加藤典洋 『アメリカの影』: 歴史に学ぶ

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▷ 書評:加藤典洋『アメリカの影』(河出書房新社・講談社文芸文庫)


加藤典洋を読むのは、じつにひさしぶりだ。

前に読んだのは、小泉純一郎首相の靖国神社への連続参拝問題が大きな外交問題に発展して、にぎやかに取り沙汰されていた頃だ。

そこで、当時評判になっていた高橋哲哉の『靖国神社』を読み、強く感銘を受けた私は、そこから高橋の旧著へと遡っていく中で、加藤典洋との「歴史認識論争」関連の本も読んだのである。


私はこれまで、時々「高橋哲哉と加藤典洋の歴史認識論争については、その当時から一貫して高橋哲哉を支持してきた」と、そのように書いてきたが、正確にいうならば、論争当時ではなく、それが一段落したあとの2005年ごろから、ということになる。
考えてみれば、論争のきっかけとなった加藤典洋の『敗戦後論』は、その時すでに文庫に落ちており、私はそれで読んだ記憶があるからだ。


ともあれ、それからでも20年あまり経つことになる。

私は「歴史認識論争」については、一貫して高橋哲哉を支持したし、高橋哲哉の真面目で責任感の強い人柄には、変わらぬ好感を抱いてきた。
また、そんな高橋哲哉が、沖縄の米軍基地問題についても、長年真摯に向き合っていることに対しても感服した。


この人は、あれこれいろんな話題に口を挟むのではなく、日本人であり本土人であることの責任というものを自らの問題として引き受けてきた人であり、そうした人柄において、私は高橋を尊敬してきたのである。

しかしながら、文筆家としての人気という点では、高橋哲哉よりも加藤典洋の方が、かなり上のように見えた。
だから、高橋ファンである私としては、それがいささか不満であった。

しかしまた、高橋哲哉は元来「哲学者」であり、その名のとおり、ひとつのテーマを掘り下げていくタイプだから、「文系評論家」である加藤典洋と比して、そのポピュラリティにおいて劣るのは、致し方のないことだとも思っていた。

だが、そんな「論争後の加藤典洋」の活躍を遠目で見ていると、いろんなことをやっているように窺えて、今ひとつその動向を把握しにくい印象があった。
だから、おおよその感じくらいは掴んでおきたいという気分もあって、例えば、『僕が批評家になったわけ』(2005)、『さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて』(2010年)、『戦後入門』(2015年)など、そのタイトルに惹かれて、ときどき加藤の著書を買ってはみたものの、結局はいずれも積読の山に埋もれさせてしまい、1冊も読むことが出来なかったのである。

しかしそんな私が、今回ひさしぶりに加藤典洋の本を読む気になったのは、今や日本のキャンセルカルチャーの代名詞となっている「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に関心を持つ者どうしとして、SNS「note」上でやりとりをさせていただく機会を与えて下さった、文芸評論家の與那覇潤氏が、『江藤淳と加藤典洋』という本を書かれたからである。


反「オープンレター」という立場では、完全に一致していた與那覇氏であった。
しかし、江藤淳と加藤典洋と言えば、私の場合はほとんど目の敵にして批判した相手だったのだが、どうやら與那覇氏は、同書でこの二人に共感を示しているらしい。


で、私としては、與那覇氏の新著をとうてい褒められそうにないと思いはしたものの、「オープンレター」問題では、教えを乞うた立場として恩義のある與那覇氏の著書を、端から読まないというのは、どうにも義理を欠いて心苦しいと、そうと感じられもした。

そんなわけで、「読んだ結果として『江藤淳と加藤典洋』を批判的に評価することになろうとも、それは批評家として、是々非々ですべきことをやっただけなのだから、そうなったらそうなったで仕方ない。結果はどうあれ、とにかく読もう」と、そう割り切って、同書を読むことにしたのである。


