ナオミ・クリッツァー 『陽の光が消えた町で』: 異星人として、本作を評価すると…。

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▷ 書評:ナオミ・クリッツァー『陽の光が消えた町で』(早川書房)


本書を読もうと思ったのは、SF評論家の牧眞司による『WEB本の雑誌』連載記事「【今週はこれを読め! SF編】」で本書が取り上げられており、『受賞作を集めた日本オリジナル短篇集〜ナオミ・クリッツァー『陽の光が消えた町で』という見出しだったからである。


タイトルを見て、「それなら間違いないだろう」と、そう思ったのだが、無論いちおう記事も読んでみた。

『 ナオミ・クリッツァーは1999年から短篇を発表しはじめたというから、キャリアとしてベテランと言ってよかろう。2015年の「報酬は猫の写真で」(本書にも収録)が、ヒューゴー賞およびローカス賞を受賞、ネビュラ賞の最終候補にもあがるという高評価で一躍脚光を浴びた。これ以降、いずれかのSF賞の候補に彼女の名前があがらない年はないほどの活躍ぶりだ。
 本書は、SF賞の受賞作、もしくは最終候補に残った作品ばかり六篇を収録した、日本オリジナル短篇集。粒ぞろいである。
 収録順に紹介していこう。』


ということで、この種の記事としては比較的丁寧に(紙幅を費やして)収録作六篇のあらすじ紹介をしている。

各篇の「あらすじ」紹介はそちらに任せて、ここでは、各篇紹介文の締めの言葉だけを引用しておこう。

(1)「小さな図書館の司書さまへ」

『少し意外な、これぞ洗練されたファンタジイと言うしかない結末がつく。』


(2)「陽の光が消えた町で」

『SFのサブジャンルに「コージーな破滅」というのがあるが、本作品はその一歩手前、破滅にはまだ至らず、絶望よりも希望へと心が向いている感じだ。良識と善意の物語である。』


(3)「怪物」

『SFとしては生物学的アイデアにひとひねりがあり、小説全体としては切々とした青春小説(スティーヴン・キングを彷彿とさせる)でもある。』


(4)「報酬は猫の写真で」

『さらりとユーモア・タッチにまとめた小品だ。』


(5)「海を見渡す四姉妹」

『解説で山岸真氏が指摘するように、本作品はシスターフッドの物語だ。主人公のモーガンは外からこの町に来たが、その彼女をコミュニティに迎えいれて支える女たちがいる。それが変身の伝説と相俟って、地母神的な世界観へとつながっていく。』


(6)「アルゴリズムでよりよい人生を」

『 あわやディストピアという展開を経て、「陽の光が消えた町で」と同様に良識と善意へ着地する。読み終えてホッとする作品だ。』


牧真司による以上の書評を読み終えて、私は一瞬、ちょっと「嫌な予感」がしたのだが、いやいや考えすぎだろうと、即座に打ち消した。

なぜ、そんなふうに感じたのかというと、受賞作揃いの短編集のわりには、牧の語り口に「熱が無い」と感じたからだろう。

たしかに褒めてはいるのだが、感じとしては「さすがに近年人気があるだけあって、うまい作家だ」と言っているだけで、個人的には、別段特にはどうとも…とでも思っているような、そんな醒めた感じがしたのだ。

Screenshot


では実際、読んでみてどうであったか。

私が各篇から受けた第一印象は、次のとおり。

(1)「小さな図書館の司書さまへ」

うまいなあ。

(2)「陽の光が消えた町で」

泣かせる「いい話」だなあ。さすがは、各種SF賞の候補作や受賞作になり、本書の表題作になるだけはある。

(3)「怪物」

えっ、「陽の光が消えた町で」とはぜんぜん違って、けっこう冷たいと言うか、容赦のないお話だなあ。
この作者には、こうした一面もあるのか。

(4)「報酬は猫の写真で」

ああ、これは楽しいお話だな。SFと言うよりは、SF仕立てのユーモア小説という感じだけど。

(5)「海を見渡す四姉妹」

う〜ん、わかりやすく旦那が嫌なやつだなあ。絵に描いたような「勧善懲悪」の物語で、ちょっとこれは、自分たち(女)に甘いんじゃないか?

(6)「アルゴリズムでよりよい人生を」

なるほど。たしかにその通りなんだけど、現実はそうもいかないから、みんなAIに対して不安を感じるんじゃないの。
この種の問題を、ちょっと自分好みに単純化しすぎており、楽観的にすぎるんじゃないか?

