フランシス・フォード・コッポラ監督 『ゴッドファーザー』: マイノリティの変質しやすい「正義」

▷ 映画評:フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』(1972年/アメリカ映画)


非常に興味深い作品であった。「面白い」というよりも、「考えさせられる」のである。「考えされる」から面白い。
では、なぜ考えさせられるのかと言えば、それは本作で扱われていることが、決して「昔の話」では済まされないものだと、そう感じられたからだ。

たしかに、本作で描かれているのは、大雑把に言えば、大戦後すぐのアメリカ社会における、イタリア系マフィアの世代交代劇だとでも言えよう。
移民第一世代を象徴する、マーロン・ブランドが演ずるところの、通称ドン・コルリオーネことヴィトー・コルレオーネ。その地位を継ぐことになる三男、アル・パチーノ演ずるところのマイケル・コルレオーネ。この二人における、世代的な「体質の変化」が興味深い作品なのだ。

本作で描かれるコルレオーネ・ファミリー(一家)、特にヴィトーが仕切っていた時代のファミリーは、典型的な「家父長制」によって形成されていたと言えるだろう。
ヴィトーが、家族だけではなく、組織(ファミリー)全体の家父長であり、子分たちは、文字どおりヴィトーの「子供」で、彼らは家父長であるヴィトーに絶対服従をしていた。

つまり、子分たちは、反社会的な犯罪組織の一員として、親分であるヴィトーに服従していたと言うよりも、この組織自体が「拡大版家族」であり、子分たちは、個々の家庭において家父長である父親に服従していたように、組織においても、父親であるヴィトーに服従していたと、そう考えるべきなのではないか。

(ドン・コルレオーネの娘の結婚式に、一族郎党が集まって祝う、印象的なシーン)

言い換えれば、犯罪を行うことを目的とした組織の構成員として、命令系統のトップとしての親分に服従をしていたのではなく、父親同然のヴィトーの言うことなら、それが善行であろうと犯罪であろうと、絶対服従で従っていた、ということなのではないだろうか。

無論、実質的には、犯罪組織の階級的な上下関係として、親分がおり子分がいたのではあるけれども、それは私たちがいま考えるような組織合理性みたいなものから出てきたものではなく、もっと生活に密着していた家父長制の延長したところのものだったと考えるべきではないかと、私はそう思ったのである。

さらに言い換えれば、こうしたシンプルに伝統的な家父長制の延長だったものが、第二世代である息子マイケルの時代になると、その本質が少なからず変質している。

先代のヴィトーの場合は、まさに家父長的なふるまいが当然のものであり、つまり子分などの身内、つまりファミリーに対しては「親子」としてふるまったし、そうした「情と義理」の部分を強調した。
ヴィトーの場合なら「損得なんかではなく、私の息子であるお前なら、とうぜん私の言うことが聞けるよな?」というような言い方だったのが、二代目のマイケルの時代には、もっと乾いた、もっとビジネスライクな関係になる。情だの義理だのといったウエットのものを強調することはなく、「力関係」がすべてを決する。「お前の立場なら、とうぜん俺に従うよな?」というような感じになるのである。

(ヴィトー・コルレオーネ:マーロン・ブランド)

では、どうしてこうした変化が起こったのか言えば、当然それは、世代の違いであり、時代の違いであろう。

先代のヴィトーの場合は、イタリアでの敗戦後の経済的な困窮などから、貧乏人でも実力ひとつで成り上がれるというアメリカン・ドリームを信じて、アメリカへと渡ってきた。そんな「貧乏なイタリア系移民」が、ごまんといたのである。

ところが、実際にアメリカに来てみれば、アメリカン・ドリームなんて、良くて「過去の話」であり、現実には嘘っぱちに等しかった。
アメリカが欲しかったのは「優れた外国人」。すなわち、原爆を作れる物理学者だとか、優れた映画の撮れる映画監督とか、そういう人たちだったのだ。それならば、大歓迎したのも当然の話だ。

彼らイタリア系移民は、アメリカの「白人社会」の中で、貧乏な非白人として差別され、ろくな仕事にもつけずに、あいかわらず貧乏な生活を余儀なくされた。
つまり彼らは、アメリカ社会における「マイノリティ」だったのだ。

