荒木優太 『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』: 人間は間違うものだし、とうぜん間違う権利がある。

0

▷ 書評:荒木優太『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』(フィルムアート社)


日本の文学と哲学を研究し、あえて「在野研究者」つまり、大学から給料をもらって仕事をしているわけではない研究者を名乗る、今どき珍しい反骨心を隠し持つ荒木優太の著作である。

私が読むのはこれが4冊目で、だいたい刊行順に読んでいるけれど、とばした本もあるので、たぶんこの先そのあたりもフォローすることになるだろう。

Amazonのカスタマーレビューを見るかぎり、本書は、さほど高い評価を受けているわけではない。
だが、それはたぶん、この手の人文系入門書を読むような読者というのは、大して読んでもいないくせに「哲学書も読んでます」みたいなアピールをしたがる軽薄な権威主義者が多いから、あえて哲学哲学した書き方をしない荒木優太のへそ曲りな面白さが理解できないのだろう。

荒木が、あえて軽っぽい書き方をするのは、そうした権威主義的な見かけ倒しに対する反発からなのだろうが、当然のことながら、権威主義者は、そういう軽そうな見かけが嫌いなのだ。
ぜんぜん理解できなくても、難しそうな書き方をしてくれた方がありがたいのに、その逆をするから、彼らの神経は逆撫でされることになるのだ。

Amazonカスタマーレビュアーの一人が「とにかく文章が読みにくい」とか書いていたが、ぜんぜん読みにくくはない。

もちろん文体の好みという問題もあるにはあるが、本書の文体が読みにくいとか言ってたら、間違いなく小栗虫太郎には歯が立たないし、たぶんドストエフスキーも読了できないだろう。


つまり、ろくに本も読んでいなければ、文章の良し悪しなどわかるレベルの人間でもないくせに、匿名のお客さんだと、何を勘違いするのか、評価できる立場にあるなどと思い込んでいる馬鹿が少なくない。

例えば、Amazonカスタマーレビューでよく見かけるのは、「翻訳が悪い」などと、中身ではなく訳文に難癖をつけているパターンなのだが、要は「理解できなかった腹いせで言ってるだろ?」という感じなのである。
そんなに語学が堪能なら、訳書なんか読むなよ、という話なのである。

最近、小説家小川哲の抜き書き文集『屁理屈と哲学』のレビューを書いたのだが、この本を評して「小川哲は頭が良い」というようなことを書いていたレビュアーがいたけれど、しかしこれも、例えばウィトゲンシュタインを読んだことがなければ、小川哲が何を言っているのかが理解不能な抜き書き文も含まれている。
だが、そこまで理解した上で褒めているとは、とうてい思えないのだ。


ウィトゲンシュタインだフッサールだ現象学的還元だという言葉が出てくるので、それがわかる小川哲の頭が良いと言っているだけにしか見えない。

しかしながら、理解できなければ、その文章の書き手の頭が良いのか悪いのか、そんな判断など出来るはずもないのに、判断が出来ているつもりになっているところが、この手の素人批評の痛いところである。
せめて「わからないところも多々あったが」といった予防線を張るくらいの知恵はつけてもらいたいものだ。

そんなわけで、今回もいつものように遠回りの前説をしてしまったが、私が言いたいのは、本書は「プラグマティズム入門」とサブタイトルされてるだけあって、プラグマティズムの素人には勉強になる本だったし、何より面白かった、ということだ。

何か面白いのかというと、著者が自分の読みをしっかり示している点で、教科書的な本ではない点だ。

だがまあ、そういうところが、原典を読まずに原典を読んでいるような顔をしたがる、見栄っ張りの馬鹿には嫌われるところなのではあろう。


○ ○ ○


そんなわけで、本書は「プラグマティズム」哲学の入門書である。
「プラグマティズム」というのは、「実用主義」と訳されることもあるとおりで、「現実に即して実用的な思考」を重視する立場である。
「現場主義の哲学」と読んでもいいかもしれない。一一これは、私の言葉(オリジナル)だ。

ともあれ、こうした「プラグマティズム」が出てきたのは、哲学というのが、「本質主義」「真理主義」的であり、その意味で「観念主義」的で、現実に即しておらず、現実を軽視するきらいがあって、しかも「我賢し」とお高くとまっているところがまた、憎たらしかったからであろう。

