桜井政成 『読書スタディーズ 読書好きはどうつくられるのか』: 著者は、自明に「優れた読書家」なのか?

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▷ 書評:桜井政成『読書スタディーズ 読書好きはどうつくられるのか』(明石書店)


ハッキリ言って、期待はずれである。
それほど大きな期待をしていたわけではないのだが、学者が書いた本なのだから、それなりに少しは学ぶべきところもあるだろうと、そう期待していたのだが、そんなものは無く、全体としてユルユルなのだ。

無論、本書は学術書ではなく、学者が書いた一般向け書籍だから、意図してユルく書いているところはあっただろう。
だが、そうだとしても、肝心の「研究」の方がしっかりしておれば、見かけはユルくても、読みごたえのある本になったはずなのだが、それが無いのだ。

つまり、見かけどおりに、中身もユルいから、読みごたえがなくて、つまらない。



たしかに、著者は社会学的な統計を使っており、その使い方については、専門家としての知識があって、データの読み方を知ってはいる。

例えば、あるデータを見て、そこにある特徴が見出せたとしても、データの母数やデータの集め方や集めた範囲(対象)など、さまざまな条件を踏まえなければならず、データの上っ面の数字だけを読んでは間違う、というような注意を与えてはくれる。

「このデータを見ると、一見こう見えますが、しかしこれは、誤差の範囲内のもので、そこに意味を読み込みすぎるのは危険です」とか「これだけでは、何も意味しないと理解すべきです」みたいなことを教えてくれるから、データ解析の素人である読者としては、なるほどね、とは思うのだ。

だが、明らかに有意なデータの場合、そこから見たままの意味を語られても、面白くもおかしくもない。

素人は、そんなデータがどこにあるのかをよく知らないから、そんなデータを引っ張ってくれてきたこと自体はありがたいのだけれど、やはり、データを引っ張ってきて、それに見たまんまの当たり前の説明を加えられても、なるほどねとしか思えず、たしかに勉強にはなるけれども、言うなれば、面白くもおかしくもないのだ。

勉強になるというだけなら、学校の教科書とは、確実かつ大切なデータを紹介し、それに解説を加えてくれているものなのだから、それこそ勉強にはなるものなのだ。
一一だが、教科書は「つまらない」。

なぜ教科書がつまらないのかと言うと、教科書が与えてくれるのは、多くの場合、「知識」であって、「納得」ではないからだ。

これまでよくわからなかったことについて「なるほどそういうことだったのか!」といった「知的感動」を与えてくれることが、滅多にない。
つまり、「知解」の喜びを与えてくれることが稀なのだ。

なぜそうなるのかと言えば、教科書というのは、たいがいの場合、読者が持っている疑問に答えるといった「なぜ・それはね」的な双方向的なものではなく、読者である学生が知らないことを、一方的に「これを知っておきなさい」的に教えるものだからである。

つまり、本書がつまらないのは、「データではこうなってます」的なところに止まって、「データはこうなっていますが、これの意味するところはこうなんです」という「読みの面白さ」のレベルには至っていないからなのだ。

これを、小説の読解に喩えていえば、

「彼が主人公です。彼は彼女を愛していますが、そこに妨害が入って、彼はとても苦しみます。けれども、彼はそれを乗り越えて、彼女への愛を成就させます。良かったですね」

一一とか言われても、それはそのとおりだけれど、「それって、まんまじゃないか」ということにしかならないのと、同じことなのだ。

つまり、本書の著者は、「読書」に関する話をしてはいても、ご当人に、肝心の「読解力」が無い。
だから、示したデータを「鋭く読み解く」ことで、読者に「なるほど!」と目から鱗の「解析結果」を示したり、「さすがだ」と唸られたりすることができない。

「このデータではこうですね。あのデータではああですね」などと言われても、そんな話は、面白くもおかしくもないのである。

そして、本書がなぜ、そんなものになってしまっているのかと言えば、理由は簡単で、すでに書いたとおり、本書著者には読解力が無い(低い)からだ。くり返して申し訳ないが。

言うまでもなく、同じデータを扱っても、有能な学者(研究者)と、そうでない学者(研究者)とでは、引き出して来る「答の質」に違いがある。

どう違うのかと言えば、有能な学者は、与えられたデータから、普通の者(一般人)では引き出せないようなところを読み解いて見せるのだか、能力の低い学者には、それができない。
だから、見たまんまをそのまま口移しするだけになる。だから、退屈なのだ。

本書著者の桜井政成は、もともとはボランティア活動やNPO(非営利組織)の研究をしていた人なのだが、それがコロナ禍によってままならなくなり、軽いうつ状態になったようだ。
そんな時、なんとなく娯楽書を読み始めたところ、子供のころ好きだった読書の感覚が甦ってきて、精神状態も回復した、という。