一一と、こんな感じだった。

つまり、全体としてはよく書けているし、著者の肩肘張らない「普通の人」感に親近感を覚えはするのだが、ときどき「えっ?」と驚かされるような冷たさがある。

まあ、誰にだって、他者に対する冷酷さはあるのだが、著者の場合、その温かさや優しさとのギャップが大きいから、そこに違和感を覚えるのだろう。まるで二重人格なのだ。

つまり、ハッキリとここがこうだとまでは言えないまでも、どこか引っかかるところがあり、素直に肯定評価しきれないところがあったのである。

で、本書の「解説」を読んでみると、SF翻訳家の山岸真は、著者の作風を次のように紹介していた。

『収録作はいずれも現代(せいぜいで〝五分後の未来〟)が舞台で、SF設定に凝ったり奇想に満ちているといったタイプの作品ではない。じっさい、本書の編集者もこの解説の依頼メールで、〝ケン・リュウキム・チョヨプのような、SFファンのほかにも広い読者に読んでもらえる作品〟という趣旨のことを書いていた(むしろこのふたりの作品よりさらにSF的なハードルは低い)。
 作者の作風をもう少しくわしくいうなら、訳者の桐谷知未さんの、「現代社会の危うさや狂気、温かい心の交流やユーモアをさりげなく物語に織りこむのがうまい作家」という言葉が的確だろう。
 本書収録作の多くには、ほかにも通底する点がいくつか見てとれる。そのひとつは、なんらかの〝コミュニティー〟が物語の核にあること。作者ブログの現時点の最新記事からは、コミュニティーの持つ力と、それと表裏一体の未来の(積極的・肯定的な)ヴィジョンをとても重要視していることが伝わってくる。
 また、なりたいと思っていた自分に種々の要因でなれなかったという思いを抱えている登場人物が時おり目につく。そしてここでもコミュニティーの力が、その自分に〝まだなれるかもしれない〟という希望をあたえてくれる。』(P255〜256)


この解説も、「なるほど」とは思うのだが、どこか醒めた(退いた)印象をうけるのは、私の思い過ごしなのだろうか?

そんなわけで、読んだその日は「感じの良い作品が多いのだけれど…」しかし、どこか引っかかるところがあるなあと、ハッキリした評価を持てなかったのだが、翌朝、布団の中でなんとなく本書のことを考えていたら、ふいに「ああ、そうか」と腑に落ちた。

本書を読んで、良い印象を受けたのは、(1)(2)(4)で、引っかかったのは(3)(5)。最後の(6)はすでに書いたとおり「ロジックが弱い」と思ったのだが、こうした評価の分離がどこから生まれるのかが分かったのだ。

簡単に言うならそれは、作者の視点を投影した「語り手の視点」から見れば、良い人は良い人であり、嫌な奴(邪悪な人間)は嫌な奴(邪悪な人間)だという、その主観性の強さが引っかかったのだ。
自身の主観性を相対化する(第二の)視点が、この作者の作品には無い。

そのため、語り手の視点から良い人を中心に描いていれば、良識的な良いお話になるのだが、語り手に好意的(と言うより貢献的)ではない人物を描くと、わかりやすく嫌な奴(邪悪な人間)になる。

(3)の「怪物」などがその典型なのだが、語り手の女性を裏切った男性が、わかりやすく「怪物」化されており、そのために、「我に正義あり」といった一方的な断罪になっていて、躊躇というものが、かけらも無い。

そのため、「決めつけ(主観的・独断的)にすぎるのではないか?」という印象を与え、「本当にこれで良いのだろうか?」という危惧を覚えさせられるのだ。

つまり著者は、「自省性」に欠けるのである。

そしてさらに言うと、自分に長らく自己実現をさせなかった、男性社会に対するルサンチマンを抱いている。

「あいつらがああだから、優しい私も、こうせざるを得ないのだ」と、そんないささか自己正当化の意識が強い。
そして、著者のそうした性格特性が、(3)の「怪物」では、ストレートに表現されているのである。

言い換えれば、自身の「見方」が歪んでいるのかも知れないという冷静な自己懐疑が無く、その過剰な確信に満ちた視線で、敵と味方を峻別し、二分して描くから、話としてはわかりやすくなり、(2)のような味方中心の話なら「感じの良い、温かい話」になるけれど、(3)や(5)のように「敵」を描くと「絵に描いたような嫌なやつ」になるから、「冷徹」な印象を与えてしまう。

