▷ 映画評:ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』(1973年/スペイン映画)
まず、最初に断っておきたいのは、本稿は「二層構造」になっているという点である。
そしてこの二層構造は、本作『ミツバチのささやき』という作品の構造に、対応したものでもある。
『ミツバチのささやき』は、普通の意味において「難解な映画」だ。
だから、予備知識のないまま見ても、その「意味するところ」を、ほとんど理解することはできないだろう。
だがまた本作は、意味がわからなくても「映像を見ているだけで楽しめる作品」になってもいる。
つまり、言うなれば「一粒で二度美味しい」という二重の価値において、本作はまぎれもなく「傑作」なのである。

だから本稿では、『ミツバチのささやき』のそうした構造に倣って、まずは本作の、意味はわからなくても十分に楽しめるという「映像作品としての魅力」の根拠について、十二分に論ずることにした。
そしてその後に、「物語の意味するところを理解できれば、もっと楽しめる」ということを伝えるために、本作における、象徴としての「フランケンシュタインの怪物」の意味を深掘りすることにする。
したがって、本稿の前半では、本作『ミツバチのささやき』とは直接関係のない議論を延々と綴っているが、本稿はそれに終わるものではなく、後半では「映画(そのものの)の分析」を行なっているので、出来ることなら、頭から順に読んでほしい。
しかし、映画に直接関係のない、「偏見というものについての哲学的な議論」になど興味がないという方は、前半をとばして、後半だけを読んでもらってもかまわない。
前半の(普通の映画ファン向けではない)議論に呆れて、最後まで読んでもらえないよりはマシだと考えるからである。
○ ○ ○
さて、この映画で最初に目を惹くのは、なんといっても、主人公の少女アナ(アナ・トレント)の可愛らしさだろう。

ただし、可愛らしさといっても、「愛嬌がある」という可愛らしさではなく、とにかく「美しくて可愛い」のだ。
「幼女における理想的な美しさ」とでも言えようか。
「愛嬌」というのが、顔の造作に関係なく、「性格」やその表れとしての「表情や仕草」に表れるものなのに対して、アナの可愛らしさは、「見た目」だけで、すでに「幼女としての美しさ」を完璧に備えている。
そして、幼女における外見的な美しさを構成する要件のひとつとなるのが、「無垢」という性質であろう。
「無邪気」と言っても間違いではないが、「無邪気」という言葉は、人間は大人になると「邪気」をはらんでしまうものであり、子供の場合は、まだその「邪気」が発現していない、というようなニュアンスがあるように思える。
それに比べてと、「無垢」というのは、人間は最初は「汚れなき状態」つまり「無垢」として生まれてくるのだが、それがこの地上の穢れによって、徐々にうす汚れていくという含みがある。
つまり、「無垢な子供」とは、「地上的なるもの」ではなく、むしろ「天上的なるもの」だと、そうイメージされているのだ。
だから、「無垢なる子供」というのは「天使」に喩えられもするのだが、その意味するところは「聖なるもの」だということなのであろう。
「幼い子供」のことを「美しい」などと言うと、すぐに「小児性愛者(ペドフェリア)」のことが連想されて、なにやら許すまじき感情でもあるかのように受け取られることの少なくない昨今なのだが、しかしそれは、それだけで言うのなら、所詮は「汚れた大人たち」の邪推・偏見のたぐいでしかない。
私が若い頃、「ロリコンブーム」というのがあった。
これは「幼女に、性的に惹かれる」という「ロリータ・コンプレックス」通称「ロリコン」に関わるもので、要は、漫画やアニメなどに描かれた「美少女(美幼女)」を偏愛したり、それが昂じて、実際の少女に性的な関心を持ったりする若い男性が、にわかに増えたことに由来するものだった。
この「ロリコンブーム」には、「無垢」の問題が絡んでいたと私は見ている。
なぜなら、男性が幼女に魅力を感じるのは、たぶん「大人の女性」の強かさに疲れたからだろうと、そう見るからだ。
昔とは違い、女性は男性につき従うものではなくなった。自立するようになった。
当然、男性は女性に対して、対等の人間として遇し、相応に気を遣わなければならなくなった。
だから、幼い女性なら、それこそ可愛いペットでも愛でるように遇しておけば良いという、そんな安心感をそこに見出したのではないかと、そんなふうに見たのである。
つまり、「無垢」というのは、「聖なるもの」であると同時に、その「反地上」性において、人に安心を与えてくれる性質もあるわけだ。
しかしながら、だからといって、「子供」を性愛の対象にすることに対しては、それが動物的な本能に反するものとして、おおかたから(直観的な)嫌悪が向けられることにもなる。
子供は性愛の対象であってはならず、にもかかわらず、それに「性的な視線」を向ける者は、おぞましき「変態」である、として憎まれたのだ。
そしてそれは今もなお、常識的なものとしてそうであり、そうした性向は「幼児性愛者(ペドフェリア)」という嫌悪の対象として公認され、法規制の対象にもなっているのだが、しかし実のところ、一一事はそんなに簡単な話ではない。
というのも、「変態」というのは、「アブノーマル」ということであり、要は「ノーマルではない」ということだからだ。
つまり、「ノーマル(普通・多数派)」に対して、「変態(アブノーマル・非普通・少数派)」だということなのだが、今の時代においては、「LGBTQ」つまり「レズビアン(女性同性愛者)・ゲイ(男性同性愛者)・バイセクシャル(両性愛者)・トランスジェンダー(肉体の性と心の性が一致しない人)・クエスチョニング(その他の特殊な性的特性の持ち主)」の権利が認められるようになってきたからである。一一要は、
「多数派だから、自明に正しいのか? 少数派であり、いわゆる普通ではないということは、すなわち悪なのか?
