▷ 書評:小川哲『屁理屈と哲学』(集英社)
本書は、小川哲がこれまで書いてきた文章の中から、いろんな意味で「これだ」という言葉を抜き書きにしたものである。
選んだのは、担当編集者だ。
私の場合、小川哲の本はすべて読んでいたので、その多くは既読のはずなのだが、本書には小川が大学(院)時代に書いた論文や、単行本未収録の書評や解説文の(断章の)類いも含まれているので、意外に読んでいないものもあった。
一方、小説で読んだ部分については、「これはあれに出てきたやつだな」と、おおよそのところ見当がついた。
本書を頭から順番に読んでいったので、本文すべてを読み終えてから、巻末の初出一覧を見たのだが、意外に未読のものも多くを含まれいたから、損をした気にはならなかった。
また、既読の文章も、原文の文脈の中で読むのとは違い、切り出されて独立した短文(断章)として読むと、味わいがまた違って、そこが楽しかった。
具体的にどう違うのかというと、原文の場合は、前後の文脈の中で、その部分を正しく位置づけて理解しなければならないという意識がはたらくため、無意識にも論理的な思考努力が要請される。
ところが、切り出された断章だと、前後の文脈が無いので、その文章だけから読み取れることを自由に読み取ればそれで良いという感じになる。
つまり、読みの自由が広がるから、気楽に読めて、そこが楽しかったのだ。
言い換えれば、原文において小川哲が、何を伝えようと意図してその文章を書いたのかを、気にする必要がない。
ことわざなんかと同じで、著者がいないも同然のものとして、読み取れる意味を、その範囲内において、正確かつより深く読み取ればいい。
極端に言えば、著者が込めた意味よりも深い意味を読み取れたならば、それは読者の勝ちなのである。
だが、これはある意味では、すべての文章読解でも言えることで、テキストというのは、すでに作者から切れて独立しているものなのだがら、作者の顔色(意図)を窺う(忖度する)必要はないのだ。
言い換えれば、著者が考えていたことよりも、より深い意味をそこから読み取るならば、それは著者にとってもむしろ僥倖なのである。
つまらない意味しか読み取られない文章だと、それはそのまま風化していくだけだが、たとえ誤読であっても、それが深く人の心に響く読解であったならば、その解釈のゆえに、その文章は生き続けることが出来る。
またその意味で、優れた文章は、優れた読者によって蘇生されるのであり、また、つまらない文章は、優れた読者によって息の根を止められるべきだ。
つまり、クソみたいな文章(書物)が、なんでも褒める提灯持ち評論家と、それを鵜呑みにすることしかしない頭の悪い読者によって、広く長く延命する(ベストセラーとなり、ロングセラーとなる)ことは、この世に害悪を垂れ流し続けるのも同然の行為だ、という意味である。

本書の冒頭には、著者による次のような序文が掲げられている。
『 序
以下の文章は必ずしも僕の思想を表すものではないが、どのように誤読してもらってもかまわない。』(P4)
一一この序文をどう理解すべきなのか?
前述のとおり、本書には小説からの切り抜き文も含まれており、つまりは「作中人物」の意見も含まれているのだから、そうしたものが作者の思想そのものであることなどあり得ない。だからそれを、作者の思想そのものだと理解したなら、それは明らかに「誤読」である。
しかしながら小川哲は、ここで、そのような誤読も「OK」だと認めると、そう書いているのだ。
一一これはどういうことだろうか?
たぶんそれは、小川自身が「あとがき」で書いているとおり、作者であっても、唯一の正しい読解を読者に強いることはできず、おのずと「誤読」を、一定の範囲において容認するしかないからであろう。
そして、その「一定の範囲」というのは、誰にも特定できないものなのだ。
『 その一方で、極端な話をすれば、読書という行為自体が、そもそも誤解を前提としているとも言えるだろう。
すべての文章が著者の意図通りに伝わるなんてことはあり得ない。
もっというと、著者本人ですら意図がわからないまま書いている文章だってある。また、原典を全文読んだ上で、そこに書かれた文章から、文章が意味している以上のものを一一著者の意図している以上のものを一一読みとってしまうこともある。
そういった誤解や誤読は読書の醍醐味でもある。』(P174)
そんなわけで、本書を読む醍醐味とは、著者の意図を正確に読み取ろうとするところにあるのではない。
それをしたいのであれば、原文をぜんぶ読むべきであろう。
したがって、本書に引用された断片だけを読むのであれば、その範囲において、最大に深い読みをした方が勝ちなのだ。
作者がそんな深い意味など考えずに書いた文章であろうと、作者の意図より深い意味を読み取ったならば、それは読者が作者に勝ったということなのである。
したがって、こうした「名言集」みたいな本を読む場合にありがちな、「この言葉はピンと来た。こっちのはピンと来ない」とか「この言葉は共感できる。こちらは共感できない」といった感じで、ピンと来た言葉や共感できた言葉だけを拾い上げておいて、それを「何かの機会に引用してやろう」などするような読み方は、じつにつまらないものである。
