朝井リョウ 『正欲』: 私の「最低限の正欲」の為し得るわざ

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▷ 書評:朝井リョウ『正欲』(新潮文庫)


本作は、2021年に刊行され、第34回柴田錬三郎賞を受賞し、2022年本屋大賞や第38回織田作之助賞などにもノミネートされて、ベストセラーにもなった作品である。


そんな5年も前の小説を、どうして今ごろ読む気になったのかと言えば、それは、先日レビューを書いた、與那覇潤の『危機のいま古典をよむ』の中で、本書が誉められていたからだ。


実際にその『正欲』の文庫版を手にしてみると、そのカバー背面には、次のような内容紹介文があった。

『自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな一一。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。』


この紹介文を読んで私は、本書が私にも無視し得ない作品だと悟った。

なぜなら、「女性差別」批判は口にしても、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄差別問題(沖縄への米軍基地押し付け問題)」など、自分が「加害者」側に立たされたしまうような「差別」問題については、一言半句語ろうとはしない、そんな武蔵大学の教授で自称フェミニストである北村紗衣や、その「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の同志である人たち(オープンレターズ)を、現在の私は、批判告発する立場に立っているからである。

「自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな一一。でも俺は、いつまでもお前らに、そんなことを許しちゃおかないぜ」


と一一。


では、本作『正欲』が刊行された2021年当時、どうして私は本作に注目しなかったのかと言えば、その頃の私はまだ、北村紗衣から難癖をつけられてはおらず、そのため「多様性」にも「フェミニズム」にも、その「弱者(マイノリティ)ビジネス」という「欺瞞的な現実」にも、まったく気づいていなかったからだ。


だが、今は違う。
「反差別」運動のうちに含まれるとされている「多様性の称揚」が、いかにしばしば欺瞞的でご都合主義的なものすぎないのか、その現実を知った今となっては、本書が勇気を持って告発していたものを、私もまた批判しなければならないと承知しているからである。


本作で描かれる「欺瞞」も、それはそれで酷い現実ではあれ、現実の「欺瞞的な正欲」は、それ以上に薄っぺらく、かつ極めて確信犯的に欺瞞的なものなのだ。
そのことを私たちは、本作の読解をとおして、それぞれが深く明記しなければならない。

でなければ、その人は本書を読んだことで、自身の「差別意識」について、まるで免罪符でも与えられたかのような気になるだけ、だからである。

 ○ ○ ○

本作は「差別」の問題を扱った作品である。しかも、その差別とは「(多様な)性的な欲望」のかたちをめぐるものだ。

私たちは普通、「性欲」というのは、「性的に成熟した人が、性的に成熟した異性の肉体に対して抱く欲望」だ、くらいに感じている。

つまり、一般に性欲とは、精神に対する欲望ではなく、もっぱら肉体に対するものだとされている。
精神に対する欲望は、普通は「愛」だとか「恋」だとかと表現されて、性欲とは区別されているのだ。

そして、こうした精神と肉体の両面における欲望の結びつきを「愛欲」と言ったりもするのだが、そもそも、まったく質の違う欲望、つまり、肉体(物)への欲望と精神(観念)への欲望というのは、そう単純に一対一で結びつくものではないし、ましてや自明の前提としての「一体のもの」などではあり得ない。

極端に言えば、肉体だけが欲しい場合(買春・強制性交)もあれば、精神だけが欲しい場合(個別承認)もあるのだから、この二つの欲望は、必然的な結びつきを持つものではない、とも言えるだろう。

私たちが一般に「普通」または「正常」だと思ってきたのは「成人間の異性愛」なのだが、この「成人間の」という条件も、基本的には「社会制度」的なもの(人工的な構築物)であって、「自然」に存在するもの(自然物・自然の法則など)ではない。

昔から今に至るも、「年上男性」好みや「熟女」好みというのは問題にならないが、「子供」を性愛の対象とするのは、一般に許されない。
今では「小児性愛=ペドフィリア」と呼ばれるものである。


しかしながら、「何歳からを、子供とするのか(大人とするのか)」という線引きは歴史的に変化してきており、洋の東西を問わず、一般に昔の方が、子供の年齢設定は低かった。

『〈子供〉の誕生』を書いた、フランスの歴史家フィリップ・アリエスによると、

中世ヨーロッパの伝統的な社会には、現代私たちが考えるような独立した期間としての「子供時代(子どもという概念)」は存在せず、乳離れした子供はすぐに「小さな大人」として大人社会の共同体に混ざり、働き、遊んでいた。
だが、16〜17世紀以降、徒弟制から「学校教育」への移行や教育の組織化が進むにつれ、子供を大人から隔離して保護・教育すべきだという意識が芽生え、それと同時に子供を中心とした「近代家族」の感情が成立した。