こう書くと、日本人の多くは、ピンと来ないかもしれない。
なぜなら、私たちは、イタリア人も「白人」だと思っており、アメリカの白人と、ほとんど区別しないからだ。

だが、それまでの、つまり大戦前までのアメリカ白人の意識からすれば、イタリア人というのは外国人だし、白人でもなかった。イタリア人はラテン系なのだから、従来のアメリカ白人からすれば、彼らは今の南米ラテン系民族やメキシコ人などと同様のものだったのではないだろうか。

今の私たちには、見た目にその区別もつきにくいから、同じ「白人」に見えるし、イタリア系だとかラテン系だとか言われれば、たしかに「髪が黒いな」とか「鼻筋が分厚いな」などと思ったりもするのだが、それは言われなければまったく気づかない程度のものであり、言われたから「そう見えるだけ」という、単なる思い込みでしかないのかもしれない。

だが、戦後アメリカの、従来からのアメリカ白人にすれば、イタリア系移民は、アメリカ人でもなければ白人でもなかった。一一だから「人種差別した」というのも、ごく当たり前のことでだったのではないだろうか。良い悪いではなく、人間というものは、そういうものだからだ。

現時メキシコ人が差別されているように、当時のアメリカでは、まだ独自の社会的な居場所を得ていなかったイタリア系移民は「われわれから仕事を奪う、よそ者」だと見られて差別されたのではないか。
仕事を奪う奪わないというだけの話ではなくても、良い悪いの話でもなく単純な事実として、人は「よそ者=異質者=有徴者」を差別するものなのである。

例えば、日本でだって、在日コリアン(朝鮮人・韓国人)が差別されてきたし、それは今も表立たないかたちではあれ続いている。
だから、私たちには、イタリア系移民を差別したアメリカ白人を非難する資格など、少しもない。

ともあれ、戦後のアメリカ社会において、イタリア系だけではないにしろ、移民は差別され続けてきた。

そうした中で、イタリア系移民のマフィアが力を持つようになったのは、彼らが総じて貧しかっただけではなく、その数が多かったからであろう。
一人ひとりは弱い移民でも、数が集まれば力を持つことができる。だから、同じイタリア人どおしで手を組み、結束して、彼らを差別するアメリカ白人社会に対抗した。一一それが、民族互助組織としてのイタリアン・マフィアの原点だったのではないだろうか。

そして、その結集の原動力となったのが、単なる「出身地(国籍)」の共通性ではなく、イタリアでは当たり前のものであった「家父長制」なのではないだろうか。

この映画でも描かれているとおりで、彼らは基本的に、カトリック信者である。それは、なぜか。

無論、それはイタリアが、カトリック教会(バチカン)のお膝元であり、バチカン市国は、イタリアの中にあるからである。
もともとバチカン市国は、イタリアに所在したバチカンが、国家として独立したものなのだから、イタリアがカトリックの国であるというのは、言うなれば、当たり前の歴史的な事実なのである。

で、ここで思い出してもらいたいのは、カトリックは今でも「家父長制」であるという事実だ。
時代の要請を受けて徐々に、女性への配慮が進められているとは言え、それは世界の常識からは大きく遅れたものでしかない。

カトリックは、いまだに女性司祭(神父)を認めていない。プロテスタントでは、遠の昔に誕生している女性司祭(牧師)が、いまだ存在しておらず、当然、女性枢機卿も存在しなければ、女性教皇もあり得ないことになっている。
伝説的な存在として、女教皇ヨハンナが語られることはあるが、それは所詮「伝説」扱いでしかない。

つまり、カトリック信者のイタリア人にとっては、今でも「家父長制」は恥ずべき伝統などではないのだ。それは、その絶対的な信仰に裏付けられ、保証された家族制度であり、「聖書」に根拠のあるものなのである。
また実際、カトリックの教皇の愛称も「パパ」なのだ。

無論、女性は男性と対等であるし、尊重され大事にされなければならない存在である。
だが、それは、家父長制において「男が家族の責任を負う」ということと矛盾するものではない。
女性を尊重するからこそ、男は世間の矢面に立ち、自己犠牲的にでも女性を守らなければならない。
またそのためには、家族の中での最終決定権を持たなければならないけれど、その権限とは、その特別な責任に伴うものであって、けっして「特権」的なものではない。女性より男性の方が「偉い」から、という理由で「権力」を持っているのではない。一一という建前なのである。

