ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『不死の人』(あるいは『アレフ』): 幸せに生きることの条件

0

▷ 書評:ホルヘ・ルイス・ボルヘス『不死の人』(白水社・白水Uブックス)


本書『不死の人』は、原書『エル・アレフ』の全訳短編集である。

私が今回読んだ土岐恒二訳による白水社版のほかに、篠田一士訳で第一短編集との合本『伝奇集、エル・アレフ』(集英社)、木村榮一訳の『エル・アレフ』(平凡社)、鼓直訳の『アレフ』がある。
ちなみに「エル」は定冠詞で、訳すべき特別な意味は無い。

短編集『エル・アレフ』は、17本の短編からなっており、そのタイトルは末尾に収録された短編のタイトルだが、今回読んだ土岐恒二訳による白水社版のタイトルは、冒頭に収録された短編「不死の人」を、翻訳書名としたものだ。



つまり、本短編集を代表する作品は、翻訳タイトルで、「アレフ」か「不死の人」ということになるだろう。
どちらもボルヘスらしい作品ではあるのだが、個人的に楽しめたのは「不死の人」の方であった。

本短編集『不死の人』(『エル・アレフ』)は、短編集『八岐の園』と『工匠集』とをまとめた初期短編集『伝奇集』、悪漢ものの連作短編集『汚辱の世界史』に続く、『伝奇集』の系譜に連なる幻想的な短編集だが、個人的には『伝奇集』よりも楽しく読むことができた。

その理由は、『伝奇集』所収の作品は、いかにもボルヘスらしい幻想的で抽象的な題材を扱った硬質な作品揃いなのだが、その硬質感が、私にはとっつきづらくもあったためだ。


一方、『伝奇集』に続く短編集『汚辱の世界史』は、アルゼンチン文学の伝統に則った、ガウチョやコンパドリード(場末のならず者)を扱った作品で、日本でのボルヘスのイメージとは少々ズレるものの、庶民文学の系譜に属する作品集で、ボルヘスも肩の力を抜いて書いたものらしく、『伝奇集』とは違い、翻訳でも読みやすい文体になっている、らしい。

「らしい」と言うのは、私はまだ『汚辱の世界史』は読んでないので、あくまでも「Wikipediaによれば」の話だからである。

で、今回読んだのは、『汚辱の世界史』に続く作品集であり、系譜として『伝奇集』に連なるものなのだが、しかし「悪漢もの」に近い作品も含まれているし、それだけではなく、本短編集の代表作である「アレフ」や「不死の人」も、『伝奇集』所収の名短編に比べるとは、私にはかなり読みやすく感じられた。

これは、私が読んだ『伝奇集』が、岩波文庫の鼓直訳で、今回の『不死の人』が土岐恒二訳と、翻訳者が違ったせいなのか、それとも私がボルヘスに馴れてきたせいなのか、そのあたりはよくわからない。

そんなわけで、『伝奇集』の時よりも、全体に楽しめた今回の『不死の人』だったが、その中でも特に楽しめたのが、冒頭の表題作「不死の人」と、3つ目の短編「神学者たち」だった。

「神学者たち」が楽しめたのは、たぶん私にキリスト教の歴史についての知識が、多少なりともあったからだと思う。それがなかったら、たぶんピンとは来なかっただろう。


そんなわけで本稿では、最も楽しめた「不死の人」について書いてみたい。

 ○ ○ ○

「不死の人」冒頭のエピグラフは、16世紀の哲学者フランシス・ベイコン(ベーコン)による、次の一文だ。

『 ソロモンは言ふ、「日の下には新しきものあらざるなり」それプラトンの想像せし如く、「すべての知識は追憶にほかならず」」故にソロモンもまた説を述べて言ふ。「すべて新奇なるものは忘却にほかならず」と。

フランシス・ベイコン『エッセイズ』五十八』(P5)


「日の下には新しきものあらざるなり」は、私も昔から知っていた有名な言葉なのだが、それが聖書に登場するソロモン王の言葉だとまでは知らなかった。

ベイコンはここで、そんなソロモン王の世界観と、それについてもプラトンによる説明を支持しているようだ。
ソロモン王やプラトンの言ったとおり、「この世に完全に新しいものなんてない。新しいものとは、じつは古いものを思い出しただけのものであったり、すっかり忘れていたものにすぎない」のだ。「私もそう思う」と。

つまり、「この世の中(世界)には、完全に新しいものなど存在しない(それは、かつて存在したものの、相似的な繰り返し物にすぎない)」というほどの意味の言葉なのだが、私自身、歳をとった今となっては、なんとも含蓄のある言葉だと感じられる。

たしかに、近代主義における常識的な物の見方からすれば、私たち人類は、常に新しい物を発見したり、発明したりしてきた。

科学の方はよく知らないが、たぶん科学とは、発見のための技術であり思考法だとも言えるから、相対性理論だとか量子力学だとか遺伝子だとか生物進化だとか、そういったものは、科学的には、すべて「発見」であり、人類にとっては「新しい知見」であったと、そう言えるのだろう。
また、「テレビ」も「原爆」も「インターネット」も「スマホ」も、すべて「新発明」だったのであり、それまでは存在しなかったものなのである。

では、ベイコンはどうして「新しいものなんか無い」という、ソロモン王の考えを支持したのであろうか?

