▷ 書評:リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』(岩波書店)
「哲学」というものは、基本的に難しいものだ。
なんで難しいのかと言えば、それは「哲学」というものが「考えぬく行い」だからだ。
ではなぜ「考えぬく」のかと言えば、「物事の道理を明らかにする」ためである。
ではまた「物事の道理」とは何かというと、「なぜ、それはそうなのか」という「論理的な根拠」のことである。
例えば「人間とは何なのか?」という問いは、「人間の成立要件とは何なのか?」と問うものだ。
つまり、どのような条件を満たせば「人間」と呼ぶに呼ぶに値する存在だと言えるのか。あるいは、どんな条件を欠くと「人間」とは言えないのか、ということを考える。
例えば、機械で作った「人間そっくり」な存在は、人間なのか人間ではないのか?
普通、そういうものは「ロボット」と呼ばれて「人間」とは区別される。つまり「人間ではない」と考えられている。
見かけがそっくりなだけではダメなのだ。
では、「人間とロボットは、どこが違うのか?」一一それを考えるのが「哲学」である。
「人間とはこういうもので、ロボットとはこういうものだ。したがって、人間とロボットはここが違うのだ」と、人間が人間であると呼べる根拠、ロボットがロボットであると呼べる根拠を明らかにし、両者の違いを明らかにした上で「だから、いくら外見的にそっくりだとしても、人間とロボットは別物なのである」
一一と、そのように説明しようとするのが「哲学」だ。
物事の「道理を明らかにする」とは、そういうことなのである。
では、「哲学」しない人とは、どういう人なのか。
それは「右が人間です。左がロボットです。見かけはそっくりですが、まったく別物です」と説明されると、「そういうものなのか」と、その説明を鵜呑みにできるような人のことである。
そうした人は「なぜ、見かけはそっくりなのに、片方は人間で、もう一方はロボットだと区別されるのだろうか? 両者の違いはどこにあるのだろうか?」とは、考えないのだ。
しかし、この程度の疑問くらいまでなら、たいがいの人だって持てるだろう。
そして、科学者や哲学者などの専門家に「どこが違うのですか?」と説明を求めたりする。
すると、科学者は「人間には生命がありますが、ロボットは機械ですから生命がありません。そこが違うのです」というような説明をし、哲学者は「人間には心(魂・精神)がありますが、ロボットにはそれがありません。ロボットは、あらかじめプログラムされたことをやっているだけ。そこが違うのです」などと説明するかも知れない。
すると、たいがいの人は、これで納得するだろう。
しかし、中には「いや、そもそも生命って何? どこからが生命でどこからが非生命なの? その線引きは? そもそも生命って、非生命である無機物から生まれたんでしょ?」という疑問を持ったり、あるいは「そもそも心って何? そもそも私は、私の心はあると感じているけど、他人の心なんで見たこと無いんだから、右のに心があって、左のには心が無いなんてことは、見たってわからない。あなたはどうして、両者に、心があるとか無いとか言えるんですか?」と、そう問うだろう。
じつに面倒くさいやつである。
一一では、あなたは、こういう「面倒くさいやつ」だろうか?
違うはずだ。あなたは、科学者や哲学者や神学者や有名人や専門家などに、何やらそれらしい説明をされたら、それで満足する「素直な人」だろう。
それが、当たり前であり、99パーセントの人なのだ。
例えば、いま一部に人気の若手哲学研究者である朱喜哲の書いた「哲学入門書」を読んで、「これでリチャード・ローティのことは大筋で分かった」と、そう満足するのではないだろうか?
一一じつに素直なものである。
それとも「こいつの説明だけでは安心できない。そもそも、哲学の素人である私が一読しただけで分かるような本を1冊読んだくらいで、世界的に有名な一流の哲学者の考えていることやその主著の中身を理解できるはずがない。きっと、これは、『マンガで読む リチャード・ローティ入門』と大差のない、適当に大雑把な紹介に違いないはずだ。だから、こんな入門書じゃなくて、ローティ当人の本を読んでみよう」と、そういう疑り深く、面倒くさいことを考えるだろうか?
まあ、普通の人は、そんな面倒くさいことは考えない。
そもそも、面倒くさいやつは嫌われるのだ。誰だって、面倒くさいやつよりも素直な人の方が好きなものである。
だから、面倒くさいことは、仮にしたくても、しないようにするものなのだ。
しかしながら、「右を向いてて下さい」と言われて「はい、喜んで」と従い、「やっぱり、左を向いてて下さい」と言われても、にっこり微笑んで「はい、喜んで」と、その依頼に従えるような人は、哲学には向いていない。
「なんで、お前の指示に従わなきゃならないんだよ?」と、そこでそう「考える」ことができるだけではなく、最低限「なぜ、そうしなくてはならないのですか?」と質問することくらいは出来ないと、哲学などという面倒くさいことは出来ない。
なぜなら、そういうことに疑問を覚え、さらには質問をするというような、普通の人はしないことをする人というのは、「面倒くさい人」として、一般に歓迎されないからである。
誰だって、人から嫌われたくはない。好かれるに越したことはないから、特に支障のないかぎり、たいがいのことは素直に受け入れるし、それが習い性にもなっている。
つまり、いちいち「なぜ? どうして?」などとは問わないし、いつの間にかそんな疑問すら湧いて来なくなっている。
しかし、そんな人というのは、たしかに素直でもあれば多数派でもあるはずだが、哲学とは縁なき衆生(人々)であると言えよう。
鵜呑みにしても特に支障のなさそうなあれこれについて、しかし、それを鵜呑みにしようとはせず、鵜呑みには出来ず、「その根拠は何?」「どうして、そうしなきゃならないの?」「それが正しいことだという根拠は何?」「みんながやってるからって、それが正しいと言えるの? 間違っていることだって多々あるでしょ?」一一なんてことを考え、時にそれを口にしたりする人によって、哲学はなされるのである。
そうせざるを得ないから、面倒くさいやつだと思われてでも、その根拠を問うのであり、問わずにはいられない。
それが、哲学者という「面倒くさい人」たちなのである。
したがって、たいがいの人は、哲学などできないし、現にしていない。
