谷川嘉浩/朱喜哲/杉谷和哉 『ネガティブ・ケイパビリティで生きる 答えを急がす立ち止まる力』:「学者は批判に開かれている」のだそうだから。

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▷ 書評:谷川嘉浩/朱喜哲/杉谷和哉『ネガティブ・ケイパビリティで生きる 答えを急がす立ち止まる力』(さくら舎)


見てのとおり、本書は3人の著者による鼎談本である。
だが、著書名の並びが五十音順ではないのは、言論出版界における「知名度による序列」のせいだと思われる。

本書の刊行は2023年2月10日で、収録された鼎談は、前年の2022年に何度かに分けて行われたもののようだが、興味深いのは、本書末尾の「著者略歴」である。


私が今回の読んだのは、2025年6月11日付けの「第5刷」発行分なのだが、この版の「著者略歴」は、初版時のものとは違い、その後に刊行された著書名などが付け加えられ、改訂されているのだ。

例えば、朱喜哲の主著である『人類の会話のための哲学』(よはく舎)は2024年の刊行なのだが、この版の「著者略歴」にはしっかりと追加されている。
やはり、学者にとって、著書の刊行というのは、見えやすい実績として重要だということなのであろう。


ともあれ、さすがに版によって著者名の序列が変わることはあり得ないので、たぶん本書初版(第1刷)刊行の段階で、谷川嘉浩が他の2人より、出版・読書界においては「有名」だったということなのであろう。

じっさい私自身も谷川については、初の一般向けの著作で第3著書の『スマホ時代の哲学』を、刊行された2022年の段階で読んで、知っていた。
たぶん、それなりに話題になった本だったのであろう。


それに対し、朱喜哲の名を知ったのは、つい最近のことである。
ネット上で名前くらいは見かけていたはずなのだが、その名を意識し、その著書を初めて読んだのは、つい1週間ほど前のことにすぎない。
文芸評論家の与那覇潤が、朱喜哲に関する「note」記事を書いており、それを読んで興味をもったのだ。


朱喜哲の著者を読んでみようと思った理由は、朱が、日本のキャンセルカルチャーの代名詞である、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に、賛同署名者として参加しており、さらに昨年話題になった「令和人文主義」の有力メンバーの1人と目される人物だとも知ったからだ。


私は前々から関心のあった、武蔵大学の教授でフェミニストの北村紗衣との関係で、北村紗衣当人はもとより「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下、オープンレターと略記)についても、たびたび論難してきた。


また、後者の「令和人文主義」についても、以前読んだことのある谷川嘉浩の唱導する「文化的動向」として興味を持ち、これも何度か論じてきた。



つまり、朱喜哲の名は、「令和人文主義」を論じる際に参照した「令和人文主義」関連note記事などでも見かけてはいたはずなのだが、オープンレター署名者とは知らなかったので、特に注目もしなかったのだ。
(谷川嘉浩と朱喜哲の二人は、SNS「note」の利用者である)。


だが、前述のとおり、つい先日、朱喜哲が、「令和人文主義」関係者であるばかりではなく、オープンレターの署名者であると知って、俄然興味が湧き、早速その著書を読んでレビューを書いた。


そして今回は、その朱喜哲と谷川嘉浩の「令和人文主義」コンビが、私としては初めて知る人物・杉谷和哉を加えて刊行した本書『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』を読むことにしたのである。


ちなみに本書は、谷川嘉浩の名前が最初に記されているだけではなく、谷川の主導によって作られた本である。
したがって、本書での谷川嘉浩の扱いは、以下のとおりで「別格」なのだ。

まず、本書のタイトルに見える「ネガティブ・ケイパビリティ」というのは、谷川嘉浩の名を一般に知らしめた著者『スマホ時代の哲学』で、その必要性が語られていたものだった。
だから、おそらく『スマホ時代の哲学』が売れたので、それにあやかるかたちで、本書では、字面的にもインパクトのあるを「ネガティブ・ケイパビリティ」をタイトルに冠し、それをめぐってあれこれを3人で論ずるというかたちの本にしたのであろう。

また、本書の鼎談は3回に分けられているのだが、谷川嘉浩による序文である「はじめに」とはまた別に、鼎談各回の冒頭には、谷川による「イントロダクション」が付されおり、そこではその回の方向性の、谷川による「提案」が示されている。

