▷ 書評:岩間陽子・開沼博・佐々木俊尚・東畑開人・與那覇潤『常夜の読書会』(潮出版社)
非常に面白い本だった。オススメである。
専門の異なる5人が課題図書を読んだ上で、専門性を超えて闊達な議論をするというのが本書。
5人の選んだ課題図書は、次のとおりだ。
・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
・アリストテレス『弁論術』
・マックス・ウェーバー『仕事としての学問 仕事としての政治』
・ウルリヒ・ベック『世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊』
・A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争するのか』
・井筒俊彦『ロシア的人間―近代ロシア文学史』
・森本あんり『反知性主義 アメリカが産んだ「熱病」の正体』
・高坂正堯『宰相 吉田茂』『平和と危機の構造』
・田中角栄『日本列島改造論』
以上の9冊に関する9回の読書会が、本書に全9章として収められている。
当然のことながら、話題は多岐にわたるのだが、本書に一貫したテーマがあるとすれば、それは、ジャンルを超えた「読書会」という形式に示されているように、すでに失われた「論壇」というものの価値の確認と、その可能性の試みだと言って良いだろう。

ひと昔前は、「論壇誌」というものがあって、そこに名だたる知識人が、「天下国家」を論じる論考を寄せていた。
当然、寄稿者それぞれに「専門」はあったのだが、専門の話だけをするというのではなく、専門の知見を生かすかたちで、広く「天下国家」一般の問題についての議論を展開して「意見する」ものだったと、大筋このようなに評しても良いのではないだろうか。
そして、こうした「論壇的知」を中心にして、世の中の「基本的な考え方(論)」が形成された。
読者それぞれが、「論壇誌」に掲載された様々な視点や様々な意見を取り込み、主体的に取捨選択する中で、読者人たる者は「世の中」について、自分なりの一家言を形成することが出来たのである。
ところが、こうした「論壇」が、やがて「紙メディア」からテレビへと移行する。
本書「読書会」の参加者の一人、佐々木俊尚によれば、そのはしりとなるのが、フリーアナウンサーの久米宏が司会を務めた「ニュースステーション」ではないかとのことだが、そこでは「天下国家」の問題が、軽妙なトークによって語られ、論壇誌を読むような苦労もなく、人々は「天下国家」の問題に、気楽に接することができるようになった。
しかし、その反面、人々は「自分でいろいろ読んで、自分の頭で考える」ということをしなくなりもしたのだ。
要は、問題についての枠組みも、考慮すべき範囲も、すべて前述のような番組が「無理なくわかりやすい範囲」においてパッケージ化して(調理済み食品のようにして)提供してくれるようになった。
つまり、ある問題を考えるのに、どの範囲まで読めば良いのかなどと、自分で判断する必要がなくなった。
ひとまず、そうした報道番組で論じられる範囲のことを知り、そこで語られる意見を、支持するのかしないのか、それを決めるだけで、一家言持つことができるようになったのである。
しかしながら、実のところ、知的に大変なのは、「意見を持つこと」ではなく、「考慮すべき情報の範囲がどこまでなのか」を確定する作業の方なのだ。
それをするためには、10を語るのに、20 、30を読むは当たり前のことであり、一流の人というのは、最低100は読んで10を語った。
つまり、語ったことよりも遥かに広大な知識と見識を備えていたからこそ、「何を聞かれても語れる人」のように見えたのである。
ところが、こうした「目に見えない教養」というものが、メディアの変化によって急激に痩せ細っていった。
効率がよくなり便利になった分、表に出ない教養が非効率的なものとして顧みられなくなっていった。
10語るのに10の知識しか無い人が、10の知識で満足するようになったのだ。
そしてこうした「知の貧困化」傾向は、「論壇誌」から「テレビ論壇」へ、そしてインターネットの普及による「インターネット論壇」へと移行するに従い、さらに痩せ細っていった。
いうまでもなく、インターネットの便利なところは、その検索機能によって、欲しい情報をピンポイントで手に入れることができる点にある。
例えば、昔なら、福沢諭吉が「天は人の上に」なんとかを作らずとかいうような言葉を口にしたはずだが、それは正確にはどういう言葉だったのかと、それを確認しようとした場合、福沢諭吉の主要な本を買うとか、図書館に行くとかして、そこで、それらしい本に目星をつけて、一冊一冊、ページをめくっていくことになる。
そうしたやり方で、目的の文章に辿りつくのに、一体どれくらいの時間と労力が必要かを、一寸考えてみて欲しい。
たったひとつの有名な章句を、出典を明示して正確に引用しようとするだけでも、下手をすると、数日かかってしまうのだ。
本を買えば、それなりの出費にもなるし、交通費だって必要だったのである。
ところが今なら、Googleの検索窓に「福沢諭吉 天は人の上に」とでも入れられるだけの断片的知識さえあれば、その原文と出典が、一瞬のうちに判明するのだ。
これは、昔の不便さを知っている者には、驚くべき便利さだと言えるだろう。
だが、こうした便利さは、人の知性を痩せさせるものでもある。