してはいないのだが、しかし、ぼんやりとながら、自分は「深く根拠を問う」ということをしていないという自覚くらいならある人もいる。
そういう人は、本格的に哲学の勉強まではしないまでも、薄っぺらい入門書くらいなら読んでみる気になる。
それで「私は本質的なことを何も知らない」という不安から逃れられるのであれば、安い買い物だからだ。
そして、それを読めば、それまでは考えたことのなかったことが書かれているから、なるほどと感心して、それでたいがいは満足してしまう。
つまり、その人はその程度には素直なのである。
しかし、そうした「入門書」を素直に信じてしまうというのは、それっぽい見かけのそれっぽい人から、深遠そうな宗教教義的な説明を聞かされ、その、それまで聞いたこともなければ想像だにしなかったその「理屈(根拠)」にすっかり圧倒されて感心し、ほとんど理屈抜きで納得して帰依してしまうというのと、同程度の素直さなのだ。
「なにしろあんなに徳の高そうなご僧侶が(神父さんが)お話になっているのだから、まず間違いはないさ」
そう信じるのと同じように、「大学で哲学を講じている哲学の先生が、ローティの哲学はこうだとおっしゃっているんだから、それはきっと、そうに違いない。なにしろ、あの人自身、哲学者だと名乗っているんだから、深いところから完全に理解しているに違いない」と、そう信じてしまうのである。
語り手の「見かけ」や「肩書き」だけで信じてしまえるのだから、じつに素直なものである。
だが、こういう人こそが、まさに詐欺のカモなのである。
大雑把に言って、日本での1年間の詐欺被害件数が3万件、被害総額が3000億円にも上るのは、こういう素直な権威主義(的盲従)者が多いからなのだし、そういう人が多いから、哲学書は売れなくても、哲学入門書は売れるのだ。
もちろんごく稀には、本格的な哲学書がバカ売れすることもあるのだが、無論、その内容はろくに理解されるわけではないし、そもそも通読されたかも大いに疑わしい。
例えば、かつてベストセラーになったドゥルーズ=ガダリの『アンチ・オイディプス』を買った人の、100人に1人くらいは通読したのだろうか? 一一それとて、かなり疑わしいところである。
例えば、敬虔ぶっているキリスト教信者が、みんな聖書を通読しているのかと言えば、そんなことは全然なくて、むしろ読んでいない人の方が多い。
なぜなら、最低限、教会の日曜礼拝へ通ってさえいれば、神父さんや牧師さんが、聖書の重要な一節を引用した上で、それをわかりやすく説明してくれるからだ。
いわゆる、「説教(講話)」というやつである。
それさえ聞いていれば、聖書のポイントは押さえられるとそう思ってしまうから、分厚くて、見るからに面倒くさいそうな聖書を、自力で頭から終いまで読もうという気にはなれない。
例えば、新約聖書の冒頭、「マタイによる福音書 第1章第1節」は、こんな調子なのだ。
『アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。』
もう、これだけで挫折した人がどれだけ多いかは、想像にあまりあるはずだ。
ことほど左様に、聖書を通読するというのは面倒くさいことであり、よほどの奇特な覚悟なくして、聖書の通読などは叶わない。
無論、これは単に「通読」の話であって、「理解」の話ではない。
通読したからと言って、それで理解できるわけではないというのは、当然の話なのだ。
だから、たいがいの信者は、教会での説教で満足してしまうのだ。
そこでは、聖書の重要な一節(聖句)とセットで、その「解釈」が示される。
もちろん、その「解釈」は、神学校で神学を学ばれた神父さんや牧師さんがお話になるものなのだから、その意味では「正しい解釈」だと考えて良いだろう。
それなら、それを信じ、それを「私」の聖書理解だとするならば、「私」も聖書が理解できたということになり、「私」も聖書が語れるようになる。
神への信仰に出会っていない人たちに対して「イエスの愛とはこういうものであり、イエスへの愛(信仰)とはこういうものなのです」と、自信を持って語ることもできるようになる。
たしかに受け売りではあるけれど、間違ってはいないはずだからだ。
聖書を通読し、さらにそこに集められた個々の文書を正しく理解してから、無信仰の人たちにイエスの愛を語ろうなどとしたら、それは一生叶わないだろう。
だから「聖書の通読なんかしていなくても良いのだ。私は教会で、そのエッセンスを学んでいるのだから」と、そういうことになるし、信仰においては、それで良いのだ。
なぜなら、信仰において大切なのは、神を心から信じることであって、神を「知解する」ことではないからである。
無論、理解しようとするその努力は必要だが、それが目的ではないのである。大切なのは、神の愛を、それを知らない人に伝えて、一人でも多くの人を救うこと(伝道)なのだ。一一ということだからである。
つまり、哲学の入門書を読んで、それで「わかった」つもりになり、それをまた要約して人に語っているような人は、「哲学する人」ではなく、その入門書著者の「信者」なのである。「信仰する人」なのだ。
例えば「リチャード・ローティの哲学」を、その入門書の著者が、正しく理解し、正しく要約し、正しく語っていると「信じる」から、原典を読む必要も感じず、そこで語られたことが、原典で語られていること「そのもの」だと信じられ、原典を読まずに原典を理解したつもりになれて、原典を語ったつもりにもなれるのである。
しかしながら、じつのところ、日曜礼拝で神父さんや牧師さんの語った聖書解釈が、「正しい」という保証はどこにもない。
そもそも、聖書に含まれる文書には、相矛盾する記述があるのだから、その辻褄をどう合わせるのかは解釈次第だし、その「多様な解釈」の中から「どれを正しい解釈とするのか」を決定するのは、その「教派」の考え方(選択)でしかない。
だからこそ、同じキリスト教であっても、いろんな「教派」が存在して、それぞれに「うちの教派の解釈こそが、正統解釈だ」とアピールしているのである。
これは、他の宗教だって、だいたい同じなのだ。
したがって、教会において、徳の高そうな神父さんや牧師さんが、聖書をもとにして説教していても、それが本当に正しい「聖書読解」なのかどうかは、誰にもわからない。
それこそ「神のみぞ知る」なのだが、普通、神様は個々の読者に直接語りかけては下さらない。
だが、神の実在と自分の信仰を信じるのならば、自分で聖書を読んで、それに耳を傾けるしかない、ということになる。
