▷ 書評:ロバート・ジャクソン・ベネット『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』(早川書房)
世界幻想文学大賞・ヒューゴー賞受賞
アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最終候補
というので気になった。
さらに言うと、表紙のイラストが私の好みであった。

また帯に、
『凄腕(だが変人)捜査官アナと完全記憶能力者の助手ディンが帝国を脅かす怪死事件に挑む。』
とあるとおりで、ホームズとワトソン、御手洗潔と石岡和己という、探偵小説における、バディものの王道パターンで、ミステリとしては読みやすそうな作品である。
まあ、後者の御手洗・石岡コンビという例えは「今は昔」の感があるにしろ、王道中の王道。「変人探偵と真面目な助手」パターンである。
私は、SFも好きだしミステリも好きだ。ただし、ファンタジーは、あまり好きではない。
だから、本作で引っ掛かりをおぼえたのはその点なのだが、しかし、本作がハイ・ファンタジー的な西欧中世風の異世界を舞台にした作品(例えば『ナルニア国物語』など)なのは、そんな「世界観」そのものを楽しむという、ファンタジー読者が期待するような楽しみ方ではなく、あくまでもその「特殊世界でこそ成立する本格ミステリ」を書くためのものなのであれば、私の個人的な趣味としても異議はない一一と、そう考えた。
本作の表紙を見て、まず私が思い出したのは、日本の本格ミステリにおける画期的な傑作、山口雅也の『生ける屍の死』であった。


『生ける屍の死』は、「死者が甦える世界での連続殺人事件」という不条理状況における「ファイダニット(動機は何か)」を描いた作品だった。
殺しても復活するんだったら、「殺す意味が無い」はずなのに、それでもなされなければならなかった連続殺人事件の「意味」を描いた作品だったのである。
この『生ける屍の死』は、今でも言うところの「特殊設定ミステリ」の嚆矢となった作品なのだ。
「特殊設定ミステリ」という言葉は、『生ける屍の死』の、ずっとあとに生まれた言葉なのである。
で、本書の帯に推薦文を寄せているのが、現在の「特殊設定ミステリ」の流行をリードしたミステリ作家・斜線堂有紀であった。
であるならば、本作が「特殊設定ミステリ」であろうことは、ほぼ確定したと見ていい。
だから、私は本作を読むことにしたのである。
本作の「あらすじ」は、次のとおり。
『 神聖カナム大帝国は、海から襲い来る巨獣リヴァイアサンの襲撃を阻止せんため、高度な生体改変技術を発展させている。その辺境のある豪邸で、技術省高官が体から巨大な木を生やした奇妙な姿で死んでいるのが発見された。
死の謎を調べるのは、目隠しをして部屋から出ない異色の捜査官アナと、新人助手のディン。超絶頭脳の持ち主アナは、見たもの聞いたものすべてを記憶する生体改変を受けた記銘師のディンを現場に向かわせる。
アナの奇行に振り回されつつディンが捜査を続けるなか、近隣の州都で対リヴァイアサン防衛の職につく十人の技師が同様に死んだと判明する。一連の事件は、帝国を揺るがそうとする何者かの仕業なのか? ディンが語る現場の記憶から、アナは真相に迫っていくが……!?』
(Amazonの本書紹介ページより)
さて、そんなわけで本書を読んだのだが、その結果はどうであったか?
正直なところ、個人的にはいささか期待外れであった。
ファンタジーとしての異世界構築はじつにしっかりしているし、主人公の二人も十分に魅力的である。
また、身体の内部から植物が発芽し、それが急成長することで殺されるという、猟奇的な殺害方法も、イメージとしては悪くない。
小栗虫太郎の名探偵・法水麟太郎ものの短編「失楽園殺人事件」や「夢殿殺人事件」(だったか「後光殺人事件」)をちょっと思わせるような、いささかグロテスクで非現実的なイメージが、私の怪奇趣味に合っていた。
また、物語の筋としても悪くはない。
全体としてのイメージは、『ロード・オブ・ザ・リング』(指輪物語)+『薔薇の名前』÷2という感じの作品だったのだ。


だが、問題なのは、本作が「(名)探偵小説」ではあっても、「本格ミステリ」かというと、そこは微妙なところであった点だ。
本作の場合、見聞きしたものを完璧に記憶できる特殊能力者「記銘師」のディンを現場に派遣し、名探偵役であるアナが、戻ったディンから現場の様子を聴いて推理するという意味では、「本格ミステリ」の一種である「安楽椅子探偵もの」を思わせた。
探偵や助手の「活劇的な活躍」を描いて読者を楽しませるというのではなく、あくまでも、助手が収集してきた情報という「問題編」と、それだけを元にして名探偵が、意外な真相を暴くという「解答編」からなる「安楽椅子探偵もの」というのは、「論理性と意外性」が売り物だという点で、純粋な「本格ミステリ」の一形態だと言えるのである。
身体は使わず、頭を使うミステリだということである。
だが「安楽椅子探偵もの」は、たいがいの場合「短編」なのだ。
なぜなら、そこで売りとなるのは、前述のとおり「論理性と意外性」であり、物語性というのは「修飾的な肉付け」でしかないと考えるから、そうした不純な要素は、基本的に排除されるためである。


