▷ アニメ評:ポール・グリモー監督『王と鳥』(1979年/フランス映画)
1960年代生まれで、TVアニメ第一世代の私のようなアニメファンにとっては、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』は、名のみ高いものの、見る機会のなかった「幻の名作」である。

私が、この作品の存在を知ったのは、日本初のアニメ専門月刊誌『アニメージュ』において、高畑勲や宮崎駿に関する何らかの特集が組まれた際に、二人の影響を受けた作品として、グリモーの『やぶにらみの暴君』が、真っ先に挙げられていたからだ。
『やぶにらみの暴君』が、フランス本国で公開されたのが、戦後しばらくしての1952年であった。
『1952年に『やぶにらみの暴君』として公開された。名画として評価の高い映画『天井桟敷の人々』のスタッフ(※ 脚本のジャック・プレヴェール)とキャスト(※ 鳥役のピエール・ブラッスール)の参加を得て、高い芸術性で当時は珍しい大人の鑑賞に耐えうるアニメとして、日本を初め世界的な評価を受け、1952年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別大賞を受賞した。ただし、フランス国内では批評的には賛否両論で、興行もぱっとしないものであり、早々に忘れ去られた。』
(Wikipedia「王と鳥」、(※)は年間読書人の補足)
つまり、私が生まれる前、高畑勲らがまだ学生だった頃に、彼らは『やぶにらみの暴君』を見て、衝撃的なまでの感銘を受け、高畑勲に至っては、それでアニメーション作りを志したのだと言う。
まだ、TVアニメなどなかった時代、アニメーション作品というのはごく限られた映画作品であり、しかも基本的には「子供向け」だった。
だから、すでに戦後の左翼リベラル的な思想に影響を受けていた高畑勲としては、もともとは「アニメ」ではなく映画や演劇に興味があり、その延長線上で、評判になっていた本作を見たのであろう。
本作には、「階級闘争」的なもの、一種の「革命」的なものが描かれており、しかも「大人の鑑賞の耐えうる、芸術性の高い作品」という評判だったからである。

で、そんな本作を見て、高畑勲は「アニメでも、こんなことがやれるのだ」と、アニメの可能性に開眼した、というようなことだったなのではなったろうか。
高畑勲が、基本的に「リアリズム」の人なのは、そうした経緯があったからであり、漫画好きからアニメに入ってきた人ではなかったからである。
だが、ここで勘違いしてはならないのは、本作の魅力は、なにも左派的な「社会風刺」性だけにあるだけではない、という点である。
多くの人が指摘しているように、本作はまず、何よりも絵的に面白い。
宮崎駿が「日本人が持ちえない空間感覚や上下移動を活かしたダイナミックな演出手法」が素晴らしいという指摘をしているが、まったくそのとおりで、私が本作に最も関心したのも、その点であった。




本作には、「やぶにらみの暴君」ことシャルル5+3+8=16世の統治するタキカルディ王国というのが描かれる。
この王国は、とてつもなく広大な砂漠の中にポツンと存在する、巨大な城が王国そのものなのだ。
つまり、城本体も立体迷宮都市とでも呼ぶべき巨大なものだけれど、その下には城下町としての「下層都市」(地下都市を含む)があって、そこに住む庶民からの収奪によって、王様は贅沢な暮らしをしているのである(ちなみに、他に王族はいないようだ)。








で、私がまず面白いと思ったのは、この垂直に高い迷宮建築的な城の複雑な構造であり、その描き方だ。
宮崎駿は、『ルパン三世 カリオストロの城』(以下『カリオストロの城』)で、タキカルディ王国の城の最上部分をほとんどそっくりそのまま拝借するほどの影響を受けており、その点が有名なのだが、決してそれだけではない。



宮崎は『カリオストロの城』において、その城の高さというものを、三次元的な広がりとして面白く表現していたのだが、しかし、宮崎駿の描いたそれは、登場人物、特にルパン三世の超人的な運動能力によって、その空間性が強調的に描かれていたと、そう言っても過言ではないだろう。
宮崎駿お得意の、「走り」であり「ジャンプ」を介しての空間表現である。