「であろう」というのは、私がそこまでプラグマティズムに詳しくもなければ、プラグマティズムの哲学者でもない素人だからだ。だからこそ、入門書を読んでいるのである。

それでもまあ、私が上に書いたようなことがすべてではないにしろ、そういう側面もあったはずだという自信くらいはあるから、「であろう」と書いたのだ。
あくまでも「推測」だが、そもそも他人の考えについて、「推測」以外の何ができよう。

そんなわけで、私も荒木優太と同じで、大したこともないくせに「学者です」とか「哲学者です」ヅラをしているやつが大嫌いなへそ曲りである。
だから、プラグマティズム的な反権威主義も嫌いではない。

実際、私自身は「現実主義者」であり、だから「宗教とは、願望充足的な幻想にすぎない」と、全否定して憚らない「無神論者」である。

「まあ、幻想にすがらないと生きてはいけない諸君については、やむを得ないから、そんな現実逃避も認めてやろう」という寛容さはあるのだが、宗教をそうした醒めた目で見ているような人間なので、観念的にすぎる哲学も「宗教の一種だろ」と、常に疑っている。
そもそも、近代哲学は「神学」から生まれた、生粋の「宗教2世」なんだし。

しかしながら、幽霊や怪物の存在を信じていないことと、それが好きなこととは、まったく話が別である。

私は、幽霊だの怪物だのUFOだのが、子供の頃から大好きなのだ。だから、それと同じで、オカルトとかも大好きなので、それがかった宗教哲学とかキリスト教神学とかも、けっこう好きだし、前述の小栗虫太郎の代表作『黒死館殺人事件』に登場する、神秘主義がらみの衒学(ペダントリー)なんかは、最高に好きだ。


そういう「キワモノ」の何が良いのかというと、不思議な世界をお手軽・無難に垣間見させてくれる、「夢を見させる力」があるからだ。

そんなもん、現実にはあり得ないと思っていても、いっとき夢を見せてくれるのなら、それはありがたい趣味的娯楽には違いないからである。

それで、なにが言いたいのかというと、私は、現実主義者なのだが、だからこそ非現実的なものの方に惹かれる、と言うか、「面白い!」と思ってしまう人間だということである。

この世には、神も仏も、亡き両親の霊魂も、そんなものは存在しないというのを、実感として知っているから、そうした無味乾燥な現実からはみ出たもの、存在しえない怪獣や宇宙人のイメージといったところが、かえって「面白い」。
本当に存在すると信じていたら、「面白い」では済まされないのだから、面白がれるのは、信じていないからなのである。

そんな私は、たまたま警察官になって、現実の犯罪や犯罪者に多少は関わる経験もしたのだが、これも現実だからこそつまらない。

現実の犯罪者には、ハンニバル・レクター(教授)みたいな天才や振れ切った狂人などおらず、考えのない馬鹿や中途半端に頭のおかしい人ばかりだ。

当然のことながら、驚天動地の「密室トリック」などが仕掛けられていることなどなく、事件捜査は極めて地味で地道なものである。そして、それによって解決する。

神のごとき叡智を持つ名探偵による、天啓の如きひらめきによって事件が解決するわけではない。
現実は地味で退屈なのだ。

だから、現実の警察官であった私は、リアルな「警察小説」にはまったく興味がなく、非現実的なまでに論理的な犯人と名探偵の知的対決を描いた、探偵小説(本格ミステリ)が好きだった。

そして、そんな私だから、プラグマティズムには、今も昔も、あまり興味が持てなかった。
当たり前のことを当たり前に言っているようにしか感じられなかったからであろう。

当たり前は大切だが、当たり前は退屈だ。
常識人であることは大切だが、私は変人の方が好きなのである。

かのシャーロック・ホームズを見よ。
平凡な事件ばかりで難事件が発生しないからと言って、部屋の中で麻薬にふけったり、拳銃をぶっ放したりと、じつに困ったやつだが、フィクションならばこそ、「面白いやつだ」と愛着も湧くのだ。


だから、私はプラグマティズム哲学にはあまり興味が持てないし、それよりも観念論的な哲学の方が好きだ。さらに言えば、観念論哲学よりも神秘主義哲学の方が面白そうだ。
信じはしないけれど、面白そうだから惹かれるのである。