そして、そうした経験から「読書」というものについて研究してみようと思いつき、その成果をまとめた最初の著作が、本書だというのである。

たしかに、良い話ではある。それは良かったですねとは思うけれど、しかし、それと研究成果の評価とは、また話が別(問題)なのだ。

動機は悪くはないのだが、そもそもの問題は、著者が「さほどの読書家ではない」という点なのである。

著者自身が語っているとおり、子供の頃には読書をしていたが、高校生になってからは、あまり本を読まなくなったそうで、それが再び読書の喜びに目覚めたのは、コロナ禍以降だというのだから、言うなれば、つい最近の話である。

そんな著者が、いま何歳なのかと言えば、1975年生まれの51歳なのだ。
つまり、コロナ禍のパンデミックが、だいたい2022年の47歳頃だとすれば、本書著者は、高校生になった16歳以降、おおよそ30年間は、読書家ではなかった、ということになる。
子供の頃に10年ほど本を読んだ時期があり、コロナ禍以降の読書歴が4年ほどだとすると、合わせて14年ほどの読書歴であり、例えば、10歳からの読書家が25歳になった時点くらいの、まだまだ「若い読書家」(と同程度の読書歴の持ち主)にすぎない、ということになるのだ。

もちろん、読書歴が長ければ良いというものではないが、同程度の能力の持ち主で、同程度の熱心さで読書に取り組んだのなら、それは、読書歴の長い方が、結果として「有能」であるに決まっている。

また著者自身も、本書の中でそう語ってもいるのだ。

『読書への自信は読書スキルの向上をもたらしますし、また逆に、読書スキル向上は読書への自信をもたらすとされています。ですから、読書に関する自己認識とは、「過去の経験の産物であり、将来の読書を予測するもの」であるということが、多くの研究者から支持される考え方になっています。読書アイデンティティは、その人の読書行動の「来し方行く末」を見通すものであるのですね。』(P47)


ここでは「読書への自信」と「読書スキルの程度」の相関関係が語られているのだが、そもそも「読書への自信」であれ「読書スキルの程度」であれ、それらは「たくさん読む」ことによって強化されるものなのである。

「たくさん読めば良い」という話ではなく、「同程度の能力の持ち主ならば、少ししか読まないよりは、たくさん読んだ人の方が、読書に対する自信もつけば、スキルも身につく」という、当たり前の話なのだ。

つまり、本書著者は、確かに統計データの扱い方は知っているが、読解力はさほどではない、と言うか、ハッキリ言って、世間一般人並みでしかない。
だから、書いていることが、当たり前の域を出ず、面白くないのだ。

普通、学者が「読書論」の本を書く場合、当然のことながら、その学者は「並はずれた読書家」である。
それが、哲学者であろうと、歴史学者であろうと、社会学者であろうと、あるいは経済学者や家政学者であろうと、その学問ジャンルに関わりなく、彼らは「並はずれた読書家」なのだ。

なぜなら、学者というのは、昔から「本を読むのが仕事」なのだから、自分の専門分野の本を片っ端から読んでいるというのは、言うなれば「当たり前」の大前提だからである。

その「当然の前提」うえで、さらに「専門以外の本も、山ほど読んでいる」から、その学者は「読書家」だと言われるのであって、自分の専門の本をいくら読んでたって、そんなものは「読者家」とは言わないのだ。

で、本書著者の場合、専門の本や資料は、当然程度に読んではいるようだ。
だが、それ以外の読書は、25歳の平均的な読者家程度なのだから、その点では、別に「読書」について本を書くほどの、特別な知見も能力もあるわけではない。

言い換えれば、本書の場合は「読書家の学者が本を書いた」というのではなく、「ちょっと読書が好きな学者が、学者の肩書きで書いた、読書の本」にすぎないのである。だから、つまらない。

本書の中身が「物足りない」と感じられるのは、故なきことではないのである。

そんなわけで本書には、わざわざ本稿で紹介するような、面白い話、目から鱗な話などは書かれていないので、存在しないものは私にも紹介のしようがない。

また、だからと言って、「そりゃそうですね」程度の話を紹介しても仕方がないし、紹介する価値も覚えないのだから、そんなことはやる気にもならない。
無論、ありもしないものをあるというような「嘘」をつくわけにもいかないのだ。

しかしながら、ここまで「つまらない」と酷評しておきながら、その根拠を示さないのでは著者も納得できないだろうから、以下は、本書がつまらないと評価する根拠としての、著者の「非読書家」性について紹介したいと思う。