つまり、ある福沢の有名な一文の出典を調べるために、図書館まで足を運んで、その著書を次々とめくった者は、その一文を正確に知るだけではなく、例えば、福沢諭吉にはどれだけの著書があるのか、他に有名な著書にはどんなものがあるのか、福沢の興味の範囲とはどれほどのものだったのか、福沢が共感したり反発したりした同時代の知識人にはどんな人がいたのかといった「周辺情報」が、いやでも目に入ってくることになるし、そのような苦労の果てに手にした知識は、当然のことながら定着率も高い。
昔の知識人は「一節を誦じてみせる」などということを、当たり前にやって見せたのだ。
ところが、ネット検索に慣れた私たちには、こうした幅のある知識を得る機会が、きわめて少ない。
狙った部分情報だけをピンポイントで手にすることが出来るのだから、その人の知識というのは、言うなれば「島のように孤立した知識の寄せ集め」のようなものになってしまう。
一次的には表に出ない周辺情報があれば、それが、一見関係ないとされた他の情報どうしをつなぐ媒介となることにもなる。
例えば、歴史学者A氏と政治学者B氏のそれぞれについて知っていても、それはバラバラな知識でしかないが、周辺情報として、両者に共通する友人にX氏のいることを知っていれば、A氏とB氏の見えなかった関連性が明らかになって、一見、立場のまったく異なる両氏に、しかしどこかで共鳴し合うような部分があったとすれば、その点を考える場合に、X氏の存在がヒントになったりもする。
バラバラだった(ザルだった)知識がネットワークを形成し、点の集合的な知識ではなく、面の知識を形成することにもなるのである。
だが、ネット社会では、これが端的に困難になった。
今の知識は、組織化されない「点の知識」の濫立状態であり、そうした統合されていない、連絡路を欠いた情報の過剰によって、すれ違いの対立ばかりが生み出されることにもなってしまったのだ。
こうした「知のタコツボ化」を端的に示すのが、ネット用語として知られた「フィルターバブル」や「サイバーカスケイド」というようなことなのだが、前述のとおり、これはなにもインターネット上だけの問題ではなく、私たちの「知のあり方」そのものが、そのように狭く閉じてまとまりを欠いたものになってしまっているのである。
したがって、本書で試みられているのは、「論壇」的に「アナログ的な知の交流の試み」だと言い換えることも出来るだろう。
かつてのそれを、かつてのまま再興するのは困難だとしても、しかし、いずれにしろそれを知らないことには話にならないのだから、ひとまず試行してみるしかない。
ひとまずやってみた上で、その長所を実感として理解し、体得した上で、それを現状に活かすにはどうすればいいのか。
それを考えるための試みが、本書の「読書会」なのだ。
だからこれは、単なる「読書会って楽しいね」という話ではない。
ある本を読んで、その本に書かれていたことを、複数人が鸚鵡のように繰り返すだけでは、そこには何の発展性もないのだ。
例えば、綾辻行人のミステリー小説『十角館の殺人』をテーマとした読書会を開くのに、新本格ミステリ以降のミステリしか読んでいない、同世代のミステリファンばかりが集まって語り合っても、その結果は、面白かったとか面白くなかった、好きだ嫌いだ程度の話にしかならないだろう。
ところが、同じ本を、翻訳ミステリしか読まないミステリマニアやSFマニアや純文学マニアや哲学好きや科学好きなどが参加して読書会をやり、しかもそれぞれが自分の感想や意見を忌憚なく語り合うならば、それはきっと、じつに面白い議論、スリリングな発見に溢れ知的刺激に満ちた議論になるはずだ。
つまり、意義のある「読書会」とは、「タコツボ内での馴れ合い会議」ではなく「越境的な知の交錯」において、初めて生まれ得るものなのだ。
そこでこそ、互いの「無知な部分」が照らし出され、その一方で、それまでは思いもよらなかった化学反応が起こり、そこに新たな「知の空間」が浮かび上がってきたりもする。
そうしたことこそが、いま求められている、知のタコツボ化を乗り越える、ブレイクスルーのための「知的試み」であり、その道具(装置)としての「読書会」なのだ。
したがって、本書を読む場合に肝心なのは、
誰がその専門分野に裏付けられた「面白い話」をするのかではなく、誰がどのようなかたちで「専門分野の超え方」を模索しつつ発言しているのか、そこを読み取ることである。
そうした試みがなされず、ただ、自分の視点から考えたことを口にしているだけでは、ジャンル越境的な「読書会」であることの意味がないからだ。
他の読書会参加者へ影響を与えようとするのではなく、他の参加者からの影響を積極的に受け入れ、自身を拡張し、その相互拡張の中で、お互いを隔てていた空隙の中に、新たな可能性が生じるのを見出そうとする態度。
それこそが重要なのである。
○ ○ ○
そんなわけで、この連続読書会を読む上で、私が注目したのは、かねてから「オープンレター」批判者として、個人的に注目していた、與那覇潤の発言である。
いちおう、「オープンレター」について簡単に説明しておくと、ここで言う「オープンレター」とは、正確には、
・「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」
のことだ。
これは、武蔵大学教授で自称フェミニストの北村紗衣と歴史学者の呉座勇一との間で発生した「ケンカ(論争ではなく、短文での貶し合い)」がきっかけとなり、北村紗衣の側がインターネット上に公開した、呉座に関する「公開告発状」である。