もちろんベイコンが生きた時代にだって、発見や発明はあったはずなのだから、たぶんベイコンとしては、そうしたものを「真に新しいもの」だとは考えなかった、ということなのではないだろうか。

私は、ベイコンについてもよく知らないので、あくまでもこれは私の推察にすぎないのだが、ベイコンは1561年から1626年まで生きた、イギリスの哲学者(神学者、法学者、政治家)であった人で、要は世界を、その根底において考えようとしたから、そうした観点からすれば、「この世に新しいものは無い」と、そう考えるに至ったのではないだろうか。

つまり、人間の「(科学的)発見」とは、そもそも「神」の創造したこの世界を、後から「知解した」(自然神学)というだけの話であって、それまで存在しなかったものを、新たに見出したというわけではない。

また、人間による「発明」というのも、ゼロから独自に作ったものではなく、神がお創りになったこの世界の一部を利用し、それにちょっと手を加えたものでしかない。
だから、人間視点からすれば、それは新しくも見えるかもしれないけれど、世界を総体として見る観点からすれば、完全に新しいものなどではないと、そんなふうに考えたのではないだろうか。

つまり、ベイコンにとって「新しいもの」と呼ぶに値するものとは、ゼロから作り出したもの、ということだったのではないだろうか。

無論、今の物理学からすれば「ゼロからは何も生み出せない」と考えるわけだが、ベーコンが生きた時代の常識とは、たぶんそういうものではなかっただろう。

神は、ゼロからこの世界(宇宙)をお創りになった。
ならば、人間だって、ゼロから何かを作ることができるはずだと、魔法やら何やらを念頭において考える人も少なくなかったはずなのだ。

だが、哲学者であり神学者でもあるベイコンにすれば、神がこの世界を創造したというのと同じ意味での、全き「新しいものの創造」というものは、創造された世界の一部(創造物)でしかない人間には不可能だと、そう考えたのではないか。
なぜなら、必要なものは、神がすべて天地創造の際に仕込んでおいて下さってるんだから、人間が作れるものは、それをちょっと改造したものにすぎないと、そういう理解だったのではないだろうか。

喩えて言うなら、プラモデル会社(バンダイやタミヤなど)が神で、そのキットを購入して完成させるモデラーが人間である。
人間には、フルスクラッチビルドの能力は無く、キットを組み上げて、色を塗り、ちょっと改造するくらいが限界なのだと、そんなイメージだったのかもしれない。

そうしたイメージで、ベイコンは、

『 ソロモンは言ふ、「日の下には新しきものあらざるなり」それプラトンの想像せし如く、「すべての知識は追憶にほかならず」」故にソロモンもまた説を述べて言ふ。「すべて新奇なるものは忘却にほかならず」と。』


というふうに書いたのではないだろうか。

(土岐恒二訳の初版単行本)

さて、肝心のボルヘスの短編「不死の人」だが、これは「不死になった謎の人」が語った不思議な体験談とでも呼ぶべき物語だ。

この「不死の人」が実は‥‥‥、というオチもあるにはあるのだが、さほど驚くようなものではない。
要は、昔の有名人が、不死の人となって最近まで生きていて、その人が語った物語という造りなのである。

ちなみに、不死の人と言えば「サンジェルマン伯爵」(澁澤龍彦『妖人奇人館』など)があまりにも有名だが、本作に登場するのは彼ではなく、歴史的に実在した人物である。
ここでその名を明かしても、あまり意味は無いから、それはやめておこう。

(不死の人・サンジェルマン伯爵)


つまり、本作のキモは「その不死の人とは、誰だったのか?」というような、俗っぽい「謎」にあるのではなく、シンプルに「不死の人になったら、どんな生き方をするだろうか?(できるのだろうか?)」ということなのである。

まず、普通に考えられるのは「日の下には新しきものあらざるなり」的な考え方になってしまうだろう、ということだ。
なにしろ何百年何千年という時を生きて、人間社会を見ることになるのだから、大概のことでは驚けなくなる。