つまり本書では、じつに多様な今日的文化や社会現象が扱われてはいるが、そうした問題を通して語られるのは「だから、ネガティブ・ケイパビリティこそが大切なのだ」と、これに尽きるものとなっているのだ。

 ○ ○ ○

さて、いろいろ書きたいことも多いのだが、ぜんぶを書いていては長くなりすぎるので、できるだけ手短に論じていこう。

まず、最初に言っておけば、本書は、英詩人ジョン・キーツに由来する言葉ではあるが、こと日本の読書界では、もっぱら谷川嘉浩の紹介によって知られることになった、「ネガティブ・ケイパビリティ」の必要性を訴えるものとなっている。

前述のとおり本書では、じつに多様な文化・社会現象が扱われているのだが、それらのすべてが、谷川嘉浩当人によって、かなり強引に「ネガティブ・ケイパビリティの必要性」という結論に結びつけられている。

何もそこで「ネガティブ・ケイパビリティ」に結びつけなくても、といった事柄についても、「だからネガティブ・ケイパビリティが大切(重要)」なのだと、そう結論づけられるかたちになっているのだ。

しかしそのせいで、これは谷川嘉浩が、自分の提案したキーワードである「ネガティブ・ケイパビリティ」を、広く世間に流行らせようとしたもののようにしか見えない。
そこまでしなくても、本書は、普通に文化現象を論じ合う鼎談ということで十分だったような内容だからである。

しかしまた、こう書くと、私のこの見方が、谷川嘉浩に対する「邪推」にすぎると感じる人もいるだろう。
だがそれは、本書を読んでいないからであって、読めば、谷川嘉浩信者以外の多くの人には、きっと納得してもらえるはずである。

善意に解釈すれば、タイトルに「ネガティブ・ケイパビリティ」を冠した以上は、それが中心概念と見えるように強調しなければならないと考え、なかば無理やり「だからネガティブ・ケイパビリティが大切」というまとめ方を繰り返したのかも知れない。一一と、そう言えないこともないが、それにしたって、やはり谷川嘉浩の手つきには無理がありすぎだし、くどすぎるのだ。

なお、説明が遅れたが、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、決して難しい概念ではない。
要は、「(認知的な)苦痛に耐える力」というほどの意味のもので、谷川の著書としては「結論に飛びつかずに、粘り強く考え続ける力」というほどの意味だ。

このように、概念的には何も難しい話ではないし、誰だって理屈としては納得できるところでもあろう。
だが、スマホの普及による過剰接続・情報過多の時代にあって、物事をじっくりと考えることが困難になっている現状があればこそ、谷川は、タイパ指向的に「結論に飛びつくのではなく、粘り強く考え続ける力を持たなければならない」と、そう提唱しているのである。

しかしながら、哲学(書)においては「結論に飛びつかずに、粘り強く考え続ける力」というのは、言うなれば「自明の前提」でしかない。

そもそも、哲学とは「物事を、その前提から疑ってかかり、徹底的に考え抜く」という営為なのだから、その意味ですべての哲学は「結論に飛びつかずに、粘り強く考え続ける力」つまり「ネガティブ・ケイパビリティ」を自明の前提としている。
したがって本来ならば、哲学関連書において、わざわざ言うようなことではないのだ。その程度のことは、言われなくても実践している人が、哲学書を読むはずなのだ。

だから本書のように、あの話題にもこの話題にも強引なまでに結びつけて「だから、ネガティブ・ケイパビリティって大切ですよね」などと、しつこく確認するようなことでもない。最初に一度断っておけば、それで十分な話なのである。

だがまた、そんな不必要なことを、くどいほどにやっているからこそ、本書は、他の2人をアリバイ的に巻き込んだ、谷川嘉浩の「自家宣伝の書」という印象を、強く与えるものとなっている。

例えば、谷川は19ページにもわたる「はじめに」で、縷々「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要性を訴えている。
例えば、こんな具合だ。

『 学校、政治、家庭、企業の中で目立った成果を上げるには一一その小さな世界で「一番」になるには一一こうした積極的で素早い情報処理や実践が有効でした。しかし、ネガティヴ・ケイパビリティは、こうしたことを徹底して遠ざけようとします。』(P5)


