▷ 映画評:舛田利雄監督『上を向いて歩こう』(1962年)
坂本九の歌う「上を向いて歩こう」が、「SUKIYAKI」というタイトルでアメリカでも大ヒットし、全米ビルボードで3週連続の第1位になったというのは、私の世代ではあまりにも有名な話である。

この曲のリリース自体は1961年10月で、その大ヒットを受けて、翌年に作られたのが、本作映画版『上を向いて歩こう』であり、全米ビルボード第1位はその翌年の1963年ということになる。ちなみに、全米ビルボードランキングでは、年間第10位にもランクインしている。

このことを、今の若い人たちがどのように感じるのかはよくわからないが、いずれにしろ、日本の楽曲がアメリカでこれほどヒットすることは、今でも滅多にないはずだ。
近年では、もっぱらKPOPが幅をきかせていることを思うと、いささか淋しいところではある。
もっとも、私は音楽のことはまったく知らないから、上のような認識にも大きな間違いがあるかもしれない。
だが、本作映画版『上を向いて歩こう』と同じ1962年生まれの私でさえ、物心がついた頃にはすでに耳慣れていた「上を向いて歩こう」が、アメリカでは「SUKIYAKI」というタイトルでヒットしたと聞かされたときには「なんだよ、そのタイトルは?」と思ったのだから、当然今の人にはまったく意味不明であろう。
もしかすると、この「SUKIYAKI」というタイトルが、あの「すき焼き」のことだと、気づきさえしないのかも知れない。
戦後しばらく、アメリカ人が知っている日本語といえば「スキヤキ、ハラキリ、フジヤマゲイシャ」などと言われていたらしいから、おそらく、無難な日本語タイトルの直訳タイトルではなく、とにかく、日本の曲としてアメリカ人の目を惹けるように「SUKIYAKI」としたのではないだろうか。
「Let’s walk facing up」というタイトルだったら、どこまでヒットしたのか、すこし気になるところではある。
さて、私個人の趣味から言えば、私が子供の頃にはまだ活躍していた坂本九の曲としては、「上を向いて歩こう」よりも「見上げてごらん夜の星を」の方が好きだった。
明るい印象の前者より、哀調を帯びた後者の方が、私の好みに合っていたからだろう。
もっとも、歌詞を見れば、「上を向いて歩こう」も「見上げてごらん夜の星を」も、「幸せ」という希望が、空の上(彼方)にあると歌っている点では同じで、この「地上」が苦しいものだという認識では一貫している。
その意味で、決して夢のような甘いことを歌った歌詞ではなく、どちらも「苦しい現実だからこそ、上を見、夜空の星を見上げて、涙を人に見せないようにして、頑張ろう」という、戦後復興に賭ける日本人への応援歌だったと言えるのだろう。
決して、現実逃避の曲ではなかったのである。
なお、作詞は、どちらも永六輔であり、作曲は、「上を向いて歩こう」が中村八大、「見上げてごらん夜の星を」の方は、いずみたくであり、後者は当初ミュージカルの劇中主題歌として作られたものを、坂本九が 1963年にカバーをして大ヒットさせたものであり、私たちの世代は、もっぱら坂本九の曲として知っている。
そして、私が子供の頃、永六輔というと、何をしている人かはよくわからないけれど、なにかでとても有名な人であり、時々テレビで見かけ、「咳・声・喉に、浅田飴」のTVコマーシャルのおじさん、というイメージだった。

また、子供の頃は、歌謡曲といえば、歌手のものであって、作曲家のことまでは考えなかったから、中村八大のことは、まったく知らなかった。
私が初めて、歌謡曲の作曲家を意識したのは、たぶん大ヒットしたTVドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年)で主演した、寺内貫太郎役の太ったおじさん(小林亜星)が、じつは俳優ではなく人気作曲家だと知ったときだと思う。
あとは、こちらも大ヒット曲「カナダからの手紙」(1978年)を歌っていた、平尾昌晃・畑中葉子コンビの平尾昌晃が、じつは歌手ではなく、こちらも人気作曲家だと知った時だったと思う。
それくらい、子供の頃は、作曲家という存在を意識しなかったということである。
で、坂本九はいうと、前記の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」の他に「明日があるさ」や「幸せなら手を叩こう」などの軽妙な曲で、子供にも馴染みがあったのだが、それは歌手・坂本九が好きというよりは、曲に馴染みがあったという感じではあったと思う。
だから、私が坂本九その人のことをハッキリと意識したのは、NHKの連続人形劇『新八犬伝』(1973〜75年)で、坂本九が主題歌とエンディングテーマを歌うとともに、人形浄瑠璃の黒子の扮装をして、同作の「弁士」としてナレーションを担当した時だった。
坂本九は、歌手には止まらず、若い頃から映画で主演したりもしていた人だから、ナレーションもできるし、弁士としての「名調子」も見事にこなしていたのだ。