だから、アメリカのイタリアン・マフィアが、「家父長制」だったのは、ごく自然なことであり、彼らの原理は「家族(ファミリー)」であり、「身内(ファミリー)を守る」ということだったのであろう。

つまり、「よそ者」として差別された以上、彼らは自分たちを守るために「身内」の原理で行動することになった。

言い換えれば、「内も外もない、同じ人間」としての「客観性」において、なにが「正しい(正義)」のか、ではなく、「身内を守ることが正義」だということになってしまう。

つまり「身内」の権利を守るためなら、アメリカの国法を犯すもの辞さない。それは「悪」ではない。
なぜなら、アメリカの国法は、アメリカ白人のためのものであって「われわれ」の物ではないし、事実、われわれを守ってはくれないのだから、われわれはわれわれの「法」において、われわれ(身内)を守る「人権」かあるのだ、という理屈になってしまう。

したがって、「身内」を守るために、アメリカ白人を殺すのは「罪」ではない。それは、当然の権利(自衛権)でもあれば「義務」ですらあるのだ。
当然、「身内」を守らずに、アメリカ白人(社会や法・警察など)に媚びるような裏切り者は、許すべからざる犯罪者であり、厳罰を持って応ずるのは、当然のことだということになる。「自分さえ良ければ、仲間がどんな目に遭っていても、お前はそれで平気なのか?」と、そういう理屈、と言うよりは、意識である。

ともあれ、こうした理屈(心情論理)を理解するならば、ヴィトー・コルレオーネの生き方は、しごく「倫理的」なものであり、彼が「憎めない親父さん」ふうに感じられるのも、むしろ当然なのだ。

(親族の女性に気さくかつ愛想よく話すコルレオーネ)

彼は、その自覚として「犯罪者」などではなく、「身内(ファミリー)」を守る家父長なのだ。だから、彼の態度は、あのような「親しみやすさ」を持っている。
敵には怖しい存在でも、身内には無限に優しいパパ。「身内」としての信義を守るかぎりは、その命を賭してまで守ってくれる、頼りになる家父長だったのである。

本作のタイトルとなっている「ゴッドファーザー」という言葉は、日本語では「名付け親」と訳されているけれども、本来の意味は、そんなに軽いものではない、ということが、Wikipediaで紹介されている。

『「ゴッドファーザー」(またはゴッドマザー、ゴッドペアレンツ)とは、日本語版では原作、映画共に「名付け親」と訳されているが、正式にはキリスト教(特にカトリック)文化において洗礼式に選定される代父母のことであり、その後の生涯にわたって第二の父母として人生の後見を担う立場である。すなわち、タイトル『ザ・ゴッドファーザー』は、主人公のドン・コルレオーネが幅広く一族郎党のボスであることを暗示している。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー(映画)」

単なる「名付け親」などではなく「第二の実父」であり、しかもすでに説明したとおりで、古いイタリア社会における家父長制の価値観からすれば、ゴッドファーザーは絶対服従すべき存在であり、非服従は「家族ではない=裏切り者」である、ということになってしまう。またそれは、神の御前での証しに反したことにもなるのである。

だからこそ、戦後のアメリカ社会におけるイタリアン・マフィアに家父長制が色濃かったのは、みずからの身を守るために必要な「伝統的な原理」だったと、そのようにも言えるのだ。

 ○ ○ ○

だが、これが移民二世であり第二世代のマイケルになると、そうした「家父長制」の論理は薄れはじめる。

たしかに、二代目ドン・コルレオーネ(マイケル)に対する、忠誠であり絶対服従という点は同じであっても、それはすでに「親に子の従う」ような体のものではなくなった。
すでに書いたとおり、もっと乾いた、ビジネスライクなものへと変わっていたのである。

(マイケル・コルレオーネ:アル・パチーノ)

では、なぜそんなふうに変わってしまったのであろうか?


