▷ 映画評:ノーマン・ジュイソン監督『夜の大捜査線』(1967年/アメリカ映画)
子供の頃に見て、感動したという記憶だけが残っていた作品だ。
だから、大人になった今の目で、もう一度その意味を確認しておきたいと思い見ることにしたのだが、期待に違わず、当時のイメージどおりの、じつに真っ直ぐな、良い作品だった。

どんなふうに「真っ直ぐ」なのかというと、今となっては、本作のストーリーがこの種の物語の範型になっているような作品なのだ。
黒人差別がまだそのまま残っていた頃の(米国)南部を訪れていた黒人刑事の主人公が、事件に巻き込まれて、地元の白人警官と、当初はぶつかりながらも、徐々に理解を深めて協力し合うようになり、事件を解決するというパターンである。

本作の場合、「バディ」というほどではないし、まだ「バディ」なんて言葉が無い時代の作品だから、そうした型にはハマっていないところが、かえって自然で良い。
『富豪の実業家フィリップ・コルバートは、ミシシッピ州スパータに工場を建てるために引っ越してきていた。ある夜遅く、サム・ウッド巡査(ウォーレン・オーツ)は、パトロール中に通りに横たわるコルバートの他殺体を発見する。ウッド巡査は、駅の待合室でヴァージル・ティッブス(シドニー・ポワチエ)を見つけ、黒人の彼が財布にまとまった金を持っていたため、犯人に違いないと判断して逮捕するが、警察署長ギレスピー(ロッド・スタイガー)は彼がフィラデルフィアから来た殺人課の刑事であることを知る。ティッブスは帰省旅行の途中であり、次の列車で町を出ようとするが、電話に出た上司はティッブスにスパータに留まって殺人事件の捜査を手伝えと言う。ギレスピー署長はスパータの多くの白人と同様に黒人を嫌っていたが、ティッブスと一緒に捜査をすることにしぶしぶ同意する。』
(Wikipedia「夜の大捜査線」)




身元確認のためフェラデルフィア警察に電話したところ、地元警察に協力してこいと言われる。/
被害者の妻レズリーの前で、捜査方針をめぐって喧嘩をして「なんて人たち」と怒らせ、レズリーが市長に「あの黒人の刑事さんを捜査に加えろ」と苦情申し立てをする。市長から、黒人刑事をうまく利用して事件を解決しろという指示を受け、ギレスピーはやむなく、帰りかけていたティっブスを引き止めにくる)
そんなわけで、今となっては、ストーリー的な新味こそ無いものの、非常によくできた作品で、そんな本作に新しさを求めるのは、むしろ本末転倒というものだろう。本作はまさに「原型的な作品」なのである。
ただ、本作を見ていて、最初は気づかなかったのだが、見終えたあとに気づいて、驚いたことがひとつあった。
それは、黒人刑事に対する、地元南部人たちによる、偏見に満ちた嫌がらせのやり方であった。
嫌々ながら、現地で捜査にあたることになる黒人刑事のヴァージル・ティッブス(シドニー・ポワチエ)が、地元民から「黒人のくせに、調子に乗るな」と脅されたり、襲撃を受けたりする。
これは、公民権運動家が殺された事件を捜査する白人FBI捜査官と白人刑事のバディの活躍を描いた、アラン・パーカー監督の『ミシシッピー・バーニング』(1988年)にも、似たようなシーンがあった。
ただ、 『ミシシッピー・バーニング』 の場合は、黒人そのものが嫌がらせを受けるのではなく、黒人の味方をする者に対する嫌がらせであり、それは「黒人の味方をする奴は、黒人同然だ」とか「白人の裏切り者として、余計にタチが悪い」といった見方からくるものなのだろう。
だが、とにかく露骨に捜査の邪魔や嫌がらせをしてくる点では同じなのだ。
しかし、私が興味深いと思ったのは、 『ミシシッピー・バーニング』 だと、事件捜査に来た主人公のFBI捜査官を襲撃するのに、人種差別主義団体KKKのメンバーである襲撃犯たちは、あの有名な白頭巾をかぶるとか、普通の目出し帽的な覆面をするなどして、当たり前に顔を隠していたのだが、本作『夜の大捜査線』では、真昼間に嫌がらせや襲撃をするのに、顔を隠そうともしていないのだ。
具体的に言えば、黒人刑事ティッブスが捜査のために一人で車を運転しているところに、「南部連合(南軍)」の旗のナンバープレートを付けたピックアップトラックが追いかてきて、しつこく追突するという嫌がらせをするシーンがあり、のちにはそのトラックに乗っていたメンバーを含む、さらに多いメンバーが、ティッブスを直接襲って、袋叩きにしかけるシーンが二度ほど描かれている。