要は「こんなこと書いている人が、読書についてのデータを論じたって、深い洞察などあるわけがない」と、そういう話である。



 ○ ○ ○

さては、以降は、本文を適宜引用して、それに解説を加えるかたちで、本書を、そして主に「著者」を読み解いていこう。

(01)『 なお本書は整った体系をひとつずつ説明しているわけではないので、どの章から読んでも、もっといえばどの段落から読んでも問題ありません。
 私自身も、物語の本や〝研究〟として分析する本だと最初から読んでいきますが、そうでなければ最初から読まないことがあります。目次を参考にしつつパラパラっと開いてみて、おもしろそうなところから読んだりします。』(P7)


この種の説明は、一般読者を視野に入れた「半専門書」には、よくあるものだ。

今どきの読者は、頭から順に理解していかないと、最終的な理解には至らない、というような「しんどい本」は読んでくれない。
つまり、「深い結論」に向かって、一歩一歩踏み下っていくようなことは出来ず、根気がないから、広く浅くあれこれ食い散らかせるようなものしか読めないし、だから本書も、それに合わせてそういう本になっている、という話である。

また、巻末に、ほとんど無意味な参照英語文献目録をつけているような「半学術書」で、このパターンが多いのは、あちこちで書いた、本来は独立した論文を寄せ集めて、「長編化」したものが多いためでもある。
だから、一応のところ「一貫した論旨」で書かれているような体裁に「書き直されて」はいるが、元が独立した文章なのだから、「好きなところから読んでも、いっこうに差し障りはない」ようなものになっているのである。

無論「難解な本には価値がある」とは言わないが、当然のことながら「誰にでも読みやすい本」もまた、それ相応の本でしかない、ということなのだ。

また、どんなものにも例外はあるが、そんなものは滅多にないからこそ例外なのであり、その大半は「読みやすくて、内容の薄っぺらい本」なのである。
「読みやすくて、しかも深い本」なんてものは、そうそう書けるものではない。なぜなら、それこそが、いちばん難しいことだからである。

(02)『第8章および終章では、読書の今後を考えます。第8章では「社会的正義」という考え方をベースに、あらゆる人たちが本を好きに読むことができる社会をつくるには、どうしたらいいのかを考えます。』(P8)


一見もっともらしい言い草だが、『あらゆる人たちが本を好きに読むことができる社会をつくる』ことを、自明に『社会的正義』だと考えているところで、すでに「薄っぺらい読書家の独りよがり」であろう。

ここで言う「あらゆる人」とは、実のところ「あらゆる人」ではない。
つまり、「読書が好きではない人」は、そもそも「本を好きに読むこと」なんか出来ないし、それを望んでもいないのだから「放っておいてくれ」という話でしかないのだ。

したがって、著者のこの物言いは「読書は、すべての人にとって価値がある」という、読書家としての手前味噌な「党派的偏見」に立脚したものでしかない。

喩えばそれは、大谷翔平少年に「野球ばかりやってないで、もっと本を読め」と言い、「いや、たまには読んでますよ」と返されると「そんな程度ではダメだ」と言うようなものなのだ。

まあ、現実の大谷は、プロ野球選手のわりには本を読んでいるのかもしれないが、いずれにしろ、読書以外にやりたいことがある人も大勢いるというのは自明な話なのだから、「すべての人に読書を」というような物言いなど、大きなお世話なのである。
それどころか「お前もたまには運動しろよ」と、「社会的正義」の観点から、そう言い返されても、反論できないのだ。したがって、「読書をしたい人が、自由に読書のできる社会を」という趣旨なのであれば、それは「正義」だが、「すべての人に読書を。それが社会正義だ」という考え方は、偏頗な「全体主義」的押しつけでしかないのである。

「読書家なら、それくらいのこと気づけよ」という話なのだ。

(03)『(※ 本を)「おすすめ」される場合には、信頼できる情報源からであることが、本好きの人には何より重視されています。好みの合う友人だとか、信頼している書評家のSNS投稿だとか、です。子どもの場合は、信頼している学校の先生や、図書館の司書からの紹介も、期待がされているようです。
 また読書家は、「自分がよく読むジャンル」では、オンラインの口コミ評価で否定的な評価をみても、「好きな本」の評価を簡単に下げないという実験結果もあります。読書家は、信頼できない情報源からの評価は、あくまでもその人の主観ととらえるようです。
 この考え方はいいですね。残念ながらあなたには合わなかったのね、と思っておけば、自分のお気に入りの作品が批判されていても、気にしないですみそうです。』(P86〜87)


ここで言われているのは、要は「異論など気にする必要はないから、無視しておけば良い。自分が共感できる意見にだけ耳を傾けておけば、それで良いのだ」という話なのだ。
一一だが、当然のことながら、それは大きな間違いである。