しかし、すべての生物には例外的な存在が含まれており、その例外を含む状態こそが自然なのであれば、少数派の存在は、むしろ自然状態としての自明な前提として、多数派と同等の存在価値を認められて然るべきではないのか?」
と、そのように考えられるようになってきたからである。
しかし、こうした「リベラルな理想」も、そうした理屈だけで、簡単に片づく話ではない。
というのも、この「LGBTQ」の「Q」とは、元来、あらゆる「性愛のかたち」を含意していたからで、具体的に言えば、そこには小児性愛者や動物性愛者、あるいは屍体愛好者なども含まれると理解されたためだ。
つまり、私たちが現在、当たり前にその権利を認めようとしているのは、せいぜい「LGBT」でしかなく、「Q」の小児性愛者や動物性愛者あるいは屍体愛好者などまで認められるべきだとなると、「ちょっと待てよ」という話にもなってしまったわけである。
そしてまた、そうした世間の反応の結果、「LGBTQ」の内部においても、世間の多数派である「ノーマル」から「同等の権利」を認められるためには、「Q」である「小児性愛者・動物性愛者・屍体愛好者など」まで、正当な権利の認められるべき「性的少数者」の仲間に入れるのは「政治的に不都合だ」という計算が働いて、性的少数者たる「LGBTQ」の内部でも、「Q」の切り離しが行なわれてしまった。
「あいつらなんかと、一緒にするな」と。
つまり「性的少数者」の中にも「正常と異常」の線引きが設けられてしまったのである。
したがって、現在「LGBTQ」という言葉を使う場合は、「Q」の中身を曖昧にし、誤魔化していることが少なくない。
要は「私たちは、すべての性的少数者の権利を主張する」と言いながら、実はそこに「小児性愛者・動物性愛者・屍体愛好者などの、不都合な存在」は含めていない場合が少なくないのである。
だからまた、「LGBTQ」ではなく、「LGBT」という、ひとつ前の言葉を意識的に使う人たちもいて、これは「私たちは、Qまで認める、何でもあり、というわけではありません」という「多数派(マジョリティ)」に対する「媚び」を、暗にアピールするものだったりもするのだ。
そんなわけで、多くの場合、小児性愛者は、「LGBT」の権利を主張する人たちからさえも「差別」された存在なのだから、無論、多数派における一般社会においては、「小児性愛者」とは、「論外」の唾棄すべき「変態」であり、「許すまじき性的犯罪者(予備軍)」だと、そのように見られてしまうのも、もはや止むを得ないところなのであろう。
性的少数者の中ですら、差別されている(どこにも擁護する者のいない)「完全な弱者」だからである。
哲学者ジュディス・バトラーが、「性別(ジェンダー)というものは、行為遂行的な社会的制度にすぎない」という趣旨のことを、その主著『ジェンダー・トラブル』で語ったのだが、これは平たく言えば、
「性別とは、社会を運営する上での、便宜的な制度的フィクションであり、男女という二極的性別観とは、現実を単純化し、図式化したものにすぎない。現実には、性とは、その二極だけがあるのではなく、その二極性の間に、グラデーションを成して存在する中間的な性の総体として存在するものなのだ」
というようなことなのである。
だが、ジュディス・バトラーのこの主張を、まともに理解できる人は、少ない。
なぜなら、この考え方は、私たちの依って立つ社会を根底で支えている「男女二元論」というものを揺るがす、危険な世界認識だと、そのように感じられてしまうためだ。
つまり、頭が悪くて理解できないのではなく、頭が良くても「そんなふうには考えたくない」という人が少なくない。
「これまでの当たり前を、当たり前なのだと信じたい(その方が安心できる)」という人が多いから、そうしたラディカルな考え方を、頭から問答無用で否定したいと感じる、「頭の良い(固い)人」も少なくないためだ。
で、私がここでジュディス・バトラーの議論を持ち出したのはなぜかというと、要は、人間というのは「普通」、自分たちがそれまで「信じてきた常識」に(保守的に)しがみつくものであり、自分の「当たり前」を疑うことのできる者は、少数例外でしかない、という事実を指摘したかったからである。
したがって、同様に私たちは、「動物的な本能」において「子供」を守ろうとし、「小児性愛者」を憎むわけなのだが、そもそも一一「子供とは、何歳までなのか?(大人とは何歳からなのか?)」という基本中の基本問題を、あっさり看過しがちなのではないだろうか。
と言うか、普通はそこまで考えずに、その時代やその地域の「常識」を、自明の「真理」であると信じ込んでいる。
(あるいは、それとは真逆に、それは翻されるべき旧弊だと、イデオロギー的に信じて、真正なる教条として強制しようとする者もいる)
ジュディス・バトラーのように、常識を疑って、物事を根本的に考えてみるという「哲学的思考」のできる人は、どちらを向いても滅多にはおらず、おのずと1000人に1人もいないということになるのだ。
しかし、歴史的事実としては、我が国においても、女性の場合だと、昔は十代前半での結婚など決して珍しいことではなかったし、当然それは「罪悪」でもなければ「犯罪」でもなかった。
それどころか、江戸時代なら、女性は20歳前後で「年増」呼ばわりされ、25歳前後で「大年増」。
昭和に入ってさえ、25歳までに結婚していないと、「行き遅れ」呼ばれわりされたのである。
つまり、「子供」と「大人」の間には、本質的な「境界線」など無いのだ。
だから、場所により時代によって、「大人」というものの「社会的な年齢設定」が変わってしまうのである。
昔の「大人と子供」を区切る年齢設定が低かったのは、たぶん労働人口の確保が求められたからであり、またそのためには、早く結婚してたくさん子供を作るべきだという了解が、社会一般にあったためであろう。
だから、いつまでも、働けないし子供も作れない存在としての「子供」であってもらっては困るので、「子供」の年齢設定は、今より低くされていたのではないだろうか。
言い換えれば、「子供」の年齢設定が高くなったのは、技術的な近代化によって、社会が昔ほどの労働人口を必要としなくなったからであろう。
非力な若年者にまで働いてもらう必要がなくなったため、働かなくてもいい「子供」の年齢設定が、引き上げられたのである。
ところが、知ってのとおり、現在の先進国では、出生率の低下により、労働人口の確保が困難になってきた。