つまり、純粋な「安楽椅子探偵もの」で長編を書こうとすると、例えば、物語の前半は、延々と「事件の状況の説明(紹介)」になり、物語の後半は、延々と続く「論理的な推理」というようなものになってしまう。
この「事件の状況の説明(紹介)」と「論理的な推理」との比率が、「5:5」になるのか、「8:2」になるのか、逆に「2:8」になるのかは別にして、どっちにしろ「面倒くさい小説」になるというのは、ほぼ間違いない。
英米の黄金期の本格ミステリ長編、例えばその典型的な作品として、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』や『僧正殺人事件』などは、「安楽椅子探偵もの」ではないけれど、基本的には、事件の状況説明と謎解きの割合が「8:2」とか「9:1」みたいな作品だった。
「問題編」をしっかり描きこんで、最後の「謎解き編」で、その「不可解な謎」をきっちりと論理的に解き明かすことで、読者を、あっと言わせたり、「う〜む、なるほど」と唸らせるような作品なのだ。
だが、読者に根気がなくなった今日では、こういう古典的な形式の本格ミステリは、いかにも流行らない。
延々と続く、地味で細かな説明(状況描写)を読むのは面倒くさいし、緻密な議論が延々と続くと、読者の頭がついていけなくなるからである。
だから、今の読者は、論理の緻密さよりも、少々ハッタリがましくても、どんでん返しの意外性の方を好む傾向が強いのだ。
昔の読者は、美味しいお菓子を食べるために、その前に延々と我慢して、あえてお腹を空かせるということをやった。今の例で言えば、TV番組の「ベスコングルメ」みたいなものである。
「最高に美味しく食べるためには、我慢も辞さない」というストイックな態度だったのだが、今どきのエンタメ小説読者は、そういう我慢に慣れていない。
後半の「謎解き」に至るまでの「状況説明」時であっても、ただそれだけを延々と地味にやられては我慢ならない。
なぜならば、昨今では、そうした説明の途中にも、時々「くすぐり」を挟み込んで読者を飽きさせないという、書き手側の工夫が当たり前になったからである。
つまり、読者を「最後のご褒美」へと誘導するそれまでの過程においても、時々ちょっとしたエサを撒いて、読者の興味をつなぎ止めるという工夫が当たり前になってしまったから、昔の本格ミステリのように、ご褒美は最後まで「お預け」状態にするようなことは、しにくくなってしまった。
読者には、そこまでの根気やストイックさが無くなってしまったからである。
で、私がここで何の説明をしているのかというと、それは「安楽椅子探偵もの」は、長編には不向きであるということであり、長編でそれをやろうとすると、途中でそれなりに小ネタを撒かなくてはならないから、結果としては「純粋な安楽椅子探偵もの」にはならなくなってしまう、という話しなのだ。
つまり、本作『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』の場合、名探偵と助手の設定だけを見れば、典型的な「安楽椅子探偵もの」かと思ってしまうのだが、そして私はそんなイメージを持ってしまったのだが、じっさいには本作は、「安楽椅子探偵もの」ではなかった。名探偵のアナも、けっこうあちこちへと出向くことになる。
つまり本作は、当たり前に「動きのある(行動的な)ミステリ」作品だったのである。
読まれた方には思い出していただいのだが、前述の、ウンベルト・エーコによる本格ミステリの名作『薔薇の名前』も、決して「論理的な謎解き」ばかりの、静的な作品などではなかった。
名探偵と助手のコンビが、けっこうあれこれ動きまわる中で事件の真相に迫っていくという「活劇」的な要素があって、形式的には「謎解き小説」としての本格ミステリではあっても、「論理性と意外性を主眼とした謎解き作品」という意味での「狭義の本格ミステリ」というほどの、ガチガチなものではなかったのである。

