フレッド・ジンネマン監督 『真昼の決闘』: 誇り高き孤独

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▷ 映画評:フレッド・ジンネマン監督『真昼の決闘』(1952年/アメリカ映画)


その映画批評家がホンモノかニセモノかを見分ける、ごく簡単な方法(ポイント)をお教えしよう。

それは、本作において、保安官のケインを見捨てる住民たちについて、それを「自分の問題」として語っているか否かである。

つまり、小心で惰弱で卑怯な「当たり前の人たち」の姿を見せられ、それを我がこととして良心の痛みを感じるか否か、そしてそれを正直に認める(語る)ことができるか否か、である。

それが出来なかった者、いや、それを避けた者は、どんなに立派に本作を紹介し、解説したとしても、その人は、人としてニセモノであり、信頼するには値しない人間だと言うことができる。
彼は、保身のためなら、平気で嘘くらいつける人間なのだ。だから、批評家としても信用ならない。

試しに、本作のタイトルでネット検索して、数多くアップされているであろう、本作についての作品評や紹介文を、ざっとで良いから確認してみると良い。

その9割は、保安官のケインを見捨てる住民たちについて、それを「自分の問題として語る」ようなことは、していないはずだ。

彼らは、本作を「単なる映画=消費するための商品」として扱い、本作で語られていることを所詮は「他人事」扱いにし、消費者の一人として、お気楽に本作を語っていることだろう。

どこが良かったとか悪かったとか、面白かったとか面白くなかったとか…。

中には、この作品のテーマについて、「(他人事とは感じられず)刺さった」とか、「刺さる映画」だなどと、訳知り顔で書いている者もいるだろう。
まるで、「刺さった」自分なら、同じ状況に置かれれば、保安官のケインに協力するだろうと言わんばかりに。いや、それを匂わせるためだけに。

あるいは、映画批評家ぶって、本作のラストに「いささかご都合主義的だ」などと疑義を呈したりする者もいるかもしれない。

一一だが、そんなものは、すべて作品の本質から目を逸らした、批評家ぶっているだけのクソだ。恥知らずにも程がある。

本作の「あらすじ」は、次のようなものである。

『結婚して保安官をやめ、幸せな家庭を作ろうと旅立とうとする矢先。かつて彼が捕えて刑務所にぶち込んだ男が、仲間と共に復讐にやって来る。正義感の強い彼は再び引き返し保安官バッジを胸に立ち上がる。(※ しかし)街の人々は災いを恐れてみんな逃げ腰。誰一人として(※ 主人公の彼を)助けようとしない。決闘の時間は真昼・十二時。果たしてどうなるのか?』


(結婚式を挙げて、いったんは街を出るはずだったが、無法者のミラーが街に戻ってくるという知らせを受け、ケイン(ゲイリー・クーパー)は新妻エミイ(グレース・ケリー)の反対を押して町に帰る。本作は、ケリーの映画デビュー作である)
(出所したミラーは、正午の汽車で町に戻ってくる。それをミラーの弟とその仲間が駅で待っている、4人揃ったところで復習が始まる)

