▷ 書評:荒木優太『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)
先日、同じ著者の『これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得』のレビューを書いたばかりなのだが、早速2冊目のレビューを書いた。
なぜ、こんなに続けざまに書いたのかというと、前のレビューでは、かなり厳しいことを書いたので、他の本を読んで、良いところがあれば褒めてあげたいと、そう考えたからである。
私はこう見えて、けっこう優しいところもある人間なのだ(いやホント)。
じつは、前のレビューを書く段階で、私はすでに本書著書・荒木優太の著書を3冊購入していた。
他の2冊は、『無責任の体系 君はウーティスと言わなければならない』と『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』だ。


この3冊の中から、『これからのエリック・ホッファーのために』を最初に読んだのは、その前に私が、エリック・ホッファーの本を読んでいたのと、3冊の中では、この本がいちばん古かったからである。
どうせ読むのなら、古いものから読もうと、そう考えたのだ。
だが今回、すでに買ってある2冊を後回しにしてまで、新たに購入した本書を読んだのには、それなりの理由がある。
『これからのエリック・ホッファーのために』のレビューを読んでくださったある方が「厳しいですね」との感想を下さったので、私が「まだ2冊買ってあるので、そっちのレビューで、多少はフォロー出来るかも」というような返事をしたところ、その方が、今回取り上げた『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』(以下、『貧しい出版者』と略記)を「あなた好みではないか」と薦めて下さったのである。それならせっかくだしと、本書を先に読むことにしたのだ。
私はこう見えて、けっこう素直で義理がたい人間なのだ(いやホントに)。
ちなみに、よく知らない著者の本をいきなり3冊も買ったのには、それ相応の理由があった。
その理由とは、かの(日本における「キャンセルカルチャー」の代名詞たる)「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同署名の1人でありながら、長らくそのことについて沈黙を守ったままの、自称「哲学者」である朱喜哲が、批判されたオープンレターのほとぼりも、そろそろ冷めたとでも思ったのか、オープンレターの発起人の一人である、専修大学教授の河野真太郎との対談イベントを開くと知った荒木が、朱喜哲に向けて、「そろそろオープンレターの自己総括をしてはどうか」という趣旨の投稿をXにした、というのを知ったからである。


荒木優太には、朱喜哲ほかとの共著があるので、なんらかのつながりがあったのだろう。


だが、なまじつながりがあるからこそ、朱喜哲がこれまで沈黙を守ってきた「不都合な事実」たるオープンレターに触れ、しかも「自己総括してはどうか」などと言うことは、今どきの著述家には、なかなか出来ないことなので、私は荒木が「なかなか骨のあるやつ」だと思い、興味を持って何冊か読んでみようと思ったのである。
しかしまた、この肯定評価も、裏から言うならば、荒木優太が、かねてからの知り合いである朱喜哲の「オープンレター」問題を承知していながら、これまではその沈黙を黙認してきた、とも言えるわけだから、その点に、言論人としての生ぬるさを見ないでもなかった。
それでもまあ、最終的には「総括を求めた」という点については、高く評価していたのである。
で、最初に読んだのが、前述のとおり『これからのエリック・ホッファーのために』だっのだが、この本は、荒木自身の思想を直接的に書いたものではなく、「在野学者列伝」的な読み物本であった。
そのため、荒木の思想を知るという当初の目的からは多少ズレた本ではあったのだが、どんな本でも、著者の思想というのは、おのずとそれなりに表れるものだから、私は同書からもそれなりに、荒木という人物を読み取り、その結果、意に反して心ならずも、荒木を酷評することになってしまった。
予定とは違ったが、褒められないものは褒められないのだから、仕方がなかったのである。
で、私は、同書のレビューに、こう書いたのだ。