そうした読み方の問題点は、示された文章について、賛成・反対を示すだけで、そこから読者自らの考えを深めようという、積極的な姿勢が無い点だ。要は、自身の現状への追認補強の具にしか、しようとしていない。
そんな読書は、ほとんど読者の成長進化の糧にはならない。だから、つまらないのだ。
したがって、本書の正しい読み方、いや、より意義深い読み方とは、そこに書かれた言葉から、その一歩先へと踏み出していくことである。
作者が書いていないところまで、想像力と思考と働かせて、本書の言葉を叩き台にして、自身の思考を拡張するのだ。
○ ○ ○
(01)『 東京
「東京」というゲームが存在する。ルールはシンプルだ。有名大学を出て、一流企業に就職すること。ブランド物の服を着て、東京タワーを望む港区のタワマンに住むこと。見た目の良い異性と交際すること。それらを積み重ねた者がこのゲームに勝利し、勝者は他の参加者たちの羨望を得ることができる。
言うまでもなく、こんなゲームに参加をするべきではない。』(P7)
さすがは小川哲。よくある「薄っぺらい人生観」を短文にまとめており、極めて批評的である。
ただし、最後の一文は、言わでもがなで、いささか野暮な印象を与える。
ただ、この「東京」は、「作家」に置き換えても、同じように言えよう。
文学新人賞受賞で作家デビューして、芥川賞か直木賞を受賞し、マスコミやメディアにもてはやされて露出し、出す本出す本がヒットして印税をがっぽり稼ぎ、美人と結婚して、子供も二人くらい授かり、立派な戸建て住宅に住んで、誰からも「先生、先生」と持ち上げられ、講演会にも呼ばれ、文学賞の選考委員にもなり、死んだ後には故郷に記念碑が建てられ、自分の名を冠した文学賞が設立される。
そんな、「作家人生というゲーム」の勝利者になることが、一一しかし、本当に幸せなのかという問いである。
それでもまあ、そうなれれば、私生活がどんなに地獄になろうと、それはそれで社会的な勝者ではあろう。
しかしながら、それを目指して、そうなれなかった作家人生は、たいていの場合、楽ではないし、不本意なものなのだが、しかしまた、それはそれで、その中に幸福を見出すことも、人によっては可能であろう。
つまり、何が「成功した人生か」は、その人の考え方ひとつだとも言えるのだ。
(02)『 幸福
空虚なゲームに勝つために、金目当てで罪を犯す者もいる。SNSによって誰もが自分の情報を発信する時代において、「いかにして幸福を掴むか」という問いは、「いかにして幸福だと思われるか」という問いに簡単にすり替わる。』(P8)
じつによくあることだが、ここを勘違いする人がじつに多い。
前の「東京での人生勝ち組ゲーム」などがその良い例だろう。
言うまでもなく、他人から見て「幸せそう」なのと、当人の主観として「幸せ」とは、必ずしも一致しない。
極端な場合だが、生まれながらにして恵まれた王族の地位を捨てて、出家して悟りを求めた釈迦なんかは、見た目にはキチガイ乞食にしか見えず、悟りを得た後であっても、その姿は、多くの人には決して幸せには見えなかっただろう。
家もなく、木の下で寝てたりしてたのだから。
(03)『 違反
ビデオゲームの一番の強みであり弱みというのは「原理的にルール違反ができないこと」だ。同様に、インフラ側で反則やルール違反が原理的にできない空間が、現実世界に実装できたら、どのようなことが起きるのかに興味がある。犯罪そのものができない社会になった場合、人間の倫理や文化はどう変わるのか。』(P14)
『犯罪そのものができない社会になった場合、人間の倫理や文化はどう変わるのか。』一一という思考実験だが、私が思うに、そんな世界では、ストレスによって、人間は次々と死んでいって死滅するか、いくらかは残っても、そんな人は、頭の中で犯罪を犯している狂人ということになるのではないだろうか。
(04)『 勝者
「みんな、それぞれのゲームに勝つために生きているんだ。子どもたちは賞金のないゲームに本気になるし、負ければ涙を流す。大人だって同様さ。出世して、権力を持って、なんの意味がある? 意味なんかじゃない。
出世や権力そのものが、ゲームの勝者である証なんじゃないか。勝利そのものが目標かもしれない」』(P18)
私はそうは思わない。
たしかに人は「勝利を目指す」。私もそうだ。
しかし、人が「勝利」を求めるのは、それが「気持ちいい」からで、言い換えれば、勝たなくても気持ちよくなれるのなら、別に勝とうとは思わなくなるだろう。
つまり、「勝利」は最終目標ではなく、「快楽」を得るのための「手段でしかない」ということである。
したがって、「負けるが勝ち」という考え方も、決して負け惜しみだとは限らない。
その人が、負けることによって得られる何かに快楽を見出せるのなら、別に、頑張って勝ちに行く必要など無いからである。
醜男醜女が好きな人は、見栄を張って美男美女と結婚する必要などないのと、同じことである。
最後は、見栄よりも実益(快楽)なのだ。
(05)『 代弁