私が思うにそれは、移民第一世代では、マイノリティとしての「自衛のため」という意識から出たものであったものが、第二世代では「既得権を守るため」というふうになったからではないだろうか。

第二世代のマイケルにすれば、その自意識は、半ば以上「アメリカ人」なのだ。
実際、本作でも、マイケルは軍人として第二次世界大戦に従軍して、その活躍によりアメリカ国民の一人として、その功績を認められた人物として描かれている。

だから、たしかに彼は、父であるヴィトーを愛していたけれども、それは家父長としてのヴィトーを愛して、それに絶対服従していたということではなく、当たり前に、子として父親を愛していたに過ぎないし、そうした感情から、父を傷つけた相手に報復したに過ぎない。
マイケルには、イタリア人だからとか、家父長を殺されかけたからとかいったことではなく、ごく当たり前に、大好きな父を殺されかけたから、「俺個人の気持ちとして許せないから」やったに過ぎないのである。

だから、マイケルの場合は、「実の家族」についても「組織(ファミリー)」に対しても、ヴィトーのような「パパ」的な態度にはならない。あくまでも、その最高権力者であり、ボスであるとして振る舞う。

「家族だから、ファミリーの一員だから、絶対に守る」というような義理人情ではなく、自分の役にたつ者は大切にするが、そうでない者には、それ相応の態度しか示さない。
家族の中でも「目上」だとかいった、伝統的な序列は重要ではない。「俺がボス」なのだ。
そんな割り切った価値判断でしかしないのである。だから、冷たいのだ。

マイケルの、妻に対する「絶対君主」的な態度、肝っ玉の小さい次兄に対する見下した態度も、そうした「合理性」から出たものだと言えよう。
マイケルは「資本主義」国アメリカの、アメリカ人として「合理的」に思考しているだけなのだ。自分にとって、何が得であり何が損なのか、それが問題であり、「身内」であるか否かなどということは、大した問題ではない。

例えば、洗礼式においてマイケルが、平気で心にもない誓いをたてられるのも、同じことである。
そんなこと、ヴィトーなら、決して出来なかっただろうし、それでも必要なら、みずからが心から信じられる嘘を、捏造する手間をかけたであろう。

だからこそマイケルは、ヴィトーの時代には、同じイタリア人として一定の「身内」関係を保ってきた、他のファミリーの親分たちを、平気で皆殺しにすることも出来たのだ。
マイケルには、「同じイタリア人だから」という義理や義務など、寸毫も無かった。

いやむしろ、競合する近いライバルだからこそ、そいつらを始末する必要があった。そうする合理的な理由があったのである。

ヴィトーの時代には、同じイタリアン・マフィアとして、共に敵視していた、アメリカ白人のギャングや黒人のギャング団を、ことさらに敵視することもない。
肝心なのは、誰と組めば「得か」ということであって、そこに出身地や肌の色など関係ない。じつに「フラット」なのだ。

言い換えれば、マイケルの価値観とは、それほどまでにアメリカナイズされたものであり、「経済合理性」に合致したものだったということなのである。

そんなわけで、本作が描いたのは、こうした「世代間における時代精神の変化」なのだ。
その題材となったのがイタリアン・マフィアであったというだけの話で、同じようなことは、どこの資本主義国においても、多かれ少なかれ起こっていたことなのではないだろうか。

例えば、アメリカにおけるイタリアン・マフィアほどの影響力もなければ、そのせいで、さほど有名でもなかったのであろう、日本における「朝鮮人ヤクザ」といったものだって、似たような経緯をたどって変質していったのではないかと、私はそのように推察する。

だから、本作が私に「考えさせた」のは、ヤクザの話でもなければ、イタリア人の話でもなかった。

それは、もっと普遍的なもの。つまり「マイノリティ差別」の問題と、「マイノリティにおける自意識の変質」の問題なのである。

 ○ ○ ○

例えば、現代日本によって、ある意味で、最も注目されているマイノリティとは、「女性」なのではないだろうか。

昨今、選挙の際だけは 「外国人」の問題が、取り沙汰されはするものの、その問題が真剣かつ継続的に議論されることなど絶えてありはしない。
所詮は、票欲しさの人気取りでしかないから、一般的な議論にまで深まることもないのだが、女性差別問題、すなわちフェミニズムの問題は、法的な対応もなされて、社会の隅々まで浸透している感がある。
今どき、女性の権利について十分な配慮しない者は、組織であろうが個人であろうが、厳しい批判を免れ得ないのだ。

だが問題は、マイノリティは、その被差別性ゆえに、必然的に「自衛のための力」を求めるのだが、それが高じて「マフィア化」しかねない、という現実である。

言うまでもないことだが、虐げられたイタリア人たちの中からマフィアが生まれてきたのは、イタリア人がもともと「悪質」だったから、というわけではない。
そう考えるのなら、そうした発想こそが「差別」意識に他ならない。