そんなわけで、本書を読んだのも「プラグマティズム入門」だからではない。

まず第一には、「俺は在野だ!」とか、森田健作ばりの変な威張り方をするへそ曲りの、荒木優太の本だから読んだ。

そしてもうひとつは「転んでもいい主義のあゆみ」というタイトルに惹かれた。

「転んでもいいんだよ」という、今どき流行りの「優しさ」などではなく、「転ばないような無難な人生なんて、つまらねえだろ」的な、ちょっと毒のある臭気を感じて、そこに惹かれたのである。

で、この「現象学的本質直観」は、当たらずしも遠からずであった。
エポケーしたわけではないが、たまにポケーっとはしていたからだろう。
まあ、そんなダジャレは別にして、私は勘のいい方なのだ。

いけない。つい、本書の荒木優太の文体に影響を受けてしまった(ということにしておこう)。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本書では、プラグマティズム哲学が生まれたアメリカ方面の紹介は簡単に済ませて、そのプラグマティズム哲学がどのように日本に輸入され移植されたのかを、日本におけるプラグマティズム哲学の移植者列伝みたいなかたちで紹介している。

しかしまたこのあたりが、原書を読まないくせに、原書や本場が大好きな、権威主義者の哲学趣味オタクに嫌われるところなのだろう。

アメリカにおけるプラグマティズムの創始者たちの本も読んでいないのだから、その日本への移植者の本など読んでいないに決まっている。
しかしだからこそ、つい「おまえ何者だ。社長を出せ! お前なんかじゃ話にならん」とか、言いたがるバカと同じである。お前自身が何様のつもりなのかという話だ。

そんなわけで、本書で紹介される、日本へのプラグマティズムの、移植者とは次のようなメンバーである。

・ 田中王堂
・ 石橋湛山
・ 田制佐重
・ 三隅一成
・ 清水幾太郎
・ 古在由重
・ 鶴見和子
・ 鶴見俊輔


この中で、私が知っているのは、石橋湛山、清水幾太郎、古在由重、鶴見和子、鶴見俊輔の5人である。あとは初めて見た名前だ。

とは言え、石橋湛山は内閣総理大臣になった人だから名前くらいは知ってて当然なのだが、私の記憶に残っているのは、たぶん佐高信が石橋湛山を絶賛していたからだと思う。
佐高が褒めるんなら、骨のある良い男なのだろう。


清水幾太郎は戦後リベラルとして有名な人だから、名前はよく見かけたのだが、著書は読んだことはない。
ただ、清水を批判的に扱った、竹内洋の『メディアと知識人 清水幾太郎の覇権と忘却』を読んだため、その印象が強い。
清水は晩年、大きく右に傾いた人なのだ。

古在由重は、たぶん鶴見俊輔の関係で、どこかで名前を見かけた人なのだろうが、その著作は読んでいないし、詳しくは知らない。
鶴見和子は、鶴見俊輔の姉で民俗学者だったはずで、たぶん南方熊楠についての本も書いていたはずで、それを買ったはずなのだが、読んでいないので、はっきりしたことは思い出せない。

以上のメンツの中で、その著作を読んでおり、わりあい親近感まであるのが、鶴見俊輔である。

鶴見俊輔については、晩年の本を何冊か読んでいて、その中で特に印象に残っているのは、日本推理作家協会賞を受賞した『夢野久作-迷宮の住人-』(1989年)で、コレが抜群に面白かったのと、のちにこの本に、鶴見から直接サインをもらったこと。

また、そのサインの宛名書きを、誤って書かれてしまったのだが、そのことを現場では指摘できなかった思い出や、どうしてあんな書き違いをしたんだろうかとか、そんな思い出があるのだ。

ちなみに、この「宛名書き」の書き間違いの謎が、本書『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』で読んで、おおよそ解けた。
35年にわたる個人的な謎が、本書のおかげで解けたのだ。

私の本名は「沖」という(年配の方は、沖昌也をイメージすると良い)。鶴見にサインをもらう際、名前をメモして、それで宛名書き付きのサインをもらったのだが、鶴見はなぜか、「沖」とは書かずに、わざわざ、二水の「冲」と書いたのだ。

その時は、なんでこんな間違い方をするかなと思ったのだが、本書によると、鶴見はアメリカ生活が長かったせいか、変な日本語を書くところがあり、本人もそのことにはコンプレックスがあったようだ、とのことなのである。

