北山猛邦 『「石球城」殺人事件』: 奇想、天を動かす!

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▷ 書評:北山猛邦『「石球城」殺人事件』(講談社)


驚くべき作品だ。初期「島田荘司」的な奇想の炸裂する壮大な傑作。
かの島田荘司が書きたくても書けなかったスケールの作品であり、まさに「奇想、天を動かす」作品なのだ。

島田荘司の同名作品『奇想、天を動かす』(1989年)が、その名に反して意外に小粒な奇想だったのに対して、本作の奇想はまさに天を動かすスケールのもので、その大胆さに驚かされ、呆れさせられもしたあとに、爽快な笑いの込み上げてくるような、そんな作品なのである。


本作には、いくつかの特徴的な要素がある。

(1)一見ファンタジー的だが、じつはSF的な世界設定
(2)「13の密室」殺人事件における物理トリック
(3)連続殺人犯の人物設定に基づくトリック
(4)世界そのものの見え方に関する本格ミステリ的な仕掛け


大雑把に言って、以上のようになるだろうか。

(1)は、本作の主たる舞台が、「転生もの」漫画などによくある「中世ヨーロッパ」的な、閉鎖世界「石球城」となっている。

夜明けの存在しない常闇の世界の中で、13の灯台とそれをつなぐ城壁によって囲われた「石球城」。
そこに住むのは、この城砦都市を統べる「九人の夜の王」と、灯台を守る13人の巫女のほか、総勢100人ほどの住人である。


そんなこの世界の住人たちは、城壁の外のことを何も知らない。
そこには人の住まない虚無の世界があって、その正体を知ろうとした者もかつて何人かはいたが、ついにその真相をつきとめられないまま、今では「九人の夜の王」の意志によって、その探索が禁じられている。
13の灯台の明かりに守られた「石球城」の外に興味を持つことは、この城塞都市の安寧を揺るがす禁忌とされたのである。

しかし、そんな世界に、ある日忽然と一人の少年が現れる。

彼の名はルーサ。
彼はこの「石球城」とは違った、吹雪に閉ざされた世界からやってきた。
その世界の空には、吹雪を通してぼんやりと輝く太陽が存在した。だが、止まない吹雪による食料の枯渇によって、もはや存続不能となりかけていた街から、ルーサを含む若者数名が、光あふれる常夏の海として伝説的に語られる「最果ての海」を目指し旅立ったものの、その途中で食糧が尽きかけ、仲間内での奪い合いに巻き込まれたルーサは、深いクレバスに落ちたのであった。

しかし、傷ついたルーサは、この「石球城」の中にある泉のほとりに倒れていたところを、この街に住む少年ロメリアに救われる。

ロメリアがルーサを救ったのには理由があった。
ロメリアは、城壁の外の世界に強い関心を抱いていたから、「石球城」にいるはずのないルーサの出現は、外の世界を知る重要な手掛かりになるはずだと考えたのだ。

ロメリアのこうした外の世界への執着は、彼の父の思いを受け継ぐものであった。
彼の父もまた、外の世界への興味に囚われ、外の世界を探索に出た挙句、そこで亡くなっていたのである。

つまり、ルーサがもといた世界と「石球城」との関係はいかなるものなのかという「世界の成り立ち」の秘密が、(1)の中心にはあって、「石球城」とは、単なる「ファンタジー」的な舞台などではなく、それ自体が「解かれるべき謎」なのだ。

(2)の「13の密室」(古参のミステリマニアなら、渡辺剣次編のアンソロジー『13の密室』を思い出すだろう)は、本作の最も「本格ミステリ」らしい部分だと言えるだろう。


本格ミステリにおける「密室殺人」とは、伝統的かつ典型的なパターンの「謎」の一種なのだが、それが1作中に13件も登場するというのは、いささか破格であり、尋常な数ではない(「数だけ」なら、もっと多い作品も、あるにはあるのだが…)。

著者の北山猛邦は「物理トリック」の名手として知られる本格ミステリ作家で、本作での「13の密室」も、基本的には、物理的に構成された「密室」であって、「心理」的な密室ではない。
すなわち、「密室ではなかったものを密室だと錯覚させることによって生じさせた密室」ではなく、現に、物理的に構成された密室だということである。