この「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下「オープンレター」と略記)が、今なお懸案となっているのは、これが、単なる「ネット上でのケンカ」の延長線上のものとして、「北村紗衣個人が、呉座勇一個人を告発した批判文書」などではなく、北村が呉座を「女性差別者」であると規定した上で、「女性差別者が学界内にいては、女性研究者は安心して研究に打ち込めない。したがって、こうした人物の存在を、学会は容認すべきではない」と訴え、大学教員や出版関係者など千数百人もの賛同署名を添えて、インターネット上に公開した、公的(社会的)な性格を有する文書だったからである。
だがその結果、その「告発の中身の妥当性」が十分に問われる以前に、その有無を言わせぬ「数の力」によって、呉座勇一は、北村紗衣への「陰口」について2度にわたる「公開謝罪」をしたにもかかわらず、その社会的地位を奪われ、職を失うに至った。
つまり、「オープンレター」は、単なる「意見表明」ではなく、明白に「学界政治的な圧力行使」を目的としたものであり、その結果として、女性差別者認定をした呉座勇一を学会から排除したという、たった一人を狙い撃ちにした、実力行使の「社会運動」だったのだ。
まただからこそ、後には「ネット・バッシング」と呼ばれるようにもなった。
したがって、この「実効性」を意図した運動は、「数の力」による、絵に描いたような「個人攻撃」であり、まさに「言論のテロリズム」であったと言えよう。
千数百人もの賛同署名者がいながら、北村紗衣当人以外、誰一人として呉座勇一を個人的に批判した者はいないのである(いれば、ご教示願いたい)。賛同署名者は、あくまでも「頭数」でしかなかった。
つまり、そこでは「数の力」が主であり、「言論」は、二の次ですらなかったのだ。
だからこそ、この「オープンレター」は、今や「日本におけるキャンセルカルチャーの象徴」とまで言われるようになり、今だ未総括のゆえに、批判の的ともなっているのである。
だが、さらに問題なのは、こうした批判に対して、北村紗衣をはじめとした「オープンレター」主唱者(発起人)たち(オープンレターズ)は、オープンレターへの「批判言論」に対して応答をせず、もっぱら無視黙殺を決め込んでいる点だ。
またそればかりか、「オープンレター」そのものを消去隠滅したに止まらず、関連するTwitter(現「X」)ログなども次々と削除して、歴史的検証を回避するための「証拠隠滅」まで図ったのだから、もはや何をか言わんやであろう。
北村紗衣ら「オープンレター」の主唱者の大半は、東京大学教授などの大学教員であり、いわゆる「学者(研究者)」である。
にもかかわらず、事の一次資料を保存するどころか、まるで終戦時における軍部の組織的な証拠隠滅としての記録資料の焼却にも等しいことを、彼(女)らは抜けぬけと実行して見せたのである。
だからこそ、「オープンレター関係者は、自らの行いについて、事実関係を明らかにして総括せよ」という批判が、いまだに続いているのだ。
彼(女)らが、批判され続けているのは、反論反省しないからではなく、事実そのものを無かったことにしようとする、その学者らしからぬ卑怯なふるまいに対して、倫理的な批判が浴びせられ続けている、ということなのだ。
次に、與那覇潤に関して言えば、私はまだ詳細は知らないものの、呉座勇一と共著もある元歴史学者として、オープンレターのやり方に対して與那覇が注文をつけたところ、北村紗衣からの「事実に基づかない批判」を受けた(難癖をつけられた)ため、これがネット上での公開論争となり、その結果、與那覇が北村紗衣の「事実無根の言いがかり」を論証することで、北村紗衣を論破するということがあった。
そうした経緯から與那覇は、問題を北村紗衣一人に限定するのではなく、現在の学者たちの体質そのものを問題にする論陣を張り始めたと、そんな経緯のようだ。
そしてそんな折、「オープンレター」をめぐるあれこれの経緯をまったく知らなかった一介の趣味人であった私が、たまたまネット上で読んだ北村紗衣の「映画論」をクズだとSNS上で評したところ、その映画論以外は何も知らなかった北村紗衣本人が、いきなり、私がそのコメントを書き込んだ須藤にわか氏の「note」記事について、運営に「削除要請をした」とコメントしてきた。


(私が『北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)』と書いたのを、故意に「器物損壊予告」だと曲解して、管理者通報した北村紗衣・武蔵大教授。「切り刻む」というのが「批評的に完膚なきまでに批判する」という意味だと理解できない、シェイクスピア研究者の英文学教授など、まさか存在すまい)
そこで私がこれに反論したところ、北村紗衣は、私の反論に対して返答をよこすことなく無視黙殺し、さらには私がそうした経緯を紹介して批判した「note」記事まで、管理者通報により一方的に削除させたため、私はそれ以降、丸2年を経過した現在もなお、北村紗衣批判を中心とした「オープンレター」批判を継続しているのである。
つまり、與那覇潤は、「オープンレター」批判の先駆者にして、私にとってはその先輩ということになるので、私はその文章をいろいろと参考にさせてもらったと、そんな関係なのだ。
で、そんな私と與那覇の関係として面白いのは、北村紗衣やその他のオープンレターズといった共通の敵を持っているとは言え、私の視点から至極大雑把に言うなら、私が「左翼リベラル」なのに対して、與那覇は「保守(右)寄りの中道」という、立ち位置の違いがある点だ。