いや、普通の信者はそこまで考えないが、たまにそこまで突き詰める人もいる。
他人の経典解釈を鵜呑みにするのは、神への信仰ではなく、人間である神父や牧師や神学者への信仰でしかないし、その背後にいる「教派の権威」への信仰でしかないからだ。
しかし、自分で聖書を読み、神の言葉の訪れがあったとしても、それが「正解」だという保証を、他から与えられることはない。
むしろそれは、新たな「異端」の誕生だと、それまでの教派から非難され、攻撃されることにしかならないだろう。
だが、自身の信仰であり、神の真理への帰依を信じているのならば、自分が耳にした「神の声」を信じるしかない。それが、その人の「信仰」なのである。
したがって、ある哲学者の入門書を読んで、それで、その哲学者を理解したつもりになるのは間違いだ。
なぜなら、そうした入門書に書かれているのは、その入門書の著者の「解釈」を経た、その入門書著者の考えでしかないと、そう考えるべきだからである。
同じ聖書を読みながら、解釈が多様であるように、ある哲学書の解釈も、聖書ほどではないにしろ、相当に多様なものなのだから、原典を読まずに入門書だけで済ませるのならば、それは原典を理解したのではなく、その入門書を理解したのだと、そう考えるのが、原典や哲学的思考への敬意だと言えるだろう。
だが、そこまで考える人は多くはない。
キリスト教信者の多くが、聖書の通読すらしていない「軽信の徒」であるように、哲学入門書の読者だって、原典を読む必要性すら感じずに、原典を理解したと思えるほどには「軽信の徒」なのである。
○ ○ ○
そんなわけで、私の場合は、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同署名者であり、「令和人文主義」の中心的メンバーである、朱喜哲の方に興味があって、その著書2冊(『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』と『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』)を読んでみたところ、そこで語られたいるのは、どちらも主にリチャード・ローティの思想だったと知った。

また、未読の朱喜哲の著書も、そのタイトルからして、ローティの哲学を中心にすえたものだというのが窺えた。
そこで、ローティを読んでみようと思ったのである。
私自身は、特にローティに興味があったわけではないから、ローティ信者ではない。
ただ、朱喜哲がローティを「真理の探究を諦めたアンチ哲学(反・伝統的哲学)の人」「従来の哲学全体の営みを断ち切る破壊者のような存在」などと評して、ものすごく画期的な哲学者として紹介していたので、どのような哲学者なのかと興味を持ったのと、そんな哲学者を繰り返し紹介している朱喜哲自身の哲学とは、どんな哲学なのかと、そう疑ったのだ。
ちなみに、朱喜哲の書いた、NHKのテレビ番組「100分de名著」のテキスト『ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』(全4回)の、第1回のタイトルは「近代哲学を葬り去った男」となっており、まるでローティが近代哲学を決定的に過去のものにしたかのような、かなり大仰な表現となっている。

つまり、単なる「真理追求を諦めた」とか「アンチ哲学」だとか「哲学の伝統的な営みを断ち切るような哲学」だとかいったこととは、かなりニュアンスの違った表現が採用されて、テレビ放送されているのである。
当然、哲学に詳しくない人がこれを観たら、ローティがとてつもなくすごい哲学者なのに、しかし「自分はぜんぜん知らなかった」ということに驚くだろう。
だが、言い換えれば、リチャード・ローティは、朱喜哲が言うほど、一般的な意味では、画期的な哲学者だとは評価されていない疑いもある、ということなのだ。
新しいもの好きの素人は、「近代哲学を葬り去った男」と聞くと「うおおっ、カッコいい!」となるけれども、哲学をやっている人なら、当然「そんなお手軽な話じゃないよ」ということになっているのだろうし、朱喜哲自身も、「ローティも研究してます」というのではなく、完全なローティ信者になっているはずなのだが、実際のところは、そこまでではないようなのだ。
朱喜哲はいつも、肩書きとして「哲学研究者」ではなく、「哲学者」とストレートに名乗っているのだが、その朱喜哲自身の哲学も、ローティに倣った「アンチ哲学」なのかと、私はそのような疑問を抱いた。
なぜなら、朱喜哲の本を読んでいるかぎり、哲学することの素晴らしさを語っている風ではあっても、「アンチ哲学」を語っているようには見えなかったからだ。
無論、ローティの「アンチ哲学」も「哲学」の内なのだから、「広義の哲学には反対するが、ローティのアンチ哲学は支持する」という立場において「(アンチ)哲学者」名乗っているのなら、それは理解できる。
しかし、朱喜哲の「哲学」自体は、決してローティの「アンチ哲学」だけを支持して、ローティが批判した「従来の(オーソドックスな)哲学」を批判否定するほど、先鋭過激なものには見えないのである。
たしかにローティをクローズアップして、ローティを持ち上げ、ローティの理解者ぶってはいるけれども、しかし、ローティが批判した「従来の哲学」を否定しているとまでは見えない。
「ローティのアンチ哲学は素晴らしい。けれども、従来の哲学もまた素晴らしい(から、さらなる研究に値する)」と、そう言っているようにしか見えないのだ。
つまり朱喜哲は、自身の「哲学的立場」を明らかにせず、無難に「二股をかけている」ようにしか見えないのだ。
ローティをいくら持ち上げてみたところで、ローティと心中する覚悟まではないから、ローティが批判否定した「従来の哲学」の方にも色目を使っており、ローティに利用価値が無くなったとしても、「その時は、また他の哲学者をやればいいや」とでも考えているんじゃないかと疑わせる、不透明さがあるのだ。
つまり、こんな無難に曖昧な朱喜哲が、リチャード・ローティなどという「過激派」を持ち上げるのは、要は「看板として目立つから」ということなのではないかと、どうにも疑われてしまうのである。
「そうではない、そんなことではない!」と否定するのであれば、どうしても「アンチ哲学」の哲学者ローティを支持しておきながら、「従来の哲学」を否定批判しないでいられるのか、それを説明しなければならないはずなのだが、一一朱喜哲は、それをしていないのだ。