つまり、私にサインをしてくれたときも、その変な癖が出たということなのだろう。
これで完全に納得がいったし、この間違えた宛名書きのサインも、だからこそ味があるような気になってきて嬉しくさえなったのである。

ちなみに、私が鶴見俊輔を知るのは、本書で主に扱われているような『思想の科学』関係ではなく、鶴見が、『虚無への供物』で知られる中井英夫と小学校時代からの友人で、中井の死後、その思い出を語る文章を何度か書いるからである。

つまり私は、ミステリファンとして、ミステリ、中井英夫の方面から鶴見俊輔のことを知ったし、だから、サインをもらったのも、『ドグラ・マグラ』で知られる、探偵小説家・夢野久作を紹介した本だったのだ。


ちなみに私は、最晩年の中井英夫に親しくしていただいたファンで、その葬儀にも参列させていただいたりした。
また、その関係で、私が鶴見俊輔からサインをもらったのは、中井英夫の3回忌イベントであったと思う。

そんなイベントでサインなんかもらうのはどうかと、私らしかぬことも考えたのだが、中井英夫の最晩年の助手で、今も親しくしていただいている本多正一氏から「遠慮する必要なんかない」と背中を押していただいたのだ。

で、そんな中井英夫がらみの思い出エッセイを読んでも、鶴見俊輔という人は、威張らない気取らない人柄がよく表れており、実際にお目にかかっても、その印象を裏切らない、温和な、とても感じの良いお爺さんだった。

だから、本書『転んでもいいんだよ主義のあゆみ』で荒木優太が指摘している、鶴見の「昔はワルだった」式の昔語りには、私も違和感を感じていたのだが、「鶴見はエリート一家の恵まれた育ちだったから、その反動で殊更に」という荒木の解釈は、腑に落ちるものであった。

端的にいって、性格に難のある中井英夫と、喧嘩もせずに仲良くできた鶴見俊輔というのは、それだけで信用のできる人格者だと、私にはそう感じられていたのである。


しかしながら、そんな「好感」を覚えていた鶴見俊輔の著作なのだが、前記の『夢野久作』以外は、今ひとつピンと来なかった。世間ではとても評判の高かった自伝『期待と回想』も読んだのだが、今や何ひとつ印象に残っていない。

で、何となく「合わないんだろうな」くらいに思っていたのだが、今回、本書を読んでいて、その理由がわかった。

要は、私は鶴見俊輔のプラグマティズム的な発想に興味が持てなかったということなのだろう。そう気づいて、やっと腑に落ちたのである。

そんなわけで、私は本書で紹介されているプラグマティズムそのものには、ほとんど興味が持てなかった。

だが、「転んでもいいんだよ主義」の方には共感できたので、そのことを書きたいと思う。

 ○ ○ ○

さて、「転んでもいい主義=可謬主義」というと、なんだか「出来るやつ」が「出来ないやつ」に対して、上から目線で余裕ぶって「物分かりの良さ」を演じているふうなニュアンスがあるので、何となく嫌味の印象がないでもない。

しかし、事実として、まったく失敗することなくして成果を得ることなんか出来ない。
超能力者でもあるまいし、完全に正しい道を、あらかじめ見抜いて、その道を一直線に歩んで成功に至るなんてことはあり得ない。

まあ、若い頃はそんな夢を見てしまいがちなのだが、そんなことは金輪際あり得ないと断じてもいい。

どんなにうまく人生を歩んできたように見えても、当人にしたら、いろいろ苦労もしたし、挫折しかけたこともあったはずだ。いや、あることに挫折したから、いまの成功に立ち至りえたというようなこともあろう。

つまり、結果オーライで、結果から振り返って見れば、失敗も含めてすべてが、成功の方へとその人を導いてきたかのように見えるだけ、それはそういう見方をしているだけでしかなく、それは「失敗が無かった」ということではないのである。

また、仮にこれまで失敗したことのなかった人がいたとしても、これから失敗しないという保証など、まったく無い。
また、死ぬまで失敗がなかったと思ってた人でも、他人から見れば十分に失敗してたとしか見えないということもあろう。

