東畑開人 『カウンセリングとは何か 変化するということ』: カウンセリングと文学的営為の相似性

東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)


また、いきなりカマすようなことを書いて恐縮なのだが、本書で語られている「カウンセリング」という行為が、いかに「文芸批評」にそっくりかということにも気づかないような人は、少なくともまともな「小説読み(読者)」ではない、と言えるだろう。

実際、本書著者であるカウンセラー東畑開人は、くり返しカウンセリングと文学的営為の相似性に言及しているのだから、それを単なる比喩的なレトリックだとしか思えないような者は、「文学作品」とも無縁の衆生だということにしかならざるを得ないのだ。

本稿では、このあたりについて、ごくわかりやすく説明しよう。

○ ○ ○

著者は、本書において「カウンセリングとは(大別して)2種類ある」ということを、まず説明している。
著者の言葉で言えば、「作戦会議としてのカウンセリング」「冒険としてのカウンセリング」の二つだ。

この二つは、どこがどう違うのか?

「作戦会議としてのカウンセリング」とは、現実生活に具体的な困難を抱えてカウンセリングに訪れるユーザー(クライアント)に対して行うものであり、その具体的な問題の、具体的に解消を目指すものだ。
カウンセラーがユーザーの話を聞きながら、最終的にはその困難への対処方法を、具体的に示すといったようなもののことである。

例えば、鬱状態になって、職場や家庭に困難を抱えている人に対して、「ひとまず仕事を休んで静養すると同時に、専門医にかかりなさい」と、その専門知に基づく具体的な指示を出し、さらに適切な関係機関に連絡をとって引き継ぐなどの、具体的に行動をとるようなやり方である。

一方、「冒険としてのカウンセリング」とは、そうした具体的な問題は無いものの、正体不明な不全感にとらわれているといったような人を対象として、その問題の解決を目指すようなカウンセリングを指す。

このように、前者の「作戦会議としてのカウンセリング」というのは、極めて具体的かつ社会的な働きかけであり、後者の「冒険としてのカウンセリング」とは、個人的かつ、いささか抽象的なものだというのがわかる。

では、どうして、カウンセリングには、このように(大別して)2種類のカウンセリングがあるのだろうか?

端的に言えば、それは時代の要請であり、その変化によるものである。

私などの世代にとってのカウンセリングというのは、後者の「冒険としてのカウンセリング」のイメージが、圧倒的に強かった。
つまり、フロイトユングなどの心理学理論に基づいた、心の問題の解消術がカウンセリングであると、そういうイメージだったのた。

例えば、映画などでもよく描かれたように「繰り返し悪夢を見てしまい、疲弊してしまっている。なんとかならないか」とかいった相談に対し、カウンセラーが必要な質問をした後、催眠術などを使って、ユーザーの心の奥に抑圧されていた記憶を見つけ出し、それを明らかにすることで、ユーザーを悪夢から解放する。一一とかいったパターンの物語である。

例えば、1976年のアメリカ映画『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』ハーバード・ロス監督)には、フロイトその人が登場して、同時代人であるホームズの精神分析をし、それを通して二人が難事件を解決すると、そんな話だったと記憶している。

ところが、こうしたカウンセリングが流行ったのは、社会が経済的に豊かな時代であったからでもある。
ひとまず生活に直接的な差し障りはないものの、何かスッキリしないものがあるから「カウンセラーに相談してみよう」と、そんな感じの余裕があったのだ。

ところが、社会全体が貧しくなってくると、そんな「趣味的」でもあれば「贅沢」とも思えるカウンセリングを受けようなどという人は、必然的に減ってくる。
また、ユーザーが減ってくると、無理やりにでも心の病を作るような、不届きかつ悪質なカウンセラーも登場してきて、そうした「分析的カウンセリング」への信頼が揺らぐことにもなった。「偽の記憶」事件などが、その典型例である。

そこで、カウンセリングの世界でも、「精神分析なんていう、科学的な裏付けに乏しいものではなく、脳生理学などの物理的な根拠に基づいて、ユーザーの抱える問題に具体的に応えることのできるカウンセリング」といったものが重視され始め、相対的に「分析的なカウンセリング」というのは「過去のもの」と見られる傾向が、カウンセリングの世界でも広まっていった。