ところが本作(『王と鳥』≒『やぶにらみの暴君』)の場合は、人物の動きとは関係なく、城の風景の描き方が、とにかくすごい。
そこで人物が動いていなくても、ひとまず一枚絵(静止画)として見ても面白いのだ。
だから、室内も城内の外部空間も含む巨大な城域内での逃走劇のシーンなどで描かれる城の風景に、私は、シュールレアリズムの画家ジョルジュ・デ・キリコの、誇張された遠近法の風景を連想したものである。


もっとも、キリコ自身は平面での都市空間の広がりを、幻想的に描いたのだけれど、本作の場合は、それが上下運動を含む三次元的広がりとして描かれていたから、そのあたりのことを、宮崎駿は「日本人が持ちえない空間感覚や上下移動を活かしたダイナミックな演出手法」だと、そう評したのであろう。
それは、日本人の「箱庭」的なものではない、広々とした目も眩むようなものであり、この点は、宮崎駿という天才が意識しても、容易に真似ることの出来なかったものなのである。
また、この城の地下に広がる、牢獄や動物園などを含む地下都市も、ことさらにおどろおどろしくはないものの、悪い夢の中に出てくるような、陰鬱な閉塞感のある迷宮都市であり、これも石で作られた都市で育った西欧の人らしい、日本人では真似のできないリアルな質感を伴うものだった。




1952年当時の『やぶにらみの暴君』の日本での初公開時には、手塚治虫をはじめとした漫画やアニメの関係者ばかりではなく、滝口修造、飯島耕一、寺山修司といったシュールレアリズムを中心とした前衛芸術関係の作家たちが同作を絶賛したというのも、それはこうした絵的な魅了があったからに違いないと、私はそう確信している。
つまり、アニメだからと言って、物語やキャラクターの動きを評価しなければならないという決まりはなく、その背景美術的な絵作り部分での卓越性を評価しても、いっこうに構わないのだ。
また、そうした部分だからこそ、動きのある空間的な表現を得意としたアニメーターである宮崎駿でも、グリモーのこうした「動かさない」ところでのセンスだけは、真似のしようがなかったのではないだろうか。
宮崎駿もまた、レイアウト(画面構成)にその才能を発揮した人だからだからこそ、自分には真似できないグリモーの空間センスのすごさを、強く感じたのであろう。





さて、私はここまでで、『やぶにらみの暴君』という作品の思想性や風刺性とともに、絵面としての魅力を語ったけれど、本作の思想性や風刺性の面白さというのは、決して左翼階級闘争的なもの、つまり政治イデオロギー的なものには止まらないという点を、誤解なきよう強調しておかなければならない。
というのも、本作に描かれる王様、つまり「やぶにらみの暴君」は、単純な悪役とも言えない、言うなれば両義的なキャラクターだからだ。
つまり、宮崎駿の『カリオストロの城』で描かれた、いかにも憎々しいカリオストロ伯爵のようなキャラクターではなく、見た目は完全に三枚目の、あえて言えば、コメディアン志村けんの演じた「バカ殿」に近いキャラクターなのだ。


「やぶにらみ」というのも、この王様の場合は、目が不自然に「寄り目」であって、そこがいささか滑稽な印象を与える。
この点は、今だと「障害者差別」の一種だと言われかねないから、改訂決定版は『王と鳥』という、無難かつ象徴的タイトルに変えられた可能性は否定できないだろう。
だが、ここで肝心なのは、王が「醜男(ぶおとこ)」であり、それにコンプレックスを持っているという点なのだ。
王は、画家に自分の肖像画を描かせるのだが、リアルな肖像画を描いた画家に対し、感謝したようなふりをした後に、いきなり落とし穴に落としてしまったりし、肖像画や彫刻の目だけは、「寄り目」ではないように、自分で修正を加えたりするのである。


ちなみに、王様が気に入らない人物を落とすための落とし穴はそこいらじゅうにあり、たとえ家来であっても、役に立たない者は、これで始末されてしまう。
したがってこの落とし穴は、普通に考えれば地下世界に落とされるだけではなく、墜落死させられてしまう類いのもののようにしか見えない。

こうした落とし穴というのは、宮崎駿の『カリオストロの城』でもそのまま採用されて、ルパンが落とされたりするのだが、『カリオストロの城』以前に、ほとんどそっくりそのままのかたちで、TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に登場している。
地球の奪取を狙う異星人、ガミラス帝国の独裁者デスラー総統は、彼に対して馴れ馴れしくダジャレを言ってガハハと笑ったガサツな将軍を、警告なしでいきなり落とし穴に落として殺し「ガミラスに、下品な者は必要ない」と、ワインを片手に澄まし顔で言うのである。