さて、本作で評価の分かれるところは、この「物理的密室」であり、それにリアリティを感じられるか否か、なのではないかと思う。
一一じつは、かく言う私自身が、北山猛邦流の「物理密室」には、ほとんどリアリティが感じられず、あまり感心できないのだ。

私は、北山猛邦が作家デビューしてまだ間もない頃、当時評判となっていた作品を読み、その物理トリックに呆れてしまった。「こんなのつまらない」と感じたのだ。

だから、当時から「物理トリックの名手」と呼ばれていた北山猛邦には、その一作で見切りをつけてしまった。
北山の作風は、私の趣味には合わないと、そう見切りをつけてしまったのである。

そして、その判断は今でも間違ってはいなかったと思う。
というのも、私は「文学」全般において、「心理」を重視し、それを面白いと感じるところがあるので、物理的な「1+1=2」的な、身も蓋もないロジックには、あまり魅力を感じず、本格ミステリであっても、「心理の盲点を突く」タイプの作品を好んだからである。

そんなわけで、北山猛邦の作品はそれ以来読んではいなかったのだが、先日、下の記事を読んで、「そこまで評判が良いのなら、ダメ元で読んでみるか」ということになった。


6人の書評家が、それぞれにその月のベストミステリを紹介する「道玄坂上ミステリ監視塔 書評家たちが選ぶ」の「2026年6月のベスト国内ミステリ小説」において、私の信頼するミステリ評論家・千街晶之を含む3人までが、本作『「石球城」殺人事件』を推していたのだ。

千街晶之の一冊:北山猛邦『『石球城』殺人事件』(講談社)

 六月は他にも月間ベスト級の作品があったけれども、北山猛邦『「石球城」殺人事件』を読んでしまうと、「もう今回はこれしかないだろう」と思わざるを得ない。「城」シリーズならではの終末的な世界観とリリカルな雰囲気。「物理の北山」の異名に恥じぬ物理トリックの高速連打。それらのトリックの解明すらも序の口だと思わせる作中の世界そのものの壮大な秘密。ラスト数ページの美しいカタルシス……と、あらゆる面で高得点を叩き出しているのが驚異的である。著者の集大成にして到達点、そして今年度の本格ミステリ界で最大の話題作だ。』


ここまで書かれては、読まないわけにはいかなかったのである。

一一しかしながら、千街が『「物理の北山」の異名に恥じぬ物理トリックの高速連打。』と評した部分に関しては、やはり、私の趣味ではなかった。


なぜ、趣味に合わなかったのか言えば、それは、その物理的なロジックに「リアリティ」を感じることができなかったためである。

北山猛邦の作品における「物理的ロジック」とは、「物理的に考えるならば、それは成立し得る」という「純粋論理」の賜物であって、決して「現実的」なものではない。

喩えて言えば、その理屈は「摩擦係数ゼロの物理世界」においてのみ成立する、物理的ロジックなのだ。
だから、現実世界においては、それはほとんど成立しない。したがって、リアリティが無い、ということにもなる。

理論上はそうなる可能性はあっても、現実的に考えれば「そううまくはいかないよ」というようなトリックが、北山猛邦の物理トリックなのだ。
だから、私はそれを、一種の「馬鹿(話的な)トリック」だとさえ感じるのである。

そして、昔の私は、その実感に即して、北山猛邦の本格ミステリを「馬鹿馬鹿しい」ものとして見切ったのだが、しかし、今の私は、すこし見方が違っていた。

どう違っていたのかというと、たしかに北山猛邦の「物理トリック」は「リアリティ」が無いのだけれど、しかし、「リアリティが無い」ということでは、私の好きな「本格ミステリにおける心理的なロジック」というものもまた、リアリティなど無いではないかと、そのことに気づいたのである。

例えば、本格ミステリにおける「心理的なロジック」を代表するものとして、「狂人の論理」というものがある。
これは平たく言えば、「狂った論理」であって、単なる「非論理(デタラメ)」のことではない。形式的な理屈は通っているのだが、その理屈が「狂っている」としか呼べないようなものを「狂人の論理」と呼ぶのだ。