しかし、「はじめに」の後半では、こうも書いている。

『 この本で私たちが行っているのは、教育、情報技術、政治、データビジネス、倫理・哲学、陰謀論、ファシリテーション、アニメ、ドラマなど、通常は別個に扱われるさまざまな分野の出来事やトピックを重ね合わせ、その相似性を明らかにしつつ、現代社会の潮目や変化を読み解き、それに対する処方箋を考えていく対話です。』(P17)


安易には「解答を出さない」はずの本が、ここでは「処方箋を考えていく」となっている。
さすがに、そこらのビジネス書のように「処方箋を出す」とまでは豪語してはいないが、「処方箋」とは、そもそもひとつの「解釈的結論」を含意するのだから、「ネガティヴ・ケイパビリティ」を強調する本書には、いかにも不似合いだ。

また、こんなふうにも書いている。

『「闇の自己啓発』(※ という、別の著者たちによる座談会本)を引き合いに語った(※ 本書における)「思考の共犯者」「思考の共犯関係」とは、互いの足場となってパフォーマンスを高めてくれる関係性のことです。思考の共犯者となって対話する私たち三名は、互いにとって、自分の問題解決能力をはるかに凌駕する成果を上げるのに欠かせない足場なのです。
 浮世離れしていると見られやすいアカデミアの人間が、現実社会とがっぷり四つに組みながら、この時代や社会の本質へとじりじり迫り、そこに必要な力としてのネガティヴ・ケイパビリティの輪郭を描き出していく知の饗宴。そこで展開される議論は、流れを加速させる社会において(※ あえて)「よどみ」を作ろうという提案でもあります。』(P19)



そもそも、哲学書というのは、真理に『じりじりと迫』ろうとする営為なのであって、だからこそ哲学書は、素人には「しんどい・面倒くさい」本であることが多いのだが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」を強調する本書においても、『パフォーマンスを高め』『成果を上げる』ためには、一人でうんうん言いながら考えるのではなく、3人でわいわい言いながらやった方が「効率が良い」ということが、ここでは語られている。
一一しかしながらこれは、普通に考えて、自己矛盾なのではないだろうか?

また、自分たちの鼎談を指して、臆面もなく『知の饗宴』と表現してしまえるところに、谷川嘉浩という人の、「売り込み屋」的な性格が端なくも露呈していよう。
とうてい「ネガティヴ・ケイパビリティ」なんてことを称揚するような人の言葉とは思えない、「慎重さ」や「謙虚さ」を欠く言葉なのである。

まあ、もっとも、本書を喜んで読むような読者は、こうした「細かい言葉づかい」になど気の回らない「せっかち(いらち)」な人たちなのであろう。

つまり、「ネガティヴ・ケイパビリティも結構だし、パフォーマンスが高いのも結構、知の饗宴も大いに結構だ」というような、大雑把な人が多いのであろうが、しかしそれではあまりにも「ネガティヴ・ケイパビリティ」を欠いているとは言えまいか。

実際、谷川嘉浩本人もこう書いている。

『「ネガティヴ・ケイパビリティ」に、そういう押しの強さはありません。「消極的能力」と訳されることもあるほど、押しの弱い能力だからです。ミスマッチな言葉の組み合わせで面白いですよね。「ケイパビリティ」(能力)という言葉には積極的なニュアンスがあるのに、それが「ネガティヴ」(消極的)と結びついている。
「押しの弱い能力ってどういうこと?」という疑問は当然浮かぶでしょう。しかし、この言葉のニュアンスを理解することは難しくありません。ネガティヴ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えておく力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからないままに留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう。
 これを読んだ途端に、「へぇ! 大事なことやんか」と即座に結論づけた方もいるかもしれませんが、そう単純には行きません。(※ なぜなら、その人は)日々の仕事の中で、友人関係の中で、家庭でのやりとりの中で、こうした「ネガティヴ・ケイパビリティ」を養い、発揮するだけの余裕を失っているかに思えるからです。』(P2〜3)


ネガティヴ・ケイパビリティって『ミスマッチな言葉の組み合わせで面白いですよね。』などと、押しつげがましく同意を求められても困るのだが、谷川嘉浩とは、こういう言葉づかいで読者を巻き込んでいく、むしろ押しの強い人なのであろう。