ともあれ、このデスラー総統と同様に、『やぶにらみの暴君』の王様も冷酷な独裁者なのだが、しかしイケメンのデスラーとは違い、王様は三枚目であり、自身の顔にコンプレックスを抱えていて、その点では人間らしいとは言えるだろう。
彼は、王の執務室としての豪壮な謁見場とは別に、城の最上階に、孤立した小体なプライベートルームを持っているのだが、これは宮崎駿の『カリオストロの城』では、美少女クラリス(カリオストロ公国の大公家最後の姫君)が、カリオストロ伯爵によって、「ラプンツェル(髪長姫)」よろしく幽閉される、城の最高層の個室のモデルになったであろうものだ。
ともあれ、王様はこの個室において、初めて開放されるようで、好きなレコードをかけ、「羊飼いの美少女」の描かれた絵画に、ひとり見惚れるのだった。


一一王様の権力を持ってすれば、どんな美女でも思うがままのようなものなのだが、なぜか王様は、絵の中の美少女に恋焦がれている。
このあたり、高畑勲は、ひと昔前に社会問題となった「ひきこもり青年」の問題や、生身の女性を避ける「二次元コンプレックスのオタク青年」の問題を重ねて見たりもしたようだが、そういう時事的な見方を別にすれば、王様が「人としては孤独」だったというのは、間違いないようだ。
本作の中では、王様は独身であり、お妃(女王)様だけではなく、そもそも家族や親類縁者が一人もおらず、信頼できる側近さえいないようなのである。

したがって、この王様は、たしかにとんでもない暴君ではあるのだけれど、カリオストロ伯爵やTVシリーズ番『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統のような、わかりやすく憎たらしい悪役というわけではない。
三枚目であり孤独な、どこか哀れを催させる部分のある独裁者として描かれているのだ。

そして、そんな王様が瞳だけを描き直した自らの肖像画を、その個室の寝室に飾ったその夜、「羊飼いの少女」の絵とその横に飾られていた「煙突掃除の少年」の絵が、深夜に愛を語り合い、額縁の中から抜け出して、この王様の寝室から脱走を企てる。

すると、王様の肖像画がこれを見咎めて、同様に額縁から抜け出して、二人を捉えようとする。
するとその騒ぎのせいで、ベッドで寝ていた本物の(生身の)王様が目を覚まし、もう一人の自分に気づいて驚くのだが、絵から生まれた王様は、あっさりと本物の王様を落とし穴に落として処分してしまうのだ。

そしてその後、本物の王様は二度とこの物語に登場することはない。
つまり、どうなったのかが定かではないのだが、まあ普通に考えれば死んでしまったということなのだろう。
言うなれば、自業自得的に、自分の影に殺されてしまったのである。
そんなわけでこれ以降は、絵から生まれた(やぶにらみではない)王様が、絵から生まれた若い男女のカップルを、家来を使って追い回し、その一方、城のてっぺんに巣をかまえていた鳥が、このカップルの逃亡を援助してやるという展開になる。
この鳥が、なぜこのカップルを助けるのかというと、自分の子であるヒナたちが、城の家来が仕掛けた罠にかかって何度か殺されかけたり、罠にかかったヒナを、煙突掃除の少年が助けてくれたりしたからである。

この鳥という存在は、最も高いところに住んでいる人間権力の象徴たる王様に対して、空を飛べるという点において、その「高さの権力」に対抗できる「自由」を象徴する存在だと、そう考えて間違いないだろう。