そのため、少子化対策が行われているのだが、これが、どうにも功を奏していない。
ではなぜ、昔のように、性行為が可能になれば「大人」だと認めて、結婚年齢も下げるというようなことができないのかと言えば、それはたぶん、これまでの「当たり前」の年齢設定を変えるのは、心理的な抵抗が大きいからであろう。
つまり、「少子化になったから、結婚年齢を下げてでも子供を作れというのは、保護されるべき子供たちを、出産機械化するのも同然の非人道的な考えだ」と、そのように感じられるためではないだろうか。
だが、いずれにしろ、物理的・生物学的に言えば、「男女二元論」以上に、「子供と大人の境界線設定」は、慣習的なもの(フィクション)でしかない、ということになろう。
だとすれば、男性が(あるいは、女性が)、本能的に「若い異性」に惹かれるのは当然のことだし、時に「十代前半の子供」に性的に惹かれるのも、歴史的に見て、なんら不自然なことでも、異常なことでもないと言えよう。
また、中には、それより幼い子供に性的に惹かれる者がいたとしても、そうした例外者を「異常」と呼ぶことさえ、じつは不適切なことなのかもしれない。
なぜなら、彼(女)らは単に「例外的な少数者」でしかないからである。
「悪意」があって、「故意」にしていることではない、からだ。
以上のような科学的な議論を踏まえた上で、話を「ロリコン」に戻すと、もはや「ロリコン」や「小児性愛者」を、自明な「悪」だと呼ぶことはできなくなる、というのが理解できよう。
彼らは、特殊例外的に「幼い子供に惹かれる」のてあって、「子供を傷つけようとしている」のではないのだ。
結果として、そうなってしまう場合もある、というに過ぎないのである。
例えば、DV傾向を持つ男性が女性と結婚するのは、DVするためではない。結果としてそうなってしまう「例外的な存在」だったということでしかない、というのと同じことなのである.
だから、「子供を傷つけない」という他者の人格尊重を条件とするのならば、「小児性愛者」が、幼い異性とつきあったり結婚したりすることは、なんら罪悪ではない。
性行為を無理強いしたりしないというのであれば、愛し合う者どおしで、結婚でもなんでもすれば良いのである。
これは「大人の男女」の結婚であっても同じで、いくら正式に(法的に)結婚した夫婦であっても、片方の都合だけで、もう片方に性行為を強いる権利はない。
それをしたら、(今では)それは「強制性交(強姦)」という犯罪なのだから、「性行為の無理強い」が犯罪であることに、元来「年齢・性別は無関係」なのである。
したがって「小児性愛」自体は、「悪」ではない。
それに伴って、時に発生する「性行為の無理強い」が、問題なだけなのだ。
そして以上は、「小児性愛」についての、論理的な考え方なのである。
だから、話を本作『ミツバチのささやき』に戻せば、多くの男性が(そして女性さえもが)、主人公のアナに、特別な魅力を感じるのは、ごく自然なことであり、その感覚を否定すべき理由などはないのだ。
すなわちそこに、「小児性愛(ペドフェリア)」の「悪徳」を見るのは、悪しき「過剰解釈」なのである。
こう言ってはなんだが、私たちは生き物として、年をとった異性(や同性)よりも、若い異性(や同性)に本能的に「魅了される」ように出来ており、それはごく自然の本能(ノーマル)にすぎない。
したがって、本作主人公のアナに惹かれるのも「当たり前のこと」でしかないのだ。
実際、本作の日本語版Wikipediaの「作品の評価」の項目も、こんな調子である。
『高橋源一郎は「どうして外国の子供はあんなに可愛いのだろう。あれでは『天使』という概念がうまれるのも無理はない。もちろん、ぼくは国産の子供たちを差別しているわけではない。ぼくはどちらかといえば国産愛好者で、外国の女優さんは好みではない。だが子供は違う。もちろん外国の子供たち全てが、映画に出てくるように可愛いわけではないだろうが、可愛い子供はもう絶望的に可愛い。『ミツバチのささやき』のパンフレットで淀川長治さんも挙げていた『汚れなき悪戯』のパブリート・カルボ、『鉄道員』のエドアルド・ネヴォラも可愛かったし、『ペーパー・ムーン』のテータム・オニールも『小さな恋のメロディ』のトレイシー・ハイドも可愛かった。『罠にかかったパパとママ』のヘイリー・ミルズなんてもしかしたら日本にぼくしかファンは残ってないかもしれない(中略)子供が出演した最高傑作はぼくの場合『ダウンタウン物語』に尽きる。登場人物が全員子供なんだから当たり前か。日本映画ではなかなか名前が浮かんでこない…」などと論じている。』
(Wikipedia「ミツバチのささやき」)
これが「作品の評価」かよ、と呆れた人も少なくないだろう。じつは、私もそうだった。
だが、ここで肝心なことは、これが「作品の評価」として紹介されているのは、本作においては、それほどまでに「アナの魅力」が絶大だった、ということなのである。
「アナの可愛らしさ」を語らずして、本作の魅力の語るのは、ほとんど「偽善」。
「ロリコン」呼ばわりを怖れた者による「偽善」としか考えようがない、いうことなのだ。
しかし今なら、物議を醸すのをおそれて、高橋源一郎や淀川長治だって、上のようなコメントはできなかっただろう。
私は、こうした「時代の強いる欺瞞性」の問題を強調せんがために、ここまで長々と論じてもきたのである。
だから繰り返すが、本作の魅力とは、まず第一に、主人公の少女アナの魅力に他ならない。
そして、アナの魅力とは何かと言えば、その「無垢」なのだ。
また、その「無垢」が何を意味するのかと言えば、それは「天使」のイメージによって象徴される「天上性」であり、「天上性」とは何かと言えば、それは、この「地上性」を超えていく契機であり、その力なのだ。
そして、本作に即して言えば、アナの無垢とは、本作製作当時のスペイン、つまり独裁国家スペインの「地に堕ちた現実」から逃れて、飛翔するための契機(天使の翼)を象徴するものだったのである。
○ ○ ○
以上のとおり断った上で、ここからは、本作の「秘められたテーマ」について、論じていくことにしよう。
本作『ミツバチのささやき』は、一見して「難解」な作品であり、ただただ主人公アナの魅力ばかりだけが目につくというのは、決して故なきことではない。
なぜなら、私たち日本人の多くは、スペインの近代史については、ほとんどまったく無知だからである。
私たちはスペインと聞いて、何を思い出すだろうか?