これは、私が見たDVDのケース裏面に書かれていた内容紹介文の一部である(※ 印は私の補足)。

Wikipediaには、本作のストーリーがラストまで丁寧に紹介されているが、それを知る必要はない。

なぜなら、最後に、正義の保安官が勝とうと負けようと、本作においては、それは少しも重要なことではないからである。

 ○ ○ ○

本作は、見ていて「非常につらい」作品だ。

なぜなら、本作はわかりやすく、

「あなたなら、保安官ケインに加勢するか? それとも無難に遠巻きして知らん顔をするか?」

と、そう問うている作品だからだ。

つまり、見る者を決して楽しませてはくれない。

超人的に強い「正義のヒーロー」と同一化して、自分まで「正義のヒーロー」になったような気分にさせてくれるような、そんな「娯楽作品」ではないのだ。

そうではなく、それとは真逆に、本作は「あなた」に対して、こう問い続けるのだ。

「あなたもこの町の人たちと同様、この町に平和をもたらしてくれた保安官を、見殺しにするんでしょう?
この町の住人たちと同様、我が身かわいさから、〝それは私の仕事ではない。保安官を雇うための税金を、私は十分に払っている〟とか〝私には妻も子もいる。万が一にも死ぬわけにはいかない。生きてさえいれば、また道は開けるかもしれない〟とか〝誰も、彼にむざむざ殺されに行けと頼んだわけではない。さっさとどこへなと逃げてくれれば良かったんだ〟とか〝他人を巻き込むようなことをしないでくれ。それであんたは満足でも、こっちは良い迷惑だ〟とか、そんなことを言って、ご自分の卑小さを自己正当化しようとするんでしょう?
安心して下さい。それは、何もあなただけではなく、みんなそうするんだから、後ろめたさなんて感じる必要はない。一一そうでしょう? あなたは、彼を見殺しにすることに、良心の呵責なんか、これっぽっちも感じていないんでしょう? それは〝当然のこと〟ですものね、あなたにとっては?」

一一と。

(ミラーに有罪判決を下した判事も町を出る。「君もそうした方がいい」とケインに奨める。町の者は当てにできないと)
(唯一の保安官補であるベルは、自分を次の保安官に推してくれたら協力するとケインに要求するが、ケインが「まだ無理だ」それを呑まなかったために、保安官補を辞めてしまう)

どこで使われたポスターかは知らないが、下のポスターには、小さく次のように刷られている。

『Simple.
Powerful.
Unforgettable.』


つまり、

 シンプルで
 力強く
 忘れ難い

そんな作品だということだ。

どうしてそうなのかと言えば、そらは本作で語られているのが「あなたなら、どうする? 保安官に加勢するのかしないのか?」という、じつにシンプルで強烈な問いだからだ。だから、忘れ難い。

何も難しいことは語られておらず、誤解の余地など無い、じつにシンプルで直截な問いを発する作品なのだ。

だが、だからこそ、本作を語る場合、殊更にそこを避けてしまうことにもなる。

わかりやすいテーマだからこそ、そこに事あらためて「触れる必要などない」というフリをし、スルーして済まそうとする。

自分に求められているのは「映画の紹介と評価」であって、「自分がどういう人間か」ではないのだから、そんなことに触れる必要はなんかない。自分はそんな「自分語り」なんぞしたくはない。
一一と、そんなフリをして、問題をやり過ごそうとする。見て見ぬフリをする。

そもそも、自分のことをアピールするために映画評なんてものを書いてはアップし、自身を売り込み、人様からの承認を得ようとしているくせに、自分の卑小さが暴かれそうなこんな時だけは「私には、自分を売り込もうなんて気は、これっぽっちも無い」などと、臆面もなく見え透いた言い逃れするのだ。


しかしながら、こうした誰もが多少なりとも持つ「小市民的な小狡さ」について、やましさを感じ、そこを人目から隠して誤魔化そうとする者は、まだ「マシ」なのかもしれない。

というのも、うそ偽りなく、そういう「やましさ」すら一切感じることなく、本気で他人事ように作品評を語れるような、良心の麻痺したような人間、サイコパスと呼んでもいいような者だって、少なからず存在するのではないかと、私にはそんなふうにすら疑われるからである。

「私は、娯楽として映画を見ているのだし、その延長で映画のレビューを書いているのだから、映画が見る者に問うている問題について、それを真剣に捉えなければならない義務なんてない。
所詮、作品のテーマなんてものは、商品価値の一部でしかないのだから、気に入らなければ無視すればいいのだし、それが金を払って映画を見ている、私たち消費者の権利なのだ。
だから、そうした商品に、自分にとって不要な機能や付属品がついていたなら、その機能を使わなかったり、邪魔なら、取り外して捨てたってかまわない。それは消費者の正当な権利なのだ」

そんな「消費者としての権利」意識において映画を見るのが習い性となっているから、もはや上のような「消費者としての権利」などということすら考えることもなく、それを無意識のうちに自明の前提として、「見たくないものは見ないで済ませる」ことの出来るようになっている、そんな人だって、決して少なくはないのではないだろうか?