ところが、そのいずれでも彼らは、当たり前のように素顔を曝け出しており、まったく隠そうとはしていないのだ。
まあ、最初の追突の嫌がらせだと、今のような防犯カメラも何もない時代だから、前を走っているティッブスに顔を見られる恐れはほぼ無いとか、直接襲撃のシーンも、最初から殺してしまうつもりなら、顔を見られてもかまわないとかいったことだったのかも知れないのだが、それにしても、昼間に人を殺しに行くのに覆面すらしないというのは、今の感覚からは理解しがたいところがあろう。
まただからこそ、約20 年後の作品である 『ミシシッピー・バーニング』 も含めて、その手の描写のある作品では、ふつうは襲撃犯に覆面をさせていたと思うのだ。


ではなぜ、本作『夜の大捜査線』の襲撃犯たちは覆面をしていないのかと考えると、それはたぶん、それが当時の彼の地の「常識」だったということではないかと、そう気づいたのである。
黒人を襲うのに、いちいち覆面をする必要などなかった。
なぜなら、それで捕まることなど、考えられなかったからだと、そういうことだったのではないだろうか。
つまり、他の住人に目撃されても、誰もそれを警察に通報したり証言したりはしないし、地元警察も黒人殺しなどまともに捜査しないどころか、かえって白人の犯人を庇ったりしたのだろう。
そうしたことが「当たり前」なのだという安心感があったから、襲撃犯たちは、顔を隠さなければならないという感覚が無くて、普通に顔を晒していたのではないか。
さらに言えば、「黒人に仕置きをするのは当然のことだ。やましいところは何もないのだから、顔を隠す必要などない。堂々とやれば良いんだ。ビビるようなことじゃない」みたいな感情まであったのではないかと、そんなふうにも想像されたのである。
そして、さらに言えば、本作『夜の大捜査線』が作られた時代には、黒人差別者たちのそうした感覚を、差別しない白人たちも知っていたから、ほどんと無意識に、自然に「覆面すらしない襲撃犯たち」を描いたのではないかと、そのようにも考えられる。
例えば、Wikipediaには、次のような驚くべき記述がある。
『人種差別のひどい南部(※ での撮影)をポワチエは拒否していた。実際に映画に出て来るカーチェイスの様に、何度も(※ 乗車中の)嫌がらせを受けた(※ からだ)。』
(Wikipedia「夜の大捜査線」)
つまり、追突までしたかどうかは、この記述だけではわからないが、とにかく、黒人だと見れば、幅寄せや煽り運転くらいのことは、当たり前のようになされていた、ということである。
そんな、今の私たちの感覚からすれば考えられないようなことが、当時は、良くも悪くも当たり前のようになされており、それが空気のようになっていた。
だから本作では、襲撃犯たちは素顔でそれをするという描写になったのであろうし、後の時代の作品では、そういう描写が「不自然」だと感じられるようになり、それが無意識に避けられるようになった。つまり必ず覆面をさせるようになった、ということなのではないだろうか。
言い換えれば、本作制作当時は、まだそれくらい露骨で暴力的な差別が、南部を中心に残っていたのであり、それがそのまま「同時代の作品」である『夜の大捜査線』に反映していた、ということなのであろう。
実際、『夜の大捜査線』という作品は、暴力的な「黒人差別」が残っていた時代を「あとから描いた作品」ではないのだ。
この作品が作られたのは、まさに、黒人による公民権運動(1954年から1968年)の最盛期であり、言い換えれば、黒人にはまだ「公民権」が無かった時代の作品なのである。
だから、黒人である主演のシドニー・ポワチエだけではなく、白人である監督のノーマン・ジュイソンや他のメインスタッフの何人かも、公民権運動のデモに参加した良心的白人であり、そこでのつながりがこの作品にも結集されたということだったらしい。
その点で、本作の「反黒人差別」は、まぎれもない本物なのである。

また、ジュイソン監督が、こののちに「旧ソ連・ウクライナ地方の虐げられたユダヤ系農民たち」の悲劇を描いた『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1971年)を撮っていることからも、監督のスタンスが一貫したものであることがわかるはずだ。
また、こうした本作スタッフのリベラルな姿勢を、違った角度からよく示しているのは、本作で、殺された北部の実業家コルバートの妻レズリーを演じたリー・グラントが、当時、「赤狩り」でのブラックリストに(「赤」として)その名が乗せられていたために、長らくハリウッドで干されていたのを、あえて起用して、彼女の「復帰第1作」になったという事実もある。

もちろん、1947年に始まったハリウッドの「赤狩り」そのものは、1960年頃に終焉をむかえている。
つまり、本作が作られた頃には「赤狩り」自体は終わっていたのだが、10年以上にも及ぶこの時期にキャリアを途切れさせ、そのまま映画界から去って復帰することのなかった、俳優やスタッフも、当然少なくはなかったのである。
だが、そのせいもあるのだろう。それほど登場シーンがあるわけではないリー・グラントは、しかし、その最初の登場シーンの演技で、圧倒的な印象を残した。
コルバートの殺害を受けて、その事情も知らされないまま警察署に呼び出された妻レズリーに、ティッブスが夫の死を伝え、レズリーがショックを受けるというシーンだ。
ただそれだけと言えばそれだけのシーンなのに、まるで舞台劇でも見せられるが如きリー・グラントの演技が、しかし決して大袈裟には見えない見事な熱演であり、それを受けるかたちでのポワチエの演技も、じつに素晴らしい。