だが、私が言いたいのは、『ネガティヴ・ケイパビリティも結構だし、パフォーマンスが高いのも結構、知の饗宴も大いに結構だ』と、雑に感心してしまうようでは、「ネガティヴ・ケイパビリティ」が無さすぎて、ダメだということなのだ。
そうした結論に飛びつく前に、

「待てよ、この谷川嘉浩の物言いって、調子よすぎて、言ってることと矛盾してやしないか?」

と、そう立ち止まって考えてみるべきだし、そうした態度こそが、谷川嘉浩の訴える「ネガティヴ・ケイパビリティ」なのだ。

読者は、谷川嘉浩の調子のよい言葉を鵜呑みにするのではなく、むしろ疑ってこそみるべきであろう。

言い換えれば、私の谷川嘉浩や本書に対する、この慎重な態度こそが、谷川嘉浩その人が望んだはずの、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の発露、そのものなのである。

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あとの二人の著者についても、できるだけ簡単に触れておこう。

まず先に、今回初めて知った杉谷和哉という人だが、なにしろ、私がまったく評価しない谷川嘉浩や朱喜哲の二人と仲良くに鼎談をやっているような学者なのだから、どうせ谷川からのお座敷がかかって大喜びで馳せ参じ、二人にお追従でも並べているのかと思いきや、一一そうではなかった。

杉谷和哉の本書における立ち位置は、私に言わせれば、「本書の良心」ということになる。

つまり、語っている内容も誠実で納得のいくものなら、何よりも重要なのは、他の二人に迎合してはいない、という点である。

露骨に反論をするわけではない。だが、「そうですね、まったく同感です」「鋭いご意見ですね」などと、この手の(知名度において権力勾配のある)対談・鼎談・座談会などによくあるような「媚び売り」をしておらず、むしろ「しかし、こういう側面もありますよね」といった、角の立たないかたちではあれ、他の二人の意見に、やんわりと注文をつけているのである。

例えば、そんな杉谷和哉は、こんな言葉を口にしている。

杉谷 カルト陰謀論が閉鎖的だという(※ 村上春樹)の(※ 考え方)は、いかにも私たちが受け(※  入れ)やすいストーリーだなと思いました。もっと言うと、「俺たち(※ 3人)」が受け入れやすいストーリーですね。
谷川 ああ、なるほど。学者とか作家がね。(※ われわれの方は)現実に開かれてるし、批判や修正に開かれている(※ だから、カルトや陰謀論とは違う)と思うことができる。
杉谷 「俺は政策の研究者だけど、朱喜哲とか谷川嘉浩みたいなすごい気鋭の哲学者ともこうやって対等に(※ 自由に)議論できてるぜ」って感覚を得られている身からすれば、村上春樹のような話は(※ そうした立場の保証ともなるから)ものすごくありがたいですよね。つまり、「俺がカルト化してない証拠だよね、これ(※ この自由さが)」と言えてしまう。カルトのナラティヴが閉鎖的だと批判し、自分たちを開放的なコミュニケーションの側に位置づけることで、何か免罪符を(※ 自身の側に)与えている。その点で、村上春樹のその議論は(※ 自己正当化的な)危ういところがあるなと思います。(※ すなわち、カルトや陰謀論とはちがい、本当にわれわれは開かれていると言えるのかと、一度はそう疑ってみる必要性がある)』(P81〜82)


ここは、村上春樹の「カルトや陰謀論は閉じているが、作家は開かれている(自由である)」という考えを、売れっ子作家らしい、いささか楽天的な差異論ではないかと、そう批判しつつ「しかし、村上春樹的な議論に同調しがちなわわれわれ学者も、本当に批判に開かれているのか、ということを反省しなければならない」と語っている部分なのだ。
無論ここで問題となるのは、「」書きの中の、

「俺は政策の研究者だけど、朱喜哲とか谷川嘉浩みたいなすごい気鋭の哲学者ともこうやって対等に議論できてるぜ」って感覚を得られている身


という部分である。

これは、学者は、知名度などを含む、各種の「序列」などに関係なく自由に語り合え、その意味で批判に開かれている、ということを強調する意味で語られている部分であって、『朱喜哲とか谷川嘉浩みたいなすごい気鋭の哲学者』の部分は、二人への「おべんちゃら」として語られているのではない。

