▷ 書評:木陰ひな田『虐幸のくるちゃん(1)』(講談社)
書店の棚の面陳で本書を見かけ、まずはその帯文が目に飛び込んできた。
お母さんを
幸せにするために
私は生まれてきたんだ
そしてタイトルを見たら『虐幸のくるちゃん』一一これはもう、明らかに「不幸な家庭環境に生まれた子供の物語」だとわかり、スルーするわけにはいかなくなった。
私自身のトラウマにも、多少なりとも引っかかってくるテーマだったからであろう。

本書は、いわゆる「毒親」問題を扱った作品で、その意味では、私とはぜんぜん違った境遇(生育環境)の物語である。
と言うのも、自分で言うのも何だが、私自身は親には愛されて育っており、その点では、かなり恵まれた環境にあったと思っているし、私が基本「自信家」なのも、そのおかげだと思っているほどなのだ。
ただし、まったく何も問題が無かったのかと言えば、そうではない。
両親は、私と弟の兄弟を存分に愛してくれたのだが、その両親は共働きで、昼間は二人とも家にはおらず、帰宅するのはいつも、私たちが寝ついた後の真夜中であった。
そのため、一日の大半を一緒に過ごしていたのは、同居していた母方の祖母なのだが、この人がかなり性格のキツい明治女で、私たち兄弟は、その祖母の顔色を窺いながら育ったと言っても過言ではなかったのである。
一一まあ、そのおかげで私は、他人の心理を読むのが得意になったんじゃないかとさえ思っている。
本作の主人公「逢坂來未(おうさか くるみ)」の場合は、母親がいわゆる「毒親」で、くるみはそれにすっかり洗脳されている。
この母親の「手口」は、「私はこんなに、あなたを愛している」と、言葉に出しての過剰なアピールにより、娘の感情をコントロールするというものだ。
いつも、娘に対して「愛している」アピールをし、少しでも娘が自分の意に沿わないことをしたり言ったりすると、そこで「叱る」のではなく、落ち込んで見せ、嘆いて見せる。
つまり、叱ることで自分が、見かけ上の「加害者」になるのではなく、「こんなに愛しているのに、裏切られた」と「被害者」アピールをし、娘の同情を惹くと同時に「罪悪感」や「罪責感」を植えつけ、そのことで、主体的な「罪の償い」として、自分に尽くさせようとするのだ。
無論、母親のこうしたやり方は、計算ずくのものではなく、言うなれば、直感的あるいは経験的なものだ。
母親自身の生育環境にも問題があったようなのだが、ともあれ、泣き言(被害者アピール)の多い人というのは、たいがいは半分以上は本気で自身を憐んでいるのであって、それで他人の同情を惹こうとしているという自覚(自己客観視)の無い場合が少なくない。
つまり、自覚的に「演技をしている」のではなく、直感的にそうした行動が自分に利するのを知っていて、自然にそうした態度を採る。
もちろん、昨今ではそうした「被害者アピール」を、戦略的に行う大人も増えている。
「被害者」や「マイノリティ」である「私」に優しくない人間は、自覚はなくとも「加害者」側の人間であると、そういうプレッシャーをかけることで、他人をコントロールしようとするのだ。
私が批判している、武蔵大学の教授でフェミニストの北村紗衣などは、その典型で、次のようの「被害者」属性を、自ら並べ立てている。
(1)女性
(2)学生の頃、教師からのいじめにあった
(3)発達障害であったことが、最近判明した
と言った具合だ。
この場合、(1)は自明な事実であり、殊更にアピールしなくても、フェミニズムを語ることで、自動的に、自身に有利な条件を整えることになる。
一方、(2)は完全に、事実の裏付けが示されない自己申告でしかないし、(3)も40歳にもなって、初めて診断書を書いてもらったという類いのものなのである。
つまり、これらがすべて、事実だとしても、そうした属性をずっと後からわざわざ持ち出してくるのは、それに「利用価値」があるからに他ならず、要は自覚的な後出しジャンケンの類いなのである。