つまり、同じような状況に置かれれば、イタリア人だけではなく、アメリカ人だって、日本人だって、韓国朝鮮人だって、おおよそ同じようなことをやっただろうし、多少の「性差」はあろうと、男であろうが女であろうが、「自衛のため」ならば、武器をとって法を犯すこともしただろうし、するだろうということだ。

人間の本質は、基本的に「同じ」でおり、他の動物ほどに違っているわけではない一一という原則を信じるからこそ、人間同士のあいだにおいては、平等に「人権」が認められるのである。

だから、「文化」の差や「生育環境」の差や「性差」などがあったとしても、考え方としては、人間は基本的に同じようなものだと、そう考えなければならない。

人間には誰しも、似たような美点もあれば欠点もあって、この人種だけには、特別にそれがあるとかないとかは言えないし、それは性別についても同じだ。個体差はあっても、性差など解釈的な幻想だと理解すべきである。
アメリカ人でもイタリア系でも日本人でも、犯罪は犯すし、男であろうが女であろうが犯罪は犯す。その逆はあり得ないし、「われわれだけは、特別だ」という主張は「差別思想」に他ならないのである。
「日本は(それなりに)素晴らしい」かもしれないが、それは「どこの国でも(それなりに)素晴らしい」ということでしかない。

したがって、当然ことながら、被差別的なマイノリティである「女性」が、マフィア化することも、事実としてある。
「自衛のため」なら、法に反する行いも正当化されるという発想は、必ず出てくる。

実際には、同等の権利が保証されていない現実社会において、同じような「義務」を課されるのは、結果としては「不平等」を容認することにしかならないから、われわれについては「特別扱い」にしてもらわないと、平等は実現されないと、そう主張することにもなる。

実在、よく問題視されるアファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)」が、まさにそれだ。

女性は、女性であるというだけで差別されており、損失を被っている。
だからこそ、その社会的格差を是正するために、今は、男性よりも女性を優先すべきである、という主張であり、その具体策としては、まだまだ女性の社会進出が進んでいない、社会的に重要とされる地位に、女性を優先的に登用する、といったことだ。

具体的に言えば、国会議員、会社重役、大学教授といったものへの、女性の優先登用である。

では、それを具体的にどう進めるのか言えば、平たく言えば「同じ能力であれば、女性を優先する」ということになろう。一一ここまでなら、さほどの異論は出ないだろう。

だが、問題は「少々能力が劣ろうとも、女性を優先的に登用すべき」だとしてなされる、アフォーマティブ・アクションの現実である。

これでは、ほんらい得られるべきポジションを、自分よりも能力的に劣る女性に奪われた男性は、黙ってはいられないだろう。
その男性の立場からすれば、自分の方が、男性だという理由で「差別された」と感じるからであり、また、そうした主張には、相応の説得力もあるからである。

では、それでも「少々能力が劣ろうとも、女性を優先的に登用すべき」だと主張する人たちは、どういう理屈で、それを正当化しているのだろうか?

それはたぶん、次のようなロジックしかないだろう。すなわち、

「女性は男性に比べて〈同じ能力〉を得る機会が与えられていないから、〈同じ能力〉ではあり得なかったのだ。だから、〈同じ能力〉を得る機会の与えられる社会を実現するためにも、今は、男性よりも少々能力の劣った女性でも、女性全体の補正的な底上げのために、女性の登用を優先すべきである」

といったものだ。

これ以外に、「少々能力が劣ろうとも、女性を優先的に登用すべき」だという考え方を正当化するロジックなど、私には思いつかないのだが、どうだろうか?

それがあるのなら、是非ともご教示願いたいし、それが筋の通った理屈なのであれば、私も「少々能力が劣ろうとも、女性を優先的に登用すべき」という理屈を承認し、賞賛さえしよう。
だが今は、それが出来ないのだから、承認することも出来ない。

私が認めるアフォーマティブ・アクションとは、あくまでも「同等の能力なら、今は女性を優先すべき」というところまで、なのだ。

一一そうでなければ、それはおのずと、文字どおりの「性差別」になってしまうからである。

言うまでもないことだが、女性と男性は、同じ法律で裁かれている。
それは、基本的に人間は「同じ」だと考えるからで、特別な「判断能力の欠如」が認められないかぎり、性別を問わず、その犯罪行為に応じて、男女は同じように裁かれる。