『在野(※ として)の自由と制度内における安心の二股狙いは、どちらにも不誠実なコウモリ的な態度にしかならないのだ。』
つまり、同書において荒木は、「在野学者」の側への共感を示しつつも、しかしその一方で、「大学所属の研究者」やそのシステムを、真っ向から否定した在野学者に対しては、「気持ちはわかるが、フェアな評価ではない」的な注文をつけていたのである。
たしかに、批判された在野学者の物言いは、一見したところ、十羽一絡げ的な乱暴さはあるものの、しかし、当たり前に考えれば、彼らだって、大学所属の研究者にも、有能な者も立派な者もいるのは承知の上で、そういう「例外は別にして」、大学依存の研究者やその依存的なシステムを批判したというのは、もとより、わかりきった話なのである。
にもかかわらず、荒木の書き方は、そうした「自明の前提」への配慮がなく、その字面だけをとらえて「あの人たちは、みずからのコンプレックスにとらわれて、大学システムの全体像を公平に見るということが出来なかったけれど、私にはそれが見えているから、いちがいには大学における研究システムも否定しませんよ」と、自身を不当に持ち上げ、結果としては大学(アカデミズム)に媚びてしまっていたのである。
自らの看板として「在野研究者」を名乗り、「在野」の側に立ち「大衆」の側に立つかのように振る舞いながらだ。
つまり、結局のところ荒木優太は、「在野」を名乗って「反体制」風を吹かせておきながら、しかし「体制」を厳しく批判することは絶えて無いばかりか、体制に対して露骨に敵対的だった、在野の先輩研究者については、的を外した注文をつけて「私は、あの人たちとは一味ちがって、全体の見えた人間である」アピールをしているのである。
こうした、小賢しい「二股膏薬あるいはコウモリ」的な態度について、荒木自身にどの程度の自覚があるのかは、必ずしも定かではないのだが、いずれにしろ、その点はしっかり自覚してもらわないと、実質的には「その自覚もないまま、自分のことは棚に上げて、人を腐す」ということになってしまうし、事実そうなってしまっている。
荒木は『これからのエリック・ホッファーのために』のなかで、在野学者の心得として、おかしな「孤高」意識に凝り固まることなく、人脈(コネ)は大切にしていいんだよ、という趣旨のことを書いてもいるのである。
在野研究の心得その一三
様々な人とのコネをつくっておくべし
在野研究の心得その一五
在野では独断が先行しやすい
(P11)
つまり、このような心得を他人様に語れるというのは、多少は自身にも思い当たることがあるとは言え、しかしその自覚はあるから、自分は人よりもそういう独断には陥らないという自負を持っていればこそ、ということなのだ。
自分には、並はずれた「バランス感覚」があって、ふた昔も前の在野の先輩たちとは違い、極端に走ることはないと、そう自惚れているのである。
まあ、それはそうかも知れない。
たしかに在野は、コネがなく自由だからこそ、極端に走ってしまうおそれは少なからずあるだろう。
だが、コネを作れば、それに絡め取られるのが「当たり前の人間」の弱さであるということについて、荒木には自覚と自戒が足りないようにしか見えない。
自身の弱さや危うさを知っていれば、骨のある先輩たちに、そう気やすく注文をつけたりは出来ないはずだからである。
「私なら大丈夫」という、自己過信があるからこそ、「先輩がたみたいに孤高を気取って極端に走ることなんかせず、バランス感覚を持って、使えるコネは使いますよ」みたいな荒木優太の考え方は、あまりにも自分のことを高く見積り過ぎていて不用意だと、私にはそのようにしか見えないのだ。
「権力は必ず腐敗する」という言葉があるにもかかわらず、多くの人が「自分だけは、そうならない。権力を世のため人のために使う」と、そう確信して権力の座につきながら、いつも間にか「ありきたりの権力者」に成り下がっているなどといったことは、枚挙にいとまのない歴史的事実なのである。
つまり、上の場合は「権力の魔性」ということなのだが、同じことが「コネクション」にも言えるのだ。つまり「コネの魔性」である。
自分だけは、コネになど絡めとられず、コネをうまく使いこなしてみせる、などと思っていても、多くの場合は、せっかく築いたコネクションを失うことを惜しみ、守りにまわって言うべきことを言わず、凡庸な保身に走ってしまうことになりがちなのだ。