例えば「全員を平等に愛しているのなら、そのうち一人を殺さねばならなくなって殺したのであれば、他のメンバーも、全員平等に殺さなければならない。そうでなければ、平等に愛していたなどとは言えない」といった「理屈(ロジック)」によって、必要の無い殺人を犯し続ける殺人犯の「内的な論理」などを、「狂人の論理」と呼ぶのだ。
「形式論理的には筋が通っているが、現実的には無茶苦茶な理屈」といったもののことである。

私が上に紹介した「狂人の論理」は、私がここでの説明のために急拵えしたものだから、あまりスマートなものではないのだが、本格ミステリの名作と呼ばれる作品の中には、「美しい」と評しても良いような「狂人の論理」が描かれており、私はそうした作品が大好きで、それを高く評価してきたのだ。
一一しかしながら、「リアリティが無い」ということでは、こうした「狂人の論理」だって、じつはリアリティなど無い。

それでも私は、こうした「心理的なロジック」を面白い(美しい)と感じてきたのだから、それなら「物理トリックにおける論理」だって、いわゆる世間並みの「リアリティ」など無くても良いのではないかと、そのことに気づいてしまったのである。

つまり、私が面白いと感じる「狂人の論理」だって、そういう「趣味」のない人にとっては「そんなやつ、おらんやろ」ということにしかならず、要は「リアリティが無いからつまらない(馬鹿馬鹿しい)」と感じられるはずなのである。

だが、私はそういう人をして「本格ミステリのセンスが無い」と、そう評価するだろう。

ならば、北山猛邦の「物理トリック」を高く評価できるミステリマニアがそれなりにいるにもかかわらず、私にはそれがまったくピンと来なくて「馬鹿馬鹿しい」としか思えないのは、私に「物理トリックの美」についてのセンスが無いからなのではないかと、そう思い至ったのだ。

それに、これは私も昔から何度も言及した言葉だが、「本格ミステリ」の本質を語るものとして「本格ミステリは、論理のユートピアである」というのがある。

この言葉が意味するのは、「本格ミステリの世界とは、純粋論理の世界であって、現実世界とは別物(別世界)だ」ということだ。

つまり、そういう特殊な世界だからこそ、「狂人の論理」が現実無視で極論的に狂ったものであっても、「純粋論理」のひとつとして、その存在が認められるのである。

だとすれば、北山猛邦の「物理トリック」だって、現実性は無くても「本格ミステリの世界」内においては「あり」だということになる。だからこそ、それを認める本格ミステリマニアがいるというのも、言うなれば「道理(ロジック)」なのだ。

ということは、北山猛邦の「物理トリック」が「本格ミステリ」のそれとして論外なのではなく、単に私には「物理トリックの魅力」に対するセンスが欠けていたと考える方が、公正(フェア)であろうと、私はそう考えられるようになっていたのだ。

ただし、いくら私に「物理トリックの美」に関するセンスが欠けているとは言っても、それが「ゼロ」というわけではないというのは、私が島田荘司初期の物理トリックミステリに魅せられた事実によって証明されるだろう。

言い換えれば、島田荘司初期の「物理トリック」の傑作、『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『北の夕鶴2/3の殺人』などにおける「物理トリック」は、私を感動させたのだから、そのクラスの「物理トリック」ならば私にも、その面白さや美しさが理解できるはずなのだ。


だが、北山猛邦の「物理トリック」には、そのようなものを感じないのだから、それはやはり、北山猛邦の「物理トリック」、特に本作の「13の密室」における「物理トリック」は、島田荘司初期のそれには遠く及ばないものであり、だからこそ、「物理トリック」に鈍感な私までを、ねじ伏せて感心させるまでには至らなかったと、そういうことなのではないだろうか。

一一そして、私がここまで長々と「物理トリック」の話を書いてきたのは、本作『「石球城」殺人事件』の「13の密室」における「物理トリック」は、「物理の北山」のそれとして、どうしても注目されてしまうがゆえに、これらの「密室トリック」におけるリアリティの問題によって、本作自体が不当に低く評価されてしまいかねないことを、危惧したからなのだ。