SNSでは自分の主張をろくに持たない人間の方が目立つことができる。「みんながこういうことを言いたがっている」という内容を、極端に言い換えて代弁するのが、もっともインプレッションを稼げる方法だからだ。』(P22)
いや、私の場合は、自分の意見をめちゃくちゃ持っているけれど、それで結構目立っている。友人からは「悪目立ちしすぎだ」と心配までされたほどだ。
ただし、目立ちはするし、それなりにインプレッションは稼げるけれど、なかなか誉めてはもらえない。「いいね」がつかない。
管理者を批判して逆らい続けた結果、「投稿停止措置」を食らってしまった「note」のフォロワーは、現時点で3400人ほどで、常々「読者の9割もクズだ」とか言っているわりには、不似合いに注目されているとは思う。
しかしながら、「note」を更新できなくなったがゆえに止むなく立ち上げたこのサイト(年間読書人の迷宮文書館)の記事の「いいね」は、平均してせいぜい4つか5つくらいなのだから、目立つことと好かれることと高く評価されることとは、まったく別物なのである。
(06)『 優しさ
優しさは冷たさでもある。「君に文句を言わないよ」という温かいルールの裏には、「だから僕にも文句を言わないでね」という冷たいルールが存在する。』(P26)
言い換えれば、厳しさは愛でもある。必ずしもそうとは限らないが、私の場合はそうだ。
私は昔から「情が濃い」のだ。濃すぎるのである。
私がよく「批判するから反論しろよ。議論(論争)しようぜ」と言うのは、そこに熱いルール、火傷するくらい熱苦しいルールがあるからなのだ。
良し悪しは別にして、今どき貴重なものだというの間違いないので、これは珍重されて然るべきであろう。
(07)『 翌日、『高校生クイズ』を視聴していたクラスメイトたちと「チャージ」の話題で盛り上がった。「チャージ」をかけるときの、何かを決心したような表情のこと。
それまでほとんど正解できていなかった栄光学園が「チャージ」によって別人のように連続正解したこと。ピンチになる前に、というか最初からチャージをかければいのに、と思ったこと。』(P29)
「チャージ」と題された断章の一部である。
「高校生クイズ」という番組で、追い詰められて、負けそうになっていたグループのメンバーが、仲間に対して「チャージをかけようぜ」と言った途端、そのグループは、目を見張る活躍をし始めたので、それなら「最初からチャージしろよ」と思った、という話だ。
だが、この「語り手」は、この「チャージをかける」というのは、「本気を出す」くらいの意味だと理解していたのだが、じつはそうではなく、リスクを承知で賭けに出る、といういう意味だったことを、のちに知る。
つまり、チャージというのは、苦境に立たされた場合にしか、かけるべきではない博打だったのである。
したがって、「最初からチャージすれば良かったのに」という意見は、無理解による誤りだったとわかったと、そういう話である。
しかしながら、私の場合は、わりと早い段階でチャージをかけることにしている。
つまり、致命的なミスにはならない範囲で、人よりも早くチャージをかけると、人を出し抜ける蓋然性が高まる。
無論、それで失敗することもあるが、その時は素直に「ごめんごめん」と謝って許してもらう。だから、それは致命傷にはならない。
そしてそれからまた、懲りずに果敢にチャージをかける。そうすると、たいがいの無難居士よりは良い成績を残せる。
「男は度胸。男は愛嬌」ということだ。
「男は愛嬌」とは、間違っても「ごめんごめん」と素直に謝って、それで相手が許さざるを得なくしてしまう「魔性の魅力」のことである。一一私には、これがあるのだ。
映画にもなった、トマス・トライオンの『悪を呼ぶ少年』なんかをイメージしてもらっても良い(いや、ホント)。
(08)『 引っ越しをして気づいたのだが、「部屋が散らかる」という現象は怠惰によって引き起こされるとは限らず、単に部屋の許容量を超えた物量を所有していることに起因する場合が多いということだ。どれだけ工夫して収納しても、限界を超えた物量を所有していたら意味がない。』(P45)
「綺麗な部屋 1」という断章の一部である。
これについては、まったくの同感だ。
私は長らく初版本を中心にした本のコレクターだったのだが、とにかくやたらに買った。
無論、買える金額の範囲ではあるが、ずっと独身なので、新刊と古書を合わせて、毎月10万を下ることのないような生活を数十年続けた。
その結果、お金に困ったことは一度もなかったが、本を置くスペースが無くなってしまった。
木造二階建ての生家の2階の3室、6畳、8畳、6畳のほとんどが本に埋もれてしまった。
しかしそれは、無造作に平積みにされていたのではない。
私にはもともと整理癖があったので、コレクション用の本や、残しておきたい既読本については、そのすべてに硫酸紙でカバーを掛け、作家別、ジャンル別に箱詰めにし、それを積んでいたのである。