なぜ在野は、時に「過激な発言」をするのか。
それは、「馴れ合いを峻拒することによって、自身を妥協の許されない立場へと追い込み、そのことで持てる力を出し切ろうとする」ためなのだ。
言い換えれば、多くの人は「せっかく手にしたコネなんだから、もしもの時のために温存しておこう」と考え、守りに入って右顧左眄しているうちに、一人では何も出来ない、腰のひけた人間になってしまう。
だから、そうなることを恥じ怖れる者は、自身を逃げ場のない過酷な場所へと追い込んだりもするのである。
だが、荒木優太の場合、こうした自己懐疑的な危機意識とは無縁にしか見えない。要は、自信過剰なのだ。
だからこそ、在野だ実力主義だとアピールするその一方で、コネも拒否しませんなどという二股を、平気でかけられるのである。
○ ○ ○
そして今回、2冊目となる『貧しい出版者』を読んで、そうした欠点を否定するような何かを見つけられたかというと、残念ながらそうはならず、逆に、前回の私の評価が的を射ていたという証拠の方が見つかってしまった。
結局のところ、本書『貧しい出版者』の「書き方」からして、荒木の「二股」指向は明らかで、それは、前回がたまたまそうだったというのではなく、かなり骨がらみの本質的なものだったというのが、本書で裏づけられしまったのである。

その点について、ここからは本書の内容に即して読み解いていこう。
本書『貧しい出版者』は、荒木優太の自費による処女出版『小林多喜二と埴谷雄高』の「改訂増補版」である。
オリジナルの『小林多喜二と埴谷雄高』に手を加え、さらに関連するエッセイを付録的に収録したのが、本書だ。
タイトルが、なぜ『新版 小林多喜二と埴谷雄高』ではないのかについては、荒木自身、そんな「文学研究書」丸出しのタイトルでは、今どき敬遠されて売れないから、研究書らしくないタイトルに変えたのだと正直に報告しており、その点は「潔い」と評価できよう。
本を出すからには、売れて読まれなければ意味がないし、そのためにタイトルを工夫することくらいは、何も悪いことではないからである。
そんなわけで、本書の中核を為すのは、「第一部」として収録されている長編論文「小林多喜二と埴谷雄高」である。
この論文は、なかなか面白く読めた。
私の場合、小林多喜二は『蟹工船』だけか、あと1冊くらい。埴谷雄高は『死霊』と短編集1冊しか読んでいないが、それでもこの論文を読むのに必要な部分は、論文中に引用されているから、特に苦労はなく、おおむね興味ぶかく読むことができたのだ。
この論文を読み始めて最初に感じたのは、冒頭付近の文章が、いかにも若書きであり、わかりやすく「生硬な文体」だということだった。
先に読んだ『これからのエリック・ホッファーのために』の方は、当たり前にこなれた文章だったので、「さすがに若い頃に書いて、初めて自費出版までした長編論文だけあって、むちゃくちゃ肩に力が入っているなあ」と、微笑ましく感じたのである。
実際、本書(新版)のあとがきとなる「あとがき再び 一一改題由来」には、
『誤植を直す、漢字を開く、西暦で統一する、引用を補足する、冗長な表現を削る、簡易な表現に改める、などの修正を加えた。』(P298)
とあるから、自費出版版の時(初版)は、相当ガチガチな文体だったのだろうと窺われたし、第一部「小林多喜二と埴谷雄高」の「あとがき」として収録されている、自費出版版のあとがきの、
『個人的な好みに限定すれば、小林多喜二よりもずっと埴谷雄高という作家に文章的にも思想的にも惹かれていたノンポリの私が、敬意を払いつつも、最後に埴谷の文学観に疑問を投げかけたのは、そのような気分があってのことだろうと思う。』(P195)
というのも、著者の告白を待つまでもなく、それはその文体に明らかだった。
論文の中で紹介されているとおり、小林多喜二という人は、学歴や教養のない庶民でも読める小説であることに意を砕いた人だったが、それとは真逆に、埴谷雄高という人は、独特の観念語を並べる難読文を書いて、読者に配慮することなく、自分のベストを尽くした、小林多喜二とは好対照な書き手であった。
だから、処女出版が『小林多喜二と埴谷雄高』だということであれば、著者の荒木がこの二人に思い入れがあるのは当然だし、その上で、あのわかりやすく生硬な文体を見れば、埴谷雄高から影響を受けたというのも、ほぼ明らかだったのだ。
