杉井ギサブロー監督 『銀河鉄道の夜』: 死者は誰か?

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▷ 書評:杉井ギサブロー監督『銀河鉄道の夜』(1985年)


杉井ギサブローという名前を初めて知ったのは、まだ私が幼かった頃のテレビアニメ『悟空の大冒険』(1967年)においてであったと思う。

しかし、なにしろ子供のことなので、普通はスタッフの名前など気にしていないはずなのに、どうして、監督名としてテロップされていた杉井の名前に目を惹かれたのかというと、それはたぶん、「杉井ギサブロー」の「ギサブロー」というカタカナ書きが珍しく、それで目立ったからではないかと思う。「変な名前」だと。

しかしながら、それだけなら、しばらくすれば忘れてしまったはずなのだが、これもその後の話だとは言え、子供の頃に熱心に視ていたNHKの人形劇『新八犬伝』(1973〜75年)のスタッフに、人形師「辻村ジュサブロー」の名前を見つけたからであろう。

私は長じてからも、辻村ジュサブローの人形には惹かれ続け、写真集を買ったりしていたのだが、そんな辻村ジュサブローとの関連で「昔どこかで、似たような名前の人がいたなあ」と、なかば両者を混同するようなかたちで、ずっと頭の片隅に残っていたのである。

杉井ギサブローの名前をあらためて意識したのは、たぶんご多分に漏れず、テレビアニメ『タッチ』(1985年)においてであったと思う。
しかしながら、私はそれ以前に、この作品の原作マンガである『タッチ』(1981〜86年)や、そのほか『陽あたり良好!』(1980〜81年)、『みゆき』(1980〜84年)などの、あだち充のマンガを読んでいたので、アニメ版『タッチ』の作画には物足りないものが感じて、わずか数回視ただけだったと思う。

私が読んだあだち充のマンガに、『ナイン』(1978〜80年)が入っていないのは、私は基本的に、リアルな野球フィクションには、興味がなかったからだと思う。

つまり、アニメの『巨人の星』『侍ジャイアンツ』などは喜んでみたのだが、それは野球ものとしてではなく、あくまでも超人的な主人公の活劇物語として楽しんだのではないかと思うのだ。

だが、あだち充の野球は、そっち系ではなく、リアルな(高校)野球マンガだった。
だから、あだち充の「野球」マンガには、あまり興味が無かったのであろう。

端的に言えば、私があだち充のマンガに求めたのは、主人公である若い男女の微妙にすれ違う恋愛模様の部分だった。
だからこそ、キャラクターの絵面的な魅力も重要だったのだが、原作の絵に比べると、アニメの絵は(近年かなり改善されたものの)、やはり「硬い」という印象があったのである。

で、『タッチ』以降に杉井ギサブローの名を意識したのが、本作『銀河鉄道の夜』であった。


本作『銀河鉄道の夜』は、『タッチ』と同じ年の作品なのだが、杉井の作品として意識したのは、『タッチ』よりも、いくらか後だという印象が強い。
ということは、公開当時、本作にほとんど注目していなかったということかもしれない。

1985年といえば、私は当時23歳である。
私は、『宇宙戦艦ヤマト』で自覚的なアニメファンになり、1978年発刊のアニメ専門誌『アニメージュ』を創刊号から買っていたアニメファン第一世代なので、当然のことながら、本作の存在くらいは、公開当時から知っていたはずだ。

しかし、私は社会人になる時、テレビアニメの鑑賞と読書という二つの趣味を両立させるのは、時間的に無理だと考え、読書を優先させた結果として、テレビアニメを視るのを止めてしまっていた。
また、それに合わせて、『アニメージュ』誌の購入を打ち切ったのが、1981年頃のことだと思う。

そんなわけで、テレビアニメは見なくなったのだが、その例外として、鑑賞時間がおよそ2時間以内におさまる劇場用アニメは、気になるものだけ見ていた。
また、『アニメージュ』誌も立ち読み(!)はしていたから、たぶん本作『銀河鉄道の夜』の公開くらいは知っていたはずなのだが、劇場で見た蓋然性は低いと思う。