さて、実際その結果はどうであったかというと、私の評価としては、與那覇氏の両者に対する評価は、いささか同情的に過ぎて甘いのではないかと、そう思えた。

與那覇氏の読み方は「良いところを見て評価する」「同情心を否定しない」というような、言うなれば、「ソフト(寛容)」なところがあった。

一方、私の批評というのは、これまでに何度も言明してきたとおりで、

『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。』(『臨済録』)


的なことを書いてきたくらいで、いくら友達や身内であっても、敵と分け隔てなく、批判すべき時は呵責なく批判するということを自らに課してきた。
冗談などではなく、友達が少ないのはそのせいだし、それで良いと思ってきたのだ。

だから、與那覇氏の著作についても、同じスタンスで読んだのである。

ただ、そうした與那覇の(寛容的)スタンスの評価とは別に、私は同書で、加藤典洋が晩年には、「歴史認識論争」の頃とは、若干スタンスが変わっていたという事実を知って、そこに興味を持った。

また、それとは別に、加藤典洋が晩年には、昔とはスタンスを変えていたという話を、別筋から耳にしてもいたのだ。

私が加藤典洋という名前を初めて意識したのは、笠井潔との共著者ということからだったはずだ。
笠井の著作には、加藤典洋の名を見かけることが少なくなかったのだ。

もともとはミステリファンであり、笠井潔のミステリ小説『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』などによって、熱心な笠井潔ファンになった私は、しかしその後、笠井による「(新本格)ミステリ界における文壇政治」的な面を批判して、笠井を徹底的に批判する「笠井潔葬送派」に転じ、爾来、今に至る20年以上も笠井を批判してきたのだが、そんな笠井潔に近い人物として、加藤典洋と竹田青嗣の名も記憶したのである。
「なんで、笠井潔みたいな政治屋と、徒党を組めるのか」と。


だから、そんな加藤典洋が、高橋哲哉と論争になっていたと知った時には「さもありなん」という印象しかなかった。
笠井潔を支持しているようでは、ろくなもんではないと、そう思ったからである。

ちなみに、竹田青嗣の著作は、フッサール現象学の入門書みたいな本ばかりだったので、その手のものを1、2冊は読んだものの、竹田青嗣自身の思想については、今に至るまで、よくわからないままである。

ところがだ、つい先年、そんな長年の笠井潔の盟友たる加藤典洋と竹田青嗣が、ついに笠井から離れたという話をどこかで読んで「とうとうそうなったか。まあ、当然の結果だ」と、そう思ったのだが、そんなおりに、與那覇氏の『江藤淳と加藤典洋』で、晩年の加藤が軌道修正していたというのを知ったので、そんな晩年の加藤に興味を持つことにもなったのだ。

しかしながら、いきなり晩年の作品だけを読むのもどうかとと思ったので、「歴史認識論争」以前の著書、加藤のデビュー作である『アメリカの影』を読むことにしたのである。

 ○ ○ ○

さて、私が今回読んだ『アメリカの影』は、1991年刊行の「新装版」単行本である(初版は1985年)。

(初版単行本)
(新装版単行本)


収録されているのは、アメリカがらみの次の3編だ。

(1)「アメリカ」の影 一一 高度成長下の文学
(2)崩壊と受苦 一一 あるいはフロンティアの消滅
(3)戦後再見 一一 天皇・原爆・無条件降伏


ごく大雑把に言うと、

(1)は、元はリベラルだった江藤淳が、どうしてある時期から「占領期日本における、GHQによる言論統制」の話にのめり込んでいき、文壇で眉を顰められながらも、頑固な保守主義者へと変貌していったのかという問題を、村上龍の『限りなく透明に近いプルー』への否定評価と、それとは好対照な田中康夫の『なんとなくクリスタル』への好意的評価を比較検討することで、江藤淳のなかの「ある暗さ(わかりにくさ)」を検討する、江藤淳論となっている。