だが、それだけではない。
私が本作を、特に印象深く思い今も忘れないのは、坂本九の歌うエンディング曲「夕焼け空」(作詞:石川透、作曲:藤井凡太)の哀調を帯びた歌詞に強く惹きつけられたからであり、それがのちの、坂本九の不慮の事故死とも重なったからである。
あの明るいイメージだった坂本九が、航空機事故でいきなり死んでしまうなどというのは、子供の私にとっては、想像を絶したことだったのだ。
夕焼けの空を 君は見てるか
小さなまぶたに 涙をためて
独りぼっちじゃないんだ
まだ知らないだけなんだ
胸をわり 心ひらいて
語り合い信じ合う友はきっと
どこかでどこかで まっている
夕焼けの空は 君たちの血の色
愛し合い たすけ合う
誓いの赤
遠いあの道を 君は見てるか
誰にも知られず 咲いてる花を
独りぼっちじゃないんだ
まだ知らないだけなんだ
陽は翳り 嵐吹くとも
限りなき真心の友はきっと
どこかでどこかで まっている
遠いあの道は 君たちの行く道
どこまでも どこまでも
はるかな夢
○ ○ ○
そんなわけで、私にとって、坂本九という人は、親近感がありながら、どこか片づかない人だった。
だから、先日、名曲「上を向いて歩こう」をテーマにした新作映画『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』が作られているというネットニュースを見て、いささか感慨深いものがあったのである。
・ 岡田准一×松坂桃李×仲野太賀が伝説の“689トリオ”に 名曲の誕生秘話を映画化『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』公開日決定

前記のとおり、岡田准一の演じる中村八大のことはよく知らないし、顔も浮かんでこないのだが、永六輔の顔はよく知っているから、それを二枚目(イケメン)俳優である松坂桃李が演じると聞いて驚き、また公開された写真で、松坂がそれなりに「顔の長い永六輔」に寄せて来ているのには感心した。
また、NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目の俳優・仲野太賀が坂本九を演じている写真を見て「まあ、こんな感じかな」くらいには思ったのである。いずれにしろ、満足したというほどではないのだが。
そんなわけで、今のところこの新作映画『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』を見る予定はないのだが、私が子供だった頃の時代が、こうして歴史化されていくのだなあという感慨が、確かにあった。
無論、そうした感慨を覚えるのはこれが初めてではなく、たとえば、大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)などもそうで、この映画で描かれているのは、私が生まれる4年前の日本なのだが、やはり幼い頃のイメージが触発される場面が多々あったのだ。
そしてその時には、「昭和は遠くなりにけり」と、そんな感慨があったのである。

そんなわけで、個人的にこだわりのある坂本九のことが映画に描かれると聞いて、そのとき思い出したのが、坂本九自身の主演映画のことであった。
もともと、俳優としての坂本九には興味が無かったのだが、『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』に触発されて、「そう言えば、坂本九の主演で、吉永小百合と高橋英樹の共演していた映画があったな」と、どこかで部分的に見たそれを思い出しネット検索したところ、本作『上を向いて歩こう』がヒットしたので、この機会に見ておこうかと、そんな気になったのである。
で、Wikipediaを見てみると、監督は舛田利雄であった。
この舛田利雄という人も、妙に縁があって、名前だけはよく目にしていたのだが、映画監督としての実績だの代表作だのというのが、私にはいっかな思い浮かばない人だった。
まず、私が舛田利雄を意識したのは、TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)でであったと思う。
同作では、「構成」と「監修」という、素人にはいまいちよくわからない、それでもメイン・スタッフに名を連ねており、オープニングタイトルにも、単独で名前が出ていたはずで、そのTVシリーズの総集編である「劇場版」では、なぜか「監督」となっている。