しかしながら、好対照な二人の「共産党」関係作家を扱いながら、埴谷雄高の方から絶大の影響を受けた荒木が、この論文において最終的には、小林多喜二の可能性をこそ高く評価したという、そんな「ねじれ」こそが、注目に値しよう。
普通に考えれば、文体模倣的になるくらい大きな影響を受けた埴谷雄高の方を持ち上げて、その対照人物たる小林多喜二の方を下げそうなものなのに、荒木優太は、それをしなかった。
ご当人としては「だからこそ、あえて」というつもりのようだが、私はそうは思わない。
そうではなく、荒木優太は、本質的なところで「権威好き」なのだ。
だからこそ、文体が似るほど、あるいは似せるほど、カリスマ作家である埴谷雄高の影響を受けたのだが、そうした「孤高」タイプは、世間ウケしにくく、小林多喜二のような「弱者に寄り添う、本質的に優しい作家」の方がウケが良いということもわかっているから、結局は、自分の趣味を抑えてでも、あえて小林多喜二の方に可能性を見出すことにし、そのことで、「好きな方を褒めるという世間の常識」に反するとんぼ返りを、意識的にうって見せたのではないか。
つまり「私は、好き嫌いだけで評価しているのではない」と、そうアピールしたかったのではないだろうか。
しかし実は、「権威好き」だからこそ、それを、殊更に否定して見せたかったのではないか、ということである。
したがって、『これからのエリック・ホッファーのために』などで端的に示された、荒木優太の「在野主義」というのは、本質的な「権威主義」の裏返しではないかと、私はそう見るのだ。
権威主義者が権威主義的に振る舞うのは、ごく当たり前のことであり、その意味では、露骨かつ「凡庸な態度」でしかない。
だが、荒木優太は、人並み外れてプライドが高いから「わかりやすい権威主義者」みたいな「馬鹿丸出し」は嫌だったので、「私は権威なんていらない」と、あえて在野主義を選んだのではないか。
しかしながら、「権威好き」それ自体は、なにも悪いことではない。
本物の「権威」を奉ずるという意味での権威(尊重)主義ならば、それは正しい態度だし、「エセ権威」に対する在野的な反抗もまた当然のことなのだから、荒木優太が、その高いプライドに由来する「エセ権威主義」への抵抗を、「在野主義」として行うというのならば、それはまったく正しい態度なのだ。
だが、荒木優太の在野主義が、そうした「反エセ権威主義」的なものなのかというと、そこがいささか怪しいところに、荒木の問題がある。
長編論文『小林多喜二と埴谷雄高』がそうであるように、私が見た範囲で言えば、荒木優太のやり方は、いつでも「対照的な2項の間を行く」というものだ。
そしてその心は「どちらかに凝り固まることなく、是々非々で、両者の良いところを拾って進む」というような、言うなれば弁証法的な態度のようで、だから『小林多喜二と埴谷雄高』においても、自分は「小林多喜二か埴谷雄高か」ではなく「小林多喜二と埴谷雄高」で行くのだと、そう主張する。
「政治が文学か」ではなく、「政治と文学(両方)」であり、要は「政治も文学も」という行き方なのだ。
もちろん、考え方としては、これはまったく正しいのだけれど、問題はこうした立場は、得てして容易に「二股膏薬」や「コウモリ」的な態度に堕してしまいやすい、という現実である。
対立項の一方を決断主義的に選んだが故に、それに信念的に凝り固まるというのは、ある意味で楽だが安直だ、という荒木の考え方は、まったく正しい。
政治的なイデオロギーの世界では、よくある話である。
だが、そうならないために、どちらか一方に決めてしまうのではなく、是々非々で選んでいくというのは、理屈としては正しいのだが、その実行は極めて困難なことだ。
どちらか一方を選ぶ決断主義などより、はるかに困難な道なのである。
なぜなら、是々非々で決めるということは、どちらの仲間にもならない(なりきらない)ということであり、下手をすると、どちらからも信用されず、どちらからも敵視される「孤立無援」の立場に置かれてしまう可能性も低くはないからである。
どちらにも忠誠を誓わず、我が道を行くというのは、どちらかに忠誠を誓うことで身分保証を受ける立場などとは比較にならないほど困難な道であり、要は「孤立無援」を恐れないで独りで進むしかない、という道なのだ。
私はまだ読んではいないが、本書でも言及されている高橋和巳には『孤立無援の思想』というエッセイ集があり、そこで語られているのは、たぶんそうした覚悟なのであろう。