つまり、本作における「13の密室」の物理トリックについて、仮に私と同様に「イマイチだな」とか「馬鹿トリックだな」と感じられることがあったとしても、本作の真価を、それだけで測ってはならないのだということを、私はここで強調しておきたいのである。

この「13の密室」トリックは、本命ではなく「前座」的なものだと、そこまで言ってしまっては語弊もあるだろう。
これだけでも、たぶん「物理トリック」好きには、十二分に楽しめるものだろうとは思うからだ。

しかし、私に言わせれば、本作の本命的な「トリック」であり「ロジック」は、むしろ、この「13の密室」の謎が解き明かされた後にこそ、その姿を現すのだ。

だから、「13の密室」についての謎解きをもって、「なーんだ、こんな作品か」と思ってしまうのは、早計なのである。

私は先に、千街晶之の書評を引用して紹介したが、それをもう一度確認してほしい。
千街は、次のように書いていたのである。

『「物理の北山」の異名に恥じぬ物理トリックの高速連打。それらのトリックの解明すらも序の口だと思わせる作中の世界そのものの壮大な秘密。ラスト数ページの美しいカタルシス……』


つまり、千街もまた「13の密室」の謎解きを『序の口だと思わせる』ものでしかないと、そう評価しているのである。
「本作の真価は、むしろその先にある」のだと。
そしてそれは、私もまったく同感なのだ。

私は先に本作の特徴を、次のようにまとめた。

(1)一見ファンタジー的だが、じつはSF的な世界設定
(2)13の密室殺人事件における物理トリック
(3)連続殺人犯の人物設定に基づくトリック
(4)世界そのものの見え方に関する本格ミステリ的な仕掛け


つまり、私がここまで説明してきたのは、まだ(2)までであって、まだ(3)と(4)については説明していないのだが、私が本作を高く評価するのは、まさにこの(3)と(4)においてなのである。

そして、順序は逆になるが、先の引用部で、千街が『作中の世界そのものの壮大な秘密』と書いているのが、私の言う(4)にあたり、千街はこの短い書評では(3)には触れていないのだが、私はまず、本命である(4)を語る前に、(3)の魅力について、ネタを割らない範囲で、簡単に紹介しておきたい。

この(3)における「連続殺人犯の人物設定に基づくトリック」というのは、非常に際どく微妙なところに成立したものである。

すなわち「13の密室」トリックほど非現実的ではないものの、現実世界では、ほとんどあり得ない「特殊設定」的なものによって、成立しており、しかも、その「特殊性」ゆえに成立したトリックでありながら、その特殊性のみに寄りかかったものではなく、それをもう一捻りした、ある種の「時間トリック」に仕立て上げているところを、私は高く評価したいのだ。

無論、この「特殊設定」については、作中で十分な説明が事前になされており、その意味で、決してアンフェアなものではない。
だが、ただ単に「アンフェアではないトリック」であるに止まらず、それを前提として、もう一捻りした「時間トリック」(作中の時間経過に注目)によって、連続殺人犯の素性を見事に隠したところに感心したのだ。

じつのところ、この殺人犯が、登場人物のうちの「誰なのか」については、比較的早い段階で検討がつく。
その意味で、誰が犯人かを「当てる」ことには、さほど意味はない。いかにも怪しい人物なのだ。

だからむしろ、この人物が「一連の密室殺人事件」の犯人なのだとすれば、通常のロジックでは説明のつかない(犯人たり得ない)犯行が、その一連の犯行に含まれてしまう矛盾が生じてしまう。
だが、そこに「特殊設定」を組み込んだことにより、すべての犯行がこの人物によってなされたという、一貫した(美しい)ロジックが成立したのだ。

だから私は、この「殺人犯の人物設定におけるトリック」を、高く評価したいのだ。「そこに組み込んだのか」と、そう感心したのである。

そして、最後は(4)ということになるのだが、千街晶之が言うところの『作中の世界そのものの壮大な秘密』と、その謎解きについては、まさに「壮大」の一語に尽きるものだ。