そうではないのだが、勘繰るならば、「おべんちゃらではなく語っているように見せかけた、おべんちゃら」だとも取れるし、またそれとは真逆に、谷川嘉浩や朱喜哲などのポピュリズム学者に対する「皮肉」だとも取れよう。
だがまた、ここだけではなんとも言えない(決定不可能な)ところではあろう。

だが、本書の後半では、杉谷なこんなことも言っている。

杉谷 「(※ その場の支配的な空気に呑み込まれかねない、状況に対して)相対化された視点を持つ(※ 批評的な)人がその場にいない(※  ので、人々がその場の状況を相対視し得ない)ときどうするんですか」という谷川さんの(※ 朱さんへの)問題提起は重要ですね。それにもう一つ言えるとすれば、今の私たちに(※ そうしたありがたい存在が)望めなくても将来の人たちが今の私たちを相対化してくれるかもしれない。中曽根康弘が、「政治家は歴史法廷の被告である」と言っていて、彼の性格を考えると格好つけでもあるとは思うんですが、(※ この言葉自体は)いい言葉だとも思うんです。
 政治家じゃなくても(※ 学者もまた)歴史に裁かれる面がある、ということですね。
杉谷 そうです。「私のことは後世の人が判断する(※ だから、それに恥じない言動をしなければならない)」という視点をどれくらい持っているか、今の人がこの言葉にどれだけ応えているかというと微妙なところだと思います。「歴史が裁く」というのは、裁かれるのは先だから今何やってもいいという(※ やり逃げの)逃げ口上にもなりうる危険な論理ではあるけど、やはり見逃せない手がかりの一つがここ(※ 歴史的審判者の存在という認識)にあるのも確かだな、(※ と、お)二人の話を聞いていて思いました。』(P215)


これは、その場の論調を「相対化してくれる人がいればありがたいが、それはなかなか難しいからこそ、ネガティヴ・ケイパビリティのような自己抑制が大切だ」という谷川と朱の議論に対する、杉谷の言葉だ。

たしかに、今ここには、私たちを相対化してくれる人はいないかもしれない。けれども、将来なら、私たちの立場や肩書きに忖度しない人が出てくるだろうし、そうした人たちによって「歴史の法廷で裁かれる」ことにもなるだろうとそう考えれば、その場かぎりの、調子のいいことばかり、無責任に語ってなどいられないはずだから、私たちもそのつもりで、あとで人に笑われないよう、責任ある誠実な言葉を心がけなければならない。一一と、おおよそ、そうした意味である。

そして、こうした考えをする人ならば当然、「今の知名度」など、何ほどの価値があるのかと、そう考えているであろうことも、容易に推察できよう。

つまり杉谷和哉は、谷川嘉浩や朱喜哲の「人気」などというものは、じつは屁とも思ってはいないということであり、

『「俺は政策の研究者だけど、朱喜哲とか谷川嘉浩みたいなすごい気鋭の哲学者ともこうやって対等に議論できてるぜ」って感覚』


なんてものも、揶揄・嘲笑の対象でしかない、ということになるのである。

で、そこに気づけば、杉谷がこういう人であるという証拠は、他にも見つかる。

なんと杉谷和哉は、「保守派の論客」として知られる佐伯啓思とつき合いがあり、佐伯を敬愛していると言うのだ。つまり、佐伯の弟子筋と言っても良い。
だからそれでは、軽薄な「令和人文主義」の二人と、本質的なところでスタンスが違うというのも、むしろ当然のことなのである。

谷川 私的領域では外側から干渉できないので、そこだから(※ こそ)育める関係や言葉があるわけですよね。それはいい意味でも悪い意味でも(※ そうなんです)。(※ しかし)ハラスメントの問題を考えると、「(※ 内閉的な)秘教性って大事ね!」という(※ ような)素朴な話にはできない厄介さがあるわけで。
杉谷 そこなんです。ただ、そこには(※ それでも否定しきれない大切な)何かがある。これは私の実感の話でしか言えないんですが……。たとえば、私が仲良くさせていただいている思想家の佐伯啓思先生という方がいらっしゃるんです。よくいろんなところに一緒に出かけるのですが、あの方は、まさに秘教的道徳の人ですね。本人も(※ 秘教的な思想家として知られる)シュトラウスが好きなんです。少人数のやりとりって、師弟の関係というか、師匠の背中を見て学ぶみたいな世界なんですね。佐伯啓思というと、右翼の大論者と思っている人も多そうですが、目下の人間もちゃんとフェアに扱ってくださいますし、あらゆる面で極めて真っ当な方です。もちろん、際どい物言いもないわけじゃない。ただ、ある一面をもってその言説すべてを否定するのは愚かしいと思っています。』(P163〜164)