そんなわけで、実際のところ、人間にとって「失敗」はつきものなのだ。必然なのである。

だから「人間は転ぶ生き物なのだ(ライク・ア・ローリング・ストーンなのだ)」と、そう言えば良いのだ。
「転んでもいいんだよ」とか「間違えるものなんだよ」なんて言うから、何となく嫌味に聞こえるのである。つい「お前は間違わないのかよ」と言いたくなる。
もちろん、その人も間違うし、失敗することを認めていてさえ、その物言いが気に入らないという感じになるのだ。

だから、私に言わせれば「人間は、失敗する葦である」ということになる。
「葦も歩けば棒に当たる」し、転びもするのだ。

歩かずに、その場に根を生やして、じっとしていれば転ぶこともないし、積極的な失敗もないだろう。
ただし、草刈人さんが向こうからやってくるかも知れない。でも、動けない葦は、刈られるしかない。

であれば、動ける人間は、動くという選択肢があるんだから、必要に応じて動くべきである。動かなければ損だ。
動けば新たな地平が開ける。新たな出逢いあるかも知れないのだ。

一一無論、それで痛い目に遭うかも知らないが、それは動く以上仕方がない。動けば転ぶこともあるというのは、物理的な必然なのである。

それにしても、誰だって、好きこのんで転びたくはない。転んだら、膝を擦りむいたりして痛いからである。痛いのは、普通は誰だって嫌なのだ。

ただし、転んでも擦りむいても、その痛みというのは、誰もが同じというわけではない。

転んだ痛みを敏感に感じるのは、端的に言って、転んだら経験に乏しい人である。
馴れていたら、ちょっと擦りむいたくらいで、ひいひい泣いたりはしない。ちょっと唾でもつけて、それでお終いなのである。

病院へ行かなきゃばい菌が入って死んでしまうなんて、妄想を爆発させて「死ぬ、死ぬ!」と大泣きするのは、転んだ経験に乏しい、もやしっ子である。
その結果、余計に動かなくなり、引きこもりになったり、肥満になって動けなくなる。

だから、人間とは、良くも悪くも動くものなんだし、動けば転ぶこともあるものなんだ、それは決して悪いことではないんだ、物理的法則なんだと、そう正しく理解して、物理法則に開き直れば、失敗への恐怖心も多少は薄らぐはずだし、その方向で慣れれば、私のように「人間には失敗する権利がある」と、そう考えるようにもなれる。

こう書くと「開き直るなよ、厚かましいやつだな。社会の中では、お前の失敗は、お前一人で完結することにはならず、他人にも害を及ぼすことになるんだから、失敗しないよう努力しろよ」なんて説教を垂れる人もいるだろう。

だが、そんな場合、私ならこう言いかえす。

「じゃああなたは失敗しないんだな。誰にも迷惑はかけないで生きていくと言うんだな。それが出来るから、人にもそれを要求するんだな。よしわかった。私はこれからあなたの一挙手一投足を監視して、ちょっとでも失敗したら公式謝罪を求めるから、その時は逃げるなよ」

まあ、こう言えば、たいがいの相手は、そんな偉そうなことは言わなくなるだろう。

つまり、人間というのは、トリフィドではなくても「歩く葦」(変換ミスに非ず)何だから、転ぶのを前提に生きていけば良いんだし、またそうすれば、他人が転んでも、それを大目に見られるようになれるのだ。
なにしろ自分だって転ぶのだから。

しかしながら、転べは痛いし、下手な転び方をして大怪我でもしたら、そのために一生起き上がれなくなるかも知れない。
だから、その点は、自分でも注意しなければならないし、周囲の者も、注意・助言・指導などを行うべきだろう。

例えば、私が今こうしているように、転ぶことの達人が、初心者に転び方の基本を指導する。
つまり、柔道の基本である「受け身」の取り方を、初心者に教えてあげるのだ。

いくら投げ技がうまくても、受け身のできない柔道家は、いずれ大怪我をして消えていくしかない。
やっぱり受け身は、闘うための基本であり、要は、前へ進む(動く)ための基礎なのである。

と、こんな調子で、私の持論ばかりを展開していても、結局は本書の主張を紹介していることになるのだが、どうにもそれを信用できない人もいるだろうし、書評らしくないと不満を覚えられる方もいるだろうから、ちょっと引用などを挟んでおこう。