当時、『宇宙戦艦ヤマト』をヒットさせる前のプロデューサー西崎義展にとっては、すでに映画監督として名を成していた舛田利雄の名を借りて、作品に箔付けをしようという意図もあったのだろう。
じっさいTVシリーズでは、舛田は本業の映画の方が忙しくて、あまり貢献できなかったようなのだが、もともとは海外輸出用に企画された総集編としての劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)には、実質的な現場指揮官としての監督役を務めたようである。
だがいずれにしろ、『宇宙戦艦ヤマト』のTVシリーズであれ劇場版であれを見ていた頃の私は、まだ、スタッフやキャストなどを意識することはなかった。だから、舛田のこともオープニングで名前は見かけても、特に意識することはなかったのである。
『宇宙戦艦ヤマト』に関しては、そのヒット後にもっぱら目立ったのは、プロデューサーの西崎義展だったからでもあろう。
だが、そんな舛田利雄について、私がよりハッキリと意識したのは、舛田が『宇宙戦艦ヤマト』以前に、映画『人間革命』(1973年)と『続・人間革命』(1976年)を撮った監督であったことを知った時だった。
私は小学生の頃から創価学会の会員だったから、この2本の映画については、11歳と14歳の頃の公開ということになるが、興味が無かったせいなのだろう、ハッキリした記憶はない。
むしろ、もう少し長じたあと、アニメ雑誌などを読むようになってから、スタッフへの興味も湧いて、舛田利雄という人の存在とその経歴も、多少は意識するようになったのだと思う。
ともあれ、同名映画の原作である小説『人間革命』(現在では『小説 人間革命』)は、創価学会を大躍進させた第三代会長である池田大作が、恩師である戸田城聖第二代会長の伝記的小説として書いたもの(戸田による『人間革命』の続編)である一一とされている。だが、実際にはゴーストライターが書いたとする有力な証言も出ている作品だ。
しかし、そうした事実はともあれ、同小説は、創価学会のカリスマであった池田大作が書いたものとして、今もなお創価学会においては「聖典」とも呼ぶべきものとなっているのだが、その映画化作品である映画版『人間革命』と『続・人間革命』は、この小説を原作としたもので、正編にあたる『人間革命』は、創価学会の初代会長である牧口常三郎とその弟子たる戸田城聖の戦前・戦中の活躍と苦闘を描いた戸田城聖執筆分の『小説 人間革命』を原作とし、『続・人間革命』では、戦争が終わり、治安維持法違反の冤罪で収監されていた戸田城聖が、豊多摩刑務所を出獄してくるところから始まり、やがて運命の愛弟子である池田大作(作中名は山本伸一)と出会い、創価学会を大発展させるまでを描いた(池田大作執筆の『人間革命』の第1巻を原作とした)物語である。