DVDに付録のコメンタリーで、監督自身も証言しているとおり、そこまで重要なシーンでもなければ、細かな演技指導まではされておらず、「こんな感じで」くらいの指示で、あとは俳優に任せたのだが、リー・グラントがその場で、監督の期待を超える演技で演じきった。
ティッブスの言葉にショックを受け、その場の椅子に崩れるように座ろうとするレズリーに、黒人男性であるティッブスが手を添えて助け、白人女性のレズリーがそれにすがるという演技は、まさに息のあったダンスのように見事なもので、その点で、本作の白眉ともいうべき名シーンとなったのであった。
無論、本作の見どころは、ポワチエのティッブスと、ロッド・スタイガーの演じた地元警察署長ギレスピーの間に、徐々に心の結びつきが生まれていくところだろう。
ロッド・スタイガーが、ギレスピーの複雑な心理と葛藤、そしてその根にある人間味と心意気を見事に演じ切って、彼は本作の演技で「アカデミー主演男優賞」を受賞しているのだ。




だが、本作における名演は、リー・グラントやロッド・スタイガーだけではない。
その脇役に至るまで、全員がじつに「いい味」を出して、見事な演技をみせている。
例えば、表向きは雑貨屋だが、裏で堕胎を請け負っている黒人の老婆、通称ママ・カレバを演じたビア・リチャーズの演技も素晴らしかった。
作品冒頭から登場し、ティッブスを誤認逮捕してしまう、いささかお調子者のサム巡査は、物語の後半で、彼に妊娠させられたと証言した少女デロリスのせいで、一時はコルバート殺しの犯人として逮捕されてしまう。


しかし、ティッブスはそれを疑い、ママ・カレバの存在を知って彼女に会いにいく。
当然、ママ・カレバは裏の顔を隠し、雑貨店主として愛想良くティッブス刑事に応対するのだが、ティッブスは、彼女が闇で堕胎を請け負っているのを知っていると告げた上で、彼女からデロリスの妊娠についての情報を引き出すため「黒人の刑務所生活は、ずいぶん苦しいものらしいぞ」と、そう脅した際の、一転して怯えたママ・カレバの態度がじつに見事なのだ。
これも、単なる聞き込みのシーンであり、小さなエピソードだと言えばそれまでなのだが、南部に住んで裏稼業を営む、したたかで聡明な黒人老婆も、この脅しには心底怯えざるを得なかったというのが、非常によく伝わる名演技だったのである。
このように、その細かな名演を挙げていけば切りのないくらいなのだが、どうして本作がそのような作品になり得たのかと言えば、それはたぶん、当時はまだ、本作のような問題作のヒットなど見込めなかった状況の中で、それでも志を持って作られた、挑戦的な作品であったからなのではないだろうか。
そういう作品であることを承知で参加した、スタッフやキャストが多く、決してビジネスとしてばかりの映画ではなかったから、その端々に「熱いハート」が宿ったということなのではあるまいか。
この当時、黒人の主演俳優といえば、それはシドニー・ポワチエただ一人だったのであり、本作はそんな彼を主役にむかえた作品だった。
だから決して本作は、単なる「刑事もの」映画などではなく、出演者の大半が白人であったとしても、何よりも「黒人映画」だったのである。


それだけで、否応なく社会的なメッセージを発することになる作品だったのだ。
ちなみに本作は、作品賞をはじめとして、アカデミー賞5部門受賞に輝いている。
前述のとおり、ギレスピー役のロッド・スタイガーが「主演男優賞」を受賞しており、私の印象でも、たしかに一貫して優等生的なポワチエのティッブスより、強い印象を与える名演であったと思うし、その意味で、そこに「人種差別」の疑いなど微塵もない、納得の授賞だったと思う。
一方、本作は「作品賞」を受賞したものの、「監督賞」は惜しくも逸している。
しかしながら、この年の賞レースのライバル作品として、今やアメリカン・ニューシネマの傑作として知られる、マイク・ニコルズ監督の『卒業』や、アーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』などの歴史的な作品が集中していたことを思えば、『卒業』のマイク・ニコルズ監督が「監督賞」を受賞したというのも、十分に納得のできる結果なのだ。
言い換えれば、これほどの傑作ぞろいの中から「作品賞」を受賞した本作『夜の大捜査線』は、今でこそ「オーソドックスによく出来た作品」くらいの印象になるのかも知れないが、しかし間違いなく、アメリカ映画の歴史に新たな局面を切り拓いた、必見の名作だとそう言える作品なのである。

(2026年10月3日)
○ ○ ○










コメントを残す