つまり、本作『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』もまた、『薔薇の名前』に似たタイプの「広義の本格ミステリ」であって、「狭義の本格ミステリ」ではなかったのだ。
いちおうのところ、真犯人は「意外な人物」だとは言えるけれど、本格ミステリマニアからすれば、決して「意外」とは言いがたい「想定の範囲内の人物」でしかない。
また、殺人方法の方は、ユニークではあっても「あっと驚くような、論理的な意外性」があるわけでは、まったくない。
そもそもそこには、名探偵や読者を欺くための「トリック(欺罔)」は無く、あくまでも、小栗虫太郎的な「グロテスクな殺人法」として、探偵小説趣味があるだけなのだ。
決してそれは「論理的に意外」なものというわけではないのである。
では、私にとっては、『薔薇の名前』は抜群に面白くかったのに、本作『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』の方はイマイチだったのは、なぜか?
それは、本作の場合、ミステリとしての「装飾」の部分が、私の趣味ではなかったからだ。
『薔薇の名前』における「装飾」とは「キリスト教神学」であり、小栗虫太郎の「法水麟太郎もの」の「装飾」とは「神秘学」や「擬似科学的な特殊知識」が魅力的だったのに対して、本作『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』の場合、まさに「ファンタジー世界としての世界観」そのものが、売りのひとつだったのだ。
で、前者と後者は「特殊な世界観」という意味では共通しているものの、前者は「リアルな世界における異常な世界観」であるのに対して、後者の場合は「特殊な世界における合理的な世界観」であったのだ。
つまり、私の場合は、前者は好きだが、後者は好きではない。
だからこそ、もともと「ファンタジー小説」は好みではなかったのだ。
言うなれば、私の好みとは「変なもの」であって、単に「特殊なもの」ではないのである。
「宗教」や「神秘学」は、基本的に「非合理」だからこそ、合理主義者の私は「面白い」と感じるられる(何であんなものを信じられるのだ)と思うから面白いのだが、「ファンタジー小説」の世界観というのは「その世界における合理性」を持つものであり、少しも「変」ではなく、「別の合理性」を語るものだからこそ、私には興味が持てなかったのであろう。
そんなわけで、私は本作に「特殊設定ミステリ」としての「本格ミステリ」を期待したのだが、しかし本作は、じつのところ「論理的な意外性」を売り物にする「狭義の本格ミステリ」ではなく、異世界を舞台に名探偵が活躍する「活劇ミステリ」なのであった。
そしてその意味で、「広義のミステリ」でしかなく、「狭義の本格ミステリ」としての「論理的な意外性」を生むために、わざわざ「特殊世界」を構築したというような作品なのではなかったのだ。
あくまでも「特殊世界での活劇ミステリ」でしかなかったのである。
そして、そのつもりで、「特殊設定ミステリ」の名手である斜線堂有紀の推薦文を読み返してると、斜線堂は、本作のことをひと言も「本格ミステリ」の傑作だとか、ましてや「特殊設定ミステリ」だなどとは、言っていなかったことに気づかされた。
「一つのミステリの為にここまで贅沢な舞台を拵えるとは。これからのファンタジイミステリはこの作品と戦わされることになる」
つまり、きわめてすぐれた「ファンタジーミステリ」ではあるけれど、「本格ミステリ」や「特殊設定ミステリ」だとは言っておらず、ただ「斜線堂有紀が推薦文を寄せているのだから」と、こちらが勝手に、斜線堂有紀のそれと同系統のミステリ、つまり「特殊設定ミステリ」だと思い込んでしまっただけだったのである。
斜線堂は、なにも嘘もついてはおらず、正確な紹介文を書いていただけだったのだ。
まあ、穿って言うならば、斜線堂有紀に推薦文を依頼した編集者は、「特殊設定ミステリ」と「異世界(ファンタジー)ミステリ」との違いを、正確に理解していなかったということなのかもしれない。
なぜなら、両者は「表面的な形式」においては、とてもよく似ているからである。
しかしながら、当然のことながら両者は、まったくの別物だ。
一一どこがどう違うのか?
それは、「特殊設定ミステリ」は、「ユニークな、本格ミステリ的なトリックとロジックを成立させるために、ユニークな世界を設定した」作品であり、言うなれば「特殊な世界設定」は、「手段」なのだ。
だか、もう一方の「異世界(ファンタジー)ミステリ」の場合は、そうしたミステリ的面白さあっての舞台設定というわけではなく、シンプルに「ユニークな舞台におけるミステリ小説」であり、舞台設定は「手段」ではなく、重要な「目的」のひとつなのである。

つまり、後者の場合、例えば、東京を舞台にしたミステリよりも、プラハを舞台にしたミステリの方が「趣がある」というような意味での舞台設定なのだ。
そこでは、両者に違いがあるとしても、法律が違うとか、国境のかたちが違うとか言ったことでしかなく、決して本質的に「特殊(変)」だというわけではなかったのである。
それで、これは私の推測にすぎないが、本書への推薦文依頼が来て、本書を一読した斜線堂有紀も、きっと「これは、特殊設定ミステリとファンタジーミステリを混同して、私に推薦文を依頼してきたんだな」と、そう気づいたのではないだろうか。
しかしまあ、「特殊設定ミステリ」ではなくても、「ファンタジーミステリ」としてよく書けた作品なので、そこをそのままストレートに褒めた推薦文を書いたということなのではないか。
だが、こちらは、斜線堂有紀の名前の方に惹きつけられて、その推薦文を「誤読」してしまったということだったのではないだろうか。
そんなわけで、本作『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』は、決して悪い作品ではなかったのだが、個人的には、期待したような作品ではなく、また趣味でもなかったので、イマイチ楽しむことの出来なかったと、そういうわけなのである。
(2026年10月18日)
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