(2)は、江藤淳が「内向の世代」の文学を論じて『成熟と喪失 〝母〟の崩壊』を描いた際の、「母としての自然」という感じ方を、当時の「高度経済成長と自然破壊(公害)」の問題に絡めて、江藤淳にとっての「自然=母」という観念連合を検討したものである。


(3)は、江藤淳とは直接関係はなく、むしろ江藤淳がこだわった「日本とアメリカの関係」の問題ついて、その問題意識を違った角度から引き継いだものである。
加藤典洋はここで、日本やドイツへの「無条件降伏」の要求にこだわった米国ルーズベルト大統領が、当時なにを考えていたのかということを、各種の資料にあたって推定し、それが原子爆弾の開発と絡んでいたのではないかと推理している。
そして、原子爆弾とは、日本においては「天皇」の絶対的な威光を吹き飛ばして決着をつけ、戦後世界をリードするための、避け得ない決め手と考えられていたのではないかと、大筋そのような興味深い読みを展開した上で、私たちが、自らの手で「天皇制」(天皇の威光)を葬れなかった点に、今に続く日本人自身の問題を提起している。

そんなわけで、それぞれについて、論じていては長くなるので、本稿では、江藤淳には限らない「日本人の弱さ」という問題について、思うところを書きたいと思う。

(01)『 江藤のいうように、一九七二年の沖縄返還はこの(※ 戦後保守における、反米と親米という)「二律背反」を解決しなかった。しかし、そうであれば、彼のいうように「交戦権」の回復という国家主権回復の「象徴的行為」は、この矛盾、二律背反を解決するだろうか。』(P90)


「自立した国家であるためには、押しつけ憲法を改正して、戦争のできる国にならなければならない」と、江藤淳を含めた右派は、しばしばそのように言うのだが、交戦権が認められて、公式に戦争ができるようになれば、果たしてそれで、日本は、愛憎半ばするアメリカから自立して、一人前の独立国家になれるのだろうか?

もちろん、そんなことでは、アメリカからの独立などできない。
それどころか、アメリカの世界戦略に対して、応分の負担を求められるだけで、アメリカがいなければ話にならない「子分」国家であるという現実は、なんら変わらないに決まってる。

江藤淳の言うような「象徴的行為」など、所詮は自己満足に過ぎない。
アメリカから自立するには、外交による「(アメリカからの)経済的自立」なども含めた、もっと地道で広範な努力を、強かに続けるしかないというのは、少なくとも昨今の世界情勢を見れば、素人目にも明らかだろう。

つまり、江藤淳の時代は、やはり「平和」だったのだ。だから、観念的に考えるだけで済んだのだと、そういうことになるのである。

(02)『 問題は、この「自己回復」にある。「自己回復」とはなにか。日本の保守党政権が戦後「基本政策」にしてきた一一ともいえると江藤のいう一一「自己同一性の回復」、この「自己同一性」とは何だろう。
 「自己回復」のためには米国からの相対的自由を獲得しなければならず、また「米国」の後退を求めなければならないという考え方のうちには、日本が「米国」の現存によって、つまり敗戦と米軍の占領によって自己同一性を失ったということが前提として含まれている。
 しかし、日本はほんとうに敗戦と米軍占領によって同一性を失ったのだろうか。
 むしろ日本は、敗戦と米軍占領によっても自己同一性を失わなかったのではないだろうか。というより、他のどの場合とも同じく、日本もまた、他国の占領支配によって自己同一性を失うということはなかったというべきなのではないか。』(P91)


平たく言えば、日本人の「長いものに巻かれる」体質は、戦前戦後を通じて、何も変わらなかったのではないのか、と、そういう話である。

だから、江藤淳が考えたような、取り戻すに値するような「日本人本来の美質」としての「独立心」などといったものは、幻想にすぎず、それを敗戦や占領、そしてアメリカのせいにしても、何も解決しはしない。