一方、私や與那覇に批判されている、北村紗衣をはじめとしたオープンレターズは、世間的には、弱者にために働く「左翼リベラル」ということになっているから、本来ならば、私の立場というのは、與那覇よりは、はるかに北村紗衣らオープンレターズに近いはずなのだが、実際には、そうはならなかった。
では、なぜそんな私が、北村紗衣らオープンレターズを批判するのかと言えば、それは私の批判のポイントとは、「政治的な立場」にはなく、「言論におけるその姿勢」にあったからである。
つまり、まず私は「党派的言論」というものが大嫌いだし、そもそも「徒党」というものが大嫌いなのだ。
「数の力」で威張るような手合いは、思想の左右に問わず、すべて「偽物」だと考えている。
そもそも「思想」や「言論」というものは、基本的には「個人」のものであって、「集団」や「組織」や「グループ」のものではない。
また、そうであるにもかかわらず、そういうものになった途端、「思想」や「言論」は腐敗堕落し始めるというのが、歴史に学んだ私の人間認識なのである。
だから、北村紗衣やオープンレターズは、そうした点からしてすでに論外であり、その公式見解としての「思想」や「言論」は、その中身を問うに値しない空疎なものでしかない。
要は、泥棒が「人のものを盗んではいけません」などという正論を語っても、そんな言葉など考慮や評価には値せず、ただ「どの口が言うのか」と批判することにしかならないのと、まったく同じことなのである。
したがって、北村紗衣やオープンレターズの「反差別」的なフェミニズム言説とは、差別者による反差別言説でしかないのだから、本物の反差別者である私が、北村紗衣ら「エセ反差別者」を批判することになるのも理の当然。
したがって、外見上の「左翼リベラルが左翼リベラルを批判している」というのは、しかし中身的には、矛盾でも何でもないのである。
まただからこそ、政治的な立場は多少違っていても、私と與那覇の間には「会話」が成り立つはずなのだ。
違いは違いとして認め、その違いについて忌憚なく意見をぶつけ合うとしても、それは「言論」というルールに則った上でのフェアプレイであり、言うなればボクシングの試合のようなものである。
北村紗衣らオープンレターズのやっている「反差別」を装った「八百長試合」とは、話が違う。
だからこそ、政治的立場が違っても、私と与那覇は、共に北村紗衣らを断固として批判することにもなるし、その必要性の認識を共有できもするのである。
○ ○ ○
そんなわけで、やっと本書『常夜の読書会』についてだが、すでに書いたとおり、本書で扱う本のジャンルは多岐にわたるものの、中心的なテーマは「知のタコツボ化の乗り越え」ということになろう。
そうした点で、注目されるのが、與那覇潤がこの座談会で繰り返し訴えている「違った意見に耳を傾けることの重要性」ということである。
(01)
『與那覇 (※ 結局のところ大切なのは)自説に不都合な事実こそ、率先して拾い、提示する(※ 誤魔化さず正々堂々と議論する態度という)のが品位ということにはなりませんか。「違う意見にこそ、耳を傾ける」という姿勢の応用としては。
岩間 そんな品位の人が果たしているのか(笑)。法律の授業とかでも、自分に都合のいい判例ばかりを並べたりしていますものね。』(P97・なお(※)は、引用者補足)
岩間陽子はここで「そんな人などいない」と言わんばかりだが、肝心なのは「自分はどうなのか?」ということだ。
このような茶々を入れるのは、実のところ「今の自分もそれをやれてはいない」と認めるに等しいのだが、それならば他人(手前味噌な判例を並べるだけの法律学者など)をあげつらって嗤う資格など岩間には無いということになるのだから、岩間自身がそれをしっかりと自覚すべきなのだ。
そうでなければ、岩間の「国際政治学者」としての信用にもかかわるからである。
「それで、あなたの情報は偏向してないんですか?」と。
無論、このように語る岩間には、その自覚は足りない。つまり、自分に甘い。
しかし、その自覚の無さを自覚することこそが、「他者との対話」のための、つまり自己完結しないための第一歩だということを、岩間はこの読書会の中で、徐々にでも学んでいくのである。
つまり、読書会の意味であり効能とは、まさにそうした「感化力」にこそあるのだ。
論破することにあるのではない、ということである。
(02)
『與那覇 (略)いまSNSなどのメディアサウス(※ メディアの第三世界・発展途上圏)には、「真の正義は、私刑でしか実現しない!」(※ 議論などの民主主義的に適正な手続きなど踏んでいられない)と考える人ほど(※ SNSなどに)集まってはいませんか。巨大な悪が法や制度をすべて自分に有利に作り、マスコミも飼いならしている(※ と半ば陰謀論的に過激化し)。そいつらを倒す手段は、過激なバッシングをぶつけて退場に追い込む「キャンセルカルチャー」しかないんだ、みたいな(※ 考え方をする人が)。』(P118)
しばしば「ひろゆき(西村博之)的な論破」術が、真っ当な議論ではないと否定的に論われるが、しかし、こうした「論破」よりもさらに、そしてはるかに悪質なのが、「問答無用の暴力」であり、「キャンセルカルチャー」というものだ。
「キャンセルカルチャー」は「言論文化」ではないということを、私たちはまず正しく認識しておく必要がある。