これは何も、「違法行為(犯罪)」に限られたことではなく、日常的な行為にかかわる「倫理規範=道徳規範」違反についても同じである。

例えば、特別な理由のない限りという条件付きではあれ、「嘘をついてはいけない」「人を差別してはいけない」「他人に迷惑をかけてはいけない」といったことも同じで、男性だから、女性だからといって、特別な理由もないのに、嘘をついたり、人を差別したり、他人に迷惑をかけたりしてはならない、というのは自明な話であり、常識的な議論であろう。

ところが、イタリアン・マフィアがそうであったように、マイノリティの中には、「造反有理」ならぬ、「マイノリティ有理」を唱える者が、現に少なからずいる。

「行為の中身」ではなく、「行為者の属性」によって、その同じ行いが、「犯罪」にもならば「正当行為」にもなると、そう言うのである。

イタリアン・マフィアの犯罪行為は、彼らに言わせれば「犯罪」ではなく、差別された者の「自衛のための、当然の権利行為」だということになる。
それくらいやらないことには、自分たちは差別されて損をさせされる一方なんだから、われわれが「少々のことをやろうと、それは、容認ではなく、むしろ是認されるべきである」という理屈になる。

当然、これは何も「イタリアン・マフィア」に限った話ではなく、あらゆるマイノリティに見られる現象であり、例えば、黒人犯罪者の中にも、女性犯罪者の中にも「社会的な差別の存在が、私にこのような犯罪を犯させたのだ」と主張する者は大勢いるし、その主張にも一理はあって、同情に値し、情状酌量すべき場合も、稀にはある。

けれどもこれは、すべての黒人や白人、女性や男性に適用されるべき理屈ではない。

それはあくまでも、例外的なものでしかなく、基本的には、人種や国籍や性別など諸々の属性に関係なく、すべての人は平等に裁かれるべきだし、そうでなければ、「法による裁き」という制度は、不可能になってしまうだろう。

例えば、「私が犯罪を犯したのは」、親が悪かったせいだ、生育環境が悪かったせいだ、などと言い出したら、人間の生育・生活環境が個々バラバラである以上、そして、そうしたもののすべてに配慮することなど物理的に不可能である以上、「法の裁き」などという「形式」は、原理的に不可能となるからである。
したがってそこでは、かなりの程度、人は型に嵌められて、「同じ人間(同じ成人)」として、法の裁きを甘受せざるを得ないことになるのである。そして、それが嫌ならアウトロー(無法者)になるしかないのだが、法の庇護さえ求めなければ、その道を選ぶ自由は、誰にもあるのだ。

だから、特殊な例外事例はあるにせよ、基本的には、人間はその「属性」によって差別されることなく、平等に裁かれなければならないし、それは、他の「社会的処遇」においても、同じことなのだ。
白人だからといって差別されてはならないし、黒人だからといって優遇されてもならない、男性だからといって優遇されてはならないし、女性だからといって差別されてはならない。

だから、私は「少々能力が劣ろうとも、女性を優先的に登用すべき」といったようなアフォーマティブ・アクションは「過ぎたるは及ばざるが如き」差別であると考える。

同じでような人殺しをしても、白人ギャングのものなら懲役10年で、イタリアン・マフィアのものなら懲役5年だというような、それは不当な「差別扱い」であると考えるのだが、さて「同じマイノリティ」としてのフェミニスト諸氏は、私のこうした考え方こそ「差別的」だとおっしゃるのか、それとも「当たり前の話」だとおっしゃるのだろうか?

例えば私は、武蔵大学の教授で、自称フェミニストである北村紗衣を批判している。
そのきっかけは、私についての北村紗衣の「嘘(誹謗中傷的な虚言)」であった。

これは、これまでにも何度もくり返し紹介してきたことなのだが、1年半以上経った今まで、一度として私の意見が間違っていると批判されたことはない。

すなわち、北村紗衣が「嘘」をついて、私に被害を与えたという、私の事実認定に対して異論を唱える人は、武蔵大学の関係者にも、北村紗衣教授の学生にも、知り合いのフェミニスト諸氏の中にも、1人もいない、ということである。