作家別というのは、特に好きな作家、例えば、中井英夫だとか竹本健治なんかだと、新刊単行本を最低5冊は買い、文庫に落ちたら、それも最低5冊は買い、サイン本なんかだと最初から10冊くらい買い(昔は「お一人様1冊ではなかった」)、それでもなお古本で初版本を見つけたらそれも買い、買って買って買い尽くして、私が歩いた後には、もはやぺんぺん草一本生えていない、みたいなことをやっていたのだから、本の増え方は尋常一様のものではなかったのである。
で、そうして本が、元来十分に余裕があったはずのスペースまで埋め尽くしてくると、本の整理ができなくなる。
本がある程度貯まってくると、それを分類し、それにカバーを掛けて箱詰めするのだが、本を分類するためには、それを広げるスペースが必要になるのだ。
だが、そのスペースが無くなって来たため、分類作業が不能になり、未分類の本が大量に積まれることになって、ますます整理が出来なくなってしまったのである。
三宅香帆的に「積読も読書だよ」みたいな生ぬるい話ではなく、トリフィドの増殖襲来みたいな、鹿島茂的状況である。
それでもそれは、ある意味仕方のないことだという諦めもあったのだが、阪神淡路大震災以来、仕方がないでは済まされなくなった。
あの震災では、本の山が崩れるくらいの被害で済んだのだが、それでも、それを整理するのに数ヶ月を要した。
しかも、その後も本は着々と増えていったし、東日本大震災以降やたらに大きな震災が日本各地で起こるようになって来たから、阪神淡路大震災の時よりずっと増えた本詰めダンボール箱の山を見ながら、「また、もう一度、同じような震災が来たら、今度は家が倒壊する」と、そうリアルに思えるようになったのだ。
それで、先年やっと、蔵書の三分の一くらいは、思い切って処分することができた。
残念ではあったけれど、家が倒壊しては元も子もないからだ。本が雨ざらしになって、ぜんぶパァになってしまう。私が生き残ったとしても。
ともあれそれで、自宅倒壊の恐怖からは解放されたのである。
しかし、その後、同居していた母が亡くなって一人暮らしになってからは、二階ではなく一階に本を置くようになった。一階なら地震を恐れなくても済むからだが、しかしそのせいで、今では人を家に招けなくなってしまった。
そんなわけで、問題は「量」なのだ。私ではない。
(09)『 共通点
「take」という英単語を初めて習ったとき、英語教師が「取っテイク」というダジャレを口にしたのを覚えている。異なる二つの言語が、奇妙な形で共通点を持ってしまうことがあるのだ。「kill」という英単語を学んだときに、日本語の「切る」と似ている気がしたことも、この経験に加えてもいいかもしれない。あるいは、「ぐっすり」という言葉の語源が「good sleep」にあるという、有名な誤りの話をしてもいい。』(P56)
その昔、京極夏彦がデビューして、著書を10冊あまり刊行していた人気絶頂の頃、私の電子掲示板「アレクセイの花園」に出入りしてくれたことで知り合った、年下の京極夏彦ファンの女性(私は長らく男性だと思い込んでいたのだが、ある時、女性だとわかった)に、こんな冗談をかました。
「〝いらち〟という妖怪かいて、どうやら〝いたち〟が訛ったもののようなんですが、それが暗闇から〝早う行け、早う行け〟と人を急かして転倒させ、怪我をさせるイタズラをしたんだそうです。で、そこから、急かせる人のことを〝いらち〟と呼ぶようになったそうですよ」
すると、その女性は、まだ若くて素直だったから、それをそのまま信じたので、私は急に申し訳なくなって「いや、今のは嘘です。作り話の冗談ですよ」と言ったのだが、その時の後ろめたさは、今でもはっきりと私の中に残っている。
その女性のハンドルネームはすっかり忘れてしまっても、そのことだけは忘れないのだから、これは『威羅知の呪』なのかもしれない。
「百鬼夜行シリーズ(京極堂シリーズ)」の一冊である(嘘)。
(10)『 爆破
転機は大学二年生のときだ。理科一類で入学した僕は、周りの多くのクラスメイトとともに工学部へ進学した。
進学先の学科から出された課題を終えた日、気晴らしに何か本でも読もうと駒場の書店で一冊の本を手に取った。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だ。『論考』を読むまでの僕は、学問とは天上にある「世界の謎」という果実を手にするために、大工となって足場を組み立てていくものだと思っていた。だが『論考』を読み終えたとき、僕たちが立っている足場の虚構を暴き、爆破して奈落へ突き落とす行為もまた学問なのだと知ったのだった。』(P 72)
人は真理を探究するのに「言語」を使う。哲学だって同じだ。
しかし、その言語というのが、いかに「人工的」なものであり、だから「自然」を捉えきれない。
したがって、言語がいかに不自由な道具かを知るならば、言語を前提とした哲学の限界もおのずと明らかだというような、これは、ウィトゲンシュタインの議論(言語哲学)の話だと思うのだが、間違ってるかもしれない。
ともあれ、そのウィトゲンシュタインの哲学自体も言語でなされているのだから、まあ、言語の罠(限界)は意識する必要はあるにせよ、そうした限界は、議論の前提として認めるしかないとも思うのだが、この考え方は間違っているのだろうか?