その頃にはすでに、私はこの長編アニメの原作が宮澤賢治による同名小説であるというのは承知していた。
なぜなら、それより以前に、『宇宙戦艦ヤマト』と同じ松本零士原作のアニメ『銀河鉄道999』に大きな影響を与えた作品として、原作の『銀河鉄道の夜』の方も、タイトルはだけは知っていたためだ。

いま、昔の読書ノートをひっ張り出して調べたところ、私が原作の中編『銀河鉄道の夜』を含む、宮澤賢治の短編集を読んだのは、1990年であることが判明した。
つまり、アニメ版の公開より5年も後で、アニメ版に関係なく、宮澤賢治の代表作品集として読んだのだと思う。


したがって、今回以前に一度、初めて本作を見たのが、劇場であったのかテレビ放映であったのか、その記憶は定かではないものの、こうした事情を勘案すれば、ほぼ間違いなく、劇場公開では見ておらず、数年遅れてテレビで見たものと思われる。
そのため、『タッチ』より後だという印象が形成されたのであろう。

ただ、いずれにしても、初めて鑑賞した際の印象は「なかなかよく出来た作品」という程度のものだったのは、確かだ。

つまり、「すごい」とか「好き(とても惹かれる)」とかいうのではなく、「丁寧に作られた、完成度の高い、良心的な作品だなあ」という、いささか退いた視点からの醒めた評価に止まったのである。
だから、あえて採点するなら、87点といったところだろうか。

そのため、本作は「私の好きなアニメ」に名を連ねることにはならなかった。

そして、そんな本作『銀河鉄道の夜』を、今回、NHKの「Eテレ」でテレビ放送されると知って、ひさしぶりに見ることにした。


前回見た時と違っていたのは、私が、杉井ギサブローの、アニメーターとしての仕事について、多少の知識は得ていた、という点である。

私は昨年末から今年前半にかけて、「虫プロアニメラマ三部作」である『千夜一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』を鑑賞していたからである。
ちなみに、この三作のなかで、今回初めて鑑賞するのは『哀しみのベラドンナ』だけであったのだが、これらの作品に、杉井ギサブローは、アニメーターとして参加していたのだ。


この三作の監督は、当時の(第1次)虫プロを代表するアニメ監督・山本暎一である。

山本暎一と言えば、『宇宙戦艦ヤマト』の監督として知られる人だが、『宇宙戦艦ヤマト』という作品は、倒産した虫プロのスタッフの多くを引き継いで作られた作品だったのだ。
そのため、富野喜幸(富野由悠季)安彦良和といった、虫プロ出身者が多く関わっていたのである。


さて、肝心の杉井ギサブローだが、彼は「アニメラマ三部作」以前に、すでにテレビアニメにおいては監督業を務めている。
前述の『悟空の大冒険』(1967年)と『どろろ』(1969年)がそうだ。

この2作は、私も子供の頃に見てどちらも熱中した作品だが、のちには私がその固有名を意識して熱心なファンになる出崎統が、演出に関わった作品として、改めて意識されることにもなる。
言うなれば出崎統は、杉井ギサブローの下で、演出家としての腕を磨いた人なのだ。


ともあれ、虫プロの命運を賭けた初の大人向け劇場用アニメ『千夜一夜物語』が制作された当時、杉井ギサブローはすでに演出家としての経験を積んではいたのだが、虫プロの創設メンバーである山本暎一ほどの立場にはなかったせいか、監督(演出)ではなく、主にアニメーターとして原画にかかわったようである。

ちなみに、1940年生まれの杉井は、山本の同年か8つ下(諸説あり)。二人より年下で1943年生まれの出崎統も、原画でかかわっている。
いずれにしろ、当時の虫プロのスタッフは、みんな若かったということである。

さて、この『千夜一夜物語』において、原画アニメーターである、杉井ギサブローが注目されたのは、作中のベッドシーンにおける「エロティックなイメージ表現」においてであった。

当時は(今もそうだろうが)、いくら劇場版だといっても、露骨なベッドシーンなどは描けなかった。
しかし、この作品はアダルト向けのエロティックさが売り物であり、目玉の部分でもあったので、露骨な描写が出来ないのなら、抽象的なイメージ表現で、ということになったのであろう。

