▷ アニメ評:新房昭之総監督・宮本幸浩監督『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』(2026年)
遅れに遅れていた完結編となる『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』(以降『ワルプルギスの廻天』と略記)がついに完成した。
すぐに見に行く予定ではなかったのだが、友人が私の誕生日祝いだと映画に誘ってくれたので、思いのほか早く本作を見ることが出来た。
で、本作を見終わった段階で感じたのは、前作までの激しい展開に比べると、ほとんど無理やり決着をつけて「小さくまとめたなあ」と、そんな感じだった。
壮大な物語の壮大な締めくくりによる閉幕といったような感動は、ほとんど無かったのだ。

なんでそう感じたのかと考えてみると、神にも比すべき「円環の理」となったまどか(鹿目まどか)に対し、まどかへの自身の愛のゆえに、「円環の理」にさえ干渉できる「悪魔」になり、まどかを取り戻したほむら(暁美ほむら)という、言うなれば、宇宙をめぐる「神と悪魔の、(質を異にする)愛の相克劇」であり、つまり「愛をめぐる最終戦争(ハルマゲドン)」的なスケールの話になるはずだったのに、本作には、あまりにもあっけなく、そんな宇宙の「外に存在する宇宙」が登場してしまうからである。


これでは密室ミステリで「抜け穴」が使われたようなものだ。
一一あの、「名塚底根(なづかそこつね)」の存在する別宇宙である。


ぶっちゃけ言ってしまえば、「宇宙の外には宇宙がありました」という理屈が許されれば、「何でもあり」になってしまう。
また喩えて言えば、人間のサッカーの試合を見ていたはずなのに、そこに空を飛べる超人チームが登場してくるようなもの。
やはりそれは物語作りとしては「禁じ手」であり、そこは「あらかじめ設定されていたルール」の範囲で決着をつけないと、観客の方は騙されたような気になるだろう。




また、それには止まらず、物語世界の外枠がインフレを起こして、これまでの物語世界が相対的に小さなものに見えてしまい、そのありがたみまでが減じてしまうのだ。
そして実際、そんな感じが本作にはあった。
「なんだ、そんなことで解決してしまうのか」と、そういう印象になってしまっているのである。
そんなわけで、今回の「大団円」(ラスト)だって、みんながほむらを応援して、まどかへの想い(愛情)のままに、再びまどかが「円環の理」と合一するのを引き止めに行きなさい、みたいな、いかにもって「感動のラスト」的に「良い話」になってはいるのだが、しかしこうした結末だって、「さらに別の宇宙があって、そこにはさらに強大な力が存在し、(「白色彗星帝国」登場みたいな)新たな脅威が、まどかとほむらの二人をはばむ」というような話を、いくらだって作れるということになってしまう。





しかしそれは、『少年ジャンプ』の「対決系」の作品、例えば『ドラゴンボール』のように次々と強大な敵を登場させた結果、初期には圧倒的な強敵でありライバルだった存在が、やがてはずいぶん小粒な存在に見えるようになってしまい、主人公の仲間になって延命させたとしても、新たな敵の前にはあっけなく敗れてしまう「噛ませ犬」的な存在に落ちぶれて、古くからのファンから「その扱いは、いくらなんでも酷い」と、そう言われてしまうようなのと、ほとんど同様のパターンなのだ。
そもそも、まどかが、すべての魔法少女を不幸な結末を解除するために、自己犠牲的に「円環の理」になったのも、それですべての決着がつくという前提があるからこそ、身を捨てるに値する選択だったはずなのに、「いや、あれは魔法少女を救うための選択であって、それ以外のものは救えません」とか言われても、騙されたような気になってしまう。

と言うのも、そもそも魔法少女たちは、この世の不幸を無くすために、魔法少女となって戦ったのであり、それで平和が維持されていたと思ったのに、実はそれは最後に裏切られて「プラスマイナスゼロ」という「裏」があったというところに、「やられた」とは思っても、しかし「辻褄は合っている」という納得感もあった。
だから、魔法少女たちの苦闘によって救いきれない不幸(魔法少女自身が、この世に災いをなす魔女になってしまうという逆説的な不幸)を解除するために、最後の切り札的にまどかが「円環の理」になるしかなかったのなら、まどかはまどかのままで幸福になるわけにはいけないという「プラマイゼロ」の犠牲くらいはないと、物語としてはご都合主義に堕して、説得力を欠くことになるだろう。
最後の最後に、新たな必殺技を出してきて、それで全部解決して「ハッピーエンド」ということにしてしまっては、それまで営々と続けてきた努力が何だったのか、ということになってしまうのだ。
だから、最後の一発大逆転としては、それはそれなりの代償を払わなければ、物語としての説得力を欠くということになる。
だから、まどかが「円環の理」になるという選択までなら、つまり、TVシリーズの範囲内でなら、物語として完全に説得力があったと、そう言えるのだろう。
だが、それではほむらだけが取り残されて「可哀想」だというので、『叛逆の物語』では、「円環の理」に比肩する「悪魔」という新たな設定を持ち出してきたわけなのだが、やはりこの段階で、初期のルールをはみ出す、無理があったと思う。
つまり『叛逆の物語』の段階で、世界観的な無理が生じており、何でもありになっていたと、そういうことなのではないだろうか。