まずはフラメンコであり、最近ではなんといっても、アントニオ・ガウディのデザインした大聖堂サグラダ・ファミリアであろう。
あるいは、サッカーファンなら、当然サッカーであろうか。
だが、そんなスペインが、第二次世界大戦後も長きにわたって、「独裁国家」であったと言う事実を認識している日本人は、ほとんどいないのではないだろうか。
一一かく言う、私自身がそうだったのだ。
本作『ミツバチのささやき』が作られた、1973年は、その「独裁政権」がまだ続いていた時期であり、その2年後になって、やっと戦前以来の独裁者フランコの死をもって、スペインは民主国家に生まれ変わるのである。
普通、私たち日本人は、第二次世界大戦においては、連合国の勝利によって、「全体主義国家」や「独裁国家」は倒されて、「民主化」がなされた一一と、そう理解しているから、戦後も長らくスペインが独裁国家だったという事実が、どうしてもピンと来ない。
そのため、なんとなく、戦後のスペインも「民主国家だったのだろう」という、誤ったイメージを持ちがちなのである。
だが、こうした誤解には、スペインの特殊な近代史が絡んでいたのだ。
だから、そのあたりの歴史を、まずはWikipediaから紹介しておこう。
『1931年4月の1931年4月12日地方自治体選挙により共和派が勝利、ブルボン朝のアルフォンソ13世が退位すると、共和派、農民、労働者、知識人は当時のソ連の繁栄の影響を受け、社会主義政権発足を目指し始めた。 当時スペイン国内に散在していた共産党をはじめとする左派政党をまとめ上げ、1936年2月16日の総選挙で右派を抑えて勝利、左翼共和党のマヌエル・アサーニャを首班とする挙国一致内閣を成立させた。これは、フランスのレオン・ブルム政権とともに、ソ連がコミンテルンを通じて各国の共産党に社会主義勢力や自由主義勢力との連合政権樹立を指示した人民戦線戦術の成功例であった。
これに反対する陸軍を中心とする軍部、右翼、地主、旧貴族、王党派、カトリック教会などの保守階級はエミリオ・モラ准将を首謀者として当時ポルトガルに亡命していたホセ・サンフルホ中将を推し、ナショナリスト軍(反乱軍)を結成、1936年7月18日、スペイン領モロッコにて人民戦線政府に対し反乱を起こす。これを受け、カナリア諸島に左遷されていたフランシスコ・フランコ師団将軍はメリリャに革命本部を置き、軍を掌握してスペイン本土各地でも陰謀に加わった将校が蜂起、またたく間にスペイン全土に反乱は拡大した。共和国側は結局首都マドリードやバルセロナなどでの蜂起の鎮圧には成功したものの、ナバーラやセビリヤ、ガリシア、アフリカの植民地は反乱軍に押さえられてしまい、事態はクーデターから内戦に発展してしまった。こうしてスペイン内戦が開始された。
反乱が発生した翌7月19日、左翼共和党のサンティアゴ・カサーレス・キローガ首相が辞任。時局収拾を図るために共和連合のディエゴ・マルティネス・バリオが首相に就任したが、1日も政権を維持することができなかった。その日のうちに再び左翼共和党からホセ・ヒラル・ペレイラが首相に立ち組閣を行ったが、混乱を収めることはできなかった。
同年8月中旬には、全土の大半が反乱軍の勢力下となり、首都マドリードも包囲された。同年11月7日、反乱軍が市内に突入して市街戦になり、政府機能がバレンシアに退避した。この間、同年9月4日にバスク地方のイルン陥落を期にホセ・ヒラル・ペレイラ内閣が総辞職、スペイン社会労働党からフランシスコ・ラルゴ・カバジェーロが首班となり第四次人民戦線内閣が成立した。
ソビエト連邦をはじめ、世界各国の社会主義政党、共和派、反ファシズム勢、国際旅団の援助を受け人民戦線はしばらくは持ちこたえたものの、ブルム政権が短命に終わった後のフランスや、人民戦線政府内で勢力を拡大しつつあったスペイン共産党を嫌ったイギリスやアメリカ合衆国は不介入を決定した。一方、ファシズム政権の誕生を期待した(※ ヒトラーが首相に就任した年の)ドイツ、イタリアなどのファシズム国家の大量の軍事支援を受けた反乱軍は、圧倒的軍事力で人民戦線を壊滅に追い込む。
その後、拠点の一つであったカタルーニャ地方バルセロナが陥落したことで1939年2月に人民戦線政府は国外に亡命、4月にナショナリスト軍は首都のマドリードを攻め落とし内戦は終結した。
人民戦線の敗因は社会主義政党間の不和や寄せ集めの軍備で対抗したことなどで、その後に多くの課題を残した。』
(Wikipedia「スペイン人民戦線」)
つまり、長らく続いた「王政」が、1931年の選挙で倒れ、ソ連の影響を受けた民主社会主義政権が生まれた。
しかし、それに対して、右派やキリスト教会などの保守層の支持と、ドイツなどの全体主義国家の支援を受けた軍部が、クーデターを起こした。
こうして、ソ連や西側の進歩的知識人などの支援を受けた社会主義政権が、軍部クーデター勢力と「スペイン内戦」を戦った結果、クーデター勢力の勝利に終わって、フランコ独裁政権が成立する。
そして問題の「その後」なのだが、どうしてドイツの支援を受けた軍部独裁政権下のスペインは、第二次世界大戦において、ドイツやイタリアなどと同様に「解放」されることにはならなかったのかというと、スペインは第二次世界大戦中においては、賢く「中立」を守って、戦争にはかかわらず、ドイツなどの「枢軸国」側にはつかなかったからである。