一番わかりやすい例が、ファッションだ。
最新のモードだとか言って大騒ぎする世間を横目に見ながら、「不死の人」なら「そんなもん、すでに過去に何度も流行ったよ。そんなもんで騒げるみなさんは、じつに幸福ですね」と、そんなふうに感じるのではないだろうか。

つまり、ものすごく多くのことをその目にして、多くの知識を持ってしまったから、大概のことには驚けない。新鮮味なんて感じられない。一一だから、つまらないのだ。

喩えて言うなら、内外のミステリ小説を読み漁ったマニアにとっては、新作ミステリのトリックなんかは、すべて昔の作品のそれをちょっと化粧直ししただけの焼きなおしにしか見えず、新鮮味も無ければ、とうぜん驚けもしない。だからつまらない。
いくらミステリが好きでも、何の新味もない新作ばかりを読む気にはなれなくなって、大好きだったはずのミステリを読むことを止めてしまう。
もはや、ミステリに対して、夢も希望も持てなくなってしまったのだ。

で、こうした「それ、もう見飽きたよ」というのが、人間社会の全般について感じられるようになったら、さぞや生きていることが辛くなるだろうな、というのが、本作なのである。

言い換えれば、人間は、短期間しか生きられず、そのおかげに、世界の一部しか見ることが出来ないからこそ、日々新鮮な出会いがあって楽しいのだ。

だから、健康で長生きするのは結構なことだが、しかし、無限に生きなければならないとなったら、それは地獄だよ、とそんなお話なのだ。

だが、これを「人間の生には、限りがあるからこそ素晴らしいのだ」などと要約するのは、文学のわからない馬鹿のすることである。

なぜならそれは、本作に込められた微細な差異を切り捨てて、「よくある話」にしてしまうことに他ならないからだ。

短い人生だからこそ、微細なところまで味わい尽くそうとするのではなく、わざわざ「似たようなもの」に切り詰めて消費しようとするのだからこそ、そういう愚鈍な人こそ「不死の地獄」向きなのかもしれない。
同じような本ばかり読んでる人と同じで、飽きを知らないからだ。

本作「不死の人」には、次のような「不死になった種族の作った遺跡」の描写がある。

『 わたしは小さな広場のようなところへ出た。というよりむしろ、そこは中庭らしかった。そのまわりを、形のふぞろいな、高さも一定しないたった一つの建物が取り囲むように建っていた。この雑然とした建物にはさまざまな円蓋や円柱が付属していた。この信じがたい記念碑的建築物は、他のどんな相貌よりもその造営のあまりの古さゆえにわたしを呆然とさせた。それは人類よりも早く、地球よりもずっと以前のことと思われた。このまぎれもない古さは(ある場合には、それは目にするのも恐ろしいものであったが)不死の建設者の造りあげたものにふさわしいことと、わたしには思われた。初めは用心ぶかく、それからやがて無差別に、そして最後には絶望的になって、わたしはこの不可解な宮殿の階段や石畳をさまよい歩いた。(あとでわたしは段の幅と高さが不定なことを調べあげた。この事実はわたしに奇妙な疲労感をおぼえさせていたものである。)「この宮殿は神々が造ったものだ。」わたしは初めそう考えた。つぎにこの無人の構内を探険して、それを訂正した。「これを建てた神々は死んでしまった。」それからわたしはその建築の特徴に気づいて、「これを建てた神々は気違いだ」と言った。わたしはその言葉を、ほとんど悔恨にも似たある不可解な非難の気持ちをこめ、外にあらわれた不安よりも内心の恐怖をもって言ったことをおぼえている。とほうもない古さという印象のほかにもいろいろの印象が重なった。たとえば、果てしなく続くもの、大それたもの、いたずらに繁雑で無意味なもの、といった印象が。わたしは一つの迷路を越えることができたが、燦然たるあの不死の人びとの都はわたしを震えあがらせ、かつ反撥させた。迷宮というものは、人びとを当惑させるために細エをほどこされた建物である。ふだんにシンメトリーを用いたその建築術は、もっぱらそうした目的に従属する。ところが、わたしが不完全ながら探求した宮殿においては、建築術にそうした究極目標が欠けていた。そこには出口のない廊下、手の届かない高窓、窖か竪坑に通じているきらびやかな扉、段と手すりが下に向いている信じられないような逆さ階段などが、いくらでもあった。そのほか、りっぱな壁の側面に軽やかに付着し、二、三度ばかり螺旋状に回ったあと、どこにも行き着かずに、高い円蓋の闇のなかに消えてしまう階段もあった。わたしがいま数えあげた例の全部が全部、文字どおりそうであるかどうかはわからないが、多年、そういうものがわたしの悪夢のなかに眺梁していたことはたしかである。あれやこれやの筆のすさびによる描写が、はたして現実を模写したものか、それとも、夜ごとわたしを悩ませたある怪異なものの姿を模写したものか、もはやわたしは知ることができない。わたしは考えた、「この都はあまりにもおぞましく、たんにそれが存在し、永続するというだけで、たとえ秘密の砂漠のまんなかにあるとは言え、過去と未来を汚し、場合によっては星々をもあやうくするものだ。この都が存続するかぎり、この世の人間は勇気をもつことも幸福であることもできないだろう。」わたしはそれを描写したくない。異質の言葉の混沌。あるいは、虎か雄牛の胴体があって、その中で、歯だの器官だの頭だのが、たがいに接合したり憎みあったり、怪物のようにうようよしている、とでもいったら(あるいは)おおよその姿を思い浮かべてもらえるだろうか。』(P16〜18)