ところが、荒木優太の場合、前述のとおり、
『様々な人とのコネをつくっておくべし』
と、他人様にもそう助言するほどの「プラグマティックな現実主義者」なのだから、「孤立無援の覚悟」など、持てるはずがない。
いつでも「捨てる覚悟」のあるものを、人はせっせと集める生活など、出来るものでもなければ、そんな無駄なことをしようとは考えないのである。
したがって、荒木優太の、「あれかこれか」ではなく「あれとこれ」主義は、ほぼない間違いなく「あれもこれも」となってしまい、「どれも捨てられない」から、余計なことはしないし言わないで、自分の財産をしっかり抱え込み、右顧左眄しながら「うまくやっていく」ということにしかならない蓋然性が、きわめて高いのである。
実際、荒木優太の問題点は、本書の「新序文 つながり一元論」に露わなのだ。
本書において、いきなりこれを読まされた私は、「こりゃあダメだ」と最初から唸らされてしまった。
「せっかく、褒めるつもりで読み始めたのに、いきなりこれかよ」と、カウンターパンチを食らった気分になったのである。
一一どういうことか。
それは、荒木優太がこの「新序文」で書いているのも、やっぱり、自分は「あれかこれか」ではなく、「あれとこれ」て行くということなのだが、やはりそれは、威勢よく言うほど、そううまくはやれそうもないというのが、端から透けて見えてしまう程度のものなのだったのだ。
荒木はこの「新序文」で、まさに「コネ」の問題を論じている。
ここで論じられている「つながり」とは、無論「コネクション」のことだ。
荒木は最初に、誰もがつながりたがる世相について、否定的な意見を紹介するのだが、その途中から、論調がどんどんと「つながり乞食で、なにが悪い。人様に説教などされなくても、それくらいのことは重々承知しているよ」といった、反発心むきだしの調子に変わっていくのだ。
『私たちがつながりにいかんともしがたく魅了されてしまうのは、つながりがつながりにつながっていると信じているからだ。
偉い先生と知り合いになったり、有名な編集者の名刺をもらったり、はたまたTwitter(※ 現「X」)でフォロワー数大のユーザーにフォローされて嬉しいと感じるのは、その向こう側に、自分にとって未知なる(しばしば権威的な威光につつまれた)世界とのつながりを予感するからだ。知らない人が知らない人の仲介役になって、知らない世界にアクセスできるように感じる。まるで世界が(即ち自分が)広がったかのような感覚。未知なるものが無限にあるのならば、必然、自己も無限に拡張せねばならない。
ツテや人脈、当世風にいえばネットワークが与える特有の陶酔というものがある。そして今日、あまねく広がる情報の技術的環境が、その陶酔へと絶え間なく私たちを誘惑していることはことさら確認しておくまでもない。
対して、私たちは、つながりを求めてする振る舞いが、どこか下卑たものであることもなんとなく直観している。だから、人脈を必死に開拓していく様を「意識高い」と(※ 皮肉に)形容するとき、その言葉には自己拡張の俗情を隠さない貪欲さへの揶揄の調子が含まれている。そして、これにつづいて(※ つながり乞食批判者から)語られるのは、自分の半径五メートルを改めて眺めてみよ、本当に大切にすべきつながりが既にあるじゃないか、だとか、孤独のなかでこつこつと考え抜いたものだけが真に価値あるものなのだ、といったありがたいお説教だ。』(P10〜11)
と、こんな具合なのだが、ここから先はさらに進んで、「そういうお前らこそが、実はつながりが欲しくてたまらない、つながり乞食なんじゃないのか。そんな自分を隠すために、他人の欲望を論って、マウントを取ってるだけじゃないのか」といった「説教批判の説教」にヒートアップしていくのである。
一一下は、前の引用文の続きだ。
『 しかしながら、この説教者はどうしてわざわざネットワークの餓鬼に向かって偉そうに説教など垂れるのだろうか。何の得があるわけでもなく、宙に投げ出された言葉が浪費されるとき、そこにはつながりへの隠された欲望が垣間見える。説教とは、本来ならばつながらなかったものを無理矢理にでもつなげようとするための方途の一つなのではないか。言葉が届いて、納得されて、布教によって自分の四肢のような同胞が増える悦び。つながり批判の説数は決してつながりへの欲望を否定しない。むしろ、つながり批判を介してつながりを確保し、つながりの触手を水面下で四方八方に伸ばしている。