それでも、英米に余力があれば、「民主化」の大義を掲げてスペインの独裁体制を転覆していたのかもしれない。
だが、終戦時の米英にはその余力が無かったから、スペインの「中立」を受け入れるしかなかったというのと、戦後のソ連との覇権争いを考えると、独裁国家スペインの存在は、ヨーロッパにおける「共産主義からの防波堤」としての、高い利用価値があったためである。
第二次世界大戦に勝利した「連合国」とは、米英の民主主義国だけではなく、共産主義を掲げるソ連も含まれていたし、大戦におけるソ連の働きは無視できるものではなかった。
ヨーロッパを解放したのは、実のところ、米英であるよりもソ連であったというところもあったからこそ、戦後のヨーロッパでは次々と社会主義国が生まれたのだ(戦後の日本における世界や歴史の見方が、基本的には、同盟国アメリカ寄りの色眼鏡によるものであったことを忘れてはならない)。
だが、戦後世界の覇権を狙ってソ連と対峙することになったアメリカとしては、社会主義政権を倒して成立したフランコ独裁政権のスペインは、利用価値が高かった。だから、いまさら民主化しようなどとは考えなかったのである。
そしてそれは、戦後のアメリカが、南米をはじめとした世界中の社会主義国家に対し、謀略を仕掛けて裏からの転覆を図り、そののちに傀儡独裁国家を樹立するという世界戦略の、スペインはひとつのモデルケースでもあったのであろう、ということだ。
無論、スイスとは違い、もともとは(ヒトラーが実権を握った時期の)ドイツに縁の深かった独裁国家のスペインが、第二次世界大戦において、賢く中立の立場を採りえたのは、スペインがヨーロッパの西端に位置しており、国境を接するのは東側のフランスのみで、南北西は海に囲まれていたこと、しかも東のフランスとの境界にはピレネー山脈があるといった、地理的な好条件が揃っていたためである。
つまりスペインは、周辺国の戦争に巻き込まれにくい立地にあったから、「中立」を宣言し、それを貫くこともできたのだ。
一方、当然のことながら、ソ連としてはヨーロッパの西の最果てであるスペインにまで攻め込むことは出来ない。
また、アメリカとしても、「連合国」としての大義として、「中立国」までは攻めづらいといったことなどから、フランコ独裁政権は、まんまと第二次世界大戦を生き抜いたのである。
そんなわけで、スペイン国民は、戦後も30年の長きにわたって、フランコ独裁政権の下に、自由の制限された生活を余儀なくされた。
本作『ミツバチのささやき』も、そうした政治体制の下で、独裁政権への批判を暗に込めた作品として作られたから、おのずと「難解」にもなったのである。
(「ミツバチのささやき」とは、それくらい低い、無力な声、という意味だったのかもしれない)
このあたりの事情を、ビクトル・エリセ監督は、のちに自身の映画歴と絡めて、次のように語っている。
「子どもの頃、ハリウッド映画を浴びるように観ていました。スペインでもハリウッド映画を観ることができましたからね。ですから、アメリカ映画の黄金時代を楽しむことができたわけです。
子どもの頃に観て傑作だと考えた映画は、現在でも傑作だと思えるものばかりだと今になって認識しています。「フランケンシュタイン」がメアリー・シェリーの想像の産物なのだと知る前から、小説『フランケンシュタイン』を読む前から、すでに映画版の方を観ていたのです。わたしにとっては、ボリス・カーロフがフランケンシュタインなのです。言い換えれば、幼年期に吸収した神話は、いつまでもわたしたちのうちに残り続けるということですね。
とはいえ成長せずにいることはできない。ある日十代のわたしは映画館へ入って、五年ほど前に作られたけれどもスペインでの上映は遅ればせのものとなってしまった一本の映画を観ました。デ・シーカの『自転車泥棒』(48)です。12歳か13歳頃のことでしたが、この映画には深く心動かされ、自分には思いもよらない側面が映画には備わっているのだなと悟りました。生まれて初めて、映画のなかでリアリズムを目にしたわけです。自分が街なかで出会っているような顔や、憶えのある状況をね。おそらくわたしが映画に対してより意識的に近づくために無邪気さを置き去りにしたのが、『自転車泥棒』に接したときだったのでしょう。ありとあらゆるシネクラブに通いつめる、すさまじいばかりのシネフィルになってしまったのです。そして、映画というものはただ楽しむためにあるものではなく、ひとつのレジスタンス行為でもあるのだと理解するようになりました。その後マドリードの大学へ通うようになったのですが、そのときにもう一本別のイタリア映画でまたしても重要な体験をすることになりました。上映のほんの数時間前に、誰かが空港でフィルムをどうにか確保したのですが、フランコ政権時代には上映が禁じられていた映画の一本でした一一ロッセリーニの『戦火のかなた』(45)です。20人用の映写室で秘密上映されました。わたしにとっては、根幹を揺るがされるような経験でした。映画それ自体の質的高さもさることながら、われわれがフランコ政権下で生きていた事情のせいでもあったのです。『戦火のかなた』は、一本の映画がひとつのレジスタンス行為になり得るのだとの思いを確かなものにしてくれたし、わたしはこの経験に深く恩恵を受けています。自分なりのやり方で抵抗を続け、映画をレジスタンスの手段として使おうとしています」
