべき女性ミステリ作家・芦沢央の新作短編集『あなたが正しくいられたとき』を読み、芦沢が噂どおりの素晴らしい作家だと感心して、同書のレビューをアップしたところ、その記事のコメント欄に、「もりもり食べるぞ」氏から、次のようなコメントをいただいたのである。

『芦沢央で最初に読んだのは「いつかの人質」(角川文庫)
小泉喜美子の「弁護側の証人」で、真相がズバリと書かれた伏線に唖然としましたが(トリックとか犯人は誰だとか、そういう事を一切考えずに読むので尚更)「いつかの人質」もそれに似た伏線が見事なミステリです。』



これを読んで、私は「まずい…」と思ったのだ。

もちろん、いくらミステリマニアだったからと言って、ミステリの傑作をすべて読んでいるわけではないし、読んでいないのが恥ずかしいことだとも思わないが、読んでいなければ「お話にならない」ということも、事実としてある。

ミステリ小説であれ、純文学小説であれ、それらは、いくらかなりとも過去の名作を踏まえた上で書かれているという点では、同じことなのだ。だから、読んでいないことには、十分には楽しめない新作だってある。

文学的な「教養」とは、自慢するためにあるのではなく、作品をより深く楽しむためにこそ、必要なものなのである。

だから、「もりもり食べるぞ」氏が書いていらした芦沢央の『いくつかの人質』を次に読もうとまでは思っていなかったものの、いくつかは芦沢作品を読むつもりになっていた私は、その前に『弁護側の証人』くらいは読んでおかなくてはと、この機会をとらえて読むことにしたのであった。

ちなみに、『東西ミステリーベスト100』には、1985年度版と2012度版があって、ミステリ初心者だった私が参考書としたのは前者であり、後者はすでにミステリマニアになったあとのものだ。
だから、後者の「ベスト100」には、私が新刊として読んだ作品も少なからずランクインしていた。綾辻行人京極夏彦などの「新本格」系の作品などが、まさにそうである。

で、肝心の『弁護側の証人』は、1985年度版で「40位」、2012度版では「59位」とランクを落としている。
だが、この国内ベスト100は、大雑把に言って、明治以降(遅く見積もっても、大正12年の江戸川乱歩二銭銅貨」以降、半世紀以上)の日本ミステリのオールタイムベストなのだから、「40〜59位」だといっても、それはただごとではない順位だ。
例えば、年間ベスト1作品だって、今となっては、ベスト100に残れない作品が大半だと見て、まず間違いない。

たしかに、こうしたベスト作品選考のイベントでは、どうしても新しい作品の方が有利で、それは「感動の記憶が新しい」ということもあれば、新しい作品は「古い傑作を踏まえて書くことができる」といったこともあるからだ。
例えば、昔の傑作が「一発大トリック」だったのを、それを踏まえて「連発大トリック」にするといった工夫が可能なのである。

だが、トリックを「そのまま」パクるのはルール違反だから、その点で真似しようにも真似しきれないところがあるから、いくら類似の作品が出てきても、傑作であり続けることのできる作品というのもあり、本作『弁護側の証人』もまた、そうした「古びない傑作」の一つだったのである。

(2007年刊行の「集英社文庫」版)

ところが、こんかい私が手にとった「集英社文庫」版は、2009年の初版なのだが、この版の解説者である道尾秀介は、次のように書いていて、私を驚かせた。

『 誰でもたいてい「秘密の場所」というものを持っている。子供であれば、金網の隙間を抜けて入る小さな空き地、マンションの地下駐車場にある死角、使われなくなった海辺の倉庫など。大人になるとそれが、流行らない喫茶店や静かなショットバー、女の子のいるお店一一は別の意味で秘密の場所だが、そういったものに変わる。
『弁護側の証人』は、僕にとって秘密の場所だった。ある人に勧められて一読して以来、誰にも教えたくない一冊だった。年配のミステリーファンの中では有名な小説だが、なにぶん昭和三十年代に書かれた作品なので、同年代の仲間内ではタイトルが挙がってくることなどほとんどない。絶版になっているから、見つかる可能性も極めて少なく、誰かとオススメ・ミステリーの話になっても、知らないふりをして安心していられた。もしかしたら、僕だけでなく、他にも同じような人がいたのかもしれないが。
 そんな『弁護側の証人』が、このたび集英社文庫で復刊されることになった。はっきり言って僕はがっかりしたし、僕と同じような隠れファンもみんながっかりしたことだろう。大事にしてきた秘密の場所に、いきなり「ココです↓」と看板を掲げられるのだから当然だ。
 だが、見つかったからには仕方がない。もうやけくそ半分で、できるだけたくさんの人に読んでもらいたいと思う。とくに、口コミカのある若い世代に。おそらくこの小説は、どの世代の誰が読んでも素晴らしい作品だろうから。』(P253〜254)