そして、そのシーンを託された杉井ギサブローは、エロティックな球体関節人形で知られるドイツの造形作家ハンス・ベルメールのそれを参考にして、頭のない抽象化された肉体による性交描写としてそれを表現し、そのシーンがフランスなどの海外で、高く評価されたのである。


そこで、杉井ギサブローは「エロティック描写に、独特なセンスのあるアニメーター」として、『クレオパトラ』や『哀しみのベラドンナ』でも同様のシーンを託されることになるのだが、一一『千夜一夜物語』のDVDに付録されていたコメンタリーで、山本暎一か、同作の作画監督であった宮本貞雄かのどちらかが、

「杉井ギサブローというと、今では『タッチ』や『銀河鉄道の夜』の監督のイメージが強いけれど、それとは違って、アニメーターとしての彼は、独特のエロティックな感性があったんだけど、そういうところ(ギャップ)も、表現者の面白いところですね」

一一というような、興味深い指摘をしていた。

それで、私はかのシーンを担当したのが、杉井ギサブローであったことを知ると同時に、その点について興味を持ったのである。

つまり、たしかに『千夜一夜物語』のエロティックシーンと、『タッチ』や『銀河鉄道の夜』には、相互に共通する「個性」のようなものを見出せない。
だが、だからこそ、杉井ギサブローの本性(個性)とは奈辺にあるのかと、そういうふうな興味を持ったのである。

そんなわけで、今回『銀河鉄道の夜』を再鑑賞することで確認したかったのは、そのあたりのことなのだ。
杉井ギサブローという演出家の「個性」は、いったい奈辺にありや、ということだったのである。

一一で、結論から言えば、杉井ギサブローという人は、やはり、自分一個の個性で、どんな作品も染め上げてしまうという(作家性の強い)タイプの演出家ではないようだ(その点では、出崎統とは違うタイプだ)。

言い換えれば、杉井ギサブローは、扱う作品自体の「個性」を最大限に引き出そうとする職人タイプの演出家であり、自分を強く押し出す作家タイプではない、ということである。

そのため、比較的、仕上げた作品に当たり外れが少ない反面、杉井ギサブロー個人の「個性」は前面には出てこない、と言うか、むしろそれは抑制されている。
だからこそ、良くも悪くも個性的ではないのだ。

原作としての、小説やマンガ作品を映像化する演出家には、実写映画であれアニメ作品であれ、2つのタイプがある。

それは、原作をベースにしながらも、それを映像化するにあたって、自分の個性で作品を染め上げてしまうタイプと、原作の個性を最大限に引き出し、原作の良さを再現しようとするタイプ。この2種ということである。

そして、この2つのタイプには、それぞれに一長一短がある。

前者の、演出家としての個性を強くて打ち出すタイプは、原作と演出家の個性がうまく噛み合えば、その化学反応によって、原作をも凌駕する素晴らしい作品になるのだけれども、その相性が悪ければ、原作の良さを殺すだけの凡作におわってしまうことも珍しくない。
つまり、商業アニメの多くがそうであるように、演出家が原作を選べないとすれば、作品の出来に、当たり外れのギャップが生じてしまいがちなのだ。

一方、後者の「原作を生かす」タイプの演出家は、前者のような「当たり外れ」は少ないかわりに、化学反応を起こすことも少ないから、突き抜けた傑作を生むことも少なく、コンスタントに及第点を取る、そこそこの優等生的演出家にもなってしまいがちでもある。

つまり、杉井ギサブローは、明らかに後者のタイプであり、しかしその中では、自身のタイプを自覚した上で、良心的にその限界を乗り越えようとしたタイプなのだと、そのように評価できるだろう。
例えば、東映動画(現・東映アニメーション)系の演出家である、りんたろうなどもこのタイプである。


ではなぜ、杉井ギサブローのことを、凡庸な優等生タイプではなく、それを乗り越える努力を常に自身に課した、良心的な演出家だと評することが出来るのかといえば、それは杉井ギサブローに、次のような発言があるからである。