だが、言うまでもなくこうした態度は、「独善的」でもあれば「非理性的」でもあろう。

結局のところ、本書の根底に流れる精神とは、

優しい私に優しくない者は、殺されても仕方のない悪人に決まっている

という、極めて「幼稚な感情」なのである。

山岸真は、表題作(2)「陽の光が消えた町で」について、

『作者はブログで、「主人公は視点人物であるアレクシスではなく、コミュニティーそのもの」だと書いている。こうした作品が分断の時代といわれる二〇二〇年代に、ヒューゴー賞とネビュラ賞というアメリカSF界の二大賞を受賞したことの意義は自ずと明らかだろう。』(P258)


と書いているが、これはどういう意味かと言うと、要は、トランプ政権(第一次政権は、2017年1月20日から2021年1月20日まで)になって以降、アメリカでは「社会的な分断」が進み、敵味方のギスギスした社会になった。
あるいは、それが顕在化してしまった現実に、多くの良識のある人たちは居心地の悪さを覚えて「もっと、お互いに思いやり助け合って生きてはいけないものなのか」と、そんな感情を抱いていると、そういうことなのだ。
だからこそ、「助け合いのコミュニティ」を描いた本作がウケたのだ、という指摘なのである。

しかし、これは裏を返せば、経済的に没落した中流が、ドナルド・トランプに対し「自分たちへの優しさ」を求めた態度と、本質的には大差がない。

じつのところ「他者」には冷たいままなのだが、自身の「被害者意識」のみにとらわれて主観的になっているから、他者に対する自身の冷たさには気づかないまま、「MAGA(Make America Great Again)」を求めてしまう感情と、大差のないものなのである。

こうした視座において、私が引っかかりを覚えた、(3)「怪物」および(5)「海を見渡す四姉妹」と、感動作である(2)「陽の光が消えた町で」を考え合わせてみると、(2)もまた、「われわれのコミュニティは、弱者を大切にする心優しいコミュニティだけど、他所はそうでもない」と、そういう「自画自賛的」な作品であることに気づかされる。

つまり(2)は、まるで自明な事実であるかのように「私たちは優しく正しい」という、完全に自己懐疑を欠いた、「自己陶酔」的な視点で描かれた「身内に優しい世界」でしかないのである。

だから、読者の方も「冷静になって考えてみる」ということをしなければ、その強い主観性に巻き込まれて、「良い話」に見えてしまう、ということにもなるのだ。

だがら、ナオミ・クリッツァーの描くそれは、「宗教コミュニティ」におけるメンバーの視点から見た「すばらしいコミュニティ」観的な、かなり露骨に(自家宣伝的に)嘘っぽいところがある。

「あなたがただけは、そんなにご立派なんですか?」と、皮肉のひとつも言いたくなるような、「内向きのユートピア」なのだ。

したがって、著者がSF好き(SFオタク)のうまい作家だというのは間違いないのだが、著者に決定的に欠けているのは、「SF的な相対化の視点」なのだ。

例えば、異星人が「共食い」をしているのを見て、「なんて穢らわしい、許しがたいバケモノ!」と感じるのは、「SF的な相対化の視点」を持たない人の「常識的な主観」ではあろう。
だから、それを聞かされて共感する人も少なくはない。

けれども、「SF的な相対化の視点」からすれば、

「いや、ちょっと待ってよ。人間の価値観からすればそうかもしれないけれども、彼らの生態や文化に由来する価値観からすれば、あれはあれで当たり前のことかも知れないし、彼らにすれば倫理的な美徳であったりするのかも知れないよ」

という発想も出てくる。

つまり、「SF的な相対化の視点」があれば、「地球人類中心主義」的な視点を相対化できる、ということなのだ。

まあ、実際のところは、よく調べて見ないかぎりハッキリしたことは言えないのだけれども、しかし、物事というのは、主観的(生理的)に結論に飛びつくのではなく、「多面的」に考えてみなければならないし、そのためには「自分の価値観」を疑ってみる(いったんはカッコに括ってみる)冷静さも必要で、それは、多文化主義が語られる今日では、むしろ常識に類する話なのではないだろうか。


だから、そうした「自己相対化の視点」のある作家なら、「わかりやすい悪」や「わかりやすい悪の文化」を設定し、視点人物の「正義」を自明とするような、そんな安直な作品は書けないはずなのだが、本作の著者は、まさにそれをやってしまっているのである。