代表作たる『ドグラ・マグラ』についての作者・夢野久作の説明『脳髄ソノモノが脳髄ソノモノを追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説』ではないけれど、言語による言語の説明というのも、もろに自己言及の限界を孕んでいて、やはり『ドグラ・マグラ』的な堂々めぐりの地獄、「キチガイ地獄外道祭文」みたいなものなのではいだろうか。
(11)『 過大評価
気をつけるべきは、人間は他人の発言のニュアンスに自分の願望を反映させやすく、それがさまざまなものごとを難しくしているということだ。人間の曇った眼は、当たり前の挨拶に知性を見出し、質問の無理解による誤答に詩情を汲みとる。そうやって知性は過大評価され、まぐれが実力だと勘違いされていく。』(P78)
だがまあ、他人の真意は所詮よくわからないのだから、その自覚に立ってひらき直り、まぐれ当たりであろうと何であろうと、説得力のある解釈を高確率で捻り出せるのなら、それはもう実力と呼んでも差し支えのないものなのではないだろうか。
(12)『 連想
人文学研究者を集めて早押しクイズを開催し、問題の最初に「構造主義」という言葉が聞こえたら、誰かが即座にボタンを押して「レヴィ=ストロース」と答えるだろう。それがもし誤答であれば、別の誰かが「ソシュール」と答えるに違いない。その様子をテレビで放映したら、視聴者からしたら意味不明だろうが、ある種の人文学研発者にとっては何も特別なことではないのだ。
かつて人文学研究者の端くれだった僕は、そのような知識のあり方に疑問を持ったことがあった。ディスカッションの過程において、あるいは論文の主張において、たとえば「現象学的還元」などというおよそ日常語から外れた言葉を、阿吽の呼吸で使用する状況に違和感を抱いたのだ。「現象学的還元」という言葉を聞いて、自動的に「フッサール」を連想してしまうこと自体、もっとも「現象学的還元」からかけ離れた行為ではないのか。
人文学とは、そもそもそのような認知のあり方を疑ってかかるものではないのか。』(P82〜83)
しごく大雑把にいうと、「現象学的還元」とは、対象そのものを見るために、対象たる物事に張りついたイメージを洗い流す、というようなことだったと思うが、小川哲の指摘したとおり、そんなことを学んだ学者ですら、「学問的権威における偏見(思い込み)」というものを捨てられない人の方が、9割なのである。
つまり、「偏見を捨てましょう」では、偏見は捨てられないし、「偏見を捨てた」つもりでいる人は、間違いなく「私は偏見のない人間である」という、自身に対する「偏見」を持っていると、そう断じて良いだろう。
ちなみに私の場合は、「現象学的還元」というと、フッサールではなく、「矢吹駆」が真っ先に思い浮かぶ。だからその分、罪が無い。
(13)『 リベラル
何がリベラルか、と言う(※ ママ)概念は、毎日更新され続けている。人間の細胞が数年ですっかり入れ替わってしまうように、気がつくとリベラルの成分はすっかり変わってしまっている。』(P90)
かつての「リベラル」とは、他者(自分とは違った考え方や習慣などを持つ、異質な存在)に対する想像力の豊かな、思いやりのある人だったはずなのに、いまの「リベラル」には、そうした想像力を欠いた人が少なくない。
だから、自分と考え方の違う人は「悪」だと決めつけて、そんな人間は存在してはならないと、社会的抹殺としての「キャンセル(カルチャー)」を、「正義」の名の下に振り回りたりする。
そのせいで、近年は「リベラル」の評判がガタ落ちだし、アメリカではトランプみたいなのが、二度も大統領になってしまう。
(14)『 政治家
どんなに美しい花でもいずれは枯れ果てるように、どんな理想主義者もいずれ現実主義者になる。それゆえ、政治家には三種類の人間がいる。理想主義者と、現実主義者と、理想主義者から現実主義者に変わりつつある者だ。そして、理想主義者も現実主義者も間違っている。
理想主義者には現実的な施策がないし、現実主義者には理念や理想がない。政治家としての有能さは、理想主義者から現実主義者に変わる過渡期の時間を、どれだけ引き延ばせるかにかかっている。』(P111)
昔の私は、極端なくらいの理想主義者であったし、今も基本的にはそうなのだが、しかし、「いくら言っても馬鹿は馬鹿で、変わりはしない」という現実を思い知らされるにつれ、否応なく「馬鹿は馬鹿のままで受け入れなければならない」という現実を、受けいれないわけにはいかなくなってきた。
つまり、外見的には、私もかなり保守化してきたと言ってもいいだろう。じつに不本意なことだが仕方がない。
どうにもならないのなら、いっそぶっ潰してしまった方が清々する、という考え方が間違いだとは思わないが、それはまあ、最後の切り札なので、安易に使うべきではないし、そうした安易さは、敗北主義だとも思うからである。
(15)『 無菌室
理科一類のクラスに、なぜかいつも語尾に「みょん」を付けて喋る女性がいた。「お腹すいたみょん」みたいに。
僕はクラスの懇親会で彼女が話すのを聞いて驚いた。
いまでは申し訳なかったと思っているが、その場に居合わせた友だちと彼女の語尾を真似しながら会話をした。
「生ビール一つお願いみょん」とかって。
すると彼女の親衛隊みたいな男がやって来て、「君たちのせいであの子泣いちゃったよ」と言ってきた。すぐに彼女に謝った。「そういうイジりは良くなかったね」と友だちと反省もした。
ただ同時に、僕には彼女が泣いてしまったことが衝撃的だった。彼女は当時十九歳だったが、いままで語尾に「みょん」を付けて喋っても、誰にもイジられたり何か言われたりしなかったのか‥‥‥と。彼女がいた学校には、僕みたいな意地悪な人間はいなかったのだろう。
東大生には無菌室のような環境で育った人が多い。中学や高校で培った常識のまま東大で振る舞うと、いろんな人を傷つけてしまうかもしれないと気づけた経験だった。』(P128〜129)
別に東大だけの話ではなく、昔ならよくあった話である。
ただ、問題は無自覚にからかってしまうのではなく、自覚的に「それは、人から見れば、滑稽に見えて、揶揄われることにもなりかねないから、注意した方がいいよ」と注意してあげるべきで、それで泣かれるのなら、それは仕方のないことだろう。
要は、自覚的に「変なことをしたり」、自覚的に覚悟を持って「それは変だよ」と指摘すべきである、ということだ。
世の中のばい菌蔓延状態に耐えられるようになれれば、少々変であっても、それはその人の勝手なんだから。
(16)『 人間
実際にいる人間をそのまま小説に書いたら「こんなやついないよ」ってなるような人間がたくさんいる。』(P130)
竹本健治の実名ミステリ『ウロボロスの基礎論』に、昔のペンネーム「田中幸一」で登場した私のことを、読者のどれだけが、実在の人物だと思っただろうか?