ただしこの鳥は、単純に「正義の味方」というわけではない。
なぜなら、「自由」と「正義」とは、必ずしも同じものではないからだ。
鳥は、カップルの逃亡を手伝ったかどで捕えられて地下世界の牢獄に繋がれ、その後、カップルも捕えられ、煙突掃除の少年も同じく地下世界送りとなり、鳥とともにライオンの檻に放り込まれて危機一髪となる。
だがこのとき鳥は、長年の旅の経験から多言語が話せたため、ライオン語でライオンたちを騙して煽動し、まんまと地下世界から脱出して、城へと攻め上がる革命軍となるのである。
で、この時の、ライオンたちへの鳥の説明というのが「この煙突掃除の少年の恋人である羊飼いの少女は、君たちライオンの餌となる羊を飼うことだったのだが、その少女を王様が捕らえてしまったために、羊たちは逃げ出してしまい、君たちの餌はいなくなってしまった」というものだったのだ。
つまり、真っ赤な嘘でライオンたちを煽動して、実質的な革命軍に仕立て上げたようなものであり、その意味では、本作の脚本を書いた、シャンソン「枯葉」の作詞家として知られる詩人にして、映画『天井桟敷の人々』の脚本家でもあった庶民派のジャック・プレヴェールは、しかし、庶民による革命というものを単純には支持しておらず、そこに「現実にはいろいろある」という含みも持たせてもしたようなのである。






そしてそれはたぶん、祖国フランスにおける「自由・平等・友情(博愛)」をスローガンとしたフランス革命だけではなく、他国ロシアの革命のことも知っている世代としては、革命的な暴力を、単純に肯定するということも出来なかったのだろう。
だが、かと言って、庶民による「革命」の必要性を、単純に否定するわけにもいかないということで、そうした両義性を持たせたのではないだろうか。
これは高畑勲も指摘しているとおりで、本作を、単なる「民衆による階級闘争」としての革命物語だと決めつけてしまうのは間違いであり、暴虐な王様には王様なりの「人間的な弱さ」があり、また革命家や庶民の側にも、そうした「人間的な弱さ」としての欺瞞性や軽率さがあるということを描いて、多面的な解釈を許す作品となっているのである。


ちなみに本作は、ボール・グリモー監督と、ジャック・プレヴェールの脚本によって作り始められながら、製作が4年目に入り、予算を大幅に超過してもまだ完成を見なかったために、共同製作者でありプロデューサーであるアンドレ・サリュが、業を煮やしてグリモーとプレヴェールの2人を解雇し、別スタッフによって既存フィルムを編集し、完成させた作品なのだ。
それが、1952年に公開され、世界的に高い評価を受けた『やぶにらみの暴君』だったのである。
ところが、まだ完成していなかった作品を取り上げられて、不完全なかたちで発表されてしまったグリモーは、裁判闘争の果てに、作品の権利を取り戻し、サリュが完成させた『やぶにらみの暴君』を封印した上で、長い時間をかけてみずから制作費を集め、それからさらに2年の歳月をかけて、自分の納得のいくかたちに完成させたのが、1979年に完成を見た、本作『王と鳥』なのだ。
だから、27年ぶりの完成とは言え、実際の制作期間は、のべ5年あまりということになる。
無論、これはこれで十分に長いのだが、それ以上に、グリモーは、制作再開のための予算集めに長い時間を要しており、その執念にこそ、完璧主義の作家グリモーの真骨頂を見るべきなのかもしれない。
だが、以上のような事情で、いずれにしろ今の私には『やぶにらみの暴君』を見ることは叶わない。
だから、『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』との異同について、正確なことは言えないのだが、ただ、両方を見た人の中では、『やぶにらみの暴君』の方が良かったとすると意見も、決して少なくはないようだ。
どのあたりが『やぶにらみの暴君』の方が良かったのか、その詳細はわからないのだが、ただ『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』は、四半世紀もの時を隔てての再録音がなされたせいで、作曲家が変わっており、声優も変わっている、ということがある。
また、追加シーン分の作画や描き直された(リテイク)部分もあるので、そのあたりをどう評価するかによって、評価も変わってくる。
例えば、音楽は『やぶにらみの暴君』方が活劇長の楽しいものが多かったようなのだが、『王と鳥』では、グリモーの意向を受けて、かなり落ち着いた曲調のものに差し替えられているようだ。
たしかに『王と鳥』における逃亡追跡劇は、アニメにありがちなドタバタ的な雰囲気が薄く、良くも悪くも上品な印象が強い。
また、作画面に関して竹熊健太郎は、
『私、旧バージョンの「やぶにらみの暴君」も観てますが、正直な感想を言うなら新作のリテイクパートより旧作の方が作画の出来が良かったのです。』
と評価しており、すでに書いたとおり、改作版である『王と鳥』よりも、『やぶにらみの暴君』を高く評価する人も少なくないのは、そうしたことの影響もあるのだろう。
フランスのアニメ業界のことはわからないが、アニメーターの質が年々高くなっているという保証などないのである。
ただ、日本ではまだTVアニメが始まる9年も前に見た外国の劇場用アニメ『やぶにらみの暴君』と、技術の進んだ日本のアニメをさんざ見た後の、言うなれば「肥えた目」で見た改作版『王と鳥』では、その感動に圧倒的な違いがあるというのは、否定できないところであろう。
だがまた、『やぶにらみの暴君』を見ていない私としては、『暴君』派と『王』派のどちらの評価が適切かは、なんとも言いかねるのである。
したがって、四半世紀もの歳月を経て、ついに自分の作品を完成させたグリモーの作家的執念を高く評価し、共感するところの多い高畑勲の評価が、いちがいに正しいとは、私は思わない。だが、さりとて間違っているとも言えない。
要は「どこを評価するか」によって、どちらの作品をとるか(高く評価するか)が変わってくる、そういう意味でも、本作『王と鳥』は「多面的な魅力を持った作品」なのだ。
例えば、本作で有名なのは、たぶんアニメとしては世界初であろう「搭乗型巨大ロボット」が登場することであろう。
その見かけとしては、レイ・ハリーハウゼン監督の傑作映画『アルゴ探検隊の大冒険』で、ストップモーションアニメの特撮として登場する青銅の巨人タロスの顔を、埴輪にしたようなデザインである。