ということになる。
つまり、例えば、学齢期の「子供」とは、最初から自明に「子供」だったのではなく、むしろ昔は「大人」の内だったのだ。

したがって、小学生・中学生・高校生に当たる人たちは、昔なら「大人」だったのであり、それを「子供」だとする今の「常識」は、社会制度の歴史的な変遷の中で生み出されてきた「観念」に過ぎないのだ。

当然、大人と子供の先験的な(あらかじめ決定していた、自然な)線引きなどというものは存在しない、ということになる。

実際、「昔話」にもよくあるように、昔は10歳を過ぎたくらいの女性が結婚するというのも、よくある話だった。

だから、今で言う「子供」を、精神面と肉体面の両面において「愛欲」の対象にするのは、今で言う「ロリコン(ロリータ・コンプレックス)」でもなければ「ペドフェリア(小児性愛)」でもなかった。
単に「若い娘」好きでしかなかった。


無論、その逆パターンもある。
つまり、成人女性の男児好きというのも、昔から存在してきたわけだが、それが社会制度的な「結婚」というかたちにはならなかったのは、男性に比べて、女性の社会的な地位が低かったからであろう。
つまり、平たく言えば、女性は男性に選ばれるものであって、女性が仮にも男である男児を選ぶなどということは許されなかった。
大人の女性が「私は可愛い男の子が好きだから、この小学生男児と結婚する」などということは、性倒錯云々を問題にされる以前に、「男性中心社会」においては「ふざけるな、生意気な。女のくせに身の程を知れ!」ということになったはずなのである。

だから、女性の「男児性愛」は、社会的に隠蔽されることになり、そうした傾向を持つ女性は、こっそりと男児を愛することになり、そういうことが「あり得る」という認識のない社会においては、そうした女性は「子供好きの優しい女性」としか見られないのである。

一一だが、これは、昔の話ではなく、いま現在でもそうなのだ。

今でも「ペドフェリア」と言えば、成人男性が、女児または男児に対して性的な欲望を抱くことだと考えられがちだが、これは昔ながらの「偏見」にすぎない。
つまり、大人の女性が、男児や女児に性欲を覚えることは、当然ある。
「無い」と考える方が、むしろ「性差別的な偏見」なのだ。

昨今では、LGBTQ(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、その他の当人にも曖昧な性向)が社会的に認知されるようになってきて、性欲や性愛のかたちは、もはや限定不可能(無限定に多様)だというのは明らかだ。

それらはこれまでは「迫害を怖れて隠されてきた」のであって、存在しなかったのではない。


だからこそ「LGBT」は、それでは収まりきらずに「LGBTQ」となり、さらに「LGBTQ +」となり、それでもまだ切りがないので「LGBT」ということにしましょう、ということになったりもしているのだ。

だが、この「LGBTQ」の、特に「Q」が曲者で、ここからは「小児愛者」「動物性愛者」など、世間の理解の得られにくいものが、こっそりと排除されているのだ。

つまり、性的マイノリティの間にも、厳然と「差別はある」のだが、それが世間の目からは隠されているのである。

こう言っては何だが、もともと「変わったもの」が好きな私は、「性倒錯」にも昔から興味があって、SMやスカトロは常識として、ハイヒールフェチや太ももフェチまではまだ何となくわかるが、腋フェチはどこが良いのかわからんと思ったり、丸呑みだの四肢切断なとというのは、マゾヒズムやサディズムの変形なのだろうと自分なりに分析してみたりもした。


だが、こうした新しい性向が、新しいものなのか、以前からある性向の変形・合成的なバリエーションなのかは別にして、とにかくどんどん新しいものが見つかるだろうというのは、ほぼ間違いないことなのである。

本書で紹介されている「風船フェチ」などというのは、初めて知ったが、それがあるのなら、「うちわフェチ」や「ゲームカードフェチ」や「ぬいぐるみフェチ」なども、当然いるだろうし、だから「悪い」ということにもならない。

無論、性愛のかたちによって、比較的「多い・少ない」ということはあろう。

だが、「多数派が正常であり正しく、少数派は異常であり間違っている」などとは、今では考えられなくなっているから、当然そんなことを言うのも許されなくなっている。

ではなぜ、「少数派」を「異常(普通ではない)」だと考えてはいけないのだろうか?