「田中幸一」という平凡極まる名前が、嘘っぽいと思ったか、かえってリアルだと思ったか?
どっちにしろ、私の思う壺なのだが(笑)。
(17)『 飲み会 2
大学生のころ、僕はよく終電がなくなるまで酒を飲んだ。夕方くらいから友人となんとなく集まって酒を飲みはじめる。もちろん、終電で帰っていく人もいる。残った何人かで「始発まで飲むか」という話になる。だらだらと時間を過ごし、いつの間にか外は明るくなっている。帰り道で、出勤中の会社員たちに揉まれながら、何をやってるんだろうな、と思う。
学生生活も飲み会みたいなものだ。四年間で一次会がお開きになり、多くの友人がいなくなる。就職して忙しくなったり、地元に帰ったりする。結婚した者や退学した者、死を選んだ者もいた。何人かが「まだ飲み足りない」と言って残る。僕は他人よりずっと長く大学生活を続けた。僕は学生生活というお祭りをいつまでも終えられず、ついには博士課程まで残った。終電を乗り過ごし、瞼をこすりながら、友人たちが帰っていくのを見送り続けた。』(P131〜132)
その伝で言うなら、私の場合は、子供の頃、近所の子供たちと空き地などで一緒に遊んでいたのだが、夕方になって、一人帰り二人帰りしても、私だけは一人で遊び続けて、それが今も続いているようなものなのだと思う。
(18)『 建築 2
「建築とは時間です。建築は人間の過去を担保します」
明男は自分の思いを吐きだす。
「同じ場所に、同じ形の建築が存在することで、人間は過去と現在が同一の世界にあるのだと実感します。たとえ他人のものになることが決まっていたとしても、たとえそれが凡庸な建物であっても、存在そのものが価値になるのです。あなたにとっては意味のない建築かもしれない。でも、生まれたばかりの子どもにとってはどうでしょうか。彼や彼女が見た建築は、二十年後に幼いころの記憶を繋ぎとめる鍵になっているかもしれません。だから僕は、建てることに意味がないとは思いません。意味がないのは破壊することです。かつてその建物がその場所にあったことを、抹消する行為です」』(P134〜135)
「どうせ潰れるのだから、建てることに意味がない」という考え方が間違いなのは、自明である。
なぜなら、この世に存在するものには、もともと意味などないのに、それに意味を見出すのが、人間が生きるいうことだがらだ。
したがって、せっかく生み出した意味を「抹消」すべきではない。
たとえそれが「悪」だとされることであったとしても、それは人間がいればこそ生み出した「意味」だからだ。
「悪」を完全にキャンセルしたければ、すべての人間を抹消するしかないというのは、理の当然なのである。
(20)『SF作品の強度は、現代と未来を接続する過程にかかっている。過程に説得力があれば、作品内で描かれる架空の未来社会が、この世界の延長線上にあるのだと感じられる。「未来の架空の話」が「僕たちの話」に変わる。
歴史小説も同じだと思う。過去と現代を接続することで、「過去の日本の話」が「僕たちの話」に変わる。そして、そうやって接続することでしか、僕たちは戦争を理解することができない。』(P149〜150)
「接続」という断章の後半部である。
どんなに縁遠いような話でも、上手に「今ここ」の話に接続できれば、それは説得力のある「今ここ」の話になる。
それは、哲学だって批評だって同じことだ。
私が、比較的難しい話題を論じている時にも、いきなりアニメの話に接続したりするのは、それは高尚な話も、身近なアニメの話とつながっており、実は身近な問題なんだと感じてもらうためである。
(21)『 文学
文学とは答えのない問題を、個人の視点から切り取る行為でもある。言い換えれば、「〇〇とは」と括るときにこぼれ落ちる、生きて、自分の言葉を持った個人が発症する病のようなものだ。』(P156)
私は、この病が見せてくれる幻覚が大好きだ。
病による幻覚を知らない人生なんて、なんとつまらないのだろうと思うし、病を知らない人というは、人間ではなく、ビョーキそのものなのだと思う。
ロマンティシズムとは、間違いなく、病による発熱なのだから、それを知らない人生なんて、墓のない儚い人生みたいなもの(by 河波忠兵衛)だと思う。
(22)『 攻防
小説というメディアにおいて、作家は世界を文字のみで表現しなければならない。それゆえ読者の頭の中に世界を立ち上げるとき、さまざまな「阿吽の呼吸」を利用している。たとえば「豊洲のタワーマンションに住む妻子持ちの商社マン」という文字列で、ある種の人間を伝えたりする。文学とは、こういった「阿吽の呼吸」と「阿吽の呼吸への疑義」の攻防から生まれるものだと僕は信じている。』(P161)