(DVD『ミツバチのささやき』付録ペーパー所収、達山純生の「解説」より孫引き)
本作における、映画『フランケンシュタイン』に描かれた「フランケンシュタインの怪物」の持つ重要な意味は、ビクトル・エリセ監督の子供の頃に見た『フランケンシュタイン』が原体験となっているというのは大前提として、その後に見た、イタリアのネオリアリズモ映画の傑作、デ・シーカ監督の『自転車泥棒』や、ロッセリーニ監督の『戦火のかなた』における、「芸術的抵抗」ということが大きかった、ということだ。
それが、ビクトル・エリセ監督の初の長編作品となる本作において、見事に結実したのである。
当初は、娯楽作品である「フランケンシュタイン」ものの映画を撮るよう要請されたビクトル・エリセ監督であったのだが、予算が圧倒的に足りないという条件を逆手にとって、予算のかからないオリジナル脚本を提案し、その中に密かに反体制のメッセージを込めたことで、デ・シーカやロッセリーニのそれに倣う作品を作ることに成功したのだ。
そんなわけで、本作には「象徴表現」によるメッセージが込められているので、その表面だけを見ても、なかなか作品理解は叶わないし、あのシーンやこのシーンは、当時のスペイン社会のあれやこれやを象徴している、などと個別バラバラな説明をされても、そもそも「当時のスペイン社会」のことを知らないのでは、その説明の意味するところを理解しようもない。
例えば、そのあたりのことを、Wikipediaでは、次のように紹介しているが、これだけで、その意味するところを理解できる日本人など、ほとんどいないだろう。
『 象徴化
主人公アナの家庭が感情的に分裂している様子は、スペイン内戦によるスペインの分裂を象徴していると言われている。
また、廃墟(※ アナが通った町はずれの小屋)の周りの荒涼とした風景はフランコ政権成立当初のスペインの孤立感を示しているとも言われる。
作中何度かフェルナンド(※ アナの父)は知性の感じられないミツバチの生態に対する嫌悪をあらわにしている。これはフランコ政権下での、統率がとれているが想像力が欠如した社会を隠喩している可能性がある。
また蜂の巣のテーマはアナの家の窓ガラスの6角形模様や蜂蜜色の明かりに現れている。
アナは1940年当時のスペイン共和国の純粋な若い世代を象徴し、姉イザベルのうそ(※ 妹に対する死んだふり)は金と権力に取り憑かれた国粋主義者を示しているとも言われる。
ラスト近くでテレサ(※ アナの母)の気持ちが和らぎ、家族の将来が好転する印象を与えているが、これはスペインの将来に対する希望とも解釈できる。』
(Wikipedia「ミツバチのささやき」)
これだけでは「へえーっ、そうなんですか」という感じにしかならないだろう。
それに、こんな説明で終わってしまうと、説明を受けた人の中には「映画を見るというのは、絵解きをすることではなく、映像そのものを受け取ることだ」といった、正当な反発を覚える人も出てくるだろう。
「スペインの歴史を知らなければ理解できないような映画というのは、映画として不完全ではないのか。それは、映画作品として、自己完結していないということになるのではないか」と、そう言われかねないのである。
だからこそ、本作『ミツバチのささやき』は、そうしたところまでは読み解けなくても、ひとまず、アナの美しい瞳やその無垢さが、見る者に「何かを訴えている」と、そう感じさせるだけで、「傑作」だと評価できる作品なのだ。
そして、それだけでも、すでに映画として傑作なのだが、しかし、それ以上のものを秘めた作品だから、さらに傑作なのであり、そうと分かれば、本作の「秘められたるメッセージ」を知ることも、本作を鑑賞する喜びたり得るだろう、ということにもなるのである。
だから、私はここでも、そのような「前提」を確認した上で、本作における「象徴」の意味を、これから解読するのだ。
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しかし、本作に込められたメッセージを、Wikipediaのそれのように、あれこれ細々とバラバラに指摘したところで、あまり意味はない。
だから、私は本作における「象徴」の中心たる、「フランケンシュタインの怪物」の意味を、少し丁寧に読み解きたいと思う。
先に紹介した、映画評論家・遠山純生の「解説」にもあるとおり、「フランケンシュタインの怪物」は、映画『フランケンシュタイン』作中冒頭のナレーターによる前説にも語られたとおりで、「神への反逆としての、生命の創造」という行為(悪徳)を象徴している。
「生命の創造」ましてや「人間の創造」は、「神」の専権事項であって、人間が手を出すべきことではない。
それは、神の権威を冒涜するものだ、という、キリスト教(旧約聖書「創世記」)的な考え方だ。
ところが、若きフランケンシュタイン博士は、恩師の戒めの言葉にさえ耳を貸さず、人造人間を作ってしまう。
これが名無しの怪物であり、便宜的に「フランケンシュタインの怪物(モンスター)」と呼ばれたり、さらに略されて、博士の名前そのままの「フランケンシュタイン」とか「フランケン」などと呼ばれることになるのである。