例えて言うなら、こんな感じだ。

「道端にかがみ込んで、苦しそうにしている人がいる。
自分を含めて通行人は少なくないから、いずれ誰かが、その人に声をかけるのは確実だ。
つまり、自分が声をかけなくても、大禍ない状況だと推認できる。
それにそもそも、自分がその人に声をかけなければならない「義理」も「義務」ない。
だから、無視してスルーしたところで、人から責められるようなことではない。良心の呵責を覚えなければならないようなことでもないのだ。
それに私には私の用事があって、ここで足止めを喰らうわけにはいかない。むしろ私がここで足止めを喰らって、予定されていた行動をとれなければ、そのことによって他の人に迷惑をかけてしまうことにもなりかねない。
よって、私は私にしか果たせない義務を優先すべきであって、誰にでも果たせるような、目の前の些事にかかずらわるべきではない。
したがって、私はこのまま、ここを通り過ぎる」

一一何の話をしていたのかというと、本作『真昼の決闘』のテーマである「あなたなら、どうする?」について、自分なりの回答を示すかどうか、という話だ。

上のような日常的な事例であれば、「普通ならそのくらいのことはするだろう。命懸けで保安官の味方をしなければならないとかいうような、極限的な話ではないんだから」と、あなたはそう思うだろうか?

だが、ネット上に上がっている、本作についての数多くの作品評や作品紹介を調べてみれば、そのような「好ましい結果」が、果たして得られるだろうか?

つまり、「恥ずかしいことだが、私もきっと、ここに描かれたたちの人々と同様の態度しかとれないだろう」と、その程度のことを書ける人が、果たしてどれくらいいるだろうか、という話だ。

プロとかアマチュアとか、公式とか非公式のとかいった区別に関係なく、である。

一一私はその程度のことが当たり前にできる人が、当たり前に多数派だとは思わない。

責任のある、注目される立場にあるプロの書き手なら、そこは「避けられないもの」として、不承不承そこに触れるかもしれないし、そのことで、自身の誠実さをアピールしようとするかもしれない。

だが、アマチュアの多くは、対価をもらう訳でもないのに、わざわざ公然と、自分を「卑怯者」の一人だと認めたり、そう思われるリスクを、あえて引き受けたりはしないだろう。

だから、プロにしろアマチュアにしろ、大半は見て見ぬふりでスルーするというのが、一般的な態度であろうと、私はそう推測するのだ。

(知り合いを訪ねても居留守を使われ、人の集まる教会や酒場に行っても、結局は協力が得られない。ケインが憧れた先代の保安官も老いて銃が使えず、力になれないと言う)

ごく少数の例外はいても、プロであろうとアマチュアであろうと、多くの人は、つまり「大衆」というものは、「道義」に従って動くのではなく、ほぼ間違いなく自堕落な「欲望」によって動く存在なのだ。目先の「損得」で動くのだ。

いくら、建前的に「そうすべき」だとわかっていても、個人的な損を取ってまで、それをすることなど、まずはない。

普通に考えれば、「私も保安官を裏切る人たちの一人でしかない」と、そうわかりきっていても、それをわざわざ認めて、人様から「卑怯者だと誤解されるリスク」を犯そうとはしないものなのだ。

まさに「触らぬ神に祟りなし」なのである。

 ○ ○ ○

なぜ、私が映画の内容紹介もろくにせず、こんな嫌なことをネチネチと書いているのかといえば、それは、私にも似たような経験があったからだ。

本作のラストで、悪党たちを倒した主人公の保安官ケインは、その様子を見て集まってきた住民たちの目の前で、それまで付けていた保安官バッチを胸からむしり取って、地面に投げつけて捨てるのだが、このときのケインの怒りが、私にはよくわかる。


これまで「仲間」だと思えばこそ信頼もし、町の平和のために働いてきたのだが、しかし所詮それは、自分の勝手な思い込みでしかなかったのが明らかになった。
「もう、こいつらのために危険を冒してまで働く必要などない」と、それを確信したから、ケインは保安官バッチを地面に投げ捨てたのだ。

町の人々は「守るに値しない存在」であり、ということは、彼らを守る仕事は「崇高な仕事(使命)」でも何でもなく、ただ綺麗事を聞かされ、それを鵜呑みにさせられて、体良く利用されていただけなのだと、ケインはそう気づいた。
だから、そんなケインにとっての保安官バッチとは、もはや輝く誇りの象徴などではなく、騙され利用された道化の象徴でしかなくなったのである。だからそれを投げ捨てたのだ。
一一「もう騙されはしないぞ」と。

さて、私の経験とは、次のようなことだ。

私が初めて自分の電子掲示板である「アレクセイの花園」を開設してしばらくのことである。まだ、個人ブログやその他のSNSが広く普及する以前のことだ。

その「アレクセイの花園」に、ときどき書き込みをしてくれる「常連」と呼べるような人も数人は現れて、当時はよくあった、相互リンクを張る、知り合いの運営する掲示板なども増えてきたところで、掲示板荒らしの被害に遭った。