私は「阿吽の呼吸への疑義」の方に重きを置いて考えるタイプ人間(へそ曲がり)だから、おのずと批判が多いのだが、しかし、それをするためには「阿吽の呼吸」が理解できていなくてはならない。
「阿吽の呼吸」で動くことも可能だけれど、あえてそれをしないというのでないと、適切な「疑義」は呈し得ない。
昔、mixiで、その場の全体の意見に逆らって、一人で頑固に論陣を張っていたところ、ついに相手が苛立って「空気を読めよ、KYだな」と言われたことがあった。
そういう言葉が流行っていた頃の話だ。
で、私は言い返してやった。
「私は、空気が読めないのではなく、あえて場の空気を読まないのだ。あんたこそ、私の空気を読め」
(23)『 愚かさ
小説家に必要なのは才能ではなく、才能のなさなのではないか。普通の人が気にせず進んでしまう道で立ち止まってしまう愚図な性格や、誰も気にしないことにこだわってしまう頑固さ、強迫観念のように他人と同じことをしたくないと感じてしまう天邪鬼な態度。小説を書くためには、そういった人間としての欠損一一ある種の「愚かさ」が必要になる。何もかもがうまくいっていて、摩擦のない人生に創作は必要ない。』(P168)
それは批評家も同じだ。
ただし、私には世間並みの才能はない、という才能がある。小川哲と同様の、小理屈をこねる才能もある。一一見ての通りだ。
(24)『 啞然
SF作家の樋口恭介とは、彼のデビューから一年ほど経ってから初めて対面した。渋谷のとある場所で挨拶をしたあと、彼は第一声でこう言った。
「小川さん、僕の小説のどこが一番刺さりました?」
私は唖然とした。「作家同士が初めて会ったときに絶対に口にしてはいけないタブー」の一つは、「自作の話をする」というものだ。相手が自分の作品を読んでいるとは限らない。もし相手が読んでいなければ、ひどく気まずい雰囲気になるだろう。樋口恭介に至っては、「相手が自作を読んでいることを前提にする」という大罪を犯しただけでなく、「しかも自作が刺さっていると前提する」というとんでもない思いこみで話しかけてきたのだ。
私はどう答えるべきか悩んだ末、正直に「まだ読んでない」と答えた。樋口恭介は私以上に唖然としていた。
まるで「この世に俺の本を読んでない人が実在するのか」と言っているようだった。彼のその態度に、私はさらに唖然とした。こうして唖然の無限フィードバック連鎖が発生したのだ。』(P152〜153)
本書の中で最も興味深かった断章は、これである。
実在の作家を名指しで紹介し、さらにどう見ても褒めているとは言い難い。
しかし、こんな文章を公にしてしまうような人だからこそ、私は小川哲という人が「面白い」と思うのだ。
ちなみに、私が小川哲に最初に強い印象を受けたのは、東浩紀、樋口恭介との「ゲンロンカフェ」での鼎談だった。
そこで小川哲は、樋口恭介が当時も今も売りにしている「SFプロトタイピング」について、「詐欺みたいなものだも思っている」というような、身も蓋もないこと、樋口当人を目の前にして、ずばっと言い切っていた。
いくら樋口恭介が年下だとは言っても、また、小川に、仮に何か含むところがあったとしても、こんなことを公の場で言い切ってしまう人になど、滅多なことではお目にかかれない。
つまり、そんなことがあったからこそ、私はこれまで小川哲の全著作を読んできたのだろうし、そのおかげで、また今回はこんな面白い文章を読めたのである。
ちなみに私は、樋口恭介のことをかなりしつこく批判してきたが、この本質的に自信過剰な人は、そう簡単には反省してくれない。
けれども、そんな樋口は、ある意味では正直な人なのではあろうし、学力的な知能がいくら高くても、基本的には子供っぽい人なのだろう。
ある意味、発達障害的なのかもしれない。
だから小川哲も、そんな樋口のことが憎み切れないから、こんなに厳しいことを、あえて言う(書く)のではないだろうか。
ある意味、断章「優しさ」(06)について書いたように、愛があるから言ってくれるのだと私は思う。
小川哲は、覚めた物言いをするけれど、それは情が濃いから、そういうふうにしないとキリがないと、そんな自覚があるからなのではないかと、そんなふうに思ってしまう。
無論これは、私の「自己投影」なのだろうが(笑)。
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ちなみに「あとがき」によると、本書冒頭の断章「東京」(01)は、じつは、原文には、本書に転載されたものの、最後の一文は無かったのだそうだ。
だが、それが無かったために、そこだけが切り取られ、その画像がネット上で広まり、小川が肯定的に、この「東京」という成り上がりゲームへの参加を読者に促していると、そう誤解されて誹謗中傷され、炎上したのだそうだ。
すなわち、次の部分、
『 言うまでもなく、こんなゲームに参加をするべきではない。』