この「フランケンシュタインの怪物」は、博士の当初の予定では「完璧な人間」になるはずだった。
「優れた肉体に優れた頭脳を宿す」完璧な人間になるはずだったのだが、博士の助手の手違いによって、誤って極悪犯罪者の脳を埋め込まれることになり、そのせいか凶暴性を持つことにもなってしまった。
要は、人間による生命の創造は、神を冒涜する行いであったために、天罰が下ってその計画は失敗し、想定外の悲劇をひき起こしてしまうことになる。
つまり、映画『フランケンシュタイン』という作品は、基本的には「怪奇娯楽作品」なのだが、キリスト教の教えに反する内容ではあるため、そちら方面からの反発を招かないよう、「神を冒涜するような行為は、必ず天罰を受ける」という教訓を、アリバイ的に仕込んだ作品だったのだ。
だが、映画『フランケンシュタイン』を作ったジェイムズ・ホエール監督の本音は、もちろんそうではなかった。
なぜそう言えるのかといえば、極悪犯罪者の脳を埋め込まれたせいで、極悪人になるはずだった「フランケンシュタインの怪物」は、しかし決して「極悪人」になどならなかったからである。
周知のとおり、「フランケンシュタインの怪物」は、基本的には「心優しいモンスター」なのだ。
ただ、知能が生まれたばかりの子供に等しいものだったために、自身の怪力を制御することができず、心ならずも人を殺めてしまうのである。
そして、そんな「フランケンシュタインの怪物の悲劇」を端的に象徴するのが、本作『ミツバチのささやき』でも象徴的に引用される「少女マリアとの出会いとその悲劇」のシーンである。
フランケンシュタイン博士は、非倫理的な自らの実験成果を世間の目から隠すために、「怪物」を研修所内に縛りつけ、閉じ込めておこうとした。
また、博士の助手は、理由は不分明だが、博士の目を盗んで、「怪物」を虐待していた。
そのために「怪物」は、博士の研究室である古城から逃亡し、山中をさまよったあげく、湖畔で遊んでいた少女マリアと、その悲劇的な運命を決定づける出会いをするのである。
湖畔で一人、ひなぎく(デイジー)を摘んで遊んでいたマリアのところへ、「怪物」がやってくる。
双方は互いの存在に気づいて最初は驚くが、心優しいマリアは、「怪物」に自己紹介をし「一緒に遊びましょう」と誘う。
二人は湖畔に向かい合って座り、花摘みをはじめる。

しばらくしてマリアは、摘んだひなぎくの、花の部分を湖面に投げるという遊びを始める。
投げ込まれた花は、まるで丸い舟のように湖面に浮かぶのが面白かったからだ。
少女は怪物に向かって「面白いでしょ。あなたも摘んだその花を投げ込んでごらんなさい」とすすめ、「怪物」はその指示にしたがって、その遊びをはじめ、その楽しさに大喜びしたのだが、その興奮が過ぎたために、「花のように可憐な少女マリア」を、湖へ放り込んでしまうのだ。
「怪物」としては、少女が湖面に浮かぶと思ってしたことなのだが、マリアは無惨にも溺死してしまい、「怪物」は少女殺しの犯人として村人から追われ、最後は、風車小屋に逃げ込んだところを、焼き殺されることになるのである。
さて、本作『ミツバチのささやき』の冒頭で、村にやってきた移動映画館によって村の集会所で上映され、イザベルとアナの姉妹も見ることになる映画として、作中に引用される、映画『フランケンシュタイン』。


そしてその中でも、中心的な引用場面が、「怪物と少女マリアの出会い」のシーンなのだが、本作において「フランケンシュタインの怪物」は、いったい何を象徴しているのであろうか?
「通説的な説明」においては、「フランケンシュタインの怪物」は、「共産主義(または社会主義)」を象徴するものだ、ということになっている。
なぜなら「共産主義」というのは「科学的社会主義」と称することもあるくらい、理屈っぽく「科学的」なものでもあれば「人工的」なものであったからだ。
言い換えればそれは、「人間の自然」に反した「神をも恐れぬ、人間的な傲慢」の象徴であり、いずれは神からの罰を与えられる、滅びる定めにある「怪物」だと、そうしたアナロジー(相似性)による「象徴」だと理解できるのである。
だが、この説明では、明らかに不十分だ。
なぜなら、ビクトル・エリセ監督は、同時代のフランコ独裁体制を批判しているのであって、フランコによって倒された、ソ連からの支持を受けていた「民主社会主義政権」を批判しているわけではないからだ。
つまり、本作『ミツバチのささやき』における「フランケンシュタインの怪物」の象徴とは、見かけ上の象徴として「共産主義」を提示すると同時に、もう一段深い象徴として、別の意味を与えられているのだ。
もちろん、見かけ上の象徴として「共産主義」を提示したのは、当時の軍事政権の目を欺くための「フラグ」としてである。
「共産主義なんて、フランケンシュタインの怪物と同様、滅びる運命にあるものだったのだ」と、そう見せかけることで、弾圧を防いだ。
だが、ビクトル・エリセ監督の本音は、そこにはなかったのだから、その「偽の象徴的な含意」だけを説明しても意味がないし、それだけでは、わざわざ誤解を招く誤りですらある。
ならば、そこに込められた「真の意味」とは、何なのか?