こんなに壮大な「本格ミステリ的奇想」は、もうこの先何十年かは書かれないだろうというスケールのものなのである。

たしかにこの「世界設定」も、リアリティが無いと言えばリアリティのない「奇跡的なバランスの上に、奇跡的に成立したもの」でしかないのだが、しかし、「本格ミステリにおける物理トリックのリアリティ」ということを論じた先の議論で示したとおり、本作における(4)、すなわち『作中の世界そのものの壮大な秘密』とその謎解きは、もはや、リアリティのある無しを超えて壮大であり、「本格ミステリにおける論理美(論理の詩美性)」において、美しいものなのだ。

島田荘司の初期作品の持っていた「あり得ない可能性において、ぎりぎり成立した物理トリックの美」が、この(4)には存在し、しかもそのスケールが前代未聞なのだから、本格ミステリファンは、この「力技」の前に、もうひれ伏すしかないのではないだろうか。


私が本稿のタイトルを「奇想、天を動かす!」としたのは、前述のとおり、島田荘司の長編ミステリ『奇想、天を動かす』を踏まえたものなのだが、発表当時、比較的評判の良かった同作は、しかし私にはまったく不満なものでしかなかった。
島田荘司に期待するのは、その程度のものではなかったからである。

だが、私が当時、島田荘司の『奇想、天を動かす』に期待したものを、本作『「石球城」殺人事件』は、はるかに超えていった作品であり、まさに「奇想、天を動かす」を実現した作品なのだ。

だからこそ、この「夢の達成」を、私は高く高く評価したいのである。


(2026年8月10日)


(※ 装丁画以外のイラストは、すべて「芦刈イラスト&小説」氏の作品からお借りしました)


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“北山猛邦 『「石球城」殺人事件』: 奇想、天を動かす!” への4件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    この作家のものは読んだことがありません。
    カーよりクリスティやクイーンを愛する者として、ミステリに求める要素はロジック・語り口・人物造形の上手さです。かつて乱歩が言ったか正史が言ったか「探偵小説を読んで記憶に残るのはトリックだ。だから、トリックはあった方が得なんだ」という提言は昔だから成立したのであって、現代ミステリで物理的トリックに拘るのはどうも…(幼稚なんですよね)
    都筑道夫も「黄色い部屋はいかに改装されたか」で指摘してますが、「本陣殺人事件」を読んで思わずアッと言わされたのは、何度読んでも分からない密室のトリックではなく、三本指の男が「一柳さんの家に行くには、どうすればいいですか」と尋ねる理由が最後に分かるところです。
    物理的トリックが複雑になっていくほど、理解が難しくなり、そう上手くいくものかと思うわけです。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    > カーよりクリスティやクイーンを愛する者として、ミステリに求める要素はロジック・語り口・人物造形の上手さです。

    それはよくわかっています(笑)。

    > かつて乱歩が言ったか正史が言ったか「探偵小説を読んで記憶に残るのはトリックだ。だから、トリックはあった方が得なんだ」という提言は昔だから成立したのであって、現代ミステリで物理的トリックに拘るのはどうも…(幼稚なんですよね)

    現代ミステリというのが、どういうものを指しているのかは分かりませんが、昨今の日本のミステリは、むしろ物理トリックから遠ざかっていると思います。
    おっしゃっているのは、新本格以前の昭和のミステリのことではないですか?

    新本格ミステリというのは、良かれ悪しかれ、物理的トリックから遠ざかるムーブメントだった。
    綾辻行人が叙述トリックの作家なのは、それをよく象徴しているし、新本格ミステリ作家の大半は、クイーンやクリスティのファンでした。もちろんカーも好きでしたけどね.