当時の電子掲示板というのは、アカウントごとのブロック機能も無ければ、投稿の個別の削除機能さえ無かった。
単純に投稿が積み重なっていくだけで、管理者による編集管理機能はなかったのだ。

そのため、誰でも好き勝手に書き込み放題だったから、悪意ある匿名の書き込みを防ぐための、積極的な手立てなど無いと言ってよい状態であった。

だから、「掲示板荒らし」への対処法として一般的に推奨されたのは、とにかく「無視」すること、相手にしないことくらいしかなかった。
徹底的に無視すれば、たいがいの「荒らし」たちは、反応の薄いのがつまらないからと、そのうち他所へと去っていくと、そういうことだった。

しかし、今もそうだが、当時の私も、そんなことはとうてい受け入れられない性分だったから、「荒らし」たちと徹底的にやり合った。

しかしながら、それはそれで、相手の思う壺であったのも確かだ。

というのも、彼らは匿名で、どこの誰かもわからないのだから、一貫性のあることを主張しなければならない義務などはなく無責任な言いたい放題だし、どんなに卑しい人間性を晒したところで、それが素顔の当人の評価につながることはない。
つまり「旅の恥はかき捨て」と同じで、正体がバレないのを良いことに、やりたい放題の乱暴狼藉のかぎりを尽くしたのだ。

その一方、私の方は、自身の掲示板において闘っているのだから、卑怯な真似などいっさい出来ない。「相手がやっているんだからこっちも」というわけにはいかない。
どんな理由があれ、卑怯な手を使ったり、無根拠なことを書いたりすれば、結局はそれが自分の評価につながることになるのだから、こちらは正々堂々の論陣を張るしかない。こっちは逃げ隠れできない立場なのだ。

しかも、「荒らし」たちが、いくら嫌がらせの書き込みをしても、私に懲りる様子が一向にないと見てとると、彼らはそれに業を煮やして、彼らの巣窟であった巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」(今の「5ちゃんねる」)にとって返して「今、あそこが祭りになっているぞ」と荒らし仲間を募り、そうした新たな仲間をひき連れ、大挙して荒らしを繰り返した。彼らが「ネットいなご」と呼ばれた所以である。
今の言葉で言えば、まさにネットバッシング状態だったのだ

(最後は、遺書を残して、4対1の決闘に赴く)

しかし、そんな多勢に無勢であっても、こちらは、それに対して、道理と理屈で対処するしかない。
だが、もともと、匿名によって恥も外聞もかなぐり捨てた輩に、道理の通じるわけもなく、ただ私は、負けるわけにはいかない、ここで退くわけにはいかないという意地だけで対抗し続けていたのである。

しかし、そうなると「アレクセイの花園」は完全な修羅場と化してしまい、当たり前の書き込みが、めっきり無くなってしまう。

大喧嘩をしている私に対して、何事も無かったかのように「あの小説を読んだけど、面白かったですよ」なんていう書き込みができる、腹の座った人など滅多にいない。

私としては、そういういつもと変わらぬ書き込みこそが一服の清涼剤であり、救いとなるものであったとしても、また「守るべき本来のもの」だとしても、そうした書き込みをしようとする人にしてみれば、「アレクセイさん(私)が一人で必死に戦っている時に、何事もないかのような顔をして書き込みをすることなんかできない」と、そういうことになるだろう。
それを私が求めたとしても、よほど図太い神経をしていなければ、それをすることなど不可能だったのだ。

そのため、「アレクセイの花園」は、荒れる一方だった。まさに、「荒らし」たちの思う壺だったのだ。


当時の、パソコン・インターネット関連の雑誌などに掲載される「荒らし対策」が、基本「無視黙殺」を推奨したのは、こうなるしかないことを、よく知っていたからである。

たとえ、徹底的に抗戦し、やがて「荒らし」たちが、飽きて去っていったとしても、後に残るのは、焼け野原にも等しい惨状である。そうなることがわかっていたからこそ、悔しくても我慢して、無視する方が賢明だと、そう奨めていたのだ。