朱喜哲がしている説明とは、「ローティは、このように考えて、従来の哲学を批判否定した」ということであって、自分の「哲学的立場」についての説明はしていない。
しかし、朱喜哲が、心底ローティの「アンチ哲学」を高く評価しており、その点において「従来の哲学」に欠点や弱点を認めているのなら、それを語らないのは、自称「哲学者」として明らかにおかしい。
また、そうではなく、ローティの「従来の哲学」への批判が「不十分なもの(弱点のあるもの)」であるために、まだ「従来の哲学」には存在価値があるのだとそう考えるのであれば、そのローティの「従来の哲学」批判の「不十分さ」を語らなければならないはずだ。
だが、朱喜哲は、そのどちらもしていないのだ。
つまり朱喜哲は、ローティの「アンチ哲学」を褒めたたえる一方、ローティに批判否定された「従来の哲学」にも、まだ価値ありと認める、論理的に矛盾した「二股」的立場に立っているのである。
無論「どっちも一長一短なんだから、どっちか一方を採らずに、無難に二股を掛けておくのが正解でしょ」という考えも、わからないではない。
しかし、そう考えるのならば、「どっちも一長一短」であるとするところの、「一長一短」を明示するのが、本物の哲学者というものであろう。
「こっちはこうで、あったはああだから、どっちにも一長一短はあり、だからひとまず今の私には、どちらが正しいと断ずることはできない。そこまでは、どちらについても理解が進んでいないからだ」
一一と、そう説明するのが、誠実な哲学者であるはずなのだが、朱喜哲は、そうした厳密な説明を避けて無難に二股をかけ、それでいて、耳目を惹きやすい派手なローティの方を自分の「看板」として持ち上げこそすれ、その弱点について語ろうとはしていないのだ。
つまり、私としては、朱喜哲が、本音のところではローティをどのように理解しているのか、それを探りたくて、ローティを読むことにしたのである。
ローティを読めば、「ローティ哲学の入門書である、朱喜哲の著書」が、何を語り落としているのか、つまり、故意に隠している部分が何なのかがわかるかも知れないと、そう考えて読むことにした。

そしてその結果、私は「朱喜哲が語らなかったローティ」を、いくつかを見つけることができたのだ。
無論、ローティを1冊読んだくらいで、ローティの哲学を理解したなどと言うつもりなどさらさらないが、「朱喜哲による入門書」には語られていなかった部分をいくつか確認することはできたし、そこから、朱喜哲がローティの何を隠すことで、自らの何を隠そうとしたのか、それがおおよそわかったのである。
したがってここから書くことは、そうした「朱喜哲が隠していた、ローティ哲学のいくつかの側面」ということになる。
○ ○ ○
しかしまずは、朱喜哲の「ローティ入門書」を2冊と、ローティ自身の主著のひとつ『偶然性・アイロニー・連帯』を読んで(私に)わかった、ローティの哲学の基本的なところ、つまり「アンチ哲学」と評されるところを、簡単に紹介しよう。

ローティが「従来の哲学」を批判したのは、基本的にはそれが、探究すべき「真理」の存在を前提としたものであった、という点だ。
つまり、「真理」という到達地点が実在するはずだと無自覚に想定されており、そこを目指し、そこに到達すべく、哲学者は、現実を掘り下げていかなければならないと、そういう姿勢なのである。
例えば、「人間とは何か」「人生とは何か」「心とは何か」「時間とは何か」「真理とは何か」と哲学的な問いを立てた場合、そこには無意識のうちに、「正解」の存在が前提されている。
「正解」としての「真理」があるからこそ、それを目指して進んでいけるのであって、それがそもそも存在しないものだとしたら、そうした探究的な思考努力は、結局のところ、人それぞれが、ありもしない幻想に囚われて、てんでバラバラに、無駄な努力をしているということにしかならない。
みんなが同じ「真理」に向かって進んでいるかのようなイメージは、願望充足的な幻想に過ぎないのだ。
で、こうした「真理は存在する」ということを前提とした哲学とは、「神は存在する」ということを前提とした「神学」の現代的な形式でしかないというのが、ローティの「近代哲学」理解なのだ。
だが、存在しない「神」を前提として営々と営まれてきた「神学」が、所詮は「神」を見つけることができず、自己満足的な論理遊戯に終わったように、ありもしない「真理」を前提としてなされる「哲学」も、「神学」と同じ運命を辿るしかないし、それはただ自滅するだけではなく、そうした哲学は、誤った前提の故に、不可避に人々の「思考を束縛する」ものともなる。
だから、そうした哲学の「真理という虚構(嘘)」は「有害無益」なものであり、これからの哲学は「真理など存在しない」というところで、この現実世界にどう対処するのかという、現実主義に立ってなされなければならないものなのだと、ローティは、そう主張することになるのだ。
たとえこの現実世界に、「本来の人間」や「本来の生き方」といった「本来のものとしての真理」など存在しなくても、つまり「正義」や「悪」といったものが存在しなくても、それはそれで、うまくやっていくしかないのだと、そのように主張するのである。
つまり、本書『偶然性・アイロニー・連帯』における「偶然性」とは、私たちがこれまで見出してきた、「真理」や「正義」や「人間」や「心」といったものは、「神」と同様、実在するものではなく、たまたま諸般の事情の兼ね合いから、そのように考える方が便利だったから、そのように考え、信じ込むようになっただけのものであって、この先も、それが「真理」として存続する保証など、どこにもないものなのだというのが、ローティの考え方なのだ。
一一つまり、それらはすべて「偶然性」の産物だったのだ、と。
例えば、昔は「女性よりも男性の方が優れている」「黒人より白人の方が優れている」「人間は(聖書にもあるとおり、霊長)であり、他の動物よりも優れている」と思われてきたのだが、そうした「かつての真理」が、現に変わりつつある。
かつては「真理」だとされたものが、そうではなかったとされるようになったのは、そうした「かつて真理とされたもの」は、じつは「真理」などではなく、歴史的に、たまたま生み出されたものでしかなかったからなのだ。