それは、私が考えるには、「流産した理想」の象徴である。
選挙によって「王政」から民主制に移行した、戦前スペインの民主社会主義体制は、しかし、軍部のクーデターによって、短命に終わってしまい、スペインは第二次世界大戦を挟んでもなお長く続く、独裁国家となってしまう。
そうした中で、多くの国民は、その諦めによって独裁体制に順応していくのだが、ビクトル・エリセ監督は、それを良しとはしなかった。
本作『ミツバチのささやき』で描かれるのは、独裁体制下のスペインを象徴する、「空虚な夫婦」と「空虚な村(の風景)」などだったのだが、そんな中で、まだ現実社会のことを何にも理解していない「無垢な少女」であるアナが、映画『フランケンシュタイン』に惹かれることになる。





映画『フランケンシュタイン』を見た夜、ベットの中でアナは、姉のイザベルに、映画の疑問点について質問する。
「どうして怪物は、女の子を殺しちゃったの?」

すると、おませな姉は、知ったかぶりに言う。
「本当は、怪物も少女も死んでないんだよ。だって、あれば映画なんだから、本当は誰も死んでないの」。
だが、そう説明されても、妹は納得しない。
「だって、死んだじゃない。どうして、そんなことが言えるの?」と質問すると、姉は、
「だって、私は怪物と、町外れの小屋で話したことがあるからよ」
と答える。
すると妹は「そんな話、聞いたことがない。誰も怪物を見た人なんていないわ」と言うと、姉は、
「怪物には実体は無いからよ。だから、普通は見ることができないの。でも、それを信じる者が、夜中に名乗ってから語りかければ、答えてくれるのよ。怪物は、実体を持たない精霊なの」
と、適当なことを言って、妹を揶揄い、すっかり信じ込ませてしまう。
そして後日、その町はずれに小屋まで妹と連れ立っていくが、当然、昼間に行っても精霊を見つけることはできない。


しかし、そんなある日、いたずらな姉が、死んだふりをしてアナを怯えさせた時、アナは死というものを身近に感じるようになる。



そして、ある夜、一人で家から抜け出して小屋へ行ったところ、そこで初めて、傷ついた男性を見つけ、彼を「怪物」だと信じ込み、家からの、父のコートや食料を持ち出して彼に与えるようになるのだが、数日後、その男は何者かに殺害され、その死体も役場へと運び去られてしまい、翌日アナが小屋に赴いた時には、血痕が残されているだけであった。



そして、連夜のアナの不審な行動に気づいて、アナを尾行していた父のフェルナンドは、小屋の中に入るアナを見つけて「こっちへ来なさい」と強い声をかけるが、秘密を知られたアナは、森の中へ逃げ去ってゆき、行方不明となってしまう。
そして、ひとり夜の森をさまようアナは、以前に父に教えられた猛毒のキノコを手に取ろうとしたりする。
すなわち、アナは死に魅せられながら、やがて夢うつつの中で、自分が夜の湖畔にいることに気づくと、そこへ「フランケンシュタインの怪物」がやってくるのである。

翌朝、アナは捜索に出ていた村人たちによって無事保護される。
医師によれば、救出されたアナが誰とも話そうとしないのは、精神的なショックによる一時的なもので、時間が解決するから大丈夫だという。
そして、姉の話し掛けにも応えないアナは、一人になると、そっとベッドを抜け出して、夜の空に向かって「アナよ」と声をかけるのである。精霊が答えてくれるのを期待して…。
一一こうして、本作は幕を閉じるのだ。

さて、このように説明して、やっと「フランケンシュタインの怪物」が、真に象徴していたものとは何だったのかいうことの説明ができる。
私はそれを「流産した理想」の象徴だと示しておいたが、その意味は、「フランケンシュタインの怪物」が、失敗した「民主社会主義体制」の象徴だということだ。
つまり、アナが小屋で出会った男は、たぶん、フランコたちと戦った「人民戦線」の残党であり、アナと出会った後に粛清された、ということなのであろう。
本作『ミツバチのささやき』は、そうした「スペイン内戦」終結直後の1940年を舞台にしており、もとより、幼いアナは内戦の意味など理解していなかったのだが、しかし、そんなアナでも、民主的な社会を望んだ「人民戦線」を象徴する「フランケンシュタインの怪物」としての男性と出会っており、彼に親しみを感じていたというところに、この出会いの意味がある。
その逃亡者である男性は、呆気なく殺されてしまう。
だからこそ、アナもまたその絶望の中で、死の森をさまよい、そこで「フランケンシュタインの怪物」の幻影に出会って、死に最接近するのだが、しかし、映画『フランケンシュタイン』の少女マリアとは違い、アナはそこから生還する。
この違いが意味するのは、アナの見た「フランケンシュタインの怪物」は、不吉な「死の象徴」などではなく、むしろアナに「未来」を託す「希望の象徴」だったのではないか、ということだ。
「われわれは失敗した。けれどもお前は、この世界に生きて、今度こそ希望を実現してほしい」と、「フランケンシュタインの怪物」の幻影は、それを告げにやって来たのではないだろうか。
だからこそ、死に魅せられて死線をさまよっていたアナは、生者の世界へと帰還することが出来たのではないか。
つまり、アナの帰還とは、その「死からの再生」を意味しており、そこにはスペインという国の「死からの再生」という夢が込められていたのではないだろうか。
アナが一時的に声を失うのも、そうした含意からなのであろう。
そして、生死の境から帰還したアナは、自分を導いてくれた「民主的な社会の理想」という名の「精霊」に、人知れず語りかけながら、新たなスペインを作る大人へと育っていくのであろう。
本作には、そんな「抵抗としての希望」が語られているのだと、私は斯様に理解したのである。

(2026年8月6日)
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