当然、アメリカなどとは違い、もともとカウンセリングが一般的なものではなかった日本においては、バブル経済崩壊後の現在、主流となっているのは、実用的な「作戦会議としてのカウンセリング」であり、ややもすると「分析学的なカウンセリング」方法を採用する「冒険としてのカウンセリング」は、趣味的な過去の遺物扱いにされることも珍しくはなくなっていった。

だが、こうした二つの時代をカウンセラーとして生きてきた本書著者の東畑開人は、「分析学的なカウンセリング≒冒険としてのカウンセリング」は、決して過去の遺物などではなく、今も必要とされているものだとし、ただ「作戦会議室してのカウンセリング」とは、対象とするユーザーが違うのだと、そうした観点から、カウンセリングというものの全体像を示して、「冒険としてのカウンセリング」を擁護し、その効能を具体的な事例を示しながら語ったのが、本書『カウンセリングとは何か』である。一一と、おおよそそのようにまとめることが出来るだろう。

さて、以上のように説明した上で、後者の「冒険としてのカウンセリング」が、どれほど「文芸批評」に似ているのか、ということを重点的に語るのが、本稿の目的である。

つまり、本書での東畑開人によるカウンセリングについての議論を、さらに文学に引き付けて、「文学とは何か」ということを、ここで説明したいと思う。

 ○ ○ ○

(01)『日本社会の変化

 ここで歴史を見ておきましょう。
 冒険としてのカウンセリングはかつて日本の臨床心理学の主流でした。とりわけ中心にあったのは、河合隼雄のユング心理学で、1970年代から90年代にかけては「いかに生きるか」という実存的な問題に取り組むカウンセリングが学問的にも、社会的にも広く受け入れられていました。
 しかし、その後2000年代に入ると、認知行動療法や家族療法といった作戦会議としてのカウンセリングが主流になっていきます。このとき、第3章で述べたように、生存を目指すカウンセラーたちは、実存に取り組むカウンセリングを強く批判して、それ(※ その批判)は一定の説得力をもちました。
 その背景にあったのは、日本社会の大きな変化です。70年代から90年代の日本社会は経済的に豊かで、比較的安定していました。生存がある程度は保障されていたということです(もちろん、そうじゃない人は多くいたにせよ、全体の傾向として)。そういうとき、人々は「いかに生きるか」という人生の問題に取り組むようになり、冒険としてのカウンセリングが社会的に求められることになります。いわゆる、「心の時代」です。
 しかし、2000年代以降、経済の停滞や格差の拡大によって、日本社会はどんどん不安定な場所になっていきました。人々の生存は脅かされやすくなった。すると、シビアな日常を「いかに生き延びるか」に取り組む作戦会議としてのカウンセリングが必要になってくる。
 人生の問題から生活の問題へ。実存から生存へ。この30年で、心を取り巻く日本社会の状況は大きく変化していったということです。カウンセリングもまた社会的な営みなので、社会の変化の影響をもろに受けます。実際、今では病院や学校のような公的機関では、作戦会議としてのカウンセリングが主流になっていますし、生存の問題は社会的な取り組みの対象になるけど、実存の問題は対象外となっている。
 ここに現代における実存の問題のわかりづらさがあります。しかし、もちろん、冒険としてのカウンセリングが消えたわけではありません。誰とともに生きるのか、なにをして生きるのか、なんのために生きるのか。人生の苦悩自体は存在し続けているからなんです。』(P243〜245)

ここは、すでに説明した、経済的環境の変化によって、カウンセリングも「冒険としてのカウンセリング」ではなく「作戦会議としてのカウンセリング」が求められるようになったという経緯を説明している部分だ。

そこで、この「冒険としてのカウンセリング」を「文化・芸術としての書物(出版)」、「作戦会議としてのカウンセリング」を「商品としての書物(出版)」に置き換えてみれば、私の言わんとしていることは、一目瞭然であろう。
一一こんな具合だ。