言うまでもなく、人の薦めてくれる本が、自分に合うか合わないかは、読んでみなくてはわからない。
だがまた、個人的な「趣味」の問題として、「この人の薦めてくれる本は合う」とか合わないとかいうことがあるというのも事実だ。

だが、「今の自分」に「合う」本だけを、ずーっと読んでいるのが、ベストなのか? 一一という話なのだ。

もちろん、「今の自分」の好みのものばかり読んでいれば、それはたしかに「無難」ではあろう。
けれども、それでは、発展も進歩もほとんど無い。

これまで読んだことのなかった本というのは、たしかにハズレも多いが、たまには大当たりすることだってある。
「こんな本があったのか!」と、目が開かれ世界の広がる、得がたい瞬間というのは、たしかにあるのだ。
それが、20 冊に1冊くらいのことであったとしても、それでもそれは忘れがたい喜びの記憶となるのだ。

無論、「いや、私は、発展も進歩もいらないです。半径1メートルの範囲で、無難に楽しくやりますから」というような考えの人なら、それはそれで、その人の「生き方(人生選択)」だから、それでもかまいはしない。

だが、言うまでもなくそれは、「読書における正解」などではないのだ。
つまり、人の意見に耳を傾けて、それで時に失敗をしながらでも、新たな世界を見出し、新たな楽しさを知るのも、読書における、正統的な「知的醍醐味」なのである。

だから、「今の自分」の趣味とは違う本を薦めてきた人がいた場合、「趣味が違うから」と断っても、それはそれで必ずしも間違いではないけれど、しかしそれは、もしかすると、それまで知らなかった傑作、それまで知らなかった世界との出会いを、むざむざ棒に振る行為だったかも知れないのである。
リスクは少なくとも、チャンスもつかめない、守りの読書なのだ。

だから、本当の意味での「信頼のできる推薦者」とは、「今の自分」の趣味と同じ趣味を持つ人である以上に、「自分の可能性=未来の自分」まで、的確に理解してくれている人のことなのではないだろうか。

例えば、「私は本格ミステリが好きだから、本格ミステリしか読まない」と言っていた人に、「まあ、騙されたと思って読んでみろよ」と、J・P・ホーガン『星を継ぐもの』を薦めてくれ、そのおかげで「SFにも、私が楽しめる作品があるんだ!」というような、新たな喜びを与えてくれるような人こそが、本当の「得難い推薦者」なのではないだろうか。


そして、同様の意味で、面白い「純文学書」や「哲学書」や「社会学書」や「歴史学書」や「物理学書」などなどを教えてくれるのなら、こんなにありがたいこともないのではないだろうか。

しかし、本書著書の言い分に従ってしまうと、そういう積極的な推薦者の薦める本を、そのタイトルやジャンルを聞いただけで拒絶して、『残念ながらあなたには(※  私の趣味は)合わなかったのね(※ だから、見当違いの本を薦めてくるんでしょ)』と、出会いのチャンスを、あっさり「スルーしてしまう」ことになるのである。

無理にでも薦めろというのではないが、「こんなのもあるよ」と教えようとしてくれる気持ち、「少しのお節介」は、もっと大切にされて然るべきなのではないか。

たしかな「余計なお世話」かも知れないが、だからと言って「みんな違って、みんないい(のだから、放っておいて)」みたいな、「耳障りがいいだけの嘘=偽善」のまかり通るままにしておいていいわけもなかろう。

なぜなら、今は「他者に干渉しにくい、冷たい時代」でもあるからだ。
だからこそ、承認欲求に飢え、コミュニティに飢えた人が少なくないのである。

(04)『 ①社交的な共同体読書家

 まず「社交的な共同体読書家」は、読書と友情関係が「好循環」している状態に身を置いている存在とされています。友人たちは読書を楽しむことをすすめているし、読書体験を共有することで、友情がより強いものになっています。
 この社交的な共同体読書家は、友人のグループの一員であるために、また仲間はずれにされる感覚を避けるために、友人と同じ本を読みたがっていました。そのため、読む本の選択においてはほとんどリスクをとらず、挑戦もせず、かなり限定された同じテーマやジャンルの範囲内で、読書をしていたそうです。セレンディピティは重視してなかったのですね。その生徒たちは、魅力的な表紙で現在流行している本を選びがちだったとされています。
 なお、このタイプの読書家は、調査対象の生徒ではほとんどが女子だった(男子は1人のみ)そうです。思春期の女子生徒に多くみられる集団行動なのかもしれませんね。またおもしろいのは、彼女らは図書館がもっと社交的な場になればよいと考えていたそうです。つまり、彼女たちにとって本とは友人と交流するツールであり、読書は「社会的な共同体活動」だと思っていたのです。』(P92〜93)