私は今だこの映画を見てはいないので、正確なところはよくわからないが、しかし、この映画版『人間革命』(正続)は、とにかくスタッフがすごい。
主演の戸田城聖役を丹波哲郎、牧口常三郎を芦田伸介、山本伸一をあおい輝彦というのは、まだ大スターというほどではないから、まずまずそんなところかと思わないでもないが、「製作(プロデューサー)」が東宝の田中友幸、監督が日活のベテラン舛田利雄、脚本が黒澤映画でお馴染みの橋本忍、音楽は『ゴジラ』で知られる伊福部昭という、東宝中心の錚々たるメンバーなのだ。
本作は、東宝と創価学会系の「シナノ企画」との共同製作作品だったのである。
で、このような映画が作られ、ヒットもしたのは、当時、創価学会がそれほどの勢いを持っていたということだ。
創価学会の聖典である『人間革命』を映画化し、創価学会員が動けば、それだけで映画はヒット間違いなしという動員力があったのだ。
のちに、「幸福の科学」が教祖・大川隆法の著作を原作に映画を作ったけれど、それらは、この当時の創価学会映画とは、製作スケールが桁違いに小さかったのである。
一一ともあれ、そんなわけで私にとっての舛田利雄は、その監督作品を見たことがないというだけではなく、どこか捉えどころのない人であった。
創価学会映画もやれば、『宇宙戦艦ヤマト』もやるような人だし、Wikipediaを確認すれば、日米合作の大作映画『トラ・トラ・トラ!』を、日本側の監督として深作欣二と共同監督したり、あるいは『ノストラダムスの大予言』(これも丹波哲郎主演)なんてものもやっている。
それでいてと言うのか、それほどと言うべきなのか、いずれにしろ、実績のある売れっ子監督ではあったようなのだ。
一一そんなわけで、やっと映画『上を向いて歩こう』に話が戻るのだが、この映画で最も注目したのは、ヒット曲「上を向いて歩こう」を原作とした映画として、どんなストーリーになっているのかというのと、舛田利雄の演出とはどのようなものかという、この二点だった。
ハッキリ言って、坂本九ほか俳優陣については、なまじ知っているから、演技的な部分にはあまり興味はなかったのである。
さて、まずはストーリーだが、こちらは「日活」の作品紹介ページのそれを、大幅に補うかたちで紹介しておこう。(適宜改行と、(※)による補足と訂正を加えた)
『少年鑑別所を脱走した河西九(※ 坂本九)とドラムのスティックを持った友田良二(※ 浜田光夫)は、手をとりあって必死に逃げていた。監視員(※ 鑑別所職員)に追われた二人は、走って来るオート三輪(※ ではなく、小型四輪貨物車)に(※ 当たったふりをして、運転していた永井(※ 芦田伸介)に「病院へ連れてゆけ」と言って、荷台に)飛び乗った。運転していた永井は、二人のことを(鑑別所の脱走者であり、当たりは演技だと)知りながら黙って病院へ連れていった。
翌朝、病院に少年係の刑事が来ることを知り、二人は永井の娘・紀子(※ 吉永小百合)のとめるのも聞かず泡を喰って(※ 病室から)逃げた。しかし九は足を痛めて逃げられず、二人は泣く泣く別れた。
良二は、ジャズ喫茶(※ クラブ)に現われた。昔、ここのドラマー(※ である)牧に(※ ドラムを)教わったことがある彼は、ドラマーになりたかった。
しかし牧は、ヒロポン中毒になっていた。一文無しの良二が(※ その店から)放り出されようとしたとき、三輪車にぶつかった傷で永井をゆすろうといい出した男がいた。この喫茶店の用心棒で、(※ 愚連隊の)兄貴株の(※ 松本)健(※ 高橋英樹)だ。
(※ 前述の)永井は、 鑑別所を出た少年たちを自分の家へ引き取って運送店をやらせ(※ 運送業を手伝わせ)、立派に更生させていた。健もかつてここにいたのだ。
その永井の家に九は引き取られ、更生の一歩を踏み出していた。彼は元気に働き、紀子の妹で小児マヒ(※ のため歩けない、車椅子)の光子とも仲良くなった。九の顔に明るい光があふれてきた。良二も、やっとバンドボーイになることができた。人が帰ったあとの舞台でドラムを叩く良二の顔に、生きる喜びが満ちていた。
妾の子(※ 男を作って父から逃げた)として生まれた兄貴株の健は、父に愛を受け入れられず家を飛び出したが、立派な人間になろうと密かに大学入試の勉強を続けていた。
健、九、良二、愛に飢え孤独な彼らも、幸せを求めて必死に生きていたが…。』


要は、悪い人間ではないのだが、いろいろと恵まれない事情があって、道を踏み外してしまった少年3人が、あれこれトラブルに巻き込まれて、なかなか思うようにはいかないものの、最後はみな立派に更生する一一というお話である。
ちなみに、本作では時代を反映して、健の父親は、妾であった健の母親に逃げられたことを恨んで、健に「お前には悪い血が流れている」などと言うなどの、ひどい差別意識を残っていたりする。
今なら、論外の差別主義者だが、この作品での描き方では「分からず屋の自分勝手な男」程度の描かれ方である。
ともあれ本作は、不遇な星のもとに生まれた少年たちの成長譚としては、終盤までの「なかなかうまくはいかない」展開はスリリングで、巧みなストーリーテリングではあるのもの、最後の急転直下的な「和解」としてのハッピーエンドには、いささか無理があった。
本作では、吉永小百合の演じる典子が、3人の少年たちを励ます、優等生的な役回りなのだが、彼女自身も、不良少年たちの更生に努力を惜しまない保護師である永井の娘として、父の想いを引き継ぐ立場ではあるものの、以前は、自分が養女であったことを知って、妹に嫉妬していじけた過去もあったというふうに描かれており、だからこそ彼女は恵まれない少年たちを応援するというふうに、その背景もしっかり描かれている。
つまり、主人公の3人だけではなく、中心的な少年少女たちは、いずれもどこかで恵まれない不幸を背負っているのであり、だから、一度は道を踏み外したり、踏み外しかけたりはするのだが、それでも最終的には、その現実に腐ることなく、「恵まれない者同士だからこそ手を取り合い、上を向いて生きていこうではないか」と、大筋そのようなことの語られている作品なのである。