それは、極論すれば、生物個体というのは、(クローンも含めて)まったく同じものが二つとして存在することはなく、どこかが何かしら違っており、個々別々だからである。

またその意味において、原理的に「多数派・少数派」というのは、あり得ないからだ。

だが「現に、異性愛者と同性愛者では、異性愛者の方が多いではないか」と思う人もいるだろう。
それだけではなく、「他人を鞭でしばいて喜ぶやつとか、しばかれて喜ぶやつとか、縛られて喜ぶやつとか、糞尿にまみれて喜ぶやつなんて、いるにはいるにしても、そう多くはないはずだ」と、そう思いもするだろう。一一たしかにそうだ。

しかし、こういう大雑把な考え方には、主に二つの難点がある。

まずひとつ目は、こうした「線引き」は恣意的なものにすぎず、上では「多数派」に属するとされる「異性愛者」や「非SM趣味者」「非スカトロ趣味者」も、線引き次第では少数派に属することになるからだ。

例えば、「異性愛者」であっても、その人にSM趣味やスカトロ趣味があれば、その人は間違いなく少数派だ。
また、SM趣味やスカトロ趣味があっても、その人が異性愛者なのであれば、その点においては、その人は多数派だということになる。

つまり、自分の性向のどこに着目し、どこを隠すかで、その人は、多数派にもなれば少数派にもなる。
たしかに、人目に隠しやすい性向と隠しにくい性向がある。けれども、それだけだとも言えるのだ。

例えば、「異性の顔の好み」ひとつとっても、人の好みというのは、実に多様であり、人によってぜんぜん違う。

ある人にとっては「こんなに魅力的な顔は他にない」と思っても、他の人にとっては「あんなブスのどこが良いのか。あんなのが好きだというのは、一種の変態だな」という話にもなる(お互いさまの変態呼ばわりだ)。

また、こうした好みは、時代のよっても少しずつ変化する。またそれでいて、やはり個人の好みというのは厳然としてある。

つまり、「個人の好み」ということを考えれば、そもそも厳密に言えば「多数派・少数派」というものは存在せず、グラデーションを成した無限に多様な「個人(究極の少数派)の好み」しか存在しない、とも言えるのだ。


したがって、「多数派・少数派」という物の見方は、恣意的になされた、しごく一面的で大雑把な「区分認識」でしかなく、実在するものではない「恣意的観念」にすぎない、ということになる。

つまり、極端に言えば、「変態」というものは存在しない。
みんながそれぞれに「変態」なのであって、そこには「目立ちやすい性向と目立ちにくい性向」があるだけなのだ。

喩えて言うなら、目が3つあったら目立って仕方ないが、へそが3つあっても、容易に隠せるといった程度の違いなのである。

したがって、目立つ、つまりメジャーな性向が正しく、目立たないという意味でマイナーな性向が間違っているなどということは言えない。
ラグビーよりも野球の方がメジャーではあっても、だから、野球は正常で倫理的にも正しく、ラグビーは異常で倫理的に誤っている(劣っている)ということにはならない。

そうした判断は、単に個人的な趣味嗜好によって歪められた、恣意的な主観的な判断にすぎないのだ。

しかしながら、こうして厳密に原理的に考えていくと、物事に「善悪正邪」などというものは存在しない、ということがわかってくる。


例えば、「快楽殺人鬼」は、「変態」であり「悪」だろうか?

一般にはそう考えられているが、しかし、論理的に考えれば、そうとも言えない。

例えば、こう問うてみると良い。

「なぜ、快楽殺人鬼は、悪なのか?」

この問いに対する一般的な回答は「他人の命を、その意に反して奪うから」と言ったものになろう。

しかし、それなら「戦争」はどうだろうか?

「戦争には、国家間の国益の調整ということがあるから(仕方がない)」とでも答えるのだろうか?

しかし、それなら「国家」とは「殺人鬼」のようなものであり、そんな国家を必要としている私たち国民もまた「殺人鬼」であり「悪」であって、個別の「殺人鬼」を責める資格など誰にもない、ということになろう。

当然のことながら「個別の殺人鬼」にだって、それはそれなりに「やむを得ない事情」があって、殺人を犯すのだ。
そうせずには生きられない欲求があり、どうしてもそれを抑えられないからこそ殺人を犯すのだ。そもそも、そんな欲求がなければ、自らの身を、「死刑」になる危険に晒してまで、殺人を犯したりはしないだろう。

つまり、私たちが「戦争のできる主権国家」というものを容認するかぎり、私たちは「快楽殺人鬼」を「変態」呼ばわりしたり、ましてや「少数派」だとか「悪」だとか呼ぶことは、倫理的にはできないのだ。

「同じ穴のムジナのくせに、自分のことを棚に上げて、善人ヅラして偉そうなことを言うな」ということになるからである。

したがって、「快楽殺人鬼」ですら、倫理的に否定できない私たちなのであれば、私たちはいかなる性愛形式も否定することはできない。

つまり、本作『正愛』で扱われる「ペドフェリア」は無論、他の動物との性愛を求める「ズーフェリア」だって、屍体との性交に快楽を覚える「ネクロフィリア」だってそうだ。

なにしろ「快楽殺人」すら、倫理的に否定できない私たちが、「子供とセックスしちゃダメ」とか「他の動物とセックスしちゃダメ」とか「屍体とセックスしちゃダメ」などと言う資格など、あろうはずもないのである。