デモに行かなければ社会は変わらない、民主主義を守るために選挙に行こう、多くの人と対話するのが大切だ云々、といった意識の高い政治的紋切型に対して皮肉な調子で発される、奴らは思慮の足らない連中だ、ポピュリズムに流されているだけ、真性の知性は孤独のなかで邁進する、といった、(※ つながり)意識を低めよう(※ 貶めよう)と画策する別の「意識高い」紋切型。拮抗するようにみえても、本当には対立などしていない。どちらも自分のフォロワー(追随者)を増やそうと必死なだけだ。どちらもネットワークに憑かれ(疲れ)ている。』(P11〜12)
要は「つながり乞食はつまらないと言っているお前こそが、実は誰よりもつながり乞食だというのは、私には見え見えなんだよ」という、言うなれば「逆捩じ論法」なのだが、しかしこれは、容易に反転してしまう、ブーメラン論法でもある。
つまり「つながり乞食はつまらないと言っているお前こそが、実は誰よりもつながり乞食だというのは、私には見え見えなんだよ一一と、そう言うあなた自身が、つながり乞食である自分が、つながり乞食ではないと、よっぽどそう認められたい、言い訳がましいつながり乞食だというのは、私には見え見えなんですよ」ということにもなるからだ。
荒木優太の「つながり乞食だと人を批判する者の方が、実はより悪質なつながり乞食だ」という「馬鹿と言うおまえの方が馬鹿だ」論法の、根本的な弱点は、暗に、自分は「つながり乞食ではない」と主張している点なのだ。
荒木がここでやっているのは、「わかりやすい、つながり乞食」と「わかりにくい、つながり乞食」の「間」に入って、「どっちも、つながり乞食だよ」と客観的な評価を語る「客観的判定者」の立場に立つことであり、それは暗に「自分は、どちらでもない(から、つながり乞食ではない)」と、問わず語りにそう主張してしまっている点にある。
だが、先の引用文を読めば、荒木優太自身が「つながり乞食」なのは、一目瞭然なのだ。
だから、この「どちらかではなく、その間を行く」という戦法は、完全に失敗しているのである。
ではなぜ、こんな自ら墓穴を掘るような、幼稚なやり方(「馬鹿って言う方が馬鹿だ」論法)を選んでしまうのかと言えば、それは荒木自身、自らの欲望に対して人並みに弱いのに、それを認める胆力がないからである。
「コネ」の問題は、こんなに必死になって、お互いに「おまえこそが、つながり乞食だ」などと言い争うまでもない問題なのだ。
言い争うこと自体が、弱さや愚かさの証明にしかなっていない。
では、どうすれば良いのか?
簡単である。
「私もあなたも、みんなつながり乞食なんだ」と、そう認めてしまえば良いだけなのだ。
そう認めてしまえば、無意味な罵り合い、「つながり乞食」レッテルの貼りつけ合戦などという下らないことをしなくて済む。
そもそも、みんな「つながり乞食」なんだから、そんなことしたって切りがないというのは明らかなんだし、それに気づけば、そんな馬鹿なことは、お互いにやめておこうということにもなるのである。
だから、「みんな、つながり乞食なんだよ。無論、私もそうだ。だから、お互い、みっともない否認合戦はやめて、お互いに、あんまりみっともない、つながり乞食ぶりを見せないで済むよう、注意し合おうよ」と、そう考えれば、「いまの君、つながり乞食ぶり丸出しだよ」と注意されても、「あっ、しまった。つい、やっちゃった。もうちょっと自制しなくちゃ」と、そう思うだけで、そう指摘してくれた人に対して、必死の形相で「そう言うおまえこそが、つながり乞食だろうが!」などと言い返さなくても済むのである。
一一なにしろ相手は、他人に指摘されるまでなく、自身の「つながり乞食」性を認めているのだから、それを指摘しても、なんの意味もなく、滑稽なだけだからである。
つまり私たちは、自分自身が「つながり乞食」であることを認めてしまえば良いだけなのだ。
実際それは事実なんだし、自分だけではなく、たいがいの人はそうなんだから、別に恥ずかしがるほどのことでもないのだ。
むしろ、その程度のことを必死に隠そうとする人というのは、「無駄にプライドが高い愚か者」ということにしかならず、その自己証明にしかなっていない。