日本社会の変化

 ここで歴史を見ておきましょう。
 文化・芸術としての書物はかつて日本の出版の主流でした。とりわけ中心にあったのは、純文学で、1970年代から90年代にかけては「人間とは何か」という実存的な問題に取り組む硬派な文学が学問的にも、社会的にも、まだまだ広く受け入れられて、重視されていました。
 しかし、その後2000年代に入ると、ライトノベルといった娯楽としての文学が主流になって、売れる小説がもてはやされるようになっていきます。このとき、とにかく売れる本を作ることを目指す作家や編集者たちには、実存に取り組むような純文学は、もはや時代にそぐわない古い文学形態と見なされ、表立って批判こそせずとも、文学なるものを持て余し、「売れてナンボ」という身も蓋もない考え方は、現実でもあれば、偽らざる本音として、一定の説得力をもちました。
 こうしたことの背景にあったのは、日本社会の大きな変化です。70年代から90年代の日本社会は経済的に豊かで、比較的安定していました。生存がある程度は保障されていたということです(もちろん、そうじゃない人は多くいたにせよ、全体の傾向として)。そういうとき、人々は「いかに生きるか」という人生の問題に取り組む精神的な余裕もあり、文化・芸術としての書物(出版)というものが社会的にも重視されることになります。いわゆる、「心の時代」です。
 しかし、2000年代以降、経済の停滞や格差の拡大によって、日本社会はどんどん不安定な場所になっていきました。人々の生存は脅かされやすくなった。すると、シビアな日常を「いかに生き延びるか」という気分からの心的防衛装置として、娯楽としての書物が必要になってくる。人々は、生活に疲れて、娯楽による現実逃避を切実なものとして求めざるを得なかったのです。
 人生の問題から生活の問題へ。実存から生存へ。この30年で、心を取り巻く日本社会の状況は大きく変化していったということです。文学(出版)もまた社会的な営みなので、社会の変化の影響をもろに受けます。実際、今では商品価値の高い「売れる本」をという意識が主流になっていますし、どうすれば売れるか、何が売れるのかというのは出版業界全体の中心的な取り組みになるけれど、実存の問題といったことは、建前は別にして、当面の興味の対象外となっている。
 ここに現代における実存の問題を扱う文学の存在意義のわかりづらさがあります。しかし、もちろん、そうした文学が消えたわけではありません。誰とともに生きるのか、なにをして生きるのか、なんのために生きるのか。人生の苦悩自体は存在し続けているからなんです。」

もちろん、カウンセリングと文学では、時代の要請度合いも違っていれば、おのずと時期的なズレもあるだろう。
だが、「時代精神」の問題としては、大きな違いはないはずなのだ。

(02)『 生活を守ることで、人生が死んでしまうことがある

 そう、生き延びるために、心の一部を殺さざるを得ないことがある。すると、自分の一部が死んだまま、生活が営まれることになる。そういうとき、生活は回っているけど、人生は行き詰まってしまいます。生きているけど、死んでいる。そこにはきわめて不自由にしか生きられない心がいる。
 だから、臨床家として思う。これは「贅沢な悩み」なんかではなく、「切実な苦しみ」のはずだ、と。
 ここには生存と実存のここまで触れてこなかった関係があります。生存は実存を支えるだけではない。

 生存は時に、実存を犠牲にする。』

(P246、某点はゴシックに替えた)

私たちは、苦しい生活を生き抜くために、娯楽を必要としている。
しかし、それだけでは、徐々にではあれ、心は枯れていく(貧困化する)しかないだろう。

つまり、生活の必要=生存のための必要が、私たちの精神的な豊かさを後回しにして犠牲にした挙句、私たちの実存自体が犠牲になるのである。
生活的な現実から逃れるための苦しまぎれの薬物依存は、その人の実存を根底から破壊してしまうといったことと、これは似たような話でもあろう。

(03)『 この(※ インテーク面接=初診の)とき、ヒントになるのが、ユーザーの心の麻痺している部分、あるいは死んでいる部分の存在です。
 これは臨床経験を重ねる中でセンサーが働くようになってきたものなので、一般的な説明をしにくいのですが、たとえば理路撃然と自分の話をしているのに、どこか上滑りしていて、気持ちが感じられないユーザーや、特定の話題だけ突然解像度が低くなり、感情が暴走しているように見えるユーザーのことが思い出されます。(※ 著者・東畑のユーザーである仮名)ハルカさんでいえば、「他者(とりわけ夫)と一緒に物事を考えられない」という麻連した部分が観察されました。
 つまり、心に凸凹がある。ちゃんと機能している部分と機能不全の部分がある。社会的には大人に見えるのに、局所的に子どものような未熟な部分がある。
 こういうときに、僕は外からは見えない孤独や古傷がユーザーに存在していることを感じます。』(P272)