もともと日本人には、(一部例外を除いては)自己同一化するに値する「自立した私」など、持ってはいなかったということである。

(03)『 江藤は、日本国家と日本国民(日本人)の間の差異を無視するかたちで、単に「日本」が敗戦と占領によって深く傷つき、その自己同一性の根拠を喪失したと語ってきた。この場合の「国家」と日本人一人一人の「内面」との間には、先の入子型構造がひそんでいた。彼は一九六〇年代の「母」の崩壊一一高度成長期の自然破壊一一によって生じた日本人全般の自己同一性の危機を、一九四五年夏から占領期にかけて生じた父性原理の失墜によるものとして語るが、それはその入子型構造のはらむ、小さな箱と大きな箱の対立、国家と個人の対立の契機を彼が十分にはとらえていないことを語っている。しかし一九四五年の経験は、日本人が父性原理の失墜によって致命的打撃を受けたのではないことを示している。それは逆に、母性原理としての「自然」の中に、日本人の個人が国家から独立する契機をもちうることを、示しているのである。』(P107〜108)


加藤典洋はここで、江藤淳が『日本国家と日本国民(日本人)の間の差異を無視』するかたちで、敗戦・占領の問題を議論してしまった、というように論じている。
私もこれは、正しい指摘だと思う。

しかし、このロジックで言うならば、その加藤典洋自身、高橋哲哉との「歴史認識論争」において「日本国家と日本国民と私個人」の差異を無視し、混同していたとは言えまいか。

つまり、「日本の侵略戦争による他国の被害者を心から弔えるようになるためには、まず、自国の戦争被害者を弔わないと、他国の被害者まで弔う心の構えが出来ないのではないか」という、歴史認識論争における加藤の主張は、「日本国民と私個人」を混同して、個々バラバラな「私個人」を「日本国民」というものに均してしまった結果、当然の反応として「私は日本人だが、そうは思わない。我々が加害者であるのならば、身内の弔いは後回しにしてでも、被害者の弔いをこそ優先すべきだ」という、高橋哲哉的な主張は出てきて当然だし、そこで意見が分かれるのも当然の結果だったのである。

つまり、江藤淳が「日本国家と日本国民」を混同し同一視したのと同様、加藤典洋もまた「歴史認識論争」においては「日本国民と私個人」の差異を無視して、大味な(観念的な)議論をしてしまった、ということになるのではあるまいか。

(04)『 江藤の弱さは、まずはじめに「アメリカ」なしにはやっていけない日本という「国家」の弱さをつうじて見られた。しかしそのもう少し深いところには、彼の内面が「国家」を必要としていることからくるもう一つの弱さが沈んでいる。』(P109)


加藤典洋によるこの江藤淳理解もまた、歴史認識論争においては、加藤自身によって再演されていると言えるのではないか。

つまり、歴史認識論争において、加藤は「それをしないと、加害者たる日本人は、他国被害者を心から弔うことも出来ない」と、そう言ったも同然で、それはある意味、自身を含む「日本人の倫理を極めて低く見積もり、それを容認している」ということになろう。

加害者の方が被害者に対して「あんたらも辛いだろうが、こっちだって辛いんだ。少しはこちらの事情も察してくれよ」と、そう言ってしまうような甘ったれが「われわれ日本人である」と、加藤はそう言っていたに等しいのである。

当然、ストイック趣味のある私としては、「馬鹿にするな」と言いたくなる。
「俺はそんな情けなくも自己中な人間ではないし、そんなのが日本人だと言うのなら、俺は日本人じゃないよ」と、そう言いたくなったのである。

(05)『 社会学者栗原彬は、水俣病患者の運動に触れた文章で、このような詩を紹介している(『やさしさのゆくえ=現代青年論』)。これは「母親の胎内にあった時に水銀の毒を引き受けた」、そして一九七八年暮死去した上村智子という女の子をうたった詩である。