この巨大ロボットは、当初は王様の家来の技術者が「運転」して、件の逃走カップルを追跡し捕まえるという役回りなのだが、ライオンたちを使った反乱の結果、鳥はその混乱に乗じてこのロボットの奪取に成功して、その力で城を木っ端微塵に粉砕して、王権を打倒することになる。








砂漠に高々と聳え立っていた巨大な城塞都市は、平べったい瓦礫の山と化してしまい、カップルたちや住民たちも、この城塞都市を去ってしまうのだ。
で、『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』の最大の違いとして指摘されるのはこのラストで、『やぶにらみの暴君』では、破壊された城塞都市の残骸を背景に、件のカップルや街の人たちが記念撮影をするところで、いかにもハッピーエンド的に終わるのだが、『王と鳥』の方は、カップルや鳥を含め、すべての人はこの城塞都市を捨ててどこかへと去ってしまい、破壊を終えた巨大ロボットは、瓦礫の山に「考える人」のポーズで腰掛けて、その活動を休止するところで終わるのである。




つまり、『やぶにらみの暴君』の方は、単純な「悪い王様が退治され、民衆は救われた」という感じのいかにもわかりやすいハッピーエンドなのだが、しかし『王と鳥』の方は、城塞都市の壊滅に至った結末が「果たしてこれで良かったのか?」という疑義を提起するようなものになっているのである。
つまり、グリモー自身は、単純な「勧善懲悪」の物語を作りたかったわけではないのだろうし、高畑勲も『王と鳥』の、こうした「多面性(解釈可能性の高さ)」を高く評価したのであろう。
言い換えれば、「意味」の部分においてこの作品は、確かに深化したと、高畑勲はそう評価したのだと推察される。
だが、すでに書いたように、『やぶにらみの暴君』あるいは『王と鳥』の、どこを評価するかによって、自ずと評価は変わってくるし、「作品に込められた意味(テーマ性)」としての「問題提起」を高く評価しなければならないという義理はない。
そのあたりを高く評価したのは、いかにも高畑勲の高畑勲らしいところではあるのだが、宮崎駿がまず、グリモーの「空間把握力」に感心したというのも、いかにも宮崎駿らしい作品の見方だったと言えるだろう。


つまり、本作は、見る者の興味と問題意識によって、いろいろな見方のできる、懐の深い作品なのである。
だから、『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』とでは、どちらが上か、などという問題の立て方は、実際のところあまり意味が無い。
肝心なのは、目の前にある作品から、どれだけ多くの価値を汲み出せるかであって、勝ち負けの問題ではないのである。
しかしながら、今となっては『やぶにらみの暴君』が見られないというのは、いささか残念ではある。
グリモーの気持ちとして「不本意な作品をこれ以上、世に晒したはくない」というのは、よくわかるところなのだが、不本意な作品であったとしても、それが現に存在したのならば、自分の目で確かめたいという、私たちの感情もまた、当然のことだからである。
(2026年9月28日)
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