(1)『自身が監督した映画について、「見終わった後、後へ残す映画と残さない映画があると思うんです」と指摘して、『銀河鉄道の夜』については、「見た後で何時までも、あれ何だったんだろうと残るものがある。解決していないことに意味がある」と語る一方で、『ストリートファイターII MOVIE』については、その対極にあるとして、「後味がさらっと、見終わったら何も残さない、カラッとした娯楽」と語っている。』

(Wikipedia「杉井ギサブロー」


(2)『30歳を境に映画の作り方が変わったと明言しており、それまでは、演出家のイメージが描かれた絵コンテを、制作現場がどこまで再現できるかが重要であると考えていたが、関わるスタッフや制作の状況によって映画作りは変化していくものであり、変化することは悪いことではないと考え直し、『銀河鉄道の夜』を制作して実感した経験から、脚本や絵コンテは決定版ではなく一応の(仮)に過ぎず、企画時にプロデューサーと監督が定めたコンセプトから逸脱しない限り、制作する現場のスタッフたちによってイメージを流動的に変えて行く方が、結果として熱気を帯びた生きた映画に繋がると語っている。また杉井は、この作り方は実写映画に起こりがちで、アニメの制作現場ではやりにくいとしながらも、完成した場面には関わった人間の想いが込められるため、ある種の魅力が形作られるとして、完成された破綻の少ない映画よりも、多少の破綻を帯びた映画の方が、熱気を帯びて人を感動させられるのではないか、という気持ちを強く持っていると述べている。』

(Wikipedia「杉井ギサブロー」


つまり(1)では、自身が「個性」を打ち出すタイプの演出家ではないという自覚の存在が窺える。そうだからこそ、いろんなタイプの作品を、それに合わせて演出できるのだ。
作品を自分に引きつけて演出するのではなく、自分を作品(原作)のほうへ寄せていくタイプだとの自覚である。

一方、(2)の言葉は、スタッフの仕事を自分の個性の下に完全にコントロールしようとするのではなく、スタッフ個々の個性を生かし、やる気を持たせるようにする。そうすれば、そのスタッフの担当した部分には、そのスタッフ個人の情熱が宿り、そうしたものが寄り集まって、作品を非凡なものにすると、そういう考え方だ。

アニメーターとしての杉井は、演出家の意図を最大限に実現しようとして頑張ったが、しかし、監督になってスタッフ全体を見渡した場合、そういうやり方では、モチベーションを保てないスタッフもいることに気付いたのであろう。言われたことだけを、無難に「こなす」というタイプである。

だが、それでは、その部分は「当たり前」以上のものにはならない。
では、どうすればいいのかと考えたときに、あえて任せる、裁量の範囲を広げて、やる気を出させる、という冒険を試みたのであろう。

それは、自分一人の力で、すべてを捩じ伏せてしまうようなタイプでないとの自覚が、杉井にあったればこそで、それならば、スタッフのクリエイターとしての自負と自覚に働きかけて、そのやる気を引き出し、そうしたスタッフ個々の力を借りない手はないと、そう考えるようになったのであろう。

つまりそこには、自分は自分一個の個性だけで押し通して、傑作を作れるタイプの演出家ではないという、謙虚な自覚があり、だからこそ、サラリーマン的な「無難に何でもこなす」演出家になるのが嫌なら、スタッフの力を最大に引きだし、その総合力で勝負する演出家になろうと、そう考えたのではなかったろうか。

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そんなわけで、本作『銀河鉄道の夜』も、そうした、スタッフの力を最大限に結集して作られた佳作である。

まず最初に言えることは、本作は、何よりもまず原作の魅力を、非常によく「再現している」ということだ。

主人公であるジョバンニカンパネルラを、漫画家ますむらひろしの描く「擬人化された猫」にしたことについては、当初、関係者の間で賛否が分かれたようだが、結果としては、大成功していると言えるだろう。