「キャンセルカルチャー」を振り回す「左翼リベラル」とは、実のところ「極左リベラル」でしかなく、「ひろゆき的な論破術」ですら「言論」の内であることを思えば、「キャンセルカルチャー」の暴力主義より、はるかにマシだという事実を見誤ってはならない。
「ひろゆき的な論破術」を論破することは可能であっても、開き直った「むき出しの暴力(テロリズム)」を論破することなど、決して出来ないからである。
(03)
『與那覇 なるほど。学問や教養を身につける前に、そもそも「世の中には排除できず、つきあい続けないといけない他者がいる」という自覚を作るのが文化の役割だと(※ いうことですよね)。
通常は家族と暮らすことが、(※ 否定し得ない他者というものの存在を学ぶ)その第一歩になります。(※ お互いに違った存在であるという事実を認め合うということです。)ただフロイトへの批判者(※ であるフェミニスト)の目には、それは家父長的な権威を受け入れよ(※ 男に合わせろ)という(※ 男性優位主義的に)押しつけがましい(※ 女性蔑視的な)発想にも映る。』(P140)
「世の中には排除不可能であり、否応なくつきあい続けないといけない、他者という現実が存在する」という当たり前の事実を、「理想主義」は、しばしば否定否認しがちである。
だが、そうした観念的な「理想主義」は、その当人自身が、ウンコも垂れればセックスもする、そんな認め難い「他者性」を帯びた肉体を持つ存在であることを忘れた時にのみ生じる、思い上がりによるものだ。
元来、理想主義とは「私は理想どおりには生きられない」と思い知った後に(大人になった後に)、「それでも」と求められるべき、切ない願いであり希望でなければならない。
(04)
『與那覇 そのSNSも含めて最近は、「文化で人を啓蒙する」というフロイト的な構想そのものが放棄され始めてはいませんか。AI等の技術でプラットフォームを管理し、異論の持ち主とは〝住み分ける〟快適さを享受すればOKで、いちいち他のユーザー(※ 他者)とは対話しない(※ ノーディベート)。「技術には楽観的に、人間には悲観的に」接する態度が蔓延しています。』(P144)
フロイトの「構想」もまた「理想」の一種である。
だから、それそのものが実現することはなくても、それは目指されるべき「方向性」であり、社会の「道標」と考えるべきなのだ。
柄谷行人が、カントに学んで言うところの「統整的理念」も、同じことなのである。
(05)
『與那覇 コロナ禍での「感染者をゼロにしよう」が典型でしたが、時として科学は「善悪」をはっきり二分し、オール善でオール悪を叩けという(※ 単純な)発想に転じがちです。(※ しかし)文学(※ というもの)は逆に、あらゆる人の中に「悪」は残り続け、それに向き合い飼いならすことで、かろうじて我々は「善」であり得ると(※ そう、リアルに)考える。
科学者の最高峰に立つアインシュタインとの対話でも、フロイトは善と悪とを文学的に(※ リアルに)捉えて、戦争の悪を(※ 消去するというのではなく)抑える(※ という現実的な)道を模索しました。
開沼 「悪」を飼いならさずしらみつぶしに消していく心性は近年のポジティブ心理学やウェルビーイングをめぐる議論の盛り上がりにも通じるものを感じます。社会の複雑性が極度に高まったなかで、(※ その反動として)それを単純化する(※ という安易な)議論を多くの人は求めている。(以下略)』(P148)
自分の中に「悪」を見ることのできない者、その恐るべき力の存在に気づけない者こそが、その「悪」に呑み込まれた者なのだ。
「悪」に呑み込まれてしまった目で「悪」を見ても、それは「悪」には見えず、「当たり前」であり「当然のこと」であり、時に「理想的なこと」に見えさえするだろう。
「ユダヤ人のいない世界とは、なんと望ましくも美しいものであろうか」一一悪魔の目を持てば、世界はどこまでも「浄化されるべきもの」して映るのだ。
自分の「糞袋」としての肉体だけは、視野に入らないまま。
(06)
『與那覇 本書(※ 森本あんり著『反知性主義』)で印象に残った言葉に、「迫害コンプレックス」があります(一〇頁)。いわばアンチに叩かれれば叩かれるほど、「自分たちは〝正しい〟からこそ迫害される」と思い込む心理。宗教者には普遍的に見られるもので、逆にいうと無信仰な日本人には一見、緑が薄い。
(※ ところが、)気になるのは、反知性主義の概念を誤用する学者たちです。絶対悪たる「反知性」がネットやSNSにはびこり、「正しい知性」である大学教授(※ である自分たち)を攻撃していると固くじているので、(※ それが)妥当な批判であっても向きあう気持ちを起こさない。そうした「自覚なき迫害コンプレックス」をどう解除していけるかが、日本の言論空間の課題ではないでしょうか。』(P204)
森本あんりの『反知性主義』で紹介されているとおり、アメリカ発祥の「反知性主義」という言葉は、本来なら「反知識人主義」とでも訳されるべきものだ。
つまり、「知識人的な傲慢に対する、庶民の反発」をそう呼んだものなのである。
だが、ここで考えなければならないのは、「知識人」と呼ばれる人たちが、真に「知恵」や「理解力」を備えた存在であったならば、庶民に尊敬されこそすれ、不用意に反発を招くことなどなかったはずだ、という事実である。
つまり、不用意に庶民からの反発を招くような「知識人」とは、じつのところ、物が見えていないだけの「思い上がった二流の(勘違い)知識人」でしかないのであり、私流に言えば「エセ知識人」にすぎない。