一一そんな批判に至った「事情」とは、次のとおりである。

映画評論もやっている北村紗衣が、インタビューに答えて語った「アメリカン・ニューシネマ」観について、映画マニアの須藤にわか氏が、これを「デタラメを言っているので、それを正す」とする記事を、SNS「note」にアップした。
すると、これを読んだ北村紗衣が、Twitter(現X)や自身のブログなどで反論し、それに対して須藤氏が再反論して、論争状態になった。

で、私は、たまたま須藤氏の記事を読んで興味を持ち、双方のやりとりをひと通り読んでみた結果、須藤氏に理があると判断した。

実際、北村紗衣は、須藤氏に反論するのに「私は映画を研究しており、外国の論文まで読んでいる専門家である。所詮は素人のあなたとは違う」というようなことまで言い出していたのだから、もはや何をか言わんやである。

そこで私は、須藤氏の当該「note」記事のコメント欄に、氏の主張を支持するという趣旨のコメントを書き込み、そこへ「北村紗衣という人の存在は初めて知ったのだが、批評家として論外だ」という趣旨の評価を語った上で、そのコメントを次のように締め括ったのである。

年間読書人
 2024年8月25日 05:14

それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった素人が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。

そして、そうした態度の根底にあるのは「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。

今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

すると、驚いたことに、この同じコメント欄に、いきなり北村紗衣本人から、次のようなコメントが書き込まれたのだ。

北村紗衣
 2024年8月27日 09:36

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。

それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。

年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

見てのとおりで、私が「北村紗衣の本を買って読み、その内容を膾に切り刻む酷評を書いてやろうか」という趣旨で書いた言葉を、北村は「自分の本を切り刻むと言っている」と故意に曲解し、まるで私が「器物損壊予告の脅迫」でもしたかのように偽って、私に反論する以前、このコメント以前に、さっさと【note】運営事務局へ「管理者通報」して、記事の削除を要請していたのである。

この、北村紗衣の「管理者権力を利用した脅迫」によって、須藤氏はやむなく、当該記事を書き直して「改訂版」をアップすることになり、そのせいで、元記事のコメント欄に書き込まれた私と北村紗衣のコメントも、自動的に削除されてしまった。
幸い、こんなこともあろうかと、コメント欄のスクリーンショットを撮っておいたから良かったものの、そうでなかったら、北村紗衣のこうした姑息な「嘘」も証拠隠滅されて、闇に葬られていたことであろう。

だが、これにはさらに続きがある。
北村紗衣としては、須藤氏に記事の書き換えを強要できたことで、ある程度は満足したのであろうが、私の方は怒り心頭だったから、こうした事情を記した記事「北村紗衣という人」を書いてアップし、北村紗衣に対して「反論できるならして見せろ」と要求したのだ。
だが、北村紗衣はこれに応じず、それどころか、またも「管理者通報」をして、この記事を削除させてしまったのだ。

つまり、北村紗衣は、このようにして私に対し「実害」を与えたので、そこから、現在に至るまでの私の「北村紗衣批判」が始まったのである。

斯様、フェミニストを自称し、女性の権利を主張する者にも、北村紗衣のような輩が現に存在し、にもかかわらず、北村紗衣のフェミニスト仲間には、北村のこうした「倫理欠如」を批判する者は一人として存在しないという事実を立証するための作業を、私は開始したのだ。


 ○ ○ ○

そんなわけで、映画『ゴッドファーザー』評からずいぶん脱線したように見えたかもしれない。一一だが、そうではない。

私がここで言いたかったのは、本稿冒頭付近で語った、マイノリティゆえの「防衛意識に由来する、過剰な自己正当化による自己特権化」といったことであり、それがやがて、貪欲資本主義社会の中で、さらに卑劣な「既得権益確保のための、犯罪的な振る舞い」にまで変質発展するという事実の、指摘だったのである。

言うなれば、北村紗衣は「日本のフェミニズム界における、マイケル・コルレオーネ」だ、ということなのだ。

第一世代のフェミニストは、マイノリティとして、「自衛のために」フェミニズムを立ち上げ、時にやり過ぎもした。

しかし、第二世代である、北村紗衣らの(エセ)フェミニストは、「自衛のため」ではなく、資本主義社会における「既得権益」を守るために、武器としてのフェミニズムを振り回しているだけだ、ということなのだ。

だから、ヴィトー・コルレオーネの時代においては、同じイタリアン・マフィアとして協力する仲間意識もあったのに、第二世代のマイケルの時代には、同じ「マイノリティ」としての仲間意識はもはや無くなって、単なる競合するライバルでしかなくなっている。