本書著者ナオミ・クリッツァーの描く世界は、一面ではたしかに「優しい世界」なのだが、しかし、その世界は、まさに「友敵二元論」的な単純化された世界観において、「敵」を全否定したうえでの、わかりやすく「身内に優しく、だから私は優しい」という世界なのだ。
また、そのために、「敵」の描き方は、いささかぞんざいなのである。

もちろん、単純に「嫌なやつ」や「女性差別的な男性」というのも現実には大勢いるし、それは批判されねばならないのだけれども、そう言っているご当人が、他人から見ればまさにそうした「嫌なやつ」だというようなことも珍しくはない。

主観的な価値観だけに立てば、価値観の違う者(他者)が「嫌なやつ」だというのは、当然でもあれば、しかし、お互い様でもあろう。

だからこそ、拒絶ではなく、話し合いが必要なのだが、「私たちは、自明に正しい」と思っているような人たちは、しばしば対話や議論を拒絶しがちなのである。「議論の余地なし!」と。


対話することを拒絶して、自分の意に沿わない存在を、一方的に「下劣な存在」と描くことで、自分たちの立場を相対的に「正義」化しても、それはあまり褒められたものではない「幼稚さ=大人げなさ」でしかない。

そして、こうした「一方的な見方」というのは、山岸真が(5)「海を見渡す四姉妹」を評して「シスターフッド」を描いていると指摘したように、露骨ではないとしても、やはり、ナオミ・クリッツァーのフェミニズム的な視点に由来するものであり、それが最も露骨に表れた同作は、ハッキリと「フェミニズムSF」なのである。


しかし問題は、ナオミ・クリッツァーの視点がフェミニズムに立っていることではなく、そのフェミニズムの「質」なのだ。

彼女のフェミニズムは、いささか薄っぺらく紋切り型でしかないという点が、問題なのである。

「海を見渡す四姉妹」は、要は、主人公モーガンの旦那が、絵に描いたような嫌なやつだったから、女友達たちが協力してその旦那を殺して(キャンセルして)やり、モーガンを救ってやったと、そういうお話なのだ。
だが、そんなに単純な話でいいの? 一一と、そういう問題なのである。

そう思って見れば、(2)の「陽の光が消えた町で」も(3)の「怪物」も、女性はすべて感じが良く、感じの悪いのは必ず男なのだ。例外的に感じの良い男性は、いかにも女性に都合の良い「女性に尽くす」タイプ。
そうではない男性は、しばしば殺人鬼扱いであり、その場合、女性は必ず被害者の立場で、男性が男性を、女性が女性を攻撃するというパターンは無いに等しいのである。

だが、そうしたご都合主義的に善悪二元論的な物の見方は、いささか子供じみていて、安直なのではないだろうか?

例えば、(5)の「海を見渡す四姉妹」の、性別をひっくり返すと、「あまりに嫌な嫁だったから、男友達たちが協力してその嫁を殺してやり、旦那を解放して、めでたしめでたし」と、そんなホモソーシャルなお話になってしまうのだが、そんなものを読まされたら、女性たちはどう思うのだろうか?

「それって、ミソジニー(女性蔑視)だ!」

とでも言うのだろうか(言わないのだろうか)? 

一一と、そういうことなのだ。

つまり、たぶん山岸真も(あるいは、牧眞司も)そうした著者ナオミ・クリッツァーの胡散くささに、うすうす気づいてはいるだろう。

だが、権威あるSF賞を受賞していることだし、それを日本にも紹介しよう(日本でも商品化しよう)としているのだから、悪く言うわけにもいかないので、無難なところで褒めておいた一一と、そういうことなのではないだろうか。

本音では「いくら、今のアメリカ人が精神的に参ってるとは言っても、SF読みが、こんなのを褒めるようではなあ…」と、そう思いつつ、しかし、そんなことを言ってしまうと方々に角が立つし、ましてフェミニストを敵に回すと、なにかと面倒なだけ(例えば、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を出されて、社会的にキャンセルされるかもしれない。)なので、自分個人の感想の表明は控え、あまり深くは踏み込まずに、「こんなふうに評価されている作品ですよ」と、他人の言葉を借りて軽く流した一一と、そういうことなのではないだろうか。

だから、おのずと評価にも「熱」がこもっていないと、そういうことなのではなかったか?


まあ、日本のたいていのSF読みは、「賞の権威」に幻惑されて、「SFとしてはちょっとゆるいが、心優しい作品集」くらいのことしか言わないのだろう。

だが、「SF村の住人」ではない、本読み星よりの流れ者である私くらいは、読書家の良心として、忌憚なく言わせてもらっておくことにしよう。


(2026年8月4日)

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