(ピラネージの版画。Uブックス版の表紙イラストも、ピラネージの別作品)


どうして、こんなヘンテコな街を造ったのだろうか?

それは無論「同じことの繰り返し」つまり「規則性」に、そこに住む人たちは倦んでいたからである。
だから、とにかくデタラメでも何でもいいから、飽きの来ない変なものを作ろうと頑張ったのだ。

だが、無論、それには限界があった。
なぜなら、どんなに工夫を凝らしたところで、人間が創造(想像)できるものには限界があって、最後は「日の下には新しきものあらざるなり」という事実を、思い知らされることになるからである。

それで、この街を造った「不死の種族」は、街を捨てて、何処へか去ってしまった。

その後、彼らがどうなったかは定かではないのだが、ただ、本作の語り手である「不死の人」は、最後は死ねる体を取り戻して死ねたようなので、街を捨てた「不死の種族」も、きっとそうなったのだろうと、そう思いたい。

幸いにも、彼らもまた、最後は死によって救われたのだ。一一でなければ、あまりにも悲惨すぎる。

それにしても、私が「日の下には新しきものあらざるなり」を感じるのは、このような批評文を書いた時だ。

私としては「ありきたりなこと」は書きたくない。できれば、私にしか書けないことを書きたいし、そういうものを書いてきたという自負もある。
例えば、こんな「不死の人」評など、世界的に見ても滅多にないだろう。

しかしだ、読書をしていると、ときどき「あっ、この人、私も同じことを書いている」と気づくことがある。
つまり、私より先に、同じことを書いていた人がすでにいたのだが、ただ、私の不勉強のために、幸いにもそれを知らなかったから、私は、私のオリジナル(一番乗り)のつもりで、それが書けたのだ。

知っていたなら、きっと「誰某も書いているとおりで、私もそう思う」というような書き方をせざるを得ず、オリジナリティを誇る楽しさを味わうことは出来なかっただろう。

一方、昔読んだ本を何かの拍子で読み返した際「あっ、これは、こないだ私が書いたことだ。そうか、私はここで読んだことをすっかり忘れていて、それをオリジナルのつもりで書いていたんだな」と、そう気づかされることもある。

そして、そんな経験を何度も繰り返しているうちに「所詮、私が考えることで、完全に新しいものなんて、何もないんだろうな」と思うようになってくる。
少し残念なところではあるのだけれど、まあ、人類の長い歴史を考えれば、それも致し方のないことだと、納得もできるようにもなってきたのだ。

ただそれでも、すべてを知っていたら、文章を書く喜びなんてないだろうなとは思う。

無知だからこそ、忘れてしまうからこそ、なんとなく「この文章は、私のオリジナルだ」と感じながら、「創作」の喜びを覚えることもできるのだろう。

私は常々「記憶力が無い」ということを公言してきたし、それは若い頃の私には残念な事実だったのだが、今となっては、それはそれで良かったのかも知れないと、そう思えるようになってきた。

もしも、私が全知全能の人間だったら、それは「不死の人」と同様に、ずいぶんつまらない思いをさせられる能力だと、そう思うようになったからだ。


だからこの先、老人性の記憶力の減退が進んだとしても、それはそれで幸せなのかも知れない。
なにしろ、そうは気づかないまま、同じことを嬉々として書いていられるからである。

しかしながら、そのように考えるならば、この文章だって、過去に似たようなことを書いている可能性は十二分にある。

いや、きっとあるはずだ。
意識して繰り返しているのではなく、忘れてしまったために繰り返し書いているのだろう。

でも、それはそれで良いではないかという境地に、私は達しつつある。

これは、我ながら大したものだと思う。
言うなれば私は、「不知の人」なのだ。


(2026年9月25日)

 ○ ○ ○




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です