一一しかしながら、そうした無茶苦茶な私たちによって構成される「人間社会」を破綻なく運営しようとするためには、そうも言っていられない。

つまり、「人間は戦争する動物である」というのは、正しい認識(事実)だとしても、やはり、それをできるかぎり食い止め、減らす努力は必要であろう。
同様に「殺人」だって、できるかぎり減らせるべきだ。

例えば、死刑制度の存置が問題になるのは、犯罪者への死刑によって、死ななければならない人の頭数を減らせるか(いかに安全を増やせるか)どうかの問題にすぎない。
つまり、見せしめとして死刑で殺人が減らせるか、それとも減らせずに、単に国家が国民の代わりに殺人(死刑)を犯すだけなのか、という問題にすぎないのだ。

そもそも、生きているだけで、他の生物や他の人間を犠牲にしている私たちに、他者を裁く資格などない。
だが、「大の虫を生かすには、小の虫を殺すしかない」という理屈で行われているのが、私たちの「正義」であり、それを必要とするのが、言うなれば「正欲(正義への欲望)」なのである。

 ○ ○ ○

だから、本書を読んで、「少数者」を犠牲にしてきた自身を、いまさら嘆いてみせる読者というのは、単なる「頭の悪い変態」である。

なぜなら、「僕らは、なんて罪深い存在なんだ」などと言いながら、そんな自分に酔って随喜の涙を流し、ほとんどエクスタシーを感じているような「変態」だと、そう言っても、あながち間違いではないからである。

だから私たちは、本書を読んで、私たち自身の旧悪を嘆いてみせたところで、今後、その同じ誤りを避けることなど、ほぼ不可能だし、そのことに気づいてすらいない者が大半なのだ。

したがって、本書を理解したと言うのなら、その日からその読者は「私は変態です」と名乗るべきであろう。それが、本書の「誠実な読者」というものではないか。

だからこそ、「少数派のために涙を流せる自分」「自身の旧悪を悔いて涙を流せる自分」に酔うことでカタルシスを感じ、内心「ああ私って、なんていい奴なんだ」と満足して本書を読み終える読者などというのは、完全に勘違いした、頭の悪い変態なのである。

無論、私たちは「正義」を求めるべきである。それは、「好ましい」ことと言うよりも、「最低限の罪滅ぼし」だからだ。

だが、その「罪滅ぼし」によって、私たちはまた罪を重ねることにもなる。
「正義」を求めることとは、誰かを「悪」だと名指し、その人を断罪し排除することになるからである。

例えば、ファンですら「いけ好かない性格」だと認める、あの北村紗衣だって、好きであんな性格になったわけではない。
だが、その問題性格が社会悪を為すのであれば、それは批判され断罪されざるを得ない。



本当は全員が「変態殺人鬼」でしかない人間社会において、それでも、せめて一人でも多くの殺人鬼が生き残れるようにするために、社会のスケープゴートとして「最悪の殺人鬼」を排除しよう(死んでもらおう)とする正義。一一それが「私たちの正義」なのだ。

だから、私たちが最低限、心得なければならないのは、「ペドフェリア」や「ズーフェリア」「ネクロフィリア」なんてものは、所詮、私たちの多様な「趣味のひとつ」にすぎず、それは何ら「おぞましいもの」などではない、ということだ。

「おぞましい」と言うのなら、私たち人間が生きていること自体がおぞましいのである。

だからせめて、私たちはそうした「変わった人たち」を「悪」呼ばわりすることくらいは止めようではないか。それでは、あまりにも頭が悪すぎる。

それこそ「そんな馬鹿から、排除して行った方が、世の中も少しはマシになる」と、そう言いたくもなるところなのだが、しかし、「馬鹿か否かの線引き」もまた、恣意的なものにならざるを得ないのも自明だろう。
ナチスドイツの障害者差別(抹殺)が、その良い例である。

ならば私たちは、『正義論』のジョン・ロールズが提唱した思考実験たる「無知のヴェール」を被り、「もしも私が(私の子が)、馬鹿に生まれていたら」「もしも私が(私の子が)、ペドフェリアに生まれていたら」「もしも私が(私の子が)、ズーフェリアに生まれていたら」「もしも私が(私の子が)、ネクロフィリアに生まれていたら」と考えることくらいはしようではないか。

無論、本当に、動物に生まれたり、馬鹿に生まれたりしてしまえば、それすらも出来ないのだが、だからこそそれをするのが、人間であることの最低限の尊厳だと、そう考えるべきだろう。

これが、私の「最低限の正欲」のなし得るわざなのである。


(2026年10月1日)

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