    でも、今ではカーはすっかり影が薄くなった。
    私が思うに、新本格ミステリを読んで育った世代の読者は、「なるほど」ではなく、とにかく「あっ」と言わせて欲しい。その傾向が、新本格ミステリ作家よりもさらに濃縮されていて、だから、「多重解決」や「多重どんでん返し」が増えた一方で、論理の緻密さが顧みられないために、失われてきているように思います。

    ともあれ、北山猛邦は、新本格ミステリ作家の中でも、珍しく「物理トリック」にこだわった、変わり種だというのが、それなりに新本格を読んだ私の実感です。
    また、物理トリックの作家って、もともと変わり種なんじゃないでしょうか。

    > 都筑道夫も「黄色い部屋はいかに改装されたか」で指摘してますが、「本陣殺人事件」を読んで思わずアッと言わされたのは、何度読んでも分からない密室のトリックではなく、三本指の男が「一柳さんの家に行くには、どうすればいいですか」と尋ねる理由が最後に分かるところです。

    しかし、それは読者の「趣味」が大きいと思いますよ。
    都筑道夫は「物理トリック」の面白さが、あまりよくわからなかっただけじゃないかな。
    私も『本陣殺人事件』の物理的密室は、馬鹿馬鹿しいという感じがしましたが、あれが面白いという人も現に大勢いましたから。

    > 物理的トリックが複雑になっていくほど、理解が難しくなり、そう上手くいくものかと思うわけです。

    私の感じでは、物理トリックは、別に複雑化してはいないと思います。

    おっしゃるとおり、物理トリックは複雑化すれば、単なる機械トリックになってしまって、面白くもおかしくもない。
    だから、シンプルであることが求められるんですが、シンプルで斬新なものなんて、そうは浮かばないから、書けなくなるんですよね。

    私は、物理トリックの面白さがわからない人間ですが、それでも思うのは、物理トリックの面白さとは、論理性ではなく「稚気」であり、「稚気」と「幼稚」とは違う。

    「稚気」とは「大人の遊び心」のことですから、「これ一本」主義みたいな「頑なな心」の対極にあるものなんだと思います。

    今は、「稚気」と「幼稚」と区別のつかない人が多くて困る。そもそも「稚気」という言葉を知らない人も多い。
    しかし、もともとミステリとは、「人間探究」とか「人格陶冶」とかいった、文学的な有用性求めない、「遊び」の文学形式なんだから、「稚気」を失えば、貧困化するしかないでしょう。
    儲けにもならないのに、ディティールにこだわるとかいうのも、「稚気」があったらばこそですからね。

    そのあたりで失敗したのが、かつての「社会派ミステリブーム」でしょう。
    社会告発的な有用性を掲げるのはいいんですが、そのために「稚気」を失って貧困化してしまった。

    だから、物事はバランスだと思うんですね。
    「たかがミステリ、されどミステリ」という気持ちを忘れてはならないんだと思います。

  3. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    横道に逸れるかも知れませんが…
    何作か例外はありますが、日本の本格ミステリは鮎川哲也まで。新本格以降のものは殆ど読んでません。古典を中心としたミステリを読んでいたのは高校生の時までで(この時期に読んでいたミステリの印象が強く、評価はそれが基準になります)大学生の頃、主に読んでいたのは純文学。三島、大江、カフカを愛読してました。
    古典は漱石、川端、谷崎が好きで読んでました。
    社会人になってからはポツポツとミステリを読んでましたが、講談社ノベルスで山田風太郎の忍法帖が復刊され、滅法面白く、これをきっかけに歴史・時代小説に手を伸ばしました。
    ミステリに戻ってきたのは京極夏彦・綾辻行人のデビュー作を読み、面白かったので。それと芦沢央。前作をフォローしてはいませんが、私にとって現代の本格ミステリと言えばこの三人に尽きます。それ以外の作家を読まないのは、何度も言ってますが、文章が下手で読むに耐えないからです。(綾辻行人も上手い文章ではないですが、読める文章です)
    関口苑生が「江戸川乱歩賞と日本のミステリー」で新本格の良さが分からないと言ってますが、概ね賛成です。
    それに、(実際のところは知りませんが)新本格しか読んでないだろ、と思わざるを得ないミステリが余りにも多い。館ものだの密室だの、正直うんざりするわけです。

  4. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    レスポンス、ありがとうございます。

    > 横道に逸れるかも知れませんが…
    何作か例外はありますが、日本の本格ミステリは鮎川哲也まで。新本格以降のものは殆ど読んでません。古典を中心としたミステリを読んでいたのは高校生の時までで(この時期に読んでいたミステリの印象が強く、評価はそれが基準になります)大学生の頃、主に読んでいたのは純文学。三島、大江、カフカを愛読してました。
    古典は漱石、川端、谷崎が好きで読んでました。