つまり、この先の世の中では「男性よりも女性の方が優れている」「白人より黒人の方が優れている」「人間は(地球環境を破壊してしまう傍迷惑な生物)であり、動物の中で最も劣悪な存在である」というのが「真理」だとされるようになるかも知れない。
一一だが、言うまでもなく、それも「真理」ではない。
「真理」などというものは、昔も今も存在しないからである。
したがって、人々が「真理」だと思っているものは、その時の状況によるなりゆきとそれに伴う流行によって、二転三転四転五転するしかないし、そうしたものなのだ。
「真理」が無ければ、「原理的」に、どこにも「決着」することはない。
なにしろ「真理」など存在しないのに、「真理」が存在すると人々が考え続けるのならば、時代の成り行きに従って「新たな真理」が次々と生み出され、「我々の信奉するものこそが真理であり、これまで私たちは欺瞞を真理であると偽られて、搾取されてきたのだ。だから、そうした抑圧的・搾取的な欺瞞を打倒せよ。真理は我にあり」といった、「真理」の名におけるシーソーゲームが、永遠に繰り返されるしかないのである。
だが、もうそんな抑圧的で暴力的なことは止めようではないか。
私たちは、誰も「真理」など手にすることはできず、当然、絶対的な「正義」を手にすることも出来ないのだから、そんな「無知な者どおし」として、極端に走ってババ(ジョーカー)を引かないよう、現実的な折り合いをつけて生きていこうではないか。
一一これがローティの哲学であり、「アンチ哲学」なのである。
「真理」など始めから存在しないのだから、「真理」の争奪戦など止めよう。
「真理」を手にしたつもりになった者は、その無根拠な自己過信によって、他人に残酷になるものなのだ。
だから、「真理」を知らない者同士として、できるかぎり、思いやりを持ち、違いを容認しあって生きようではないかと、そんな哲学なのである。
つまり、『偶然性・アイロニー・連帯』における「アイロニー」とは、「真理などは存在しないのだから、誰も真理なんか知らない」という、覚めた考えを指している。
そして「連帯」とは、「そんな私たちなんだから、真理を振りかざすようなやり方ではなく、身近なところから始めて、違った者へと連帯の輪を広げていきましょうよ。それしかないんです」と、そういうことなのだ。
一一だが、少し考えればわかるとおり、「真理」が無いとしたら、それは「何でもあり」だということでもある。
要は、そこには「善も悪もない」のだ。
だから、「弱肉強食であり、暴力がすべての世界」になったとしても、それを「間違っている」とは、誰にも言えないのだ。
特に、ローティには、そうは言えないのである。
では、どう言うのかと言えば、
「それはたまたまそうなったのです。だからそれはそれで仕方がない。けれども、それが多くの人にとって好ましくない事態であることは明らかなのですから、そうならないように協力して努力すべきだし、そうなったら、それを別の事態へと変えていくしかないでしょう」
と、そう言うのだ。
しかしこの時、ローテイはそれを「改善」とは呼べない。
なぜなら「善悪」は存在しない、というのがローティの哲学的な立場だからだ。
ローティからすれば「弱肉強食の暴力主義の時代」は、「たまたまそうなった、ひとつの状態」であって、それが「間違っている」とか「悪」だとは呼べず、ただ、多くの人にとっては好ましくない状態だから、変えるべきだと、そんな胡乱なことしか言えないのである。
朱喜哲は、前記の「100分de名著」のテキストの冒頭部分で、ローティが、ドナルド・トランプが大統領になる以前に、トランプだとは名指してはいないものの、そのような前例のない人物が大統領になるかも知れないというような可能性を示唆をしており、それがトランプ登場後に「まさにトランプのことではないか!」と大変な話題になった、というエピソードを紹介している。
朱喜哲が紹介したこのエピソードが意味するのは、無論「ローティの並外れた洞察力」だということになるのだが、しかし、どうしてそのような洞察がローティに可能だったのかと言えば、それはローティには「かくあるべし」という「真理」など存在しないという認識があったので、「何だって起こり得る」のだという「思考の自由」が持てた、ということなのだ。
だから、そんなローティが、その自由な思考において、アメリカ社会の現実を直視するならば、トランプのような大統領の登場も「あり得ること」だと、そう予測することも出来た、ということになるのである。
しかしながら、ここで朱喜哲は、ローティのそうした洞察力を強調しても、ローティの哲学が、トランプの登場を阻止する力を持たない、という事実には触れないのだ。
なぜ触れないのかと言えば、それは自分が推奨しているローティの哲学が、現実には「役立たず」だと思われてはならないからである。
しかし、ローティ哲学の「真理は存在しない」という前提に立つならば、トランプの登場も、ヒトラーやスターリンの登場も、その「虐殺行為」も、「多くの人にとっては好ましくないこと」ではあっても、それを「悪」だとは言えないし、「非人間的な行為」だとして非難することも出来ない。
そもそも「(不変の真理としての)善悪」も無いのであれば、「本来の人間性」や「人間らしさ」なども存在し得ないからだ。
しかし、そう聞かされてしまうと、私たちは「ローティの哲学」というものに対して「そんな頼りないもので、大丈夫なのか?」という、当然の疑問や不安を抱くことになるだろう。
ヒトラーやスターリンの、あるいは、トランプの「非人道的な行為」に抵抗する人たちは、それが「非人道的な行為」であり、「人間には許されてはならない行為」つまり「悪」であると感じて、それを信じるからこそ、自分の命を捨ててまでの抵抗をすることも可能なのだ。
言い換えれば、あっちはあっちの「正義」であり、こっちはこっちの「正義」でしかなく、「どちらが正しいというわけではない」というローティ哲学の「真理なき世界」を前提とするならば、そこには、命を賭けるほどの「正義という大義」など存在しせず、ただ「党派的な立場や信仰の違い」でしかない、ということになってしまう。
同様に、「一人の王様のために、その他のすべての人が犠牲を強いられる世界」と「みんなが痛みを分かち合う平等な世界」とは、どちらが「正しい」ということではなく、単に「立場の違い(考え方の違い)」ということにしかならないのだが、さて、「実用的な面」から考えても、そんなローティの哲学を、私たちは採用できるものだろうか?