『(※サークルというものの効用を論じて、鶴見俊輔は言う)「たがいに信頼をおくつきあいの中では、サークルの進行途上で、自我のくみかえがおこる。サークルのメンバーは、はじめに主張したのと正反対のことを後に主張したりするものである。そういう立場の変更は、忘れられているので許されるのではなく、認められた一つの慣行となっている。
サークルは、つねに仮の主張として自分の考えをまず人前においてみるという、仮とじの本のような形をもっており、落丁があればそれをなおし、脱落は修正するという用意が、メンバーによってわかちもたれている」[1991a/101]
 ディベートでは自分の意見とそれを支える論理をしっかり組み立てて、相手を言い負かすことが最大の目的とされる。自説の正当性を証明せねばならない各種のアカデミックな学会での発表も似たようなものだ。
 ゆるい空気の流れるサークルは、しかしそういったものにならない。ディベート的自我はいわば製本された本のようなものであり、自分のなかにストックしてある言葉同士がかたく縛られている。対して、サークル的自我は製本以前の「仮とじの本」で、修正可能性に開かれている。』(P208)


鶴見俊輔という人は、その人柄をよく反映して「サークルの知」ということを重視した人で、自分一人の狭い考えに凝り固まるのではなく、多様な考え方や物の見方の中に、自分の考えを置いて検証するということをすれば、相互にメリットがあるはずだと、まあだいたいそういうような、まったくの正論だ。

しかしながら、私のように生ぬるい議論が大嫌いで、ひとまず議論するのなら殺し合いをするくらいの気持ちでとか極端に走る人間は、こうしたサークル主義には向いていない。

なぜなら、その議論のメンバーが、皆さん私みたいな『あしたのジョー』主義者とは限らないからで、私が本気でボコったりしたら、「そこまでしなくてもいいじゃないか」と泣き出してしまうことも珍しくはないからだ。

私としては「いや、そこまでしない(なあなあ)だと、意味ないし、つまんないでしょ」と思うのだが、まあ、そういう人間ばかりではないから、私は仕方なくサークルには属さないのであって、サークルを否定しているわけではないのだ。

『あしたのジョー』主義のサークルがあるんなら、私は喜んでそこに参加して、全力での殴り合いを楽しむだろう。

「へへっ、いまのパンチは、なかなか効いたぜ、力石よ」
「まだまだ序の口だせ。しっかりしろよ、矢吹」

みたいな感じである。

しかし、そんなハードにマゾっぽい『ファイト・クラブ』みたいなサークルはなかなかないので、私がどうしているのか言うと、とにかくいろんな人の書いた、いろんな本を読んで、それと殴り合いをしながら、その本の良いところを取り入れていく、というようなことだ。


サークルから排除されてしまうはみ出し者は、転んでもただでは起きない。
矢吹丈のような、石を握り込んで立ち上がってきたりするのである。立ったままでは、石も拾えないのだ。

そんなわけで、上の引用部分では「仮綴じ本」の思想が語られている。
いきなり「最終解」を出そうとするのではなく、ひとまず「現時点での私の見解」を出すことを恥じない、恥じる必要などない、ということである。

しかし、これも当たり前といえば当たり前の話であって、神ならぬ身の人間であれば、そもそも「最終解」など語れるわけもなく、どんな解答だって、所詮は「過渡的な仮説」だと考えるべきなのだ。
そして、そう考えれば、気楽に意見を出すこともできる。

「間違ってるところがあるかもしれませんが、ひとまず今の私の理解では、こういうことになります。おかしな点があったら遠慮なくご指摘ください」一一と、そんな謙虚な気持ちで意見を出せば、「絶対には間違えられない。間違えたら、恥ずかしくて二度と人前に出られない」とかいった、頭の悪いことを考えなくても済むようになるのである。

でもまあ、こういう頭の悪い人間が少なくないから、自分の間違った意見に固執して、訂正も謝罪もせず、いきなりダンマリを決め込んだり、あろうことが、自分の過去ログを削除して、自分の明らかな誤りを「無かったこと」にしようなんてことを始める馬鹿も出てくるのである。

この情報化社会において、そんなことで誤魔化し切れるわけもないのに、ひとまず目の前の証拠さえ隠滅すれば、武蔵大学の教授で、自称フェミニストの北村紗衣のように、「私はそんなことを言ってません」「それはミソジニーによる人格攻撃ですね。名誉毀損で民事賠償裁判にかけますよ」とか言い出したり、さすがにそこまでするのは恥ずかしいし、墓穴を掘るだけでみっともないからと、過去の「不都合な事実」については、徹底的にダンマリを貫く、ずるいけど北村紗衣教授よりは賢い同類である、大阪大学の招へい准教授で〈電通〉哲学者ある朱喜哲なんかもいるのだ。