例えば、昨今のライターによる書評などを読んでいると、これと似たような感覚を覚えることがある。
例えば、すごく褒めているのだけれど、熱意が伝わってこない。絶賛しているのに、その表情は能面のようだ、といった印象である。

きっと、このライター氏は、本当はそこまでその本を素晴らしいとは思っていないのだろう。だが、与えられた書評の仕事とは、基本的に、その本が売れるようにするためのものであり、要は褒めることを求められている。
だから、個人的には「つまんねえ本」だと思っても、良いところを探し、人が面白いと感じるかもしれないところを探して、そこを褒める。一一その時、そのライター氏は、自分の感情を殺し、実存からの声を押し殺しているのだ。
これがか『生存は時に、実存を犠牲にする。』ということの意味である。


(04)『小まとめ一一不自由について

 以上、冒険をはじめるユーザーの特徴を、さまざまな角度から見てきました。
 その本質は「不自由」にあります。心の一部が死んでいて、動かなくなっている。あるいは、心の一部にある痛みに触れないように、無理な体勢で生きている。この不自由な生き方によって、他者とのつながりも自分自身とのつながりも制限され、人生が行き詰まっている。この判断がインテーク面接で行われます。
 先ほども触れたように、カウンセリング全体で見ると、冒険向きのユーザーは作戦会議向けのユーザーよりだいぶ少ないです。当然です。生活が成り立っているのに、カウンセリングを求めるというほどの動機が出てくることはそれほど多くない。
 それでも、この不自由さ自体は多くの人の心にあるものではないでしょうか。僕らは今、生存のために多くを求められる社会を生きている。そう、流動的で不安定な新自由主義社会。
 そこでは、かろうじて生き延びたとしても、その裏にあった傷つきや苦悩は無視されやすい。生存に苦しむ人たちが多くいる中で、実存的な苦しみは「贅沢な悩み」と言われてしまいやすい。生存に苦しむ人たちが多くいる中で、実存的な苦しみは「贅沢な悩み」と言われてしまいやすいからです。すると、苦悩を理解されなかった人たちはますます精巧な鎧を整えることに必死になり、気づけば死んでいる自分に気づかなくなってしまう。
 僕にはハルカさん的な生き方は、まさに現代という時代の産物のように思えます。生存が実存を犠牲にする。そのとき、人は他者に冷たくなります。心は世界へのチャンネルを閉ざしてしまうからです。自分の実存が大切にされないときには、他者の生存も実存も大切にできない。そういう社会の病の中で、ハルカさんは生き延びるために、鎧を厚くしてきたという側面もあると思うのです。ここに病のループがありますが、これについてはまた別の機会に譲りましょう。』(P273〜274)

『冒険をはじめるユーザー』とは、「実存と向き合うという冒険が必要であり、それを始めるユーザー」という意味だ。
そういう『冒険向きの(冒険を必要とする)ユーザーは作戦会議向けの(生活改善で事足りる)ユーザーよりだいぶ少ない』。

つまり、先の「心にもない書評を書いているライター」氏で言えば、そうした生き方を「生活上やむを得ないこと」として受け入れて、それを特に苦にもしなくなったなら、それはそれでなんの問題もなく、自身の実存(的な良心)を問題にすることもないのだけれど、中にはごく稀に「俺は(私は)、こんな提灯持ち記事を書くために、ライターになったんじゃない」と悩んでしまうような人もいて、そういう人には、「そのとおりだよ。貴方は自分の本当の気持ちを偽っているから苦しいんだ。そのことを、苦しくても直視すべきなんだ。でないと、貴方はいつまでも救われないよ」と指摘する「冒険としての批評」も必要となるのである。

無論ここで言う「批評」とは、単なる「この作品は、ここがこのように素晴らしい」とか言っているだけの批評文ではなく、作品の急所をついて、その問題を剔抉し、そのことでその作品と作者を「救おうとする」ような批評のことである。
だからこそ、そうした批評は「文学」の名にも値する。

(05)『 冒険としてのカウンセリングとは物語的営みであり、そこで生じるのは文学的変化である。

(P303、某点はゴシックに替えた)

つまり、「冒険としての批評」とは「批評対象の自己欺瞞的な物語を書き換える、物語的な営み」であり、そこに生じるのは「私の本当の気持ちは、こんなものではなかったのだ」という本質的な「気づき」であり、それがもたらす変化なのである。