だが本作の主人公くるみの母親の場合、「演技」ではなく「心からの言動」だからこそ、子供であるくるみの方は、母親のそうした態度に「嘘」を感じることができず、素直に「悲しませてしまった」と感じるほかないから、自分を責めることになる。
そして、自分を責めた結果、良かれと思って(前向きな考えだと思って)、
『お母さんを幸せにするために、私は生まれてきた。』
という、自己犠牲的あるいは、自虐的な「使命感」を持つようになるのだ。

ただ、それでも私からすれば、主人公が中学生になっても、そういう自身の感情に、少しも疑問を覚えない点については、いささか理解し難いものを感じてしまった。
小学生くらいなら、まだ世間も狭いから、親の心理的な磁場に完全に絡め取られたままということもあるだろう。
しかし、中学生にもなると、よその家庭や世間の「普通」を(友達などの人間関係からだけではなく、例えばテレビドラマや漫画などを通じて)知るようになるから、「うちは、ちょっと変かも」と思うようにもなってくるんじゃないかと、そのようにも感じたからである。
では、なぜ私にはそのように思えたのかと自身を顧みると、たぶん私の場合は、子供の頃に私たち兄弟に精神的なプレッシャーをかけて、私たちをコントロールしようとした祖母を、「怖い」と思うことはあっても、「愛してくれている」とは思わなかったからなのかもしれない。
つまり、くるみが母に喜ばれようと、その顔色を見て生活しているのと同様、私たち兄弟も、祖母の顔色を見て生活し、祖母の機嫌をとりながら生活していたとは言え、しかし、私たちの場合、祖母を喜ばせるのは、祖母に喜んでもらうためではなく、私たち自身の身を守るためであり、やむなくご機嫌を取っていただけだからである。
だから、そんな私からすれば、くるみの「母に喜ばれたい」という「本気」が、どうにもピンと来ない。
「なんで、そんなに素直に信じちゃうかなあ」という気分になるのだ。
しかし、これは彼我の「関係性」の違いを考慮すれば、くるみがそうなるのも、仕方がないのかも知れないと、そう思えてもきた。
と言うのも、私の祖母の場合は、昔の人らしく「おまえたちを愛しているから叱るのだ」みたいな歯の浮くような「綺麗事」は言わず、「おまえたちが、私の言うことを聞かない(しつけに従わない)から叱るのだ」という感じ(の力関係押し)だったからである。
つまり、私にも「しつけ」の課してくる「正しい規範」に従っていないという罪悪感はあったのだけれど、好きな人を悲しませているとか裏切っているといった罪責感は無かったのだ。
だから「愛してくれている人を裏切っている」と感じている、感じさせられている、くるみよりは精神的なプレッシャーが軽かったのではないかと、そう考えられる。
平たく言うと、私には「おばあちゃんは、うるさいから嫌いだ。お父ちゃんとお母ちゃん、早く帰ってきたらいいのにな」と、そう考えることが出来た。
「心の逃げ場所」があったのである。

ところが、くるみの場合は、自分を責める人(母)を憎むことが出来なかった。
だからこそ、その矛盾を解消するために、憎悪の矛先は自分に向かってしまい、そのせいで、母に対して「不自然に意識的な愛着」を持つことになってしまったのではないか。
つまり、心理的な「合理化(辻褄合わせ)」をしたのである。
「こんなウザいお母さん、大嫌い!」と思えたなら、それで精神のバランスを取ることも出来ただろうに、母親が「おまえをこんなに愛している」アピールをしてくるものだから、それに対して憎しみで返すということがしにくい。
「憎む」という手を、先回りに禁じられているために、「こんなに愛されているんだから、私もお母さんを愛さないといけない。お母さんを裏切るなんて、そんな酷いことはできない」と、そうなってしまうし、そのためにくるみの精神は、複雑な捻れ状態になってしまうのである。