で、本作でテーマ的に語られるこうした考え方は、今の目からすれば、いかにも「甘い」という印象は否めない。
だから、ラストの急転直下のハッピーエンドも、ご都合主義的な印象をうけるのだ。
だか、本作に登場する「昭和37年(1962年)」当時の日本の風景を見ていると、すでに高度経済成長(1954〜73年)の真っ只中であったとは言え、まだまだ完成を見てはいない、言うなれば、新しい戦後日本が未完成な頃だったからこそ、本作で描かれたような「いろいろつらいこともあるけど、みんなで手を取り合って頑張れば、きっと良い世の中になる」という希望が実感されていたのではないかと、そんなふうにも思えてくる。
まだ、日本が復興途上であったからこその「前向き」さがあり、「希望」が本気で信じられていたればこそ、この「甘い」と感じられるラストも、当時としては、ごく自然なものであったのではないかと、そのように感じられたのだ。
そしてその意味では、日本が最も幸福な時代だったのかも知らない。
仮に、その戦後復興が「朝鮮戦争」による特需景気により支えられたものであり、あるいは、「水俣病」をはじめとする公害問題がすでに顕在化しており、言うなれば「他人の犠牲」の上に成し遂げられつつあった経済発展であったとしても、当時の日本人の多くは、そのことに十分な自覚はなく、自分のことで精一杯だったのではないだろうか。
だから、私としては、この映画をどう評価していいのか、いささか迷うところなのだが、ただ言えることは、この作品は「かつての日本」を切り取った「歴史資料」としての価値なら、間違いなくあるように思う。
作中に描かれる「ヒロポン中毒」は、戦後すぐからのイメージだが、しかし本作には、家を飛び出した後、いったんはグレたものの父に認められたいと願う健が、密かに兄が入学した東京大学と思しき大学を目指して勉強しているということも描かれていて、後の「学歴社会と受験戦争」を予告しているようにも見られる。
つまり、敗戦後の「焼け跡・闇市」の世界でもなければ、高度経済成長後の、今に続く資本主義経済下の「豊かな日本」社会でもない、その中間に位置した、本作に描かれた時代は、むしろ今の目には、かえって新鮮に映る。
その頃に生まれた私の目にも「日本にも、こんな時代があったのだなあ」と、ノスタルジーとはまた違う、新鮮さがあったのだ。
果たして、私たち日本人は、この時代にはまだ有り得たであろういくつかの選択肢のうち、どんな選択肢を捨てて、この道を歩んできたのであろうか。一一そんな感慨をおぼえるのだ。
舛田利雄監督について言えば、とにかく、その凝ったカメラアングルや、細かくカットをつないでいくスピーディーさが、いかにも新時代的な才気煥発を感じさせた。
黒澤明とか小津安二郎といった、日本を代表する映画監督とは明らかに違った、新時代を感じされる、いかにも才気走ったスマートな映像美で見せる監督なのだが、しかしもしかすると、この新しさこそが「古典」になり損ねた要因なのではないかとも思えた。
これだけ面白い絵の撮れる監督なのだから、もっと高く評価されていても良さそうなものなのだが、日本を代表する映画監督というと、舛田利雄の名前が上がることがほぼないというのは、単に私が無知なだけなのであろうか?
ただ、私としては、この才気煥発な映像美と、いろんなジャンルの映画に貪欲に関わった映画人としてフットワークの軽さこそが、のちの評価の軽さにもつながったのではないかと思えてならなかった。
舛田利雄という人は、才気煥発でありすぎたが故に、器用貧乏的に損をした人ではなかったかと、そんなふうに思えたのである。
言うなれば、「ぼくはトウフ屋だから、トウフしか作らない」と言い放った、(少なくとも後期は)ワンパターンの鬼である小津安二郎の真逆が舛田利雄であり、日本人は、舛田利雄のような器用な人間を、同時代には新しがっても、結局のところは、あまり尊重する気はなかったと、そういうことなのではないだろうか。
(2026年9月15日)
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