無論、そんなことは、不可能なのだ。
普通に考えれば、ローティの哲学というのは、ある面では、正しく「現実」を捉えているように見えるのだが、しかし「正しい現実像」というものが、そもそも「真理」の一種なのだから、厳密に言えば、ローティの哲学自体が当然「真理」ではあり得ず、多少は「聞かせる(説得力を持つ)」ひとつの「立場(物語)」にすぎない、のである。
だとすれば当然、「真理など存在しない」という、ローティの哲学的な立場は、あまりにも危ういのではないか、ということになろう。
なぜなら、「真理など存在しないという認識も、真理ではあり得ない」という、自己矛盾を孕む哲学だからである。
そんなわけで、ローティの哲学は、トランプを批判するものではなく、むしろ、トランプやイーロン・マスクのような「(差別的)現実主義者」に、哲学的な裏付けを与えるものでしかないのかも知れないのだ。
「真理が無いのなら、善悪もなく、結局は力のある者が勝ち」という「結果主義」を肯定するものになりかねない。
だが、こうした難点であり弱点については、ローティ自身ももちろん自覚はしている。
だから、ローティは、本書のサブタイトルにもなっている「リベラル・ユートピア」というものを構想するのだ。
この「リベラル・ユートピア」とは何なのかというと、それはリベラル(自由主義者)たる者が、最も重視するのは自由であって、「真理」の名の下に束縛されることではない。
しかしながら、なぜリベラルが自由を欲するのか言えば、それは自由が無い状態は、人間にとって「苦痛」だからだ。
したがって、リベラルである私たちは、「苦痛」を少しでも減らす努力をしなければならない(はずだ)。いや、そう努力するだろう。
それは、「真理」だからそうするというのではなく、「事実」として「苦痛」は好ましくないから、協力してそれを避けようとするし、そう主張するのだ。
一一こうした考えこそが、本書のサブタイトルである「リベラル・ユートピアの可能性」ということになるのである。
つまり、「真理」において「苦痛」に抵抗しなくても、「事実」において自由を求める私たちは、「苦痛」に抵抗できるはずだと、そうローティは言うのだが、しかし、このお話は、いささか「希望的観測」にすぎると、そう感じられはしないだろうか?
しかし、裏から言えば、「真理」を否定したローティは、これくらいしか言うことが出来ないのだ。
「人殺しは間違っている」「暴力は許されない」「ファシズムは悪だ」などとは断じ得ないローティとしては、「苦痛を減らす仲間の輪を広げましょう」というくらいのことしか言えないのである。
だが、それで少しは「まともな世界」になるのだろうか?
そもそも、「真理」概念による抑圧や暴虐に反対したローティは、その結果として、「実力(暴力)」による抑圧や暴虐を消極的ながら容認せざるを得なくなったように見えるのだが、それは端的に、本末転倒なのではないだろうか?
その意味で、ローティの哲学は、どこか根本的なところで間違っているのではないか?
無論、そのように考える哲学者が少なくないからこそ、ローティの哲学は、それほどメジャーにはならないし、問題含みの不完全な哲学だとしか評価されないのだ。
たしかに「従来の哲学」の問題性を指摘し批判する点では、一定の存在価値はある。
つまり、「助言者・注文屋」あるいは、古い言葉で言えば「小言幸兵衛」だの「大久保彦左衛門」的な存在としてなら、十分な存在価値もあるのだけれど、彼を主役にしてしまうと、その「何でもありの自由主義」のゆえに、何もできない無能ぶりを晒して、世間を危険に晒しかねない危うさが否定できないのである。
だからこそ、ローティの哲学では、従来の哲学を「葬り去る」ことは出来ないのだし、ローティのことを「近代哲学を葬り去った男」と呼ぶのは、ローティ哲学の専門家として自身を売り込みたい、朱喜哲による「恣意的な誇大広告」ということになってもしまうのである。
つまり、朱喜哲が、フェア(公正)な「ローティ哲学の紹介者」なのであれば、当然、ローティ哲学の、こうした「弱点」や「危うさ」についても紹介すべきだし、紹介していたはずなのだ。
しかし、ローティ哲学の「悪しき部分」だけに学んだ朱喜哲には、「正義」やそれに伴う「義務」なんてものも、じつは「存在しない」ということになってしまうのだから、自分の宣伝に不都合な「ローティの弱点や危うさ」なんてことについては、都合よくダンマリを決め込んでしまうことにもなるのである。
ローティによれば、自分の都合だけで「事実を隠蔽すること」もまた「悪ではない」からだ。

実際、私が読んだ『偶然性・アイロニー・連帯』の翻訳書では、翻訳者がローティ哲学の難点や疑問点についても、率直に指摘しているのだが、当然、それも読んだはずの朱喜哲は、意識的にそれには触れず、ローティの美点や同情を惹くエピソードだけを、受け売りに紹介しているだけなのだ。
まずはローテイの「同情を惹くエピソード」だが、それは、まだ若い頃の彼は、真理を目指す素直な哲学の徒であったと同時に、蘭の花の美をこよなく愛する趣味人でもあったのだが、そうした「二面性」がやがて、哲学における「真理」の名において抑圧されることになり、その両立不可能性に苦しんだローティは、やがて「究極の(唯一の)真理」などというものは存在せず、存在するのは個々の現実に過ぎないという哲学を持つに至った、というものである。
『 近著『哲学と社会的希望』(Philosophy and Social Hope, 1999)に収められたローティの自伝的なエッセイ「トロツキーと野生の蘭」(Trotsky and the Wild Orchids”1992)は、本書を読むうえでも参考になるので、手短に触れておきたい。ローティは、トロツキーの秘書を一時期匿ったこともある元アメリカ共産党員の両親のもとで育った。その影響もあって、一二歳には「人間としての肝心な点は社会的な不正義との闘いに人生を捧げることにある」という確信をもつようになる。だが他方で、同じ頃の彼は、ニュージャージー北西部の山に自生する蘭の花を見つけること一一その「エロティシズム」に後ろめたさをおぼえながらも一一に取り憑かれてもいた。その後ローティは一五歳でシカゴ大学に入学する。その頃の彼がいだいた抱負は「トロツキー」と「野生の蘭」、つまり、公共的な社会正義と私的なオプセッション(※ 偏執)を単一のヴィジョンのうちに包含する」(「リアリティ」は心惹かれる事柄に没頭すること、「正義」は強者からの弱者の解放を指す)というイェイツの言葉を用いて表現している。
当時のシカゴ大学は「安定した絶対的なもの」を探求しようとする雰囲気一一それはデューイの「相対主義」を軽蔑する雰囲気でもあった一一に充ちており、(※ 同傾向の哲学者)レオ・シュトラウスが学生を惹きつけていた。哲学を専攻することに決めたローティは、二〇歳の頃までプラトニズムの哲学のなかに「単一のヴィジョン」を探ろうと試みるが、その努力は実を結ばずに終わる。それは、「合理的な確実性」一一循環論(※ 正しいから正しい)に陥らない正当化の可能性一一に彼が疑いを感じるようになったからでもある。哲学的な真理の試金石を論理的な整合性に求めるという軌道修正にも満足することができないまま、彼はシカゴ大学を後にする。』
(P417〜418「訳者あとがき」より。※ は引用者による)
こうして大学を去ったローティは、一人の物書き(哲学者)として、本書『偶然性・アイロニー・連帯』を書き上げて、「真理」によらない、しかし「真理」が無くてもなんとか回すことのできる世界のあり方の構想として「リベラル・ユートピアの可能性」ということを提唱したのだ。
だが、その後のローティは、どうなったか?