ここでは語られているのは、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」問題にも関わる、「私的空間≒秘教的世界」の問題だ。

歴史学者の呉座勇一は、公的空間であるTwitter(現「X」)上で喧嘩になった北村紗衣について、自身の「鍵アカウント」という私的空間内で北村の陰口を言い、それが北村紗衣にリークされた結果、そこでの発言を「女性差別的なものであり、社会的に許されるべきではない言動だ」として告発したのが、件のオープンレターであり、そこに朱喜哲も参加していたのだ。

本書での議論は、「私的な空間」というのは、人間にとっては、是非とも必要なものだ、ということが、朱喜哲も含めた3人の共通了解として語られている。
その上で、しかし「私的な空間だからと言って、なんでも許されるというわけではないが」と付け加えられ、最終的には「単純な結論をつけにくい難しい問題だ」と、ここだけはハッキリと、ネガティヴ・ケイパビリティ的なところに止まっているのである。

ちなみに、杉谷和哉には、次のような言葉もある。

『これは、二〇二一年に亡くなられた法哲学者の那須耕介先生が、私に言ってくれたことなんですね。学者というのは、「先生、先生」と呼ばれてちやほやされて、アウトリーチ(※ 学外、一般向け)活動だって無邪気に(※ 先生扱いを喜んでしまうことにも)なってしまう。でも、そこは無自覚になってはいけない。(※ 自らを引き締めなければならない)』(P147)


こんな人が、谷川嘉浩や朱喜哲を、どう見ているかは、もはや明らかであろう。

だが、だからと言って、そうした人たちを真正面から批判して、相手にもされないという事態まで惹起する、というようなことはしない。
そこは紳士的に対話する、というのは、いかにも「正統保守」らしいところで、私のような「過激派」とは大いに違うところでもあれば、私としては物足りなさを感じさせられる部分でもある。

と言うのも、杉谷和哉はたしかに良いことは言っているのだが、そうした言葉が、結局のところはすべて、谷川嘉浩が意図した「ネガティヴ・ケイパビリティの権威づけ」の道具として回収されてしまっているのではないかと、そう感じるからだ。

つまり、杉谷の意図するところはわかるが、それが大半の読者には伝わらないし、その意味で、読者には不親切な、我ひとりが孤高清潔を保っているのきらいがあるように感じられるのである。
一一杉谷さん、ご意見はいかが?

さて、最後は、朱喜哲であるが、これは朱喜哲の著書を論じたレビューにすでに書いたとおりで、所詮は、口先だけの男である。

つまり、谷川嘉浩にしろ朱喜哲にしろ、言っていることは、まったくもって正しいのだが、ただそれだけ、なのだ。

二人とも、よく勉強はしているし、それを適切に語る頭もある。
特に谷川などは、本当に目配り広く、よく本を読んでおり、それをあらゆる問題について、適切に対応させて見せるという、非凡な頭の良さがある。

だから、彼らの語っていることそのものは内容的に正しいし、立派な意見でもあるのだが、いかんせん、ご当人がこの意見に、釣り合っていない。

「ネガティヴ・ケイパビリティ」の強調だって、現実問題ついての体のよい責任回避にしかなっておらず、むしろそちらこそが本音だというのが透けて見えるし、「令和人文主義」が批判されたのも、そうした偽善的な性格を見透かされたためなのである。

したがって、笠井潔流に言うなら、谷川嘉浩や朱喜哲のやっていることとは、

理屈なら、なんとでもつけられる


というレベルのことでしかないのである。

だから私も、ご意見としては拝聴するし、参考にもさせてもらうが、それを言っているご当人たちには、軽蔑しか感じない。

言ってることとやってることが乖離しており、しかもそのことをご当人は百も承知でありながら、そのことを恬として恥じない、そんな自称「哲学者」など、軽蔑するしかないだろう。