 らんらんらん
 らりるれらん
 智子ちゃんの おかあさんはね
 智子ちゃんのしろいしろい ほそい手をさすりさすりしてね
 言ってたよ
 智子は宝子じゃっで な
 我家の毒を みんな吸いとって
 生れてきてくれた 娘じゃっで
 なぁ
 智子

 (森永都子「らんらんらん」冒頭)

 この詩句が教えるのは、(※ 小島信夫の)『抱擁家族』の(※ 中で描かれた)セントラル・ヒーティング付きの「家」から放逐され、大多数の日本人から「失われ」、高度成長下の日本で殺された「自然」が、ここにあるということ、この水俣病の子供のなかに「崩壊した自然」(※ 虐げられ犠牲にされた自然)が生きているということ、それは、ただ江藤の眼から見えないところに姿を隠しただけで、生きているということである。
 それは、たしかに地中深いところにあって生きているが、そこに横たわる粘土質の岩盤のうえにひたひたと湛えられ、しっかり地中を潤している(※ 無傷である)というのではない。源泉は涸れかかっている。それはあの(※ 庄野潤三の『夕べの雲』に描かれた、山頂の一軒家である)大浦家の井戸のように、注意深くみまもられ、必要な時には「もう一尺だけ」掘り足されなければならない(※ 手助けの必要な)なにかである。
 この源泉の涸れかかりが示唆しているのは何だろう。それは、田畑の再生をつうじて「近代」を獲得する方向が、いまぼく達に差しだされているということなのに違いない。
 それは、弱く、深いものに導かれて自ら強くなる自助的努力のかたちを教えている。
 それはまた、現行の経済構造にぼく達の感受性を(※ 無条件に)合致させるのでない、ぼく達にとって最も弱く深いものである感受性の指さす方角に、ぼく達をおおう強大な経済構造の改変の可能性を、留保し、また方向変えしていく、そのような努力のありうることの一つの教えでもある。
 ぼく達は、高度成長に遅れまいと、感受性をとぎすませてきたのだった。
 しかし、いま必要なのは、その逆のこと、その感受性のふたしかさをこそ足場に、高度成長を見、また「国家」を見あげることであるように思われる。』(P127〜129)



つまり、ここで加藤典洋は、自然を取り戻すには、失われたそれを嘆くというのではなく、押し込められた自然としての弱者の側に立つということを通じてではないのかと、そう主張している。


またその意味では、失われた母を求めながら、国家という強い父を求めて、その期待に添いきれない日本国であるからこそ、アメリカというさらに強い父への二律背反した感情に囚われざるを得なかった江藤淳の方向性は、そうした江藤自身の弱さゆえに、間違っていたと、そう批判されていることになる。

しかしならば、歴史認識論争においても、日本人の弱さゆえに、犠牲を強いられることになった、朝鮮や中国の被害者に対し、誇り高き日本人だからこそ、連帯すべきだと、そういう理屈にはならないだろうか。

たしかに日本人は弱い。
だが、その弱さは、水俣病の少女が持っていた「強さとしての弱さ」とは真逆の、「弱さとしての強さ」なのではないだろうか。
人のために犠牲になる強さではなく、人を犠牲にして生き残るという、そんな悪しき強さとしての弱さだったのでなないだろうか。

(06)『 この日本政府が「自からの名」とまた「全人類および文明の名」において米国政府にたいして行なった(※ 非人道的な兵器であり国際法違反である原子爆弾の投下に対する)非難と抗議は、現在までのところ、米国政府にこたえられていない(※ 応答されていない)。また(※ 戦中のこの時以来)現在までのところ、日本政府によっても再度、(※ こうした原爆批判が)取りあげられてはいない。(註2l)(※ こうした非人道的な戦術について)ぼく達の一般的な感情をいえば、中国で、朝鮮で、また南方のアジア各地で「残虐非道」な侵略をほしいままにした日本政府が、何をいうか、というところであり、また、もし日本が先にこれを完成させていたら、必ずや日本政府はこれを敵に用いたのではないか、というところである。』(P285)


