▷ 書評:金間大介『無敵化する若者たち』(東洋経済)
「今どきの若者って、どうなのよ?」というのは、いつの時代にも年長者の興味のあるところであろう。
けれども、私の場合、あまり他人のことには興味のない方だと思う。
警察官をしていた頃には、そうもいかなかったのだが、退職して隠居の身になると、そうした切実さはすっかり消えてしまう。
本書にも書かれているとおり、今どきの若者を理解したい年長者の多くは、そうした若者たちの職場での上司であったり先輩であったりする人たちなのだろう。
どうやら自分の時代とは違ってしまったらしい若者たちをどう扱えばいいのかとそう考えるから、若者を知る必要も出てくるのだ。
ところが、私の場合、警察官という職業は、あくまでも「食い扶持を稼ぐためのもの」だったから、仕事に情熱を傾けることもなければ、昇任(出世)しようとも思わなかった。事実、公言したとおり、退職するまで「生涯一巡査」を貫いた。
これは警察の場合、頑張って勉強をし多少昇任したところで、給料はほとんど上がらず、責任ばかりが重くなるという傾向が顕著だった(警視クラスまで行けば、退職後の天下り先などはあったが、それまでの勉強や仕事が大変だ)からだし、私にとって警察官であるというのは、所詮は「仮の姿」でしかなかったからで、おのずとそこまでは、やる気もなければ昇任への意欲などもなかった。
つまり、毎年と入ってくる若手たちと同じ平巡査だったから、上司としての気遣い(指導責任など)は必要はしなかったし、昔とは違って、先輩の絶対権威が失われても、それはそれで覚悟の上のことだったのである。
まあ、今どきの若者から見れば、そんな私は、自分もそうなりたい理想としての「働かない年寄り」だということになるのかも知れない。
で、そんな私が本書を読んでみると、一一上のような、仕事に対するやる気のなさにおいて、むしろ今どきの若者は、私と酷似していたので、その点でとても興味深かったのだ。
ワーク・ライフ・バランスなんてことが言われるようになる遥か以前から、私は明確にプライベート偏重の、確信犯的なディレッタント(趣味人)だったのである。
言うなれば、時代が私に追いついてきた、ということか。
ま、それは冗談だが、本書で扱われている令和の若者と私の間には、たしかに似たところがある。
もちろん、こちとら還暦をすぎた昭和のジジイなんだから、違っているところがあるのは当然なのだが、だからこそ似ているところのある点が興味深い。なにしろ、わざわざ「今どきの若者の特徴」として語られている部分だからである。

『『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』の著者が再び若者心理の謎に迫る!
大学生を含む現在の若者たちを主な対象として、彼らが抱える複雑で微妙な心理を解読していく本だ。扱うテーマは、キャンパスの中の学生生活をはじめ、働き方、恋愛、飲み会の場に至るまで、多彩な切り口を用意した。そこで醸し出される彼らの言動は、まさに「無敵世代」と呼ぶにふさわしい。本書で扱う無敵の若者たちの特徴はつぎの通りだ。
● 安定志向が強く、仕事に対する熱意や欲求がない
● 安定志向が強く、仕事に対する熱意や欲求がない
● 上の世代がためらうような権利主張を平気でする
● 自己評価が高い
● いい子を演じることで上世代と一定の距離を保つ
● 努力はその価値があってできる人がするもの
まさに無敵と思える状態がずらっと並ぶ今の若者たち。読者の皆さんも思い当たる点はあるだろう。しかし、そんな若者たちにも弱点がないわけではない。それはつぎの通りだ。
「言い訳」がないと自分から行動できない、異性が集まった場、同世代のいない世界、長文の熟考・深慮・考察、やりたいことが見付かった友だちから放たれる光と自分への不安
本書では、こうした味わい深い現在の若者たちの行動と心理を、「無敵」をキーワードにして、徹底的に可視化していきたいと思う。(「はじめに」より抜粋)』
『「意識高い系」はわずか1割。「無敵化」するマジョリティ層
世間