「私たちは正しいことを言っているだけなのに、どうして理解されず、攻撃されなければならないのか」などと「迫害コンプレックス=被害者意識」をつのらせる前に、そうなる理由を洞察する知恵を持っていれば、被害者意識をつのらせることなどない。また、そうであってこその「知識人」なのだ。
なぜなら、そうした迫害は、何に由来するものであれ、それはそれで、ある種の道理にかなったものだからである。
例えば、私がしばしば「大衆は豚」だと言う時、それを言うことで反発されても、それを不思議だとも、ましてや不服だとも思わない。
なぜなら、そうなるのが当然だと、承知の上でやっているからだ。
だからこそ、そうした反発に被害者意識をつのらせることなどないどころか、それに答えて「悔しかったら賢くなって見せろ」と、そうも言えるのである。
つまり、「なぜ私は批判されるの?」と、本気で思っている「知識人」は、基本的に頭が悪いのだ。
(07)
『與那覇 いまは討論番組で(※ 昔の知識人のように、自身の見解を)言ったら(※ 披瀝したら)、「そういうデータあるんですか?」とツッコミが来るやつですね(苦笑)。
東畑 (※ 知識・データの話ではなく)知恵の世界の話なんですよ。(※ それがわかっていない。)
岩間 そう。知恵なんだけど、それを学者がやってしまっていいのか。その点について與那覇さんはどうお考えになりますか。
與那覇 高坂(※ 正堯)が吉田茂論で行った〝評価〟の部分にせよ、歴史学(※ の学界)では学術論文として認められない性格があります。それはファクト(史実)ではなく、あなたのオピニオン(意見)でしょ、学術雑誌は論壇誌とは違うんです、と言われてしまうので。
しかし歴史上の人物に評価も下せないなら、一般の読者には「過去を振り返る意味がそもそもありますか?」と思われてしまう。結果として歴史から知恵を得られなくなるのなら(※ 何のための研究かということにもなりますから。だとすれば)、それは(※ そもそも)学問のフォーマットの方がおかしいのではと、最近は思っています。』(P223〜224)
学問が「まず客観的たらん」とするのは、当たり前の大前提である。
けれども、その判断や理解が「客観的」であるか否かを判断するのは、個人の「主観」でしかないということを忘れてはならない。
機械ではない人間には、「主観なしの判断」など、原理的に不可能なのだ。
その学者の判断は、その人個人の生育歴の影響を排除できないものだし、その時の体調ですら変わるものだということくらいは考慮できるのが、謙虚に「客観的」だということなのである。
つまり、「私は完全には客観的ではあり得ない」とそう考える人こそが、自身や人間に対して「客観的な人」なのだ。
言い換えれば、「学者だから客観的たり得る」と考える学者は、自己満足的に「主観的」でしかないのである。
(08)
『與那覇 司馬遼太郎との対談で、フランス文学者の桑原武夫が「ヒストリカル・リサーチャー」(※ 歴史を調べる人)と「ヒストリアン」(※ 歴史を構築する人)は本来異なるという話をしています。前者は、史料を収集して史実を解明する人。後者は、それを印象的な物語で描写できる人。歴史学者と歴史家の違いだとも述べています。
司馬こそがヒストリアンだという敬意も込めて、桑原は、日本人が両者を混同する傾向を批判している。そうした分業を認めて互いにリスペクトを持つことが大切だと、僕も思います。』(P225〜226)
歴史学における「歴史的事実の探究」とは、「永遠のルーチンワーク」である。
だが、人が歴史を学ぶのは、今を生きるための参照軸として、それに学ぶための必要なのであって、決して「正解」にはたどり着けない「夢」を、自慰的に楽しむためのものではない。
「歴史的事実の死蔵的な蒐集(コレクション)」などであってはならないのだ。
だから、「今わかる範囲」において、私たちはその「いつでも不完全でしかあり得ない歴史的知識」から、可能なかぎり適切な「知恵」を汲み出さなくてはならない。
そうでなければ「歴史研究」は、無駄になってしまうからだ。
「歴史研究」を「研究のための研究」に止めおこうとする純血主義もまた、自分たちの「糞袋」としての身体性(の限界)から、目を逸らそうとする、悪しき「天使主義(内臓を持たない身体幻想)」だと言えるだろう。
(09)
『與那覇 例えば高坂の歴史語りの場合、アナロジー(類比)をうまく使いますよね。ソ連が崩壊した後はどうなるのか、大英帝国の解体から考えよう(※ ソ連の崩壊≒大英帝国の崩壊)、みたいな。
そうした魅力を(※ 「≒は許されない。=でなければならない」と、そう)切り捨てたのが目下の歴史学で、だから(※ 役立たずとして)没落したのだと思います。彼らは、似ていることを「実証する史料はない」とか言い出すんですよ(笑)。ほんとうは、似ていると感じたところ〝から〟なにを考えるかが大事なのに(※ 例えば「どこが似ていて、どこが違うのか」という検討を始める、というような)。』(P236)
つまり、アナロジー的な思考を「非論理的」だと考えることこそが、人間知性の現実を顧みない、「非論理的」態度なのである。
なぜならば、人間の思想とは、アナロジー的思考をこそベースにしており、論理的思考とは、その「制約的利用(抽象化による道具化)」でしかないからだ。
つまり、アナロジー的思考とは、それが無制限では思考は不可能(統合失調的)であり、また、それ無しでも思考は不可能(思考停止)なのだ。
だから、大切なのは、それを適度に使用するバランス感覚なのである。