ここでの著者の議論は、

「他者との関係は、本の選び方にどう影響を与えるか」(P91)


という問題についてのもので、著者は『2008年に行われた、カナダ・ノバスコシア州の12歳から15歳までの男女68人を対象とした研究』のデータをもとに、

『読書をする生徒のタイプには、3種類がありました。それは、①「社交的な共同体読書家」、②「社交的ではない共同体読書家」、③「孤独な読書家」の3タイプ』(P91〜92)


として、①のタイプを、上の(04)のように説明している。

しかし、(04)の説明を読書家が読めば、当然のごとく「違和感」を覚えるはずだ。そしてそれは無論、

「読書は、仲間づくりのための道具なのか?」

という疑問においてである。

つまり、このグループでは、仲間のできることの喜びが目的化されていて、読書がその目的を達成するための手段となってしまっている。要は、読書は二の次になっている。

言い換えれば「同じ趣味の友達を作れるのなら、それは読書でなくてもかまわない」ということになってしまっているのだ。

だが、それだと、引用文(02)での、「読書」における「社会的正義」とやらは、どうなったのか、という話にもなろう。

言い換えれば、著者の言う「社会的正義」とやらは、所詮「無数にある社会的正義の一つ」でしかない、ということになるのだ。

しかし、そんなものは「正義」ではないし、それを客観的な「正義」だと思い込んでいるのなら、それはまさに「独善」でしかない。

実際、著者自身も、このタイプの「読書家」に問題のあることは、承知している。なにしろ、

『社交的な共同体読書家は、友人のグループの一員であるために、また仲間はずれにされる感覚を避けるために、友人と同じ本を読みたがっていました。そのため、読む本の選択においてはほとんどリスクをとらず、挑戦もせず、かなり限定された同じテーマやジャンルの範囲内で、読書をしていたそうです。セレンディピティは重視してなかったのですね。その生徒たちは、魅力的な表紙で現在流行している本を選びがちだったとされています。』


と書いているのだから、こうした人たちの「自立心の無さ」というか「大勢迎合」的性格は、理解しているのである。

彼(女)らは、「みんなが右を向いていれば、喜んで右を向いていられる」タイプであり、それに疑問を覚えないタイプだ。
つまり、ヒトラーが「ユダヤ人は寄生虫だから殺せ!」と言えば「そうだそうだ」と大勢に迎合し、『天皇陛下現人神であられる。天皇陛下、万歳!』と言われれば、みんなと一緒になって、本気で『天皇陛下、万歳!』とやれるタイプなのだ。

そして、上に引用した部分の末尾が『とされています。』という言い回しからもわかるとおり、これは著者自身がデータから直接見出したことではなく、先行研究者の意見を、そのまま受け売りしているだけなのだ。

もちろん、正しい意見だと思うのなら、その意見を支持して受け入れ、自分の意見とすれば良い。
けれども、その場合、著者は、①の「社交的な共同体読書家」タイプの問題点について、先行研究者の言葉を(書き換えて)引用するだけではなく、自分の意見として、自分の言葉で批判すべきなのだ。

ところが、本書著者は、それをしない。
先行研究者による「批判的な意見」を紹介しておきながら、それで義理は果たしたとでも言わんばかりに、自分の言葉では批判しない。

なぜそんなことが出来るのかといえば、それは、著者の基本スタンスが「本書の読者に迎合する」というものだからである。

そしてそうしたスタンスは、前述の「読書は、社会的正義である」という、あの「私は読書家の味方です」と言わんばかりの安直な物言いにもつながっているのだ。

しかしながら、少しは頭を使う読者なら、

「読書によって仲間ができるというのは大いに結構なことだけど、仲間を作ることが目的化されたために、読書の仕方が偏頗なものになるのなら、それは読書家としては本末転倒でしょ」

ということに気づくだろう。

だからこそ著者は、「いやいや、それは私もわかってますよ」という「アリバイ工作」として、先行研究者の言葉を、まるで自分の意見ででもあるかのように紹介しているのである。

つまり、著者の本書におけるスタンスとは、このように「無責任に読者迎合的」なものであり、「学者としての中立客観性を放棄したもの」でしかない、ということになるのである。