「荒らし」に遭えば、無視黙殺する。それでもしつこく書き込みをしてくれば、しばらく掲示板を閉じて、ほとぼりが冷めるまで様子を見る。
そうすれば、その張り合いのなさに、「荒らし」たちもいずれは去っていくから、それからまた再開すれば良いのだ一一というのが、現実的な対処法だったのである。

だが、理想主義者である私としては、「どうして、こっちが泣き寝入りしなければならないのか。悪いのはあっちなのに」としか思えなかった。

(エミイは、善良な父と兄が無法者に殺されるという経験から、絶対非暴力主義のクエーカー教徒となった女性である)

だから、徹底抗戦することで、仮にせっかく出入りしてくれていた人が離れていったとしても、それはそれで仕方がないとそう覚悟を決めて、徹底抗戦を続けていた。

勝てないから闘わない、勝つためなら悪をも容認する、といった「功利主義」的な考えを採れば、私の中の倫理が決定的に毀損すると、そう感じられたから、損得は抜きにして、私は徹底的に闘ったのである。

で、そんな私の姿を見て私に加勢し、「荒らし」たちに反論しようとする人も、一人二人はいた。
しかし、そういう善意の人たちが、「荒らし」たちから「飛んで火に入る夏の虫」とばかりに誹謗中傷される姿を見るのは、自分自身が叩かれることよりも辛かった。
だから私は、そういう人たちに対しては「お気持ちは嬉しいのだが、あなたを巻き込むのは、私としても不本意だし辛いことだから、どうかここはすべて私に任せてくれ」と、そう言って、そうした善意の関与を丁重にお断りし、一人で徹底抗戦をしていたのである。

それでよかったのだ。

だが、想定外だったのは、いっこうに後に退く様子を見せない私に業を煮やした「荒らし」たちは、なんと「アレクセイの花園」がリンクを張っている、友人知人の掲示板にまで「荒らし」の手を延ばすようになったのだ。
そして、そのために掲示板を閉じる人が出始めた。

つまり、その掲示板の運営者本人が徹底抗戦の方針を採らないかぎり、私が出張っていって、その運営者に加勢することすらもできない。
それをやると、炎上がひどくなるのは目に見えていたし、また、そんなことを望む人はまずいないからこそ、当たり前に「無視黙殺」や「一時的な運用停止」を採ることになったのだ。


そして私は、そのことに深い罪悪感を感じずにはいられなかった。
自分の掲示板のことなら、自己責任の範囲において、やりたいようにやる。

しかし、その結果として、善意の友人たちまで巻き込むわけにはいかない。
かと言って、そうした「人質」作戦によって、相手の思いどおりに降参するわけにもいかない。

それで私は、そうした掲示板の運営者には、「アレクセイの花園」とのリンクを切って、距離を置くようにとお願いした。
そうすれば、やがて「荒らし」も落ち着くだろうと考え、せっかく出来たネット上での友達ではあったけれど、だからこそ私は、彼らと縁を切らなければならないと考え、言うなれば「自己隔離」をしたのである。

だが、そこまではまだよかった。

私を決定的に傷つけたのは、「荒らし」の嫌がらせでもなければ、友人たちに迷惑をかけたことでもなかった。
友人たちの多くは、事情を理解しているから、それをやむなく受け入れてくれたと、そう理解できたからである。

しかし、そうした中で、ある掲示板の運営者から「あなたのおかげで、うちまで被害を被ってしまった。あなたが意地になって、あそこまでやっていなければ、うちまで巻き込まれることはなかったのに」と、そう恨み言を言われ、非難されたのだ。

(最初は協力を買って出た男も、他に協力者がいないと聞かされ、怖気づいて去ってしまう)

端的に言って、「アレクセイの花園」と相互リンクを張ってくれた人というのは、それなりに「アレクセイの花園」の価値を認めたればこそ、そして私の考えに好意的であったればこそ、相互フォローすることにもなったはずなのに、こちらが炎上して、自分のところまで延焼し始めると、誰が「放火犯」なのかを百も承知していながら、放火され、それに抵抗した、主たる被害者である私こそが「悪い」のだと、そう責めたのだ。

そのような、見当違いな非難をする人が現にいるというくらいのことは、私だって頭では承知していた。
しかし、そんな醜態を目の前で演じられては、一時なりとの「友達」だと思っていた私には、あまりにも悔しく情けないものと感じずにはいられなかったのだ。