(ボロクソに言われても、感情的になって、ネット上で「汚い言葉」で悪口を言ったりすると「名誉毀損」の対象となる。刑事罰まではいかなくものでも、民事賠償の対象にはなる。問題は、やりとりの経緯ではなく、現に発せられた表現(言葉)の損害効果だからだ)



私に言わせれば「あっ、すみません。そこは私が間違ってました。ごめんなさい(テヘペロ)」とかしてればいいのに、つまらないメンツにこだわって、恥の上塗りをするのは、頭が悪いだけではなく、基本的に未熟者の証拠でさかないのである。
少しは私を見習うべきなのだ。いやホント。

実際、私は偉い人から「間違っても良いんだよ」なんてお墨付きをいただかなくても、自分から「さすがの私も人間であり、ときどき間違えるんだから、みんなも気をつけろよ」とか、そんなふうに「前向き」に言えるのである。

コソコソと証拠隠滅に走ったり、不自然なダンマリを決め込んで、それを事あるごとに論われて、内心で「このクソ野郎が」などと腹を立てては心穏やかではいられない、なんてことにもならない。

例えば私は、いろんな人のいろんな話を聞いて、いろんなことに興味を持つから、私はいつでも「初心者」なのだ。
だから、知らないことはいっぱいあるし、判断を誤ることも当然ある。
「当然ある」のだ。無いわけがないだろう。

だから、私の意見とは、すべて「過度的な仮説」であって「最終解」じゃないなんてことは、端からわかりきった話なのだ。

したがって、以前の意見が間違っていたって、それは当然のことなんだから、あまり恥ずかしいとは思わない。
なにしろ私は常に発展途上なんだから、過去の意見は、必ずどこかで今の意見よりも未熟なんだと、そういう自己理解なのだ。

「昨日の私はまだまだ未熟だったな。でも、そこが微笑ましいところだ」
などと思えるから、北村紗衣武蔵大教授のように、過去ログ隠滅みたいなことはしない。私の過去ログは、私が成長している証拠でしかないからである。

例えばその実例として、私が書いているレビューを読むと良い。
私はまず、その著者の1冊目を読んで「この人はこうじゃないか」と語る。そして2冊目を読めば、前回の意見を踏まえつつ、それに修正を加える。だから、見解が少し変化する、3冊目、4冊目を読めばさらに、見解は変化しつつ、しかし、1冊目で示しておいた見解が、けっこう本質を突いていたことの裏づけが取れたりするから、私は過去の見解を書き換えたり、隠滅したりする必要がないのだ。

人間は成長するのだから、いや、成長する人間の意見こそ、おのずと変化せざるを得ないのだから、それを恥じる必要はないとそう考えるので、北村紗衣や朱喜哲のような、つまり「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」メンバー、通称オープンレターズのような、見苦しい証拠隠滅だのダンマリ(ノーディベート)になど、逃げなくて済むのである。


そんなわけで、「間違ってもいいんだよ」ではなく、人間は間違えるものなのだ。

神様じゃないんだから、どんなに偉い学者の意見だって、いずれは修正されたり否定されたりする可能性に開かれていると、そう考えたら、私が間違えるのも「当然だろ」と、そう確信を持って言えるのである。

くりかえずが、最終的な正解は、まさに神のみぞ知る、なのだ。そして、神様はいない。

ただ、有限な人間に可能なことは、面白くて役に立つものを見つけるということだけだ。

それをしようとして間違うこともあるのだけれど、方向性としては間違ってないんだから、時に間違うこともやむを得ない。

であれば、北村紗衣や朱喜哲みたいな、ケチくさく間違うのではなく、もっと楽しくおおらかに間違うべきであろう。

で、こんな凄いことを書いているのは、大学者ではなく、ほかでもない私なのだと、我ながら大したものだと感心してしまうし、ここに書いたことは、だいたい、本書の内容に近いはずだ。

少しくらい違っても大禍はない。
人間だもの、多少は間違ってないと、そっちの方が変だろって、具合なのである。

(2026年10月22日)


 ○ ○ ○












コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です