そして、このアナロジー思考という(類推越境思考の)ベースがあればこそ、人は学問ジャンルを超えて対話できるし、他者と対話することもできる。
他人が何を考えているのか、その内面そのものはついに知り得ないのだけれども、アナロジーとして「だいたいこのようなことを考えているのだろう」と、アナロジカルに直観できるからこそ、すべてのコミュニケーションは成り立つのだ。
人間という種の個体間類似性においては、学問ジャンルの違いなど、じつのところ小さな差異(個性)でしかないはずなのである。
だから、あとはその小さな差異(個性)を保持した上で、それからどれだけ自由になれるのか、その膂力の勝負となるのである。
(10)
『東畑 (※ 今は、他者の意見に耳を傾けようとする人間的な度量が、きわめて狭くなっているの)だとすると、果たして自分たちは何(※ を基準)に(※ 他者の意見に)耳を傾けるべきなのだろうか。どう思いますか。
與那覇 そこはアリストテレスが慧眼だったというか、やはり人格的な一貫性だと思うのです。例えば陰謀論や陰謀史観にしても、その人なりに「本気で」信じている(※ が故の一貫性があるの)なら、ぼくはちょっと憎めないんですよ(※ この人は悪気があってやっているのではないと)。逆にマーケティング的に「嘘だけど、言えばウケるから」でやっている人(※ 自覚的な嘘つき)は、相手にする意味がない。本人(※ の内部で)すら一貫していない(※ いい加減な意見)のだから。』(P59)
そうだ。「本気」の人ならば、議論を恐れないし、誤魔化しもせず、正面からぶつかり会える。そこでの勝敗を認めることだってできるはずだ。
だからこそ、「理性」の本当の敵とは、「不誠実」なのである。
そして、北村紗衣らオープンレターズの問題点とは、彼女らがフェミニズムを本気で信奉してはおらず、出世の道具(方便)としか考えていない点にある。
だからこそ、言論人でありながら、「多数派工作」などの政治活動には労を惜しまないのに、議論や論争は避けるのだ。
フェミニズムが正しいとも、自分自身が正しいとも信じてはおらず、ただ「どう立ち回れば、得か」としか考えていないのである。
(11)
『與那覇 ニーチェをはじめ、〝純粋に客観的な正しさ〟なんて存在せず、すべての学問は政治的な陣取り合戦の道具である(※ 共通の土台なんてない)といった感覚は、ざっくり言えば「ポストモダニズム」(※ 的なニヒリズム)ですよね。歴史学者が純真な探究心からある〝史実〟を発掘しても、それ自体が歴史論争で特定の国を有利にする〝政治性〟を帯びていた、みたいなことはよくあります。
(※ マックス・)ウェーバーはそれ(※ 学問から政治性を完全に消去することはできないという事実)を認めつつ、ただし「(※ 学問と政治に)一線を引け」と言っているのではないでしょうか。「預言者とデマゴーグ(※ のような政治屋)は教室の教壇にはふさわしくない」と(※ 『仕事としての学問』に)あるように(六二頁)、どんな学問も政治性を帯びるのだが、それを〝目的〟にする人は「最初から、街の政治集会で演説していろ。学者のふりをするな!」と思っていた気がします。(※ 学問に)剣を求める人の存在は否定しないけど、(※ 学者が)「これは鍬だよ」と言って(※ 政治的な意図から、騙して)学生に剣を渡すのはダメだと。』(P82)
端的に言って、今の日本のフェミニズムは、「学問」ではなく「イデオロギー」でしかない。
女性の権利拡張のための「道具的な政治思想」であって、「現実を見るためのもの」「目から鱗を外すためのもの」ではなく、「弱い目を保護するための色眼鏡」であると言ってもいい。
ただ、その「イデオロギー」を補強するために、一部「学問」的手法が取り入れられているだけで、「事実」そのものを求めているのではないのだ。都合の良い事実だけを求めているだけなのである。
だから、頑ななのだ。
例えて言うなら、それは「(女性という)神の存在」を正当化するための「神学(教学)」なのだ。「護教的な保守神学」なのである。
(12)
『與那覇 知識があっても、品位がなければ学者ではない。学者が使うSNSの標語にしてほしいな(笑)。』(P86)



品位のない人間が、なぜフェミニストであり得るのか?
それは、「一部のおかしなフェミニスト」を切り離したところに「本物のフェミニズム」があるかのように言って自己正当化しながら、決してその「一部のおかしなフェミニスト」を名指しで批判しようとはしない、そんな自らを「正統派のフェミニスト」だと自認しているフェミニストもまた、似非フェミニストそのものだからである。
「あいつらとは違う」と言って差異化を図ろうとしているだけの、「トカゲの尻尾切り」しかしない、トカゲそのものだからである。
日本のフェミニズム界にあって、正面切った論戦が存在しないのは、彼(女)らが、学者でもなければ思想家でもない、政治屋だからである。
多くの場合、フェミニズムは「イデオロギー」であって「学問」ではないからこそ、筋を通すことよりも、党派的な損得を優先する。
だからこそ、論争などという「子供じみたことは出来ない」などと、そう算盤を弾くのだ。
(13)
『興那覇 「品位」の対義語を、仮に「殲滅」と考えると分かりやすいかもしれません。対立者ともつきあい続ける作法が品位なら、違う意見は世の中から抹消していいとする発想が殲滅。究極の恣意放埒であり、下品さとも言えます。』(P87)
なぜ「殲滅」しなければならないのか?