    いろいろ読まれているけれど、ジャンル的に集中して読んでいるわけではないということですね。

    三島、大江、カフカについては、それぞれいくつか読んでいますが、あまり面白いとは思いませんでした。
    それぞれ代表作を「読んでおかなくては、褒めるにしろ、褒めないしろ、語る資格がない」と考えたからです。

    漱石、川端、谷崎については、漱石は飛び抜けて好きで、遺作『明暗』以外は、文庫に入っているものはすべて読んでいます。他に、社会評論的なものも。
    川端康成は『雪国』を読んで、うまいけどそれだけという印象があって、あとが続かなかった。私の場合、物語作家にはあまり興味がないみたいです。
    カフカは、短編は面白かったのですが、『変身』はまあまあ。『城』には疲れてしまい、あとの長編を読む気がなくなってしまいました。

    > 社会人になってからはポツポツとミステリを読んでましたが、講談社ノベルスで山田風太郎の忍法帖が復刊され、滅法面白く、これをきっかけに歴史・時代小説に手を伸ばしました。

    山田風太郎もそうで、忍法帖もミステリもいくらかは読んで、面白いと思いました。うまい、という感じですね。
    でも、好きかと言われると、特にそうでもなかったので、あとが続きませんでした。

    ミステリに戻ってきたのは京極夏彦・綾辻行人のデビュー作を読み、面白かったので。それと芦沢央。前作をフォローしてはいませんが、私にとって現代の本格ミステリと言えばこの三人に尽きます。それ以外の作家を読まないのは、何度も言ってますが、文章が下手で読むに耐えないからです。(綾辻行人も上手い文章ではないですが、読める文章です)

    綾辻行人程度を書ける新本格作家なら、いくらでもいると思いますよ。
    新本格ミステリは、わりと初期に「メフィスト賞」が新人発掘の受け皿になり、この賞のコンセプトは、うまい作家ではなく、規格外の作家を求める、というものでした。
    他のミステリ賞が、小説のうまい作家を拾いがちだったからです。

    そんなわけで、メフィスト賞出身の作家のデビュー作は、文章の下手くそな作品が多かった。作家自身が若くて、ミステリ以外は読んでいない人も多かっただろうから、文章の巧拙というものは、本人自身があまり気にしていなかったでしょう。
    一般に、若い人は、文章の巧拙は気にせず、物語の面白さに惹かれるものですからね。
    それに、文章のうまい作家を読みたいのであれば、純文学作家には「文章家」と呼ばれる作家も大勢いますから、そちらを読んだらいいと、そんな気分もあったでしょう。

    いずれにしろ、彼らも、興味がないから読まないというだけではなく、読んでいないものには興味がない、というところがあります。

    興味が無くても、勉強のために読んでみようとか、自分の知らないところに宝物が埋まっているかもしれないとは、あまり考えないんですね。
    だから、好きな作家や同一ジャンルしか読まない人が、読書家にも多ければ、おのずと作家にも多い。

    もちろん、それはそれでかまわないんですが、そうした人たちの問題は、得てして、興味が無くて読んでいないジャンルや作家についてまで、自分の狭い了見の鋳型にはめて、おのずと低く評価してしまいがちだという点です。

    それで私は、芥川賞・直木賞を長年担当した、伝説的な名物編集者であった高橋一清を「井の中の蛙」と評して、コテンパンに批判したのです。

    ・高橋一清 『芥川賞 直木賞 秘話』 : 「井の中の蛙、 大海を知らず」
    https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3af297c50214

    高橋は、「文学」がわかってあえるつもりだったんですが、実際には、それは「文学」のごく一部で、例えば、ミステリやSFにはてんで無知なんですが、それでも、つまり読んでなくても、わかっているつもりだった。

    また、「文学」がわかっていれば、本質的なところは(ぜんぶ)わかっている、というつもりで、要は、哲学や思想や批評書なんてものは読んでなくでも、わかっているつもりだったのです。
    でも、それは読んでいる者からすれば、アホかというレベルの認識だったんですね。