ちなみに、引用文(04)に登場する「セレンディピティ」とは「素敵な偶然に出会ったり、予想外の幸運を発見したりすること」であり、読書家の場合だと、書店に行っても目的の本だけを探すのではなく、いろんな棚を眺めることで新しい本との出会いを求める、といった態度を指すものだ。
それまでの自分の趣味(守備範囲)に固執するのではなく、「他者(自分とは違った存在)に開かれている」態度を「セレンディピティ」に開かれた態度と呼ぶのだが、「社交的な共同体読書家」は、その「社交性」のゆえにこそ、えてして他者には閉じられており、ムラ社会的に異物(よそ者)排除的だ、ということなのである。

つまり、そんなものが好ましいわけはなく、むしろそれは、「社会的正義」とは真逆のものだ、ということにもなるのだ。

(05)『「長編大作」という感じのものは、最初はなかなか手にとりづらいかもしれません(余談ですが、マンガも10巻を超えると売上が悪くなる、という話を聞いたことがあります)。しかし、一度自分に合った「世界」がみつかると、シリーズ小説は、実はこのようにとても「便利」なのです。選ぶのが楽、読むのも楽、しかも読み応えは期待どおり(想定可能)、ということで、シリーズ小説は実にコスパがよい読書だと、私は思っています。
 そんなシリーズ小説で、私が子どものときに夢中になって読んだひとつは、『シャーロック・ホームズ』シリーズでした。シャーロック・ホームズは長編4作品と短編56作品の合計60作品があるのですが、必ずしもお話が時間の流れどおりになっていません。話の時間軸が過去に戻ったり、未来に行ったりで、混乱しながらも楽しく読みました。
 ラノベにはシリーズものが多いですね。私はファンタジー小説が好きなのですが、そのなかでも『本好きの下剋上:司書になるためには手段を選んでいられません』香月美夜著、椎名優イラスト、TOブックス)は全33巻にも及び、さらには外伝(スピンオフ小説)がまだ続いています。もはや「ライト」ノベルと呼べるのかは謎ですが、どっぷりとその世界に浸りたい人にはとてもおすすめです。』(P105〜106)


著者は、ここでも「コスパの良い読書」を批判しているのではなくは、「自分もそうだ」と、「今どきの読者に迎合している」一一と言うよりも、むしろ著者自身が「コスパの良い読書」をしたがる「今どきの読者」そのものなのだ。


つまり著者は、「今どきの読書傾向」を学問的に客観視して分析するのではなく、「今どきの読者」を、その成員の一人として、学問的に権威づけ、「自己正当化」しているに過ぎないのである。

(06)『 まず第1に、当たり前ですが、ハマれる小説は質が高い小説、ということです。「質の高さ」とは具体的にどういうことか。それがわかるならば小説家はみんなベストセラーを連発できるわけで、簡単にはいえないでしょう。そこをなんとか、ヒントだけでも‥‥‥という方のために、参考になるかもしれない論文を1つ、紹介しておきましょう。医療コミュニケーションを研究するクリューター(※ 研究者名)らは、一般の人にがんについて伝える物語(※ つまり、がん告知)の質の高さ・低さは、物語(※ 告知)の「属性」(※ 伝えるべき情報)である時系列化された出来事(プロット)、登場人物、時間、場所などが、どのように表現され、配列され、枠組化され、対象者や目標に適合されるか(※ 告知対象に合った告知になっているか)だとしています。』(P118〜119)


それなりの読書家であれば、

ハマれる小説は質が高い小説


という著書の言葉に、まず引っかかるだろう。

と言うのも、読書というのは、作品世界に「ハマる」ことだけが楽しみなのではなく、作品世界と「対決する」あるいは「著者と渡り合う」こともまた喜びだと知っているからだ。
読書家というのは、必ずしも「受動的」であるばかりではないのである。

だが本書著者は、どうやらそうした読書における「積極性」の喜びを、ほとんどまったく「知らない」ようなのだ。

また、それでいて、そんな自身のそんな偏頗(に受動的)な趣味において、都合の良いデータだけを引っ張ってきてまで、他人に助言することに、なんの躊躇もない。
なにしろ、「がん告知」と「本選び」を一緒くたにしているのである。

こうした著者の態度が意味するのは、著者が自身を「良い読書家」だと思い込んでいる、ということに他ならない。
そうでなければ、こんな「当てにならない助言」を、学者の肩書きにおいてすることなど、自制したはずなのである。

つまり、『「質の高さ」とは具体的にどういうことか。それがわかるならば』小説家は苦労しないと、そう言いながら、結局は、自分の考える「質の高い物語」というものを、臆面もなく語れるのは、小説家には「小説における質の高さ」ということがわかっていなくても、「良い読書家である私」には、それがわかっていると、そう思っている証拠なのである。

著者は、「学者」として本書を書いているのだから、本書ですべきこと、期待されていることとは、データに基づいた「客観的な見方の提示」なのであって、「学者」の肩書きにおいて「個人的な趣味」を垂れ流すことではない。だが、それがぜんぜんわかっていないのである。

(07)『(※ 本に)没頭するためのコツのその2は、「自分にとってなじみのある、共感できそうな物語を選ぶこと」です。本を共感するために読むのは邪道で、フラットに読まないといかん、という意見も最近みかけますが、しかし共感は没頭のために重要な条件でもあります。』(P120)


たしかに「本に没頭すること」が目的なら、「共感」を重視するというのは当然だろう。
だが、読書は「没頭」したり「共感」したりするためにするものなのだろうか?