簡単なことだ。「折伏できない=説得するだけ正当なロジックを持っていない」と、そう思っているからである。
説き伏せる自信があれば「逃げるな。皆の前で堂々と議論をして、白黒をつけようではないか」と、まずはそう言うはずなのである。
(14)
『與那覇 品位の問題でいま気になるのが、ウクライナ戦争をめぐる言論の状況です。国境線を越えて侵略した以上、プーチンは「悪」であるとは(※ 議論の大前提として)言える。ところがそうして正邪が一義的に(※ わかりやすく)語られ始めるや、「善」の側にほど、むしろ品位のない人が大挙して寄ってゆく現状があるように思います。つまりは、(※ わかりやすい)悪を(※ わかりやすい正義の立場に立って)殲滅したい。
そうした人は実際にはウクライナにも戦争にも興味がなく、単に「こっちに全振りすればいいんだよ(※ 得だ)」という選択肢を求めている。〝勝ち馬〟に乗りたいだけなんですよね。だから(※ 予想に反して)勝てなさそうだとなると(※ 途端に)、「善」だろうがすぐ見捨てて手のひらを返す。』(P88)
オープンレターズは、流行の尻馬に乗ってフェミニズムを奉じ、流行に乗ってキャンセルカルチャーを振り回し、それが流行らないとなると、そこからとっとと逃げ出して、自分の過去に頬かむりをした。
彼(女)らからはすでに、自らの言動の一貫性の無さについて、「恥」の意識が失われているのだ。
当然、「公正(フェア)」たらんとする意識など、蒸発しきっていて、どこにもない。
(15)
『與那覇 〝問題の切り分け〟をせずに、むしろ敵と味方を分けることを優先してしまう人ほど、自ずと品位もなくすということですね。』(P89)
彼(女)らに失われているのは、「恥」「品位」「プライド」と言った、いずれも「精神的なもの」である。
彼(女)らが、敵と味方を切り分ける時、そこに存在しているのは、「精神の抜け殻たる肉体」だけである。
当然、その切り分け方の基準は、「正邪善悪」ではなく、己が「損得」ということになる。
私の心の師である大西巨人は、
『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪(※ 道理)」にかかわるのか、それとも「もと(※ 政治的な力の)強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』
(大西巨人「運命の賭け」より)
と書いたが、その対極にあるのが、大西の批判する「俗情との結託(俗ウケ)」ばかりを図る、北村紗衣を始めとした、オープンレターズのフェミニストと面々だと言えるだろう。
(16)
『東畑 (※ マックス・)ウェーバーは「都合の悪い事実を認めることを自分の弟子に教える」(六四頁)ことが、教員の一番の課題だと言っていますよね。僕はここを読んで、ウェーバーのもとで勉強したいなと思いました(笑)。現実にはそれこそが難しいことです。』(P96)
繰り返すが、品位のない北村紗衣は、武蔵大学の教授であり、オープンレターズの面々は、東京大学や専修大学などの教授である。
私なら、こんな「都合の悪いことには頬かむりをするような教師」などに学びたいとは思わない。
(17)
『東畑 開沼さんに伺いたいんですが、いまの大学は知性を担えていると思いますか。
開沼 人々が新聞や本を読まなくなって、それらが学問を大衆に落としていくツールにならなくなりましたよね。代わりにSNSなんかで極端なことを言う大学教員なんかが悪目立ちをしてしまっていて、残念ながら「知性を担っている」とは言えないし、誰もそう思っていない。』(P199)
たしかに誰も、そう思っていないだろう。
だが、ならばそれを正すべく、必要な批判をなすべきであろう。
「自分はそうではない。自分だけは正しい」などと、北村紗衣ですらしていることだけをして、それで済ませているべきではない。
(18)
『開沼 今は国際政治の先生方をはじめとした社会科学の人たちがロシア情勢を分析していますが、井筒(※ 俊彦)がこの本(※ 『ロシア的人間』)を書いた頃は、人文学の人たちも割に(※ バランスのとれた)まともな分析をしていたわけですよね。その点はとても新鮮でした。(※ 昔とは違って)現代の日本では、人文学の人々がポリコレ的というか、(※ セクト主義的に凝り固まった視野狭窄で)いい加減なことを言ってしまっているところがクローズアップされがちですから(※ 尚更です)ね。ただ、やっぱり数字やエビデンスで示すことができない部分を、人文学の領域で分析していくことには(※ 人文学独自の)価値がある。この本からは、そのことを思い出させてもらいました。』(P181〜182)
近年の日本では「人文学など必要ない」という極端な言説が一部で盛り上がっていたが、しかし、それは所詮、人文学を知らない者(無知な門外漢)の言うことである。
たしかに、人文系の学者だといっても、北村紗衣やオープンレターズなどだけを見ていれば、そう言いたくもなるだろう。
だが、そのジャンルの最も程度の低いところだけを見て、そこをして、そのジャンル全体を代表させるというのは、明らかに不当である。
例えば、猟奇殺人鬼の日本人をして、日本人を代表させ、「だから日本人は」などというのは、頭の悪い偏見でしかないのと、まったく同じことなのだ。
だから私は、仮に日本のフェミニストの9割が「北村紗衣レベル」であったとしても、それでも、残りの1割のフェミニストのために、北村紗衣を「似非フェミニスト」と呼んでいるのである。
どんなジャンルだって、「本物」の方が圧倒的に少ないというのは、当然のことだからである。
(19)
『東畑 ともあれ、本書(※ 森本あんり著『反知性主義』)のロジックに従うのであれば、アンチとされる人々のことを、単なる(※ 知性を欠いた)アンチだからと無視するのではなく、彼らのツッコミをきちんと受け止める必要がある。真の知性は、アンチがコメントしてきたときに、それにも理がある可能性を検討するのではないかと思うんですよね。なかなか難しいんですけどね。実際に自分はできなかったりする。
とはいえ、相手が言うことにも一理あるかもしれないと、むしろ自分のほうを見直す(※ 自省する)。そんなところから、健全な知性を立ち上げていくしかないのだと思います。』(P202)
だから、「議論をしよう」と言うのだ。
時に喧嘩になっても、それに懲りずに、また頭を冷やしてから議論をする。徹底的に議論をする。
そうした苦闘の先にしか「品格ある民主的な人間社会」など、築きようもないのである。
(2026年9月13日)
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