『 本書では、(※ ローティの考える「連帯」する)「われわれ」は(※ 現実には、身近な共通性としての)文化への帰属によって定義されており(語彙の共有は必ずしも国境によっては制約されない)、しかも「エスノセントリズム(※ 自民族中心主義・自文化中主義)」(※ という言葉)には「エスノセントリズムに疑いをいだくようになった人びとの」という(※ 「真理」主義者に対する)アイロニカルな(※ 突き放した)限定が付されていた。しかし、自らの立場の偶然性・可謬性を自覚するアイロニズムの要素を、「ナショナル・プライド(※ 愛国心)」を充塡した「われわれ(※ 愛国者)」の主張のなかに見ることはできるだろうか。「われわれ」の一員一一たとえば「国内の労働者」一一への関心の喚起は、「われわれ」の外にいる他者(※ 例えば、移民労働者)の生の境遇への注意深い関心とどのように関係するだろうか。とりわけ本書が提起した「屈辱=辱め」(※ ローティの否定した「精神的な苦痛」)への感性一一それは文化的な抑圧を察知する感性でもある一一は、ナショナルな関心のもとでどのように維持される(※ と言うの)だろうか。いずれにしても、『われわれの国を仕上げる』を本書のパースペクティヴから批判的に検討することは十分に可能である(※ つまり、両書は矛盾している)。
本書を取りあげた文献は数多いが、ここでは日本語で読むことのできる近年の文献のみを挙げておく。小野紀明『二十世紀の政治思想』(岩波書店、一九九六年)、リチャード・J・バーンスタイン「ローティのリベラル・ユートピア」(谷徹・谷優訳『手すりなき思考一一現代思想の倫理 – 政治的地平』産業図書、一九九七年)、渡辺幹雄『リチャード・ローティ一一ポストモダンの魔術師』(春秋社、一九九九年)、須藤訓任「対立の転轍一一ュートピアン=ローティ」(思想』九〇九号、二〇〇〇年三月)、浜野研三「トロツキーと野生の蘭?一一ローティのポストモダニスト・ブルジョア・リベラリズムの問題点」(『思想』九〇九号)。』(P427〜428)
つまり、ローティは「真理」という「倫理の後ろ盾」を捨てた代わりに、「苦痛の排除」という「実践的対策」を示して見せたのだが、
「そんなものが、現実に役に立つのか? 結局のところ、他者(違った人々)への想像力(共感能力)という理想を欠いた、自己中心主義に堕してしまうのではないか? 今のあなたのその現実が、それをよく示しているように…」
ということなのである。
だが、朱喜哲は、少なくとも、私が読んだ2冊においては、こうした「ローティの現実」を故意に、語り落としているのである。
これはどういうことなのであろうか?
朱喜哲は、自著の中で、ローティによる、ナボコフ作『ロリータ』の分析を絶賛して、そうした小説(フィクション)やルポルタージュなどが、「哲学とは違って」、他者の「痛み」に対する想像力(共感能力)を涵養するものであると、小説ファンを喜ばせるような部分を紹介している。

要は、難しい「哲学」なんかやらなくても、「小説」を読んでいれば、人に優しくなれて、より良い世界が築けるようにもなるのだと、そんな「甘い夢」を語っているのである。
そしてたぶん、これは偶然ではないと思うのだが、大ヒット作『チ。 ―地球の運動について― 』の作者で、朱喜哲と同じ「令和人文主義」の一人として分類されることのあるマンガ家・魚豊と鼎談した、小説家の小川哲は、次のように語っている。
『渡辺(※ 司会者・渡辺祐真。この人も「令和人文主義」者) そうですね。情報は一瞬でもなるほどとか思ったりすることはできますけど、心の何かが変わるためには絶対に時間が要ります。
小川 リチャード・ローティは、まさしくそういうことをフィクションの力として挙げています。ローティも小説が好きで、小説とか映画とかフィクションとかって何の役割があるんだろうといったときに、自分と遠い人の視点で描けるというのが一番の強みだと。
震災で何万人の人が亡くなりましたという事実を、ただ数字として聞いても何万という数字としてしか処理できないんだけど、実際にそこで亡くなってしまった故人の話を、物語として知ることで実感が湧く。
僕ら人間って世の中の出来事を個人のストーリーでしか認識できないので、そうやって認識したものが10万回起こっていたんだと考えると、10万人の死をやっと理解できる。だからフィクションは、個人の視点で書けるというのがすごく重要なのかなという気がしますね。』
(小川哲『こうやって作家は言葉を紡ぐ』所収の対談より・P501)
小川哲の言っていることは、あながち間違いではない。
けれども、小川は『偶然性・アイロニー・連帯』を読み、その「訳者あとがき」まで読んだ上で、このように語っているのだろうか?
それとも、鼎談メンバーである二人(魚豊・渡辺祐真)の「令和人文主義の盟友」たる朱喜哲による「ローティの入門書」を読んで、このように語っただけのであろうか?