こっちが調子の良い時には調子の良い言葉で擦り寄ってきたくせに、こっちが不運に見舞われると、途端に手のひらを返すような、その「思いやり」のない、身も蓋もない態度に、私は絶望せざるを得なかったのである。

無論、そんな気持ちになるというのも、全然わからないというわけではない。
その人は、自分のことで精一杯で、もともとの被害者である私の気持ちにまで想像が及ばなくなっており、言っても無駄な「荒らし」を責めても仕方ないことは明白だから、その被害感情を、私にぶつけるしかなかったのだろう。
それは、理屈としてはわからないことでもなかったのだ。

だが、私としては、すべてがそうだとは言わないまでも、平時の友人なんてものは、所詮、その程度のものなのかも知れないとそう考えるようになり、「それなら、そんな中身の無い友達などいらない」と考えるようになった。

私に必要であり、ありがたい友達とは、「こちらが苦しい時にこそ、損得抜きで、進んで力になろうとしてくれる人」であり、それ以外の「友人知人」なんてものは、むしろ、いざという時には「足手まとい」にしかならないとう考えるようになったのだ。

つまり「ただの友達」などいらない。
「本物の友達」が一人いれば、それで十分だと、そう考えるようになったのである。

だから私は、無闇に友達を増やそうとしたり、友達の多さを自慢するような人たちを「馬鹿だ」と見下すようになった。
「本当のことが、何にもわかっていない」極楽トンボだと、そう辛辣に評価するようになった。

だから、本作『真昼の決闘』において、悪人たちから町を守るために、共に闘うための仲間を求め、その期待を次々と裏切られながら、町をさまよう保安官ケインの姿は、その孤独は、決して他人事だとは思えなかったのだ。


それは、かつての私の姿だったのである。
私だって本当は、加勢してくれる仲間が欲しかったのだ。
だが、そんな個人的な(甘えの)感情を抑え、友達を巻き込むまいと一人で頑張っていたのである。

本作のラストで、ケインは、ギリギリと闘いではあれ、4対1の勝負を制することになる。
しかし、それが可能になったのは、街に残ることを決意したケインをいったんは捨て、町を去ろうとしていた新妻が、最後はクエーカー教徒としての絶対非暴力主義の信仰信条に反してまで、4人の悪漢のうちの一人を射殺して、ケインに加勢したからである。

(エミイを人質に取った最後の一人ビリーを倒す)

だから、そのおかげで4人組を倒すことが出来たケインは、決闘の終わった後にぞろぞろと姿を見せ始めた町の人たちのまえで、保安官バッチを投げ捨て、新妻だけを連れて、町を去ったのだ。
そんなケインの姿は、私のかつての感情そのままだったのである。

(決闘の決着がつくと、屋内で息を潜めていた人々が、ひと気のなかった通りに、姿を見せ始める)

一一だから、「自分は保安官に加勢できるだろうか?」と、そんな当たり前の問いにさえ応えられないような者は、間違いなく本作に描かれた「卑怯者たちの同類」だとしか思えない。
だからこそ、彼らに多くを求めようとは思わないが、しかしそれでも「自分が、意気地なしのクソだという自覚くらいは持てよ」と、そう言わずにはいられないのだ。

勝てない敵に立ち向かえとまでは言わない。

そんなこと、かつても要求しなかったように、あるいは、ケインが町の人たちを、一度も口に出して責めたりはしなかったように、私もそういう「当たり前の人たち」を、その意気地なさを、今も責めようとは思わない。

ただ、そんな「卑怯者」である自分を、恥じる「気持ち」くらいは持てよと、それくらいは言わせてほしいのだ。

私はかつて、「荒らし」に遭った友人のブログに、求められるまでもなく加勢に駆けつけた。
その友人も、一人で「荒らし」に対抗する気概を見せていたからだ。


この時の私には、こんな(私のように)頼り甲斐のある友人が、「あの時、一人でもいてくれたなら、どんなにかありがたかっただろう。励まされただろう」と、そんな気持ちがあったから、傍観者たちからは「白馬の騎士」のような人が駆けつけてと、そんなふうに揶揄されるようなことまでしたのである。

しかし私は、この時のことを、今でも誇りに思っている。

だからこそ私は、この先、巨大な力に屈することがあったとしても、それでも「お前らとは(格が)違う」という矜持だけは、死ぬまで持ち続けることが出来るのである。

(2026年10月21日)


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