私は、文学作品を論じても、必ずと言って良いほど、作品論ではなく、作家論になってしまう。
なぜそうなるのかと言えば、それは多くの場合、私の興味の中心は、作品そのものではなく、作品を通して見えてくる、作者の人物像の方にこそあるからである。

だから、いかに立派そうなことが書いてあっても、「こいつ、ぜんぜん本気じゃないな」と感じれば、そんな作品はまったく評価できないし、むしろその矛盾乖離を批判することになる。

逆に、書いていること自体は、凡庸であったり、むしろ世間的には否定的に見られるようなことであったとしても、そこに著者の「誠実」を見れば、私はそこをこそ高く評価する。

例えば、杉谷和哉が言うところの、佐伯啓思の『際どい物言い』といったものも、その意図を理解しておれば、簡単に「ダメなものはダメ」だと片づけるわけにもいかなくなるのである。

そして、そのようなところまで読み込むことこそが「文芸批評」だと、私はそう思っているのだ。

杉谷和哉の言うとおりで『ある一面をもってその言説すべてを否定するのは愚かしい』とは、私も思う。
だから私は、谷川嘉浩や朱喜哲の語っていること(言葉)自体は、否定しない。
なかなか良いことも、面白いことも語っていると評価する。

だが、谷川嘉浩や朱喜哲その人については、人間的にも学者的にも、評価はできない。
平たく言えば、そのありきたりな「俗物性」が、評価になど値しない理由なのだ。

例えば、「断固として悪と戦え」と言っていた人が、真っ先に「悪に媚びるような人」だったら、いくら「言っていたこと」が正しくても、尊敬することなんか不可能だし、軽蔑するのもやむを得ないのではないだろうか?
一一それと同じことなのである。

ともあれ、朱喜哲に関して言えば、対談したこともある、在野学者の荒木優太から、

『朱喜哲さんはそろそろご自身も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括するべきだと思う。』


と言われたとおりで、自身が問われている「過去の行状」について、そろそろ自己総括すべきであろう。



そうでないとそれは、時間稼ぎの時効(風化)待ちとしか考えられず、その「言論人にあるまじき言行不一致」は、もはや否定しようのないものとなってしまうからだ。

数日後には、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人の一人である、河野真太郎専修大教授との対談イベントをなさるそうだが、そこでオープンレターに関する総括をすれば、「口だけ男」だなどと言われるどころか、ぐっと男も上がるはずだ。



しかしながら、傍目に「朱喜哲先生には、それは難しそう」なのであれば、対談ショーに立ち会ったファンの皆さんは、是非とも朱先生の応援団として、先生の背中を、押して差し上げていただきたい。

つまり、「客席からの質問」として、

「お二人は共に、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の関係者として、一部に批判を浴びながらも、それについてはこれまでずっと沈黙を守っておられますが、一体どうお考えなのか、ご意見をお聞かせください」


と、そんな質問を、遠慮なくぶつけて差し上げるべきだ。

なにしろ本書でも語られていたとおりで、「学者は批判に対して開かれているべき」だと、朱喜哲先生ご自身もお考えなんだから、何も遠慮することはない。

「あえて空気を読まない人、空気に染まらない人がいるとありがたいが、そうした人はなかなかいない」と、朱先生もおっしゃっていたのだから、その読者や学生の諸氏は、そうした朱先生の期待に応える存在であるべきであろう。

『 僕が心掛けているのは、ビジネスパーソンとして新しく学ぶ会社の言葉遣いとか、ビジネスにおける常識とは馴染まない、その人がもともと持っていたもの(※ 価値観や正義感)を尊重することです。その人がもともとやっていた大学での研究だとか、サークルや生い立ちからくる知見だとか、一人一人生身の人間として抱く感覚、これってなんか不思議だ、変だ、ちょっと怖いといった感覚を失わずにいることです。「変にすれた人間にならない方がいいよ」という話を(※ 僕は)よく(※ 人に向けて)するんです。』(朱喜哲・P199〜200)


無論、先生ご自身は、ダチョウ倶楽部のコントよろしく、「押すなよ! 絶対に押すなよ!」とおっしゃるかもしれないが、それは形式的な遠慮にすぎないのだから、その意をこそ汲んで、その背中を、どーんと押して差し上げることこそが、本当の思いやりなのである。



(2026年7月12日)


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