『主要登場人物を人間ではなく擬人化した猫として描いた設定は、ますむらひろしがアニメ版のもとになった漫画化に際して施した脚色である。賢治の実弟である(※ 著作権継承者)宮澤清六は当初これに反発したが、『校本宮澤賢治全集』の編集者である天沢退二郎らの説得により了承。最終的に作品の仕上がりを評価した。研究者の間では最後まで「猫」への擬人化を了としない向きもあった。これはますむらの著書『イーハトーブ乱入記』(ちくま新書)に詳しい経緯が記されている。なお、漫画版ではズボンに靴まで履いていたのに対して、アニメ版では上着だけと衣服の着用は最低限度なものになっている。』

(Wikipedia「銀河鉄道の夜」


ではなぜ、原作どおりに「人間」として描かなかったのかと言えば、それはたぶん、映像作品である本作の場合、ジョバンニとカンパネルラを人間として描くと、かえってイメージが限定されすぎると、そう考えたからではないだろうか。


原作は小説なので、ジョバンニやカンパネルラの外見などは、読者がそれぞれにイメージするから良いのだが、映像化作品ではそれを、特定の外見を持つキャラクターとして、限定的に表現するしかない。
だがその場合(つまり、「人間」として描くと)「私のイメージとは違う」という、違和感を生みやすい。

だから、原作では具体的には描かれていなかった外見の部分においては、むしろ当たり前に(自動的に)「人間」の姿を与えて限定するのではなく、「擬人化した猫」というリアルになりすぎないキャラクターでワンクッション置いた方が、イメージを限定しないからこそ、多くの人に違和感なく、『銀河鉄道の夜』の独特な世界に入ってもらえると、そう考えたのではないだろうか。

つまり、この選択には、

・原作の世界観を生かす(イメージを押しつけない)

・ますむらひろしの「擬人化された猫」という、リアルとアンリアルの中間をいく、ユニークなキャラクターの長所を、適切に利用する

といった、これは「他者の才能」を生かすという、杉井の演出論の反映だと言えるだろう。

しかし、本作には例外的に、「人間」のキャラクターが登場する一章がある。
旅客船事故で死んだ姉弟(かおる子とタダシ)とその家庭教師が登場するシーンだが、この海難事故を描く回想シーンは、タイタニック号の沈没事故を参照してリアルに描いたため、実在した事故被害者を猫として描くことには抵抗もあって、あえてここだけは「人間」のキャラクターで描いている。


『本作にはタイタニック号の沈没をモチーフとしたエピソードが登場するが、(中略)この歴史的な惨事に配慮して、船舶事故のシーンのみ猫の世界ではなく人間世界に起きたこととしてリアルに描かれており、ジョバンニらと旅をともにする青年と幼い姉弟も人間の姿となっている(漫画版ではジョバンニ達と同じく猫として描かれていた)。青年(※ 家庭教師)は、ますむらひろしの代表作『アタゴオル』シリーズの登場人物を基にデザインされている。』

(Wikipedia「銀河鉄道の夜」の「映画」の項目)


このように、相応の理由があっての、人間キャラの登場だったのだが、しかし、正直なところ、この三人の人間キャラクターは、ますむらひろしの『アタゴオル』シリーズの人物を下敷きにしてデザインされているにもかかわらず、どこかアニメ版『タッチ』の絵柄を思わせるところがあり、いささかの苦笑を禁じ得なかった。


猫キャラで統一していれば、そういうことも無かったはずなのだが、本作『銀河鉄道の夜』は、テレビシリーズ『タッチ』と同時期に制作されており、作画スタッフが共通していたために、一種の「描き癖」的なものが出たのではないかと推察されたのである。

あと、本作では、馬郡美保子による、絵本を思わせる、美しくも暗く幻想的な背景美術も、実に素晴らしかった。



また、杉井ギサブロー監督自身、「アニメの質感」ということに関して、

『「アニメーションは絵ですから、質感がないですよね」と指摘した上で、アニメ監督の仕事は、そのアニメに如何にして質感を肉付けするかにあるとして、「表現方法は、線の描き方や絵の動かし方と様々ですが、僕は音に質感を求めるタイプなんですよね」』