私が北村紗衣を批判する場合に、何度も指摘したのは、まさにその点で、北村が「反差別としてのフェミニズム」を語りながら、実質的には「女性差別」しか問題にせず、例えば、部落差別(同和問題)や、朝鮮人差別、従軍慰安婦問題、沖縄に対する基地押しつけ問題(沖縄差別)といった差別問題については、一言半句触れようとしないという事実だ。

もしも北村紗衣が、心から「反差別としてのフェミニズム」を語ってのであれば、当然、こうした「別の差別問題」にも触れていて、然るべきであろう。
なのになぜ、現実にはそれをしようとしないのか?

それは、部落差別(同話問題)や、朝鮮人差別、従軍慰安婦問題、沖縄に対する基地押しつけ問題(沖縄差別)といった問題については、北村紗衣は、差別される側ではなく、「差別する側」だからである。

差別されるマイノリティではなく、差別するマジョリティの側だからこそ、そこに触れるのは「損」だという計算が働いて、それらには触れないのだろうと、私はそう何度も指摘したのだが、これに対し北村紗衣は、黙秘を貫くばかりなのである。

つまり、北村紗衣にすれば、自分が「被害者」の立場に立てる「女性差別問題」だけが、語るに値する(得することのできる)差別問題なのだ。
それを主張すれば、被差別者としての「見返り」が期待できるし、得をする(甘い汁が吸える)からである。

だが、他の差別について触れれば、「私も差別している側の一人です」と認めざるを得ないし、そうなれば、自身の「被差別者としての立場=特権」も揺らぎかねない。
だから北村紗衣は、じつに懸命にも、「女性差別問題」専門のフェミニストなったのである。

つまり北村紗衣は、同じマイノリティの存在を「競合するライバル」とだけ見て、故意に無視するスタンスを選んでいる。
そうした「他の差別問題」が、何のライバルなのかと言えば、それは資本主義社会における「権益争奪戦上のライバル」なのだ。

他の差別が注目されれば、そのぶん「女性差別」への注目度が下がるから、そういう話題には触れない。触れたら「損」なのである。

だから、他の被差別者など、差別される同じマイノリティとしての仲間などではなく、競合する敵でしかない。

一一こうした利己的な非情性において、北村紗衣は、マイケル・コルリオーネに似ており、日本のフェミニストの少なからぬ者が、そんな第二世代イタリアン・マフィアと同様の性格を、現に示していると言えるのである、

そこには、ヴィトー・コルリオーネにはあった、人情がない。マイノリティとしての仲間意識も助け合いの精神もない。

あるのは、二代目マイケル・コルリオーネとよく似た、既得権益の拡大しか考えない、計算高い冷酷さだけなのだ。

一一そして、こうした冷酷な計算高さというものは、現在のあらゆる「被害者ビジネス」とでも呼ぶべきものに現れる恐れがある。

かつての反差別運動がしばしば、その中に腐敗堕落を抱えて込んで頽落してしまったように、フェミニズムを始めとした、あらゆる反差別運動は、その危険性を孕んでいる。

だからこそ私たちは、そのあたりをよくよく監視して、腐った部分は適切に切り取り、別扱いで対処しなければならない。
それをしないと、腐敗による毒素が全身に回って、すべてが一連托生になってしまうからだ。

例えば、部落解放同盟の現在の凋落ぶりは、こうしたところに起因したものだった。
自浄作用を持たなかったが故に、世間から決定的に見放され、身内からさえ見放されるまでに至ってしまったのだ。

つまり、正直で真っ当なマイノリティの権利を守るためにも、それをシノギ(稼業)にしているような輩を、決して黙認してはならないのだ。

物事は、例外なく是々非々で区別していかなければならないのである。

そうでなければ、典型的な家父長制組織でありながらも、どこか情味のあったコルリオーネ・ファミリーが、非情かつ合理的な犯罪組織へと変化したように、すべての反差別運動は、易きに流されて頽落腐敗する怖れが、十二分にある。
人間は誰しも、それほど弱いものなのだ。

一一そして、こうしたことを「考えさせて」くれた点において、本作『ゴッドファーザー』は、今も古びない問題を描いた作品であり.そこが私には、とても興味深く感じられたのである。


(2026年4月17日)

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【北村紗衣関係レビュー】





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