だから、本作『ワルプルギスの廻天』のラストでは、やはりキュゥべえ(インキュベーター)も生き残って「なるほどね」みたいなことを言っていたから、要は、また新たな悪巧みも可能だということなのではないだろうか。
したがって、この物語は、いくらでも永遠に肥大させることができるようになってしまった。
言い換えれば「理屈なら何とでもつけられる」状態になってしまったのだ。
だが、その結果として、TVシリーズの、せっかくの「完結性」は棄損され、ずいぶん印象が薄れて、ありがたみのないものになってしまったのではないだろうか。
この『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は、そもそも、時間の操作によるやり直しを認めた結果として、無限のパラレルワールドを生むことになったから、その意味ではすでに、具体的には描かれなくても「何でもあり」の世界にはなっていたと言うべきなのだろう。
だが、それでも、その中の一本のルートを選び(注目して)、その中で自己完結した、納得のいく物語を描いたはずなのに、今度はそのルートの上においては「宇宙の外部」を認めてしまったがために、また「何でもあり」になってしまった。
私は、『魔法少女まどか☆マギカ』に関しては、ゲームやコミックは別物として、基本的に「アニメ」の世界に限定することで、一貫した作品として鑑賞してきたつもりだったのだが、そのアニメ版の内部においても、もはやその一貫性が保ち得ず、何でもありの「ゆるい世界」になってしまったと、そう残念に思わざるを得ない。

これは、大ヒット作品にはよくあることで、本来完結していたはずの作品を、現実の経済的な要請によって、次々と続編が作られた結果、せっかくの「原作」(TVシリーズ)を台無しにしてしまうという、好ましがらざるパターンである。
なんだかんだ言っても、作れば必ず売れるという保証のある人気商品に付きまとうこの悪しき経済原理と、大好きなキャラクターが新たに活躍する姿を見たいというファンの欲望とが存在にする以上、ほとんどすべての傑作が、多くの人から飽きられるまで消費される(骨の髄までしゃぶられる)不幸というのは、避け得ないものなのかも知らない。

しかし、これこそ「みんなの幸せのために生まれた魔法少女が、最後は魔女に堕ちてしまう」という不幸の現実版(経済原理版)であり、その皮肉のように思えてならない。
本作の場合、個々には凝ったシーン(見せ場)がたくさんあっても、全体としては「後出しジャンケン」的にご都合主義的な無理があったと、そう評価せざるを得ない。




だが、だからこそ制作スタッフは、せめて「見た目に楽しい」作品にはしようと奮闘した、ということなのではないか。
作品の構造的な無理は承知の上で、しかし作らざるを得なかったから、その無理の範囲内で、最善を尽くそうとしたのではないだろうか。
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そんなわけで、ほとんど「ネタバレ」的な説明になるけれど、映画パンフレット所収のスタッフインタビューによると、本作の脚本については、当初、原作者の一人で脚本担当の虚淵玄としては、すでに前作『叛逆の物語』で書くべきことはぜんぶ書いたので、あとは別の人に脚本を任せても良いと、そう考えていたようだ。
しかし、諸般の事情によりそういうわけにもいかず、脚本を担当することになったのだが、肝心のアイデアが出てこない。
自分の中で、論理的に完結していたものを、論理的に崩すことが出来ないというのは、理の当然である。
それで困っていたところ、異空間設定担当の劇団イヌカレーが、新作続編に関する膨大な新アイデアを書き溜めていたので、虚淵はそれを使わせてもらうことになって、そこから使えるアイデアをピックアップし、それを並べて変えて編集することで、新たな物語に構成したようである。