(Wikipedia「杉井ギサブロー」


と語っているとおりで、本作『銀河鉄道の夜』の、細野晴臣による「音楽」は、それ自体素晴らしいものではあるものの、何より作品の「雰囲気」作りに大きな力を発揮している点こそが、特筆に値しよう。
例えば、故意に不協和音を使ったBGMなどは、ジョバンニの現実世界に対する違和感や疎外感、あるいは解離的な感覚を、非常に的確に表現している。

一一このように、杉井ギサブローは、その語るところのとおり、スタッフの力を引き出し、その力を結集して、作品にまとめ上げるタイプの演出家であり、その長所と短所が、本作『銀河鉄道の夜』にも、そのまま表れていると評価できるのである。

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さて、ここまではもっぱら、アニメ版『銀河鉄道の夜』の監督である杉井ギサブローの、演出家としての特性と、その結果としての本作『銀河鉄道の夜』について論じてきたが、ここからは、本作の「物語の中身」について論じていこう。
原作小説に追うところの大きい、「内容」についてである

すでに書いたとおり、私は原作である宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』をずいぶん前に読んでいるのだが、すでにその詳細は記憶にない。

だから、本作アニメ版『銀河鉄道の夜』との内容的な異同については何とも言えないため、以下は、アニメ版に即しての解釈だとご理解いただきたい。

まず最初に指摘すべきは、本作は「ジョバンニ視点の物語」である、という点だろう。

彼ジョバンニは、母が病気で長らく家で伏せっているために、学校へ通うかたわら活版所で働く、貧しい勤労少年である。
彼の父は漁師で、海外と思しき出漁先からの手紙は届くものの、猟に出たまま帰らず、ジョバンニは父の帰郷を待ち侘びている。


だが、彼の父については「実はラッコの密猟で捕まって刑務所に入れられており、それで帰れないのだ」という噂が広まっていて、そのため学校では、意地悪なクラスメイトのザネリから「お父さんがラッコの上着を持って帰ってくるよ」といった皮肉を言われ、クラス中でも孤立ぎみである。

(意地悪なザネリ。ジョバンニと顔を合わすたびに「お父さんがラッコの上着を持って帰ってくるよ」という嫌味を言う)

つまり、ジョバンニの場合、家でも学校でも、その生活はあまりうまくいっていない。
真面目で親思いのジョバンニは、前向きに頑張っているのだが、しかし、彼の世界に対する違和感は、解離的な感覚として、本作を濃厚に満たしている。

そしてそんな本作には、明らかに「死」の臭いが充満している。

ジョバンニが銀河鉄道の汽車に乗る以前の、村での生活描写からして、前述とおり、解離的な感覚を漂わせた、どこか現実感を欠くものとして演出されており、それはどこか「暗い夢」のような世界として描かれているのだ。

そして、そんなジョバンニは、学校からの帰宅後、母に飲ませるための牛乳が届いていないことに気づいて、配達もれの牛乳を牛乳屋へもらいに行くのだが、牛乳屋の老婆から「今はわかる者がいないから、あとでまた来ておくれ」と言われてしまう。

それで、しかたなく時間潰しに野原に寝転がっていると、突然そこに不思議な汽車が現れ、あわや轢かれると思った次の瞬間、彼はいつの間にか汽車の客席に座っている自分に気づく。


そしてまた、いつも間にか対面の席に、クラスメイトのカンパネルラが同乗していることに気づくのだ。


カンパネルラとは、父親同士が友人であったことから、幼い頃は仲良くしていたのだが、学校へ上がってからは、ジョバンニがクラスから浮いてしまったことや、一緒に遊ぶ暇もなくなったことなどから、近くにいながらも疎遠な感じになっていた。


そのためか、カンパネルラは、ザネリがジョバンニに嫌がらせを言ったりするのを咎めることまではしないのだが、しかし、ジョバンニに「力になれなくてごめんね」というような、申し訳なさそうな視線を送ったりはするので、ジョバンニはカンパネルラに、昔と変わらぬ友情を感じているのである。

(ザネリたちと校庭で遊ぶカンパネルラ。ジョバンニの視線に気づいて振り向く)

そのため、ジョバンニにとっては唯一の友と呼んでもいいカンパネルラが同じ汽車に乗っていたというのは、言うなれば、ジョバンニの願望の反映だと見るのが、まずは順当なところであろう。