言い換えれば、エンタメ的な「一時的な気散じ」ではなく、自己の実存と向き合うのが「文学的な営為」であり、それによって惹起されるのが「文学的な変化」なのだ。

(06)『 無意識なのでしょう。だけど、彼女(※ ハルカさん)の何かが動いたのだ。(※ 夫である)彼のことが気になり、彼のことを知ろうとしたのだ。
 (※  褒められたことではないとしても、夫の)スマホを覗くのは、相手を信じたいからです。相手に何も期待していないならば、事態を放置するだけです。ハルカさんの心に(※ 夫に対する心の)変化が起きている。そう思ったので伝えてみました。
「夫を知りたい気持ちと、夫を知るのが怖い気持ち、両方があるのかもしれない」
 彼女は沈黙で答えました。(※ 僕=著者東畑の指摘に)納得いっていないのが伝わってきます。でも、僕は続けました。
「さらに裏切られることに耐えられないほどに傷ついているから、夫に何も話せないでいるのではないかと(※ 僕は、貴方の話を聞いて、そう)思いました」』(P322)

「なぜ、わざわざ嫌なことを確認(し、指摘)するのか」と言えば、それは『相手を信じたいから』である。

『相手に何も期待していないならば、事態を放置するだけ』で、その問題点を指摘して、わざわざ嫌われるようなことなどしない。

どこかで少しは「わかってくれるのではないか」そして「少しは変わってくれるのではないか」という期待があるから、耳に痛いこともあえて言うのである。

(07)『冒険の本質にあるものも「破局」でした。
 破局しないように高度に防衛されていた心を(※ あえて)揺らし、破局を引き起こし、(※ その上で)それを生き延びる。そうすることで、古い自分が死に、新しい自分が生まれる。古い物語をきちんと終わらせることで、新しい物語がはじまる。
 こういう心のプロセスを、ユング心理学は神話学の言葉を借りて「死と再生」と呼んできました。人生の危機とは、行き詰まった古い自分が死ぬことであり、新しいやり方で生きる自分が生まれることだという知恵が、ここにはあります。
 だから、冒険としてのカウンセリングは苦しいんですね。古い物語をちゃんと終わらせて、古い自分を埋葬する必要がある。そのためには、破局的大嵐の中を突き進まないといけない。』(P335〜336)

相手の「自己欺瞞的な現状」を変えるためには、生半可な「助言」などではどうにもならない。
「本音で書いた方がいいよ」などと言ったところで、「そんなこと、お前に言われなくてもわかっているよ。癇に障ることを言うやつだな」と思われておしまいだろう。

だから、「君の書くものは、これこれこうで、読者に対しては無論、君自身に対しても不誠実なものであり、それは社会に害悪を垂れ流すものでしかない。だから今すぐに、そんなものを書くのはやめろ」と、時には公衆の面前で、そう突きつけるようにして言う必要もあるのだ。
つまり「殺すつもりで書く(言う)」のである。

それでその相手が「死を経ての復活(新生)」を得ることになるか、ゾンビとして生き続けることを選ぶかは、所詮はその当人の選択であり、器でしかないのである。

(08)『 カウンセラーの仕事のひとつが解釈でした。それはユーザーの心の中で主流になっている物語に対して、カウンセラーの視点から見えた別の物語を語ることです。異なる物語を並べることで、心を揺らしていくのが僕の仕事です。
 生存の時代だからこそ、つまりは個人の小さな文学が見失われやすい時代だからこそ、カウンセラーとして、解釈したい。

 心の変化には科学的な次元もあるい、文学的な次元もある
 この両方を生きるのが、人間である。』 

(P421、某点をゴシックに替えた)

批評家の仕事のひとつが「解釈」することであり、批評対象の心の中で主流になっている物語に対して、批評家の視点から見えた別の物語を語ること、異なる物語を並べることで、批評対象の心を揺らしていくのが、批評家の仕事なのだ。
安易な「通俗的世界解釈の追認」ではなく、「可能なる世界解釈による世界変容の企図(きと)」こそが、文学であり批評なのだ。