だから、「無論、私もつながり乞食だからわかるんだけど、いまの君は、つながり乞食ぶり丸出しで、ちょっとカッコ悪いから、もう少し引っ込めた方がいいよ」と助言し、そう言われた方は「あっ、そうでした」と言って、頭でもかきながらテヘペロすれば、かえって大したやつだということにもなるのである。
そんなわけで、いかにも若者らしく自意識過剰であるため、肩の力を抜いた「テヘペロ」ができない本書執筆時の荒木優太は、次のように、悲壮感まで漂わせながら、この「つながり乞食」問題について、「第三の道」っぽいものを大仰に示してみせるのである。
『 つながることに躍起することで、きっと私たちはどんどん貧しくなっていく。毎月のように本を出す粗製乱造作家を見よ。内実がだんだん空疎なものになっていく。ただただ紙層だけが増える。正しい。けれども、富むことも貧しくなることもない確固たる自分に安住することよりも、つながりを選ぶにしろ、つながりを否定するつながりを選ぶにしろ、つながりに賭けるときに不可避的に生じる、この本質的な貧しさから出発したい。それが、餓鬼も説教者もどちらも斥けることなく、つまりは、そのどちらでもありうる自分自身とつながったまま前進できる稀有な道筋だと思うから。
ネットワークがあってネットワーキングがあるのではない。先走ったネットワーキングだけがネットワークを結ぶ。そして、結びそこねる。
ドストエフスキーの長編小説『悪霊』にリプーチンという中年の小役人がいた。リベラル派で市内では無神論者で通っていたが、家庭では絶対服従の亭主関白を強要するこの小人物は、世界的革命組織の中央委員会につながっている(とされる)五人組のサークルに所属しているものの、裏切り者の仲間を殺す必要に直面して動揺を隠しきれず、ずっと抱いていた懐疑心を吐露してしまう。『小林多喜二と埴谷雄高』というかつて自費出版された私の処女作は、彼のその言葉をエピグラフにしている。
さて、リプーチンのつぶやきとはどんなものだったか? 次の頁に目を移して欲しい。政治と文学の不思議なつながりをめぐる、貧しくも冒険的な文学研究の始まりである。』(P15〜16)
こんな感じで、最後はドストエフスキー御大が登場して、なにやら重々しく権威主義的な決着がつけられたかのように語るのだが、「正解はこれだ!」と最後に示されるのが、自身の処女出版だというのは、あまりにもあまりな「オチ」ではないだろうか?
ともあれ、ここでも、荒木優太の結論は、「あれかこれか」ではなく「あれとこれ」の間を行くというパターンである。すなわち、
『餓鬼も説教者もどちらも斥けることなく、つまりは、そのどちらでもありうる自分自身とつながったまま前進できる稀有な道筋だと思う』
というやつである。
だが、すでに書いたように、このやり方は、容易に「二股膏薬」や「コウモリ」的な態度に転化する。
なにしろ、自身の「つながり乞食」性すら率直に認められない、意志薄弱な見栄っ張りが、そんな綱渡りを、無事に渡りおおせるなどとは到底思えないからだ。
だから、私の答は、ずっと簡単で、しかもプラグマティックである。
つまり「私も君も、つながり乞食なんだよ。そう認め合った上で、お互い、あんまり恥をかかないで済むよう、声を掛け合おうじゃないか」と、そういうことになるのだ。
だから、見栄っ張りの笠井潔みたいに、私から「(女の子に囲まれて)ニヤけてますよ」と、冗談半分で指摘され、それに対し半分本気で「また君はそんなことを言う」なんて言うのではなく、「そりゃ当然だろ」と笑って返すくらいの方が、よっぽどカッコいいのではないだろうか?
だから私は、荒木優太にもそれを期待して、助言したいのだ。
無名の私がこう書いたからと言って「そうして、マウントを取る気だな!」なんて言わない方が、絶対に良いと思うのである。
『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫でまわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』
(笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)
荒木優太には「転んでも、また立ち上がればいい」というシャリバン主義を期待したい。
(2026年8月7日)
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