だとすれば、ジョバンニが汽車に乗っているというのは、ジョバンニの現実逃避、あるいは、ジョバンニの「死出の旅路」を意味したものだと考えても良い。

というのも、学校から帰宅し、母の食事に必要な牛乳が届いていないことに気づいたジョバンニが、母に「牛乳を取りに言ってくるよ」と告げたところ、母が、

「今日は星祭りの日だったね。お前も祭りに行っておいでなさいな。牛乳はその後でもかまわないから、お前も祭りを楽しんでおいで。ただ、川にはくれぐれも注意するんだよ。でも、仲良しのカンパネルラさんと一緒なら大丈夫ね」

というようなことを言うからである.

これはどう考えても、ジョバンニか誰かが川で溺死するという展開の「伏線」なのは明らかだ。

だから、普通に理解すれば、牛乳を取りに行ったジョバンニが、その途中に星祭りに寄って、その際に、何らかの理由で川で溺死し、その魂が、たぶん「あの世」へとむかう銀河鉄道の汽車に乗っているのだろうと、そう考えるのが、順当なところでなのだ。

したがって、よくあることだが、死者当人には、自分が死んだという自覚がないだけなのではないかと、そう考え得るのである。

そして、その汽車にカンパネルラが乗っているのは、ジョバンニに「独りぼっちで死ぬのは淋しい」という思いが無意識的にあって、そのためカンパネルラの幻影を見ているのだと、そう解釈するのが自然なのではないだろうか。


ところがだ、驚くべきことに、汽車に忽然の現れたカンパネルラの服が、なぜか「濡れている」という描写がなされる。
ジョバンニの方ではなく、カンパネルラの服がだ。

これではまるで、川で死んだのはジョバンニではなく、カンパネルラのようではないか。

しかし、カンパネルラが死ななければならないような描写は、それまでのところは、いっさい無かった。

ところが、汽車に現れたカンパネルラは、服が濡れていただけではなく、終始、口数が少なく、沈んだ様子にさえ見える。

一方のジョバンニの方は、ままならない現実から解放され、親友と頼むカンパネルラと二人で、銀河の彼方への旅が出来るとあって、地上にあった時よりも、むしろ元気な様子なのだ。


果たして、死んだのは、ジョバンニなのかカンパネルラなのか、それとも2人ともなのか。あるいはまた、2人はどちらも死んではおらず、すべては「不思議な夢」でしかない、というようなことなのか?

しかし、ジョバンニだけが死んだと考えた場合に生ずる、カンパネルラの服が濡れていたという矛盾については、それを合理化する理屈も、つけられないではない。

それは、死んだのは、やはりジョバンニで、汽車に表れるカンパネルラは、ジョバンニの「抑圧された死への希求の象徴」だ、という解釈である。

つまり、ジョバンニは、心の奥では「死んでしまいたい」という感情を抱えているが、病気の母を抱えているから、勝手に死ぬわけにはいかない。
そのため、彼は自身の「死への衝動」を抑圧しておりその自覚はないのだが、それがこの「夢のような世界=銀河鉄道の汽車内」においては、カンパネルラに投影されて表れたのではないかと、そういう解釈である。
つまり、ここに登場するカンパネルラは、本物のカンパネルラではなく、ジョバンニの影ではないか、という解釈である。

(途中の駅での停車中、二人は下車して駅の見物に出るが、駅から地下へと向かう階段を下りていくと、なぜか村の広場に出る。だが村にはひと気がない)

ただ、そう解釈したところで、この「銀河鉄道の汽車での旅」が、単なる「夢」なのか、誰かの「死出の旅路」の表現なのかという、根本的な問題は、解決しない。

アニメ的には、一緒に最後まで汽車の旅を続ける約束をしたはずのカンパネルラが、汽車から「母の待つ場所」へ下車してしまう。
そして、あとに一人残されたジョバンニは、ふと目覚めて、自分が草原でうたた寝していたことに気づく、という展開になる。

その後ジョバンニは、ふたたび牛乳屋へと牛乳を取りに行き、そのあとの帰り道で出くわしたクラスメイトから、「川で溺れたザネリを助けたカンパネルラが、代わりに川で行方不明になった」ということを知らされる。