実際、本作の中でも、くるみのボーイフレンド「塚本くん」の母親の、くるみに対する次のようなセリフがある。
彼女は、虐待についての相談員か何かをしている人なのだ。
「子供ってね、親に対してどこまでも無垢なの。たとえ虐待…ひどいことをされたとしても、親を守ろうとする」
つまり、くるみ自身は気づいていないのだろうけれど、くるみの母親のやっていることは、精神的な虐待なんだと、そう直接伝えるシーンだ。
言われてみれば、たしかにそうなのかも知れない。
子供の親に対する判断とは、しばしばそうした偏向を含んでいるということであり、ここで言う「無垢」とは、一面では「現実を知らない」という弱点でもあるのだ。
私が、くるみの心理に今ひとつ納得できないのは、私の場合は、私をコントロールしようとしたのは祖母で、私が愛したのは両親であり、つまり、愛する対象と、その必要のない(憎んでも良い)対象が別々だったから、祖母に対して、一定の心理的な距離を置くことが出来たのだが、くるみの場合は、それがひとつだったからでは、母から心理的に距離をおくことが困難だったと、そういうことなのかも知れないのだ。
だが、それでも本作に無理が感じられるのは、例えば、母親に完全にコントロールされている、「可哀想なくるみ」を強調的に描こうとしたためなのか、父親の影が極めて薄くしか描かれていない点などである。
くるみは、母親を喜ばせようと、細心の注意を払って生活をしているのに、父親は、くるみの母つまり妻に対して、そこまでは気を使わず、思ったことは遠慮なく口にして、母親の心をかき乱すのだが、それに対してくるみは、父親の無神経をこそ、心の中で責めるのだ。「私がこんなに頑張って、お母さんに幸せになってもらおうとしているのに」と。
この描写は、一見したところ、辻褄が合っているように見えるけれど、しかし、これは「くるみは、母親に完全にコントロールされている」という前提に立っての、父親の描き方でしかない、とも言えるだろう。
しかし現実には、くるみは、両親の間で育ってきたのだから、当然、その歳月の間には「どっちが正しいのだろう?」と、そう考える余地はあったはずで、だとすれば、一方的に母親のコントロール下にあるという描写には、いささか無理があると思うのだ。
父親を否定するのなら否定するなりの理由がなければならないはずなのだが、それが描かれてはおらず、まず「悪しき母子密着」が大前提としてあって、そこへ父親が、人騒がせな「脇役」のように登場するのである。
ではなぜ、こんな「偏った描写」になってしまうのかと言えば、それはたぶん「くるみの悲劇」を描くためには、くるみが、わかりやすく「母親のコントロール下にある」という状況を描かなければならないと、そう作者が考えたからであろう。
つまり、性格の違った両親がいる以上、現実はもっと複雑なのだが、「毒親の母にコントロールされた、哀れな娘」という物語を、わかりやすく描こうとしたために、父親のくるみの生育に関する影響描写が薄くなり、その結果父親は、母親のコントロール下にあるくるみを苛立たせる「無神経な人」くらいの描き方になってしまったのではないだろうか。
だが、くるみが生まれた時から、一緒に暮らしてきたのなら、母親の情緒不安定やそれに由来する子育てにおける歪み、またその影響によるくるみの抑圧された心理というものに、父親がまったく気づかないということはないと思うのだ。
くるみが完全に母親のコントロール下に服してしまう以前に、妻に対して「くるみに対する、おまえの接し方は、ちょっとおかしいんじゃないか」といったことで、夫婦喧嘩くらいにはなっているはずで、そうだとすれば、くるみは一時的に混乱したとしても、そのあと「どっちが正しいんだろう?」と考えることは出来たはずなのである。
つまり、本作におけるくるみの描写は、同情の惹ける、わかりやすく「悲惨な被害者である」というのを前提としたものとなっており、そのために、家庭の描写が不自然で片手落ちなものになっているように見えるのだ。