(09)『 1990年代の豊かな社会で、文学的な変化を狙う(※ 冒険としての)カウンセリングに憧れた高校生(※  であった僕=著者)は、2000年代以降の生き延びることが切実になった貧しい社会で、科学的な変化を狙う(※ 作戦会議としての)カウンセリング「も」学ぶことになりました。その両方を生業としてきた心理士が、2025年にカウンセリングの全体を語ろうとするときの結論が以上(※ 本書で語ったところ)のものです。
 個人の小さな文学性(実存的なリアリティ)が見失われるとき、社会では巨大で暴力的な物語が(※ 小さな個人に対して)猛威を振るうことになります。世界のあらゆるところで、大きな政治的物語に人々が熱狂している時代にとりわけそう思わざるをえない。人間は(※ それがどんなものであれ、とにかく)物語の不在に(※ は)耐えられない。そのとき、「個人」という小さな文学は踏みにじられやすくなる。

 第1章で、カウンセリングとは(※ 個人主義としての)近代というものの副作用(※ たる孤独)に対処する営みであると述べました。人が個人として生きていくこと。この近代のプロジェクトには困難がある。個人は根源的なさみしさに耐えがたく、社会は個人を維持するためのコストを放棄しやすいからです。たとえば、個人は自由を放棄して、それを大きな物語に委譲してしまうし、戦争やコロナ禍のような危機には社会は急速に自由を制限します。人は容易に個人ではなくなってしまうし、他者を個人として遇することができなくなる。
 だとするならば、個人的な物語を生きることを可能にしようとするカウンセリングには、大きすぎる物語の暴力に抗するための社会的使命があるはずです。
 いや、気負いすぎかもしれない。カウンセリングは微弱な社会的役割しか果たせないのかもしれない。それは個人というものの微弱さと同じくらいの力しかないのでしょう。
 でも、そういう微弱な力の積み重ねにこそ、人間が社会を作ることの可能性を見るのが近代というプロジェクト(※ 個人の尊重)であったはずです。
 この本全体のエピグラフにルソー『告白』を置いたのはそれが理由です。読み返してみてください。そこには正直であることへの賛歌と、「私(※ 個人)であること」の深い肯定が響いています。
 神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な(※ しかし、孤立しがちな)個人になった。その分、世界はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明(※ 承認)することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。こうして生まれた個人たちの集合体として社会を作っていく。これがルソーによる近代の構想でした。そのために、ルソーはほんとうの話を告白し、個人的な文学というものがありうることを示しました。
 人と人とが話をし続ける。正直に打ち明けることを続ける。ここにあるラディカルな率直さこそが、個人という次元を浮き彫りにし、個人的な文学を可能にする。この近代におけるありふれた、しかし必須の人間的営みが不全に陥ったときに、カウンセリングは姿を現す。
 僕はカウンセリングをそのような役割を背負った社会的営みだと考えています。』(P421〜423)

ここで語られている「カウンセリングの社会的な使命」というのは、そのまま「文学の社会的な使命」でもあれば「批評の社会的な使命」でもあろう。

社会の圧倒的な流れに抗って「個人の物語(本音=正直な気持ち)」を擁護する。
それが、文学であり、批評であり、文芸批評なのではないか。

(10)『 カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。』(P424)

文学とは、そして文芸批評とは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。

(11)『 僕は今、このふしぎと出会いながら仕事をしている。

 そのふしぎとは、勇気のことです。
 この本では何度も何度も、「勇気」という言葉を使いました。変化するということを考えるときの核心の部分に、勇気というふしぎを見出してきた。
 自己ー心-世界モデルで言うならば、自己と世界が振るうのは運命の力で、心に備わっているのが勇気の力でした。プラトンアリストテレス、そしてキケロが言っていたように、勇気とは心に発動される古代的な徳です。実際、英語で勇気は“courage”ですが、その語源はラテン語の“cor ”、つまり心のことです。ちなみに、勇気の反対である「臆病」の「臆」という漢字の語源も心という意味だそうです。』(P431)

文学は、そして批評は、生活のために自身を偽り、社会が強制する物語に順応することで安心を得ようとする者に対して、「勇気を持って、目を見開け。己の心に耳を傾けよ」と要求する、それ自身「勇気」無くしてはなし得ない、人間的な勇気の所産なのではないだろうか。

文学も批評も、勇気なくしては為し得ない、崇高かつささやかな、人間的な言葉の営為なのである。


(2026年4月15日)

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