つまり、やはり本作『ワルプルギスの廻天』は、TVシリーズやそのあとの『叛逆の物語』までを構想した虚淵玄の世界観をはみ出すものとしての、劇場イヌカレーのアイデアが、外挿的に付け加えられることで、初めて可能になった物語なのだ。
言い換えればやはり、後付け的に「何でもあり」であり、ある意味で、TVシリーズからは、遠く離れてしまって、本質的なところで、ほとんど別物になってしまったと、そう言って良いのかも知れない。
そんなことがあらかじめ可能だと思っていたら、TVシリーズのあのラストへと向かう求心的な緊張感は、とうてい保ち得なかったはずなのだ。
また、同じくパンフレットの記述によると、総監督の新房昭之は、当初から本作『ワルプルギスの廻天』について、次のような方針を示したようだ。
(1)まどかが中心となって活躍する、まどかの物語にする。
(2)登場人物たちを、中学生らしく、もっと幼い感じにデザインしなおす。
(3)人物デザインだけではなく、コスチュームまで、一定程度の改定を加える。
以上のようなことだ。
で、これが何を意味するのかと言えば、それは端的に言って、本作『ワルプルギスの廻天』は、実のところ『叛逆の物語』の完全な続編ではなく、むしろそこからは微妙に切れて、多少は「当たり前の魔法少女」ものへと、TVシリーズ以上に「原点回帰」しようとした作品だと、そういうことなのではないだろうか。

つまり、TVシリーズから『叛逆の物語』への発展させた結果、あまりにも話が大きくなり、そのぶん物語が重くなりすぎて、その重みをそのまま少女たちに背負わせると、あまりにも不幸な運命を描くことにしかならないから、建前的には『叛逆の物語』の続編というかたちを残しながらも、本質的には、魔法少女ものの原点へと回帰して、魔法少女たちが「普通に幸せ」になれる世界を描いてた上で、完結にしたいと、そう考えたのではないだろうか?
しかし、このいささか強引なやり方は、やはり十全にはうまくいかず、少々「無理やりっぽいハッピーエンド」になってしまった、ということなのではないだろうか。
そのことを象徴するのは、魔法少女たちの、当初予定されていた「若返り」が、ほとんどうまくいかず、結果としては、誰も気づかないほどまでに、元のデザインに近いところまで押し戻されてしまったという現実である。


見た目にも明らかにキャラクターが「幼く」なっているのに、その理由説明がなされないような作品を、『叛逆の物語』の続編ですと言い張って提出するというのは、やはり無理がありすぎて出来なかったと、そういうことなのであろう。
その意味ではやはり、いったん引き受けてしまった運命は、新房昭之総監督の「親心」的なものでも、変えることは出来なかったということなのではないだろうか。
まどかをはじめとした魔法少女たちは、あまりにも苦しく残酷な運命を引き受けざるを得なかった。
そして、それを見せられるのは、見ている方は無論、作っている方なら、もっと心苦しいところがあったのではないだろうか。


たしかに、画期的な物語を作ったとは言え、それを延々と作っているうちに、何だか自分たちが、少女たちを虐待しているような、そんな気分になったのではないか。



だから、虚淵玄が「もう、やれるところまではやったから、続けるのなら、あとはぜんぶお任せします」と、そんな気持ちになったのも理解できるし、責任者筆頭である新房昭之が、何とか「原点回帰」して、魔法少女たちに「幸せな世界」を与えてやり、そのことで「罪滅ぼし」したいというような気持ちになったのだとしても、それは人情としてよくわかる。
あんな残酷な物語というのは、若かったからこそやれたのであって、歳をとり、それなりに現実の辛酸を舐めたあとのスタッフには、無垢な魔法少女たちに、これ以上の苦しみを味わせたくないと、そんな気持ちになったとしても、それは何の不思議もない、ということなのではないか。
けれども、覆水は盆に返らない。
いったん選び取り、引き受けてしまった宿命としての契約は、無かったことには出来ない、ということなのであろう。
だから、せめて出来ることと言えば、完全に無かったことにすることには出来なかったにしろ、最低限、これ以上は酷い話にはならないように、「円環を閉じてしまう」ということだったのではないか。
いみじくも、最後の救いは「円環の理」でしかあり得なかった、ということなのではないだろうか。

それは、映画パンフレットの最後のページに、誰のものとも明記されずに掲載されている下のようなエピタフが、すべてを示しているように、私には思えるのである。
女神さまは 魔法少女を
魔法少女は みんなを
あなたは 女神さまを
あのこは あなたを
このようにして、みんなが誰かの幸せを祈るその複雑な円環によって、みんなが救われると、そう信じたかったのだろう。
これはきっと、『魔法少女まどか☆マギカ』という過酷な物語を生んでしまった人の、それでいてすでに、「限りなく肥大してしまう外部」には救いを期待し得なくなった人の、最後に残された「祈りの言葉」だったのではないだろうか。

(2026年10月16日)
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