道尾秀介は、2005年にデビューした、1975年生まれの作家である。
つまり、私がミステリマニアとして、同時代にそのデビューを立ち会ったミステリ作家の一人であり、年齢は私よりひと回り下だ。
だから、道尾秀介がミステリマニアとして一所懸命にミステリを読んでいた頃には、すでに『東西ミステリーベスト100』の1985年度版は、入手難になっていたのであろう。だから、本書『弁護側の証人』も、いったんは忘れられた作品になりかけていたのだ。

だが、最初に書いたとおり、本作は「歴史的な傑作」だし、その「あっと驚く大トリック」は、今も古びていない。

事実、私自身、本作が大どんでん返しのある作品だと承知して読んだにも関わらず、そのあまりに見事な手際によって、完全に騙されてしまった。

種明かしがされるまで、まったくそこに仕掛けのあったことに気づけなかったし、さらに言えば、種明かしがされた後も、それがあまりにも意外な仕掛けだったから、しばらくは、私自身の読み落としによる錯覚なのかと、そう自身を疑ってしまったほどだったのである。

そんなわけで、本作のトリックについては、ここではいっさい明かさない。

だが、本作はもう間違いなく「古びない歴史的傑作」なのだから、是非とも読めと、そう強く強くオススメしたい。

本作は、作者に「まんまとしてやられた!」という本格ミステリの痛快さとその醍醐味を、ストレートに味わわせてくれる作品だと、私もここで、その連帯保証人に名を連ねておきたい。



(2026年7月11日)


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“小泉喜美子 『弁護側の証人』: 連帯保証人の判子を印す!” への2件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    小泉喜美子はミステリー論集「メイン・ディッシュはミステリー」で
    ・いわゆる「本格」が絶対的な形式ではない。
    ・ミステリーは泥臭くてはいけない。読者の前
     に送り出されるからには美しくなければなら
     ない。
    と主張しています。「何を書くか」ではなく、「どう書くか」を重視し、クリスティ文庫「そして誰もいなくなった」で赤川次郎が定義した’知的で粋な娯楽’を書き続けました。
    (赤川次郎の解説は日本のミステリ作家全員に読んでもらいたい。「何を書くか」に汲々としている作家があまりにも多いので)
    一般的には「弁護側の証人」一作で知られていますが(翻訳の代表作は「女には向かない職業」ですね)中公文庫で短編集が二冊出ています。
    「痛みかたみ妬み」
    「殺さずにはいられない」
    どちらも良い作品集です。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    > (※ 小泉喜美子は)「何を書くか」ではなく、「どう書くか」を重視し、クリスティ文庫「そして誰もいなくなった」で赤川次郎が定義した’知的で粋な娯楽’を書き続けました。
    (赤川次郎の解説は日本のミステリ作家全員に読んでもらいたい。「何を書くか」に汲々としている作家があまりにも多いので)

    こうした議論は、戦前、甲賀三郎と木々高太郎の間で交わされた「探偵小説芸術論争」以来、たびたびくり返されてもので、今更な話なんですが、ミステリ作家になる人にはミステリオタクが多いから、どうしても「本格以外はミステリではない」とか、「とにかく本格は尊い」なんていう強迫観念を持っている人が少なくないんですよね。

    でも、結論から言えば、面白い小説であるのならジャンルなんてどうでもいいし、ヘタでもジャンル小説ならありがたいというのなら、そんなものは小学生でも書ける、ということにしかならないはずなのです。

    私も「本格ミステリ」ファンではありますが、だからといって、ヘタでも本格であるだけでありがたい、とは思わない。
    そんなことを考えるのは、世間の狭い、無能な盲信者でしかないからだと思います。

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