戦争末期、日本政府は、日本に原爆を落としたアメリカを、自分のことはすべて棚にあげた「正論」で批判した。

ところが、戦後、日本人被爆者が、アメリカ政府と日本政府を相手取って賠償訴訟を提起した際には、日本政府は、戦争当事者である当時の日本政府の主張をそのまま支持することはできず、アメリカの原爆投下を、今の政府としていちがいに否定することはできない、という趣旨の、逃げの答弁をした。
これが、戦前も戦後も変わらない、日本という国なのである。

しかし、こうした日本国的なご都合主義を、自身ものちに問題にする「無条件降伏」という問題について、江藤淳自身もしていたという事実を、加藤典洋は本書で指摘している(註16)。
江藤淳が、自己の発言を、あとでこっそり書き換えていた事実を、指摘しているのだ。

しかしまた当然これでは、江藤淳は、アメリカ進駐軍の「言論操作」を、とやかく言える立場ではないのではないか。

私は、小林秀雄が、戦中の発言を戦後の著作において書き換えている事実を批判したが、こういう小狡さがあっては、左翼のだらしなさを、伝統保守として批判する資格などないのではないのか。


しかし、そもそも日本人は昔から、(一部例外を除いては)保守であろうと革新であろうと、自身の言葉についての最低限の責任さえ取っては来なかったのだから、それこそが「日本の伝統」だと、そういうことになってしまうのではあるまいか。

(07)『 これまで語ってきたことが、どれだけ事実をいいあてているか、ぼくは知らない。そこで語られたことが客観性をもつかどうかの検討は、少くともここでのぼくの仕事ではない。
 原子爆弾はぼく達の頭上に落ちて、それが何であるのかを教えた。それはいまから、四十年前のことだったが、その四十年後、ようやくそれが何であるかに気づいた西欧の人々がそれに反対する運動を起こした時、その「運動」が何の変更も伴わずにぼく達に「逆輸入」された経緯が教えるのは、ぼく達がいったい、現実に原子爆弾を真下から見た経験から何を学んだのかということである。
 ぼく達は実に貧しいものしか学ばなかったのではないか。』(P287)


過去の事実というのは、誰にも正確なところはわからない。
あくまでも可能な範囲で事実関係の資料を集め、その範囲で合理的な解釈をするしかないからである。

言い換えるならば、過去の現実を100パーセント完全に再構築する資料など、集められるわけがない。なぜなら、エントロピーは増大するしかないからである。

だからこそ、可能な範囲で努力し、可能な範囲で解釈するしかないから、当然、その解釈が、歴史的事実と100パーセント完全に一致することはないだろう。

だが、私たちは、今はもう戻らない歴史からも、学ぶことはできるはずだ。
たとえそれが、過去そのものの再現ではなくても、私たちは出来うるかぎりの範囲においてだって、学べることは無限にあるはずなのだ。

そして、これこそが実は「歴史に学ぶ」ということなのではないだろうか。

「歴史に学ぶ」とは、すでに存在しない「過去」そのものに学ぶということではなく、残された「過去」の残骸から、学びを拾い出す「今の努力」なのではないだろうか。


「アメリカの影」は今も、日本国家は無論のこと、日本国民にも、私個人にも、間違いなく差し掛けられ、差し掛っている。

その影の中にいる私たちは、私たち自身を客観視するためには、すでにその影の外に出た、過去に学ぶべきなのだろう。
そのことによって、今の私たちは相対化され、本当の意味で、そうした「影」の存在とその影響に、多少なりとも気づくことも可能となるのではないだろうか。

日陰の中に生まれ、日陰の中で育った者が、そんな経験だけで、自分たちの日陰者性を自覚できると思うのは、ある種の傲慢なのであろう。

またその意味で「歴史」とは、私たちにとっての、「外部の目」なのである。

(2026年9月28日)


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