    それにこういう「井の中の蛙」タイプは、読んだものをしきりに読んだ読んだとアピールする反面、読んでいないものについては口をつぐみます。
    だから、あれは読んだか、これは読んだかと、尋ねると、大概は読んでないし、読んでいても、さほど深く理解しているわけではなくて、知っている程度だったりもします。

    でも、こういう「知ったかぶり」は、つまらないと思うんですよね。
    読むだけなら猿でも出来ると言えば極端ですが、理解しているのなら、コピペではなしにお前の言葉で語ってみろと言うと、黙ってしまう人が大半であり、その程度なのです。

    私は以前、よくネット右翼と喧嘩しましたが、彼らが「日本の伝統」とか言うので、「では、日本書紀や古事記を読んだのか」と問うと、誰も読んでません。よくて『まんが日本の神代』くらいなのです。
    また、自称「保守」に、小林秀雄や福田恆存を読んでいる者もまずいないし、エドマンド・バークの名前を知らない者さえいます。
    それでも彼らは、自分をいっぱしの「保守」だと思っているですが、まあ、世の中なんてそんなものなんです。

    > 関口苑生が「江戸川乱歩賞と日本のミステリー」で新本格の良さが分からないと言ってますが、概ね賛成です。

    私は、関口苑生を、まったく評価していません。
    ワセミス出身のコネでミステリ評論家になったミステリオタクだけあって、たくさん読んでいるのですが、それだけであって、批評能力の無い、自称「批評家」だと評価していました。
    彼の書くものは、批評ではなく、オタクの「感想文」だと、そう評価していたんです。
    笠井潔が、関口苑生をボロクソに貶してましたが、その点では、完全に笠井に同意でした。

    > それに、(実際のところは知りませんが)新本格しか読んでないだろ、と思わざるを得ないミステリが余りにも多い。館ものだの密室だの、正直うんざりするわけです。

    そうですね。
    おっしゃるとおり、それしか読んでいない人というのは、じつに多い。
    ただ、それ故の「蛮勇」というのもある。でないと、小説家になんてなれるものではありません。

    最初は下手でも、書いているうちには
    上手くなりますし、年齢も重ねるから、文章だって気になるようなるでしょう。
    綾辻の『十角館の殺人』だって、代表作になっているから、版を重ねるごとに文章に手を入れていて、初版初刷時のものとは、そうとう違っているはずです。
    それは、他の新本格ミステリ作家も同じで、程度の差こそあれ、書き続けていれば、それなりに読める文章は書けるようにはなるもなのです。

    だから、デビュー作の初版初刷だけで、その作家の将来性は評価できない。
    しかし、すべてをフォローすることは無理でも、長年読んでいなければ、そんな作家だって成長しているかもしれないと、そう考えるくらいのことはした方が良いと思います。
    事実、今どうなっているかは知らないのだから、昔の印象だけで決めつけるのは早計であり、いっそ偏見でしかないということになってしまう。

    当たり前の話ですが、年々歳々、新作小説が書かれているのですから、あとの世代の方が「古典」を読めなくなるのは当然です。それだけ、総作品数が増えているからです。

    私の頃には、新本格ミステリは新作でしたが、今では、古典か旧作ですから、新作を読みながらそこまで読むのは、なかなか大変です。
    私の世代のミステリファンが、社会派ミステリまでの戦後作品や戦前のミステリまでは、なかなか読めず、ましてや純文学や世界文学まで読めなかったのと同じことです。

    私自身は、出来るかぎりあるもこれも読みたいと思って、好き嫌いとは別にあれこれを読む努力をしましたが、それとて当然の限界があります。
    例えば、昔の読書家には、古典として、読んでいて当然の、『源氏物語』『枕草子』『方丈記』とか、そういったものまでは、読みたくても、手が回らない。時間がない。

    だから、今のミステリファンに対する、新本格くらいしか読んでないんだろうという批判は、ぜんぶ自分に返ってくることなのです。

    したがって、批判ではなく、「それだけでは偏っているということを自覚すべきだ」と、そう言いたいのであれば、まずはその人が、自分の興味のないものまで読むという努力をしていないといけない。
    だけど、そのことに気づいている人は、ほとんどいないんですよね。

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