無論、「没頭」や「共感」ができるに越したことはないのだが、それだけを目的化することは、読書のあり方として、はたして正しいのか?

しかし、それって「宗教にハマる」ことと、大差ないのではないか?

つまりそれは、自己を客観視することもなく、ただ「受け入れられる」ことで安心して「陶酔」できれば、それで満足だといった、きわめて「非理性的(非知的)」な態度なのではないのか、ということだ。

しかし、こうした安直な主張も、本書著者の「読書」が、すでに紹介したとおり、「現実逃避的に自己肯定的」なものであることを知っていれば、当然の結果というほかないだろう。

本書著者にとっての読書とは、「精神の危機から救ってくれた」宗教みたいなものなのである。

無論、「読書」には、「そういう読書」もあって良いのだが、より優れた読書とはむしろ、「眠り込んだ理性」に対して、痛烈なビンタをくれて「目を覚ませよ」と言ってくれるような読書、なのではないだろうか。

(08)『とはいえ、ここまで話してきたように、卓越化という「読書でマウントをとる」こと(※ 行為)は、国を超えて時代を超えて存在してきています。そこからいえることとして、「〇〇は読むべき」という論にはあまりふりまわされずに、好きな本を読んだらいいんじゃないでしょうか。「推薦図書」はその世界で卓越化された、シュミがよいと誤認されている本なのだ、と冷静に観察しつつも、しかしおもしろそうだったらあまり斜に構えずに、気軽に読んでみるのもありだと思います(私にとっての『善の研究』のように)。』(P203)


著者の言う『「推薦図書」はその世界で卓越化された、シュミがよいと誤認されている本なのだ』という見方は、果たして著者の言うとおりに「冷静」なものなのか。
それとも、独善的かつ卑屈な「負け犬の決めつけ(遠吠え)」でしかないのか。

ここには、著者の「本音」が、じつによく表れている。

著者は、他の箇所で自白的語っているように、いまでも漫画ばかりを読んで、実際には「硬い本」は(仕事上の資料を除いては)ほとんど読んでいないのだ。
「読みたいけど、そこまでは手が回らない」と自己弁護しているのである。

だから、そんな著者に対して、

「漫画などの、読みやすい本ばかり読んでないで、たまには硬い本にも挑んでみろよ。読んでいる時はしんどいかも知れないけど、読み終えた後に、発見の喜びがあるはずだから」

などと言って、善意で「硬い本」を薦めてくれる人というのは、著者からすれば「所詮はマウントを取ろうとしているだけでしょ」ということになり、そういうことだと(印象操作)されてしまうのである。

また、それでいて、引用文(07)の文末が、

『しかしおもしろそうだったらあまり斜に構えずに、気軽に読んでみるのもありだと思います(私にとっての『善の研究』のように)』


と、それまでの文脈からすれば矛盾した提案になっているのは、かつての自分に『善の研究』西田幾多郎)を薦めてくれた顔見知りの先輩のことだけは、悪しき教養主義者の「マウント屋」だと言うわけにはいかなかったためなのだ。
知り合いには強くは言えないから、ここで自己フォローしているのである。

そもそも、著者自身がずっと読めなかったと表現している『善の研究』のような「古典的な教養書」たる「硬い本」は、「おもしろそう」とは思えないからこそ読めなかったのだから、

『おもしろそうだったらあまり斜に構えずに、気軽に読んでみるのもありだと思います』


などと言うのは、自己矛盾もいいところで、客観的な「論理的一貫性」など、かけらもないし、そもそも「どの口がそれを言うのか」ということにしかならないのだ。

(09)『 本書では、人々の読書のあり方が、社会や制度、そして科学技術に規定され、行われていることをさまざまな研究結果から説明してきました。そしてそれを変化させているのも、人間なのです。テクノロジーだけでなく、社会や制度の変化のなかでこそ、読書行動の変化もあるのです。ですので、読書の社会的正義もそのなかで実現させていくべきことといえるでしょう。
 読書は決して、「個人的行為」ではないのです。』(P302)