は、原文を本書に収録するにあたり、編集部が補足したものなのである。
まただからこそ、どこか蛇足的な印象があったのだろう。
(※【お詫びと訂正】上の文章では、原文に無いものを編集部で補足したかのように書きましたが、正確には、切り取られた箇所の数行後に、補足された上の文章が登場することを確認しました。したがって、この文章は、著者の小川哲氏自身による文章そのものですが、このような直接的にひと繋がりの文章ではなかったということです。
私の確認不足による誤解を与える記述になってしまったことを、小川哲氏と読者各位に、記してお詫びいたします。
なお、原文はこちら↓です。)
『 あとがき
僕はSNSのアカウントを持っていないのだが、SNSで炎上したことがある。
「東京」というゲームが存在する。ルールはシンプルだ。有名大学を出て、一流企業に就職すること。ブランド物の服を着て、東京タワーを望む港区のタワマンに住むこと。見た目の良い異性と交際すること。それらを積み重ねた者がこのゲームに勝利し、勝者は他の参加者たちの羨望を得ることができる。
この(※ 一節の)切り抜き画像がSNSユーザーの中でシェアされ、作家小川哲の主張として(僕が「東京」というゲームへの参加を促しているものとして)拡散し、いろんなSNSで「くだらない価値観」だとか「そんなゲームに勝って嬉しいのか」だとか、そういった文句のようなものを言われた。今でも定期的に画像だけが投稿されて局所的に広がっている。
本書では、上記の切り抜きに、「言うまでもなく、こんなゲームに参加をするべきではない」という一文が追加されている。炎上してしまった僕に編集者が配慮してくれたのだろう。たしかにこの一文があれば、「東京」というゲームに参加することを僕が推奨しているわけではないとわかるし、SNSで僕に対して文句を言ってくる人もいなかったはずだ。
しかし本当に重要なのは、そもそも上記の文章が『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の新聞書評から切り抜いたものであるという点だ。原典まで辿れば、「東京」というゲームについて、僕が参加を促しているかどうかすら本質的な問題ではないことがわかる。本書にも採用された上記の切り抜きを読んで、実際に原典にあたった人はどれくらい存在するのだろうか(この書評についてはウェブで全文を読むことができるので、気になった人は検索してみてほしい。全文を読めば、僕に少しだけ同情してくれると思う)。
(以下略)』(P171〜173)
しかし、小川哲はこの「あとがき」で、「部分だけを見て理解するのではなく、全文を読むべきだ」とは、主張しない。
なぜなら、そういう読み方(拾い読み)も基本的には「あり」であって、小川哲当人含めて、だれもがやっていることであり、それは避けられないことだからである。
それで、すでに引用した、次の文章に続くのだ。
『 その一方で、極端な話をすれば、読書という行為自体が、そもそも誤解を前提としているとも言えるだろう。
すべての文章が著者の意図通りに伝わるなんてことはあり得ない。
もっというと、著者本人ですら意図がわからないまま書いている文章だってある。また、原典を全文読んだ上で、そこに書かれた文章から、文章が意味している以上のものを一一著者の意図している以上のものを一一読みとってしまうこともある。
そういった誤解や誤読は読書の醍醐味でもある。』(P174)
つまり、小川哲が「序文」で語っていた、
『 以下の文章は必ずしも僕の思想を表すものではないが、どのように誤読してもらってもかまわない。』(P4)
とは、そうした覚悟を語ったものなのである。
文章を公にする以上、誤解はつきものであると。
しかしながら、あの「東京」という一文が、小川哲によって、肯定的な意味で書かれていたと理解した読者は、あまりに読めなさすぎであろう。
どう考えたって、あんな、いかにも頭の悪そうな「東京というゲーム」を、肯定支持する意図で書く、馬鹿な作家などいないと思う(いたら、編集のチェックが入る)。
それなのに、それを誤読したのは、そう誤解した「匿名の有象無象」の方こそが、小川を批判しながらも、じつは自分自身の欲望を小川に投影して、それを自身でも無自覚のまま恥じていた、ということなのであろう。
自分には、「東京」というゲームの勝者になれる可能性が無いから、その可能性がありそうに見える小川哲を、妬んだのである。
そうした輩は、「頭が悪い」という以前に、心根が卑しいために、まともに頭が働かなくなっていたのだと、そう理解するのがきっと正しいのであろう。
(2026年10月19日)
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