非常に重く繊細な問題を扱っており、そのことを、声を大にしてアピール(売り物に)している作品のわりには、ウケ狙いの「誇張にすぎる」と、そう感じられる部分が散見される。
例えば、この第1巻の後半では、くるみは、母親の「示唆」によって、好意を持っていた男子「塚本くん」と別れようとする。無論、母親を喜ばせるためだ。
娘の愛を自分だけに縛りつけておきたい、自己愛過剰の母親らしい態度なのだが、ともあれ、母親のコントロール下にあるくるみは、自己犠牲的にその(「命令」ではなく)「示唆」に従って、塚本と別れようとする。
ところが、その態度の急変の裏に母親がいるのではと察した塚本は、くるみに自分の母親に会うように勧める。
母親が、家庭問題の相談員みたいな仕事をしており、前から「君に会いたいって言っていたし」というようなことでくるみを誘い、くるみはくるみで、塚本の「誤解」を解こうと、塚本の母親に会いに行き、家庭の話をする。
すると、その話を聞いた塚本の母親は、納得した様子で「一度、あなたのお母さんにも会いたいと思っていたから、二人でうちへ遊びに来ない?」と誘い、くるみは、そんなこと、たぶん無理だと応えるのだが、塚本の母親は、私に任せてと言うと、まんまとくるみの母親を丸め込んで、母娘を自宅へ招くのである。
そして、ここまでは、さすがは、そうした相談事に馴れている人らしいといった手際の良さを見せるのだが、この後の展開がいただけない。
気難しいところのある母が、塚本の母親と機嫌よく話しているのを見て、くるみは母親が「まとも」であることを証明できたとそう安心するのだが、くるみの母がトイレで席を外した際に、塚本の母親はくるみに対して、やっぱりねという調子で、くるみに対する母の物言いは明らかに虐待的なものだと告げて、その観察から得た根拠を、くるみに告げるのである。
で、その言葉にショックを受けたくるみは、「そんなことない!」と思わず激昂し、塚本の母の首を絞めるところで、「第2巻に続く」となるのだ。

一一で、このあたりの展開が、なぜダメなのかというと、本当に有能なベテラン相談員だったなら、母親のコントロール下にある中学生の娘に、ムキつけの真実をそのまま語るような、不用意なことはしないからである。
つまり、途中までは、とても有能そうな人に描かれていたわりには、あまりにもお粗末な失敗を犯してしまうというのは、結局のところ、くるみがとり乱して塚本の母の首を絞めるという「ショッキングなシーン」を描きたかったからだとしか思えない。
ドラマ的に盛り上げるために、心理的には無理のある、矛盾した描写を選んだのである。
無論、エンタメ漫画では、ごく当たり前に見られる「誇張」なり「ご都合主義的な展開」ではあるのだが、しかし「切実な社会問題」を扱ったこの種の作品において、この種の「ウケ狙いの誇張描写」というのは、この種の問題で苦しんでいる人たちの尊厳を、その「ウケ狙いの金儲け第一主義」によって蔑ろにするものではないのかと、私にはそのように思えるのだ。
「面白ければ、ドラマチックになれば、それでいいのか」と。
まだ、第1巻であるために描写し切れなかった部分もないわけではないのだろうが、しかし、上のような描写は、単なる「説明不足」ではなく、ウケ狙いのための「やりすぎ」だとしか思えない。
例えば、くるみの母親の感情を逆撫でするのは、前述の父親だけではなく、くるみの弟・洋介もそうで、洋介は子供らしくわがままを言って、母親の感情を逆撫でし、そのことで、くるみをイラつかせもする。
しかしながら、同じ両親のもとに育った姉弟が、どうしてこうも違うのかという説明はなく、ただくるみだけが一人で母親を喜ばせようとする「悲劇のヒロイン」となっており、弟は、父親と同様の「かき回し役の脇役」に止まっていて、やはり影が薄い。