見てのとおり、これは「まとめ」的な言葉なので、著者は「読書」は、社会的な営為なのだから『決して「個人的な行為」ではない』などと書いている。

だが、さんざ「人の意見など聞かずとも、自分が没頭して楽しめる本を読めば良いのだ」などと読者に媚びまくってきた著者が、ここでも「どの口でそんなことを言うのか」という話である。

当然のことながら、読書というのは「社会の中にある個人のおこなう営為」である。

つまり、「個人的な行為」でありながら、同時に「社会的な行為」でもあり、そのため、「個人的な楽しみ」であってもかまわないが、それが「独善」であってはならない、ということにもなる。

平たく言えば「私さえ楽しければ、何でもあり」では済まされないのだ。

だからこそ、

「楽しい読書も結構だけど、それだけではなく、君の視野を広げる読書もしてごらんなさい。それはそれで、君に新たな喜びをもたらすはずだから」

という話にもなるのである。

ところが、本書著者は「半端な読書家」であるがゆえに、このあたりの事情が理解できていない。

資料として読んで、理屈としてはわかっているつもりなのかもしれないが、読書家としての「実感」としては理解していないから、「読書における社会性(社会的な責任)」ということ、あるいは「読書において、社会に開かれてあることの喜び」といったことを、まったく理解していないのだ。

そして、こんなことは、昔の「読書家の学者」ならば、常識として理解していた程度の話だからこそ、彼らはしばしば、「良書を読みなさい」と言ったのだ。

そしてその心は、「どうだ、私はこんなに難しい本を読んでいるぞ」という「マウント意識」などではなく、「君よ、開かれてあれ(狭い自分の殻に閉じこもるな)」ということなのである。

なのにそれを、「マウント目的の、上から目線の言葉」だと決めつけてしまうところに、著者の「劣等感に由来する、被害者意識としての偏見」があると、そう理解すべきなのだ。

なぜなら、著者に「読書家としての自信(自負)」があるのなら、相手の意識がどうであろうと、「これ、面白いよ。読んでみてよ」と言われれば、(キリがないから読むとは限らないとしても)ひとまず「ありがとう(その気持ちには感謝するよ)」と、そう思えるのではないだろうか。

言い換えれば、そうした「心の余裕」が無いのは、「自信がなくて卑屈だから、つい人の好意まで邪推してしまう」ことにもなる、ということなのである。

何でも信じろというわけではないけれども、ニッコリ笑って「ありがとう」と言いながら、しかしきっぱり断れる人こそが、本物の自信家なのだが、無論、本書の著者はそうではないのである。
だから、『善の研究』を薦めてくれた先輩にも、格好でだけは、不実にも媚びて見せるのだ。



ともあれ、本書のような本を推薦できる人というのもまた、著者と同様に、「読書」の何たるかがわかっていないのか、あるいは、無責任な「何でも褒め屋」とか「身内褒め屋」でしかないのである。


(2026年8月2日)


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“桜井政成 『読書スタディーズ 読書好きはどうつくられるのか』: 著者は、自明に「優れた読書家」なのか?” への2件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    こういう本も読まれるのですね。皮肉でなく、すごいな、と思います。
    私は「○○さん推薦!」なんて帯に書いてある本は読む気になりません。有名人の名前を使うのはただの箔付けであって、そうでもしないと売れそうにないからでしょう。それに「!」が二つもあるのは笑っちゃいますよ。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    > 私は「○○さん推薦!」なんて帯に書いてある本は読む気になりません。

    いや、私は根が素直な人間ですから、人の話はわりと素直な聞きますよ。推薦文だって同じ。

    でも、その言葉を信じた結果、裏切られたとなったら、信じた分だけ怒りも半端ではありませんから、ただでは済まさない、責任を取らせてやる、ということになるわけです。

    素直で純粋な人間を騙しちゃダメということですね(笑)。

    ちなみに、私がこの本を読んだのは、三宅香帆による帯の推薦文のせいではありません。
    さすがに、三宅香帆が信用に値しない書き手だというのは、2冊も読んでよく知ってますから。
    ただ、そのうち3冊目を読みますけどね。まだ、反省と後悔が足りてないと思いますので。
    私は、アフターケアが徹底している人間なんです(笑)。

    で、なんで、私がこの本を読んだのかというと、最後の方にリンクを張って紹介している、谷口ジョイの書評を読んで信じたからなんです。
    だから、最後に晒しものにしてやったんですよ(笑)。

    もしかすると、谷口の本の書評も書くかもしれません。すでに買ってあるからなんですが、もうすでに積読の山に埋もれているので、読めないかもしれません。
    もう一度、同じ本を買ってまで復讐をするほど、私は執念深い人間でもありませんから。

    その点、意外にあっさりしてるんですよね(笑)。

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