急いで川へと向かったジョバンニは、すでにそこにはカンパネルラの父親がいて、自分の懐中時計を見ながら、警察署長に「(カンパネルラが川で行方不明になってから)45分が経ちました。もう無理でしょう(カンパネルラは生きてはいないでしょう)」という趣旨のことを言っている場面に出くわす。

そしてジョバンニは、その冷淡とも言えるカンパネルラの父親から、「君はカンパネルラと仲良くしてくれたジョバンニくんだね。また、うちは遊びにおいでなさい」と、いささか悠長というか、現実離れした声をかけられ、その後、牛乳を持って家路に急ぐところで、一一この物語は幕を閉じるのだ。

つまり、このアニメ版の結末なら、一応のところ、死んだのはカンパネルラであり、その魂が、ジョバンニに「銀河鉄道の旅」の夢を見させて、寂しい死出の旅路に、目的地の手前までつき合わせた、という感じになっている。


しかし、カンパネルラには、やはり、死ななけれぼならないほどの理由はない。と言うか、具体的には描かれていない。

例えば、カンパネルラが銀河鉄道の汽車から降りるのは、そこで母が待っているからだと言うのだから、これは母がすでに死んでいるということの暗示なのかもしれないが、しかしそれは、現実とは異なる夢の中でのことでしかない、という可能性も否定できない。

また、いちおう、作中での現実らしい世界での、カンパネルラの父親の、息子を亡くしたにも関わらず、眉ひとつ動かさないような冷淡さは、カンパネルラの家の冷たい人間関係を暗示したものかもしれない。

つまり、この二つを組み合わせると、カンパネルラが好きだった母は早くに亡くなっており、彼に冷たい父親との二人暮らしが長く続いていたので、裕福だったとは言え、カンパネルラの家での生活は、決して幸福なものではなかった。一一そのため、カンパネルラにも、死に引き寄せられる契機があったのかもしれないと、一応はそんな理屈を立てることも可能は可能ではある。

だが、いずれにしろ、そうした推測は、カンパネルラが銀河鉄道の汽車に乗っていたと考える上での、明示的な根拠とまでは言い難い描写に止まる、きわめて不確かなものなのである。

したがって、カンパネルラには、明確な「死ぬ理由」は無い、と言うべきであろう。

だとすれば、現実には、単にザネリを救うために「不慮の事故死」を遂げただけだとも言えるから、それだけでは、死ぬ理由のあったジョバンニを差し置いてまで、カンパネルラの方だけが死ぬというのは、作劇上、不自然としか言いようがないのである。

たしかに、カンパネルラには、ジョバンニの味方になってやれない後ろめたさのようなものがあった(明示されていた)のは確かだが、それだけでは死ぬ理由としては、弱すぎるのだ。

だから、「カンパネルラが死んで、その夢をジョバンニが見た」のだという、本作における「オーソドックスな解釈」には、物語の構造からして、どうにも無理がある。

だからこそ、やはり死んだのはジョバンニだと考えるのなら、この物語が、最初から最後まで、「死にゆくジョバンニの見た夢」だと考えることもできよう。
むしろ、その方が自然のように、私には思える。


だが、どうやら原作の「銀河鉄道の夜」は、未完作品ということのようだから、はっきりしたところは、宮澤賢治自身、決着がついていなかったということなのかもしれない。

つまり、どちらにでも、つけようと思えば決着のつけられる段階で、決着がつけられないまま未完となった作品だったのであり、それに、このアニメ版では、比較的穏当な決着を、仮に(ひとつの解釈として)つけてまとめた、ということなのではないだろうか。

したがって、本作の解釈としては、どちらかが正解というのではなく、どちらとも解釈できる作品と解するところにこそ、本作の魅力が存するのだと、私はそのように考える。

読む人の心情や人生観によって、どちらとも解釈し得る(未完結の)曖昧さ、あるいは、それゆえの懐の深さにおいてこそ、本作「銀河鉄道の夜」は、傑作たり得ているのではないだろうか。




(2026年8月12日)


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