もちろん、現実には、姉の方が「責任感」を背負い込みやすいという現実もあるのだろうが、しかし物語としては、そのあたりの合理的な説明も必要であろう。
つまり、いくら本作が、「毒親としての母とその被害者としての娘」を描く作品であり、「母娘の共依存関係」を描く作品であるとは言っても、その描写は、いかにも型通りの紋切り型の域を出ず、多面的な厚みを欠いたものに止まってしまっているのだ。
まあ、くるみが塚本の母の首を絞めているところで「次巻につづく」となっても、作劇上、まさか殺してしまうわけもないから、その後の展開がどうなるのかと興味はあるのだが、しかし、第2巻の予告を見ると、どうやら、くるみに自傷癖のある女友達が出来て、そちらと共依存になるというような展開のようなのだ。

本作の本筋は、たぶん「毒親」問題であり、「母娘の共依存関係」であろうに、その描写が十分に深まらないうちに、早速次回では「自傷癖のある女友達」という、わかりやすい個性の与えられたキャラクターの登場とは、ちょっと安易ではないかと感じられて、この先がますます心配になる。
昔、大ヒットしたテレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』(1992年)という、ほとんど「変態心理ドラマ」とでも呼ぶべき異色作があって、あれはあれでエンタメとしては面白かったのだが、万が一にも「児童虐待」の問題を扱った本作が、その種の「色もの」方向に進むのなら、それは批判されて然るべきものにしかならないと、私はそう危惧している。
ともあれ、本作第1巻を読んで、いくつかの個人的な発見があった。
ひとつは、自身承知していたことだが、私は「不幸な子供」という存在に、とても心を揺さぶられるのだが、その理由を、警察官時代の経験に由来するものだと、長らくそう思っていた。
だが、本作を読んであれこれ考えてみると、どうやらそれだけではなさそうだと、気づかされたのだ。
つまり、職務で臨場した「親に問題のある家庭の、子供の不幸」を何度となく目の当たりにし、そんな子供たちの力になれなかったという負い目から、「不幸な子供」という存在に心が動かされるようになったと、自分ではそう思っていたのだが、どうやらそれだけではなく、私自身の生育環境も関係しているのではと、そう思えるようになったのだ。
そして、もうひとつの発見とは、くるみが、他人の感情に敏感な結果、その人の喜ぶことをしようとする(それで、塚本の気を惹くことにもなった)のに対して、私の場合は、他人の心理を読めるが故にその問題点を指摘したがる、という「好対照な違い」があり、この違いとは、是が非でも愛されたいという人間と、別に嫌われてもいいと思える人間の違いなのではないか、ということであった。
つまり、他人の顔色を窺い、相手のご機嫌を取ろうとばかりするような人というのは、くるみと同様の、そもそも愛情に恵まれて来なかった人なのではないかと、そう疑われるのである。
昨今では「愛」を言葉にすることが奨励され、それが苦手だとされた日本人も、そうした言葉を口にできるようになってきた。
しかし、だからといって、それで人の心が癒され、日本人の心が豊かになったというわけでもなかろう。
それこそ「毒親」の問題もそうで、いくら口先だけで「愛」を語ってもダメだ、という当たり前の事実を、同時に逆に証明するものにもなってしまったのではないだろうか。
例えば、書評でも何でもそうだが、口先ばかりの「褒め屋」というのは、くるみの母親と同様、交換条件として「だから、褒めた私のことも褒めてね(愛してね)」という、交換条件としての「毒」を差し出してくる存在なのではないだろうか。
しかし、よく言われることだが、「甘い言葉には、ご注意を」という、これも所詮は、当たり前の話なのであろう。

(2026年8月9日)
○ ○ ○










コメントを残す