小川哲は大学で哲学もやった人であり、ローティが影響を受けた哲学者ウィトゲンシュタインに「強い衝撃を受けた」ような人だから、大学の頃にローティを読んでいても、なんの不思議もない。
けれども、小川哲は、ローティの「その後」について、どれほどの興味を持っていたのかは、疑問としないでもないのである。
ちなみに、私が読んだ朱喜哲の「ローティ入門書」では、ナボコフの『ロリータ』についてのローティの読解を大きく扱っていたのだが、しかし『偶然性・アイロニー・連帯』で、もうひとり大きく扱われていたジョージ・オーウェルの『1984年』についての読解には触れていない。
私は『偶然性・アイロニー・連帯』を読んで、この点がとても気になった。
ローティはそこで、次のように書いていたからである。
『 オーウェルは、そうした理由づけに対して私たちを敏感にするという仕事、ソヴィエト連邦の描き直しを通じて第二次世界大戦後の政治状況を描き直すという仕事において、多大の実践的な貢献を果たした。(※ 文芸評論家)アーヴィング・ハウが『動物農場』と『一九八四年』の最初の三分の二に見られる「懸命の時局性と懸命の優しさ」の結合と呼んだものがあれば、こうした限定的で、実践的な目標を達成するには十分であった。しかし、『一九八四年』の最後の三分の一についてはそれとは異なった印象が残る。それは、時事的なものではなく、記述的というよりもむしろ未来に関するものである。(※ 『1984年』の主人公)ウィンストンとジューリアが(※ 全体主義国家側の人物)オプライエンのアパートを訪ねた後、『一九八四年』は、二〇世紀の全体主義国家についてではなく、オブライエン(※ という、特異な人物)についての書物となる。『一九八四年』のこの部分は(オブライエンがその共著者である)『寡頭制集団主義の理論と実際』(The Theory and Practise of Oligarchical Collec-tiism)からの引用と、なぜウィンストンがすぐさま射殺されずに拷問を加えられねばならないかについてのオブライエンの説明(「拷問の目的は携間である」を展開の軸にするようになる。それはハウが「ポスト全体主義」と呼ぶもののヴィジョンである。それは、世界にいま起こっている事柄についての警告ではもはやなく、いつの日か生じるかもしれない事柄を例示するあるキャラクターの創出なのである。オーウェルは、犯罪者からなる小集団が現代の国家を掌中に収め、現代のテクノロジーの助けを借りて、その地位に永らくとどまりつづけることができるということを示唆した最初の人物ではない。しかし、彼は、もしリベラルな理想が人間のありうべき未来にはいささかの関係も(※ 力も)もたないことがひとたび明らかになったとしたら、そうした国家における知識人は自らのことをどのように考えるようになるだろうか、という問いを立てた最初の人物である。この問いに対する彼の答えこそが、オブライエンなのである。』(P354〜355)
つまり『リベラルな理想が人間のありうべき未来にはいささかの関係も(※ 力も)もたないことがひとたび明らかになったとしたら、そうした国家における知識人は』オブライエンのように、闇落ちしてしまうのではないかというのが、オーウェルの暗い予想なのだと、ローティはここで、そう指摘しているのである。
つまり、「リベラルな理想を信じるだけでは、いかにも危うい」と。
しかし、ここで注目すべきなのは、引用文の次の部分である。
『犯罪者からなる小集団が現代の国家を掌中に収め、現代のテクノロジーの助けを借りて、その地位に永らくとどまりつづけることができるということ』
つまり、『犯罪者からなる小集団』とは言わないまでも、トランプ的に臆面もなく「私利私欲に走る集団や企業」などが、『1984年』に描かれる「ビック・ブラザー」のような「巨大な監視・宣伝・洗脳テクノロジー」を手に入れたら、どんなことになるだろうかという危惧である。

実際、朱喜哲は、私がその著者のレビューにおいて「〈電通〉哲学者」と評したとおり、「日本最大の広告会社」である「電通」のお抱え哲学者なのである。
そして「電通」は、これまでに何度も、その特権的な立場を悪用してきた、「ブラックな企業」なのだ。
普通に考えて、「電通」のブラック企業ぶりや談合などの犯罪的行為が、発覚して断罪されたこの時だけ、それのみだとは、誰も思わないだろう。
また、こうした失敗体験を踏まえて心から反省し、以後は完全にクリーンに会社になったと思うような、ナイーブなお人好しも少ないはずだ。
したがって私たちは、「電通」のような宣伝のプロに騙されないよう、厳しい目で持って、こうした会社の監視を怠らないようにしなければならないのだが、そんな会社の社員で「第6マーケティング局のチーフ・リサーチ・ディレクター」という肩書きの持ち主だったのが、他でもない、朱喜哲なのである。
そして、その朱喜哲が、営利企業に向けて、哲学者ぶって提言したこととは、
「炎上を避けるよりも理念を語れ」
「「倫理」の言葉が企業を救う」
という趣旨のことだというのだから、リベラル・アイロニストの私としては「よく言うよ」と苦笑するしかないし、朱喜哲は「確信犯だな」としか思えないのである。
なぜなら、「理念」や「倫理」とは、「斯くあるべし」という「真理」意識を前提としたものだからである。
日本の「プチ・ビック・ブラザー」たる「電通」にお勤めの朱喜哲が、ローティの哲学を紹介し、その主著である『偶然性・アイロニー・連帯』を紹介するにあたって、ローティの『ロリータ』解釈は紹介しても、『1984年』読解を紹介しなかったのは、果たして本当に偶然なのだろうか?
それとも、それは「偶然性」によるものではなく、朱喜哲の「アイロニー」に由来する、「電通」との「連帯」意識から、必然的かつ故意になされたことなのではないだろうか?
朱喜哲が、ローティを論じ、その肝として『「会話」を守る』などと言い(評し)ながら、自身の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」への加担については、共著のある著述家・荒木優太から、
『朱喜哲さん、そろそろ自分も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括すべきだと思う。』

一一と、そう公けに諫言されながら、それでもそれを無視黙殺し、長年「不都合な過去」について、頑なに「沈黙を守る」、そんな人間が、ローティに倣って『「会話」を守る』などと言うのは、悪い冗談にも程があるのではないだろうか?
しかしながら、なぜ、朱喜哲がこのように、自己矛盾したことを平気でやれるのかと言えば、それはローティの「真理など存在しない」という哲学の、そこだけを学んで、「苦痛を減らすための連帯」という部分を学ばなかったからではないかと、そう合理的に理解することで、得心もいこう。
実際、それを提唱したリチャード・ローティ自身、結果としては「他者の痛みに鈍感なのではないか?」という疑義を呈されるに至っているのだから、ローティ哲学の紹介者である朱喜哲が、悪い意味での「プチ・ローティ」であったとしても何の不思議もないし、そうである可能性こそ十二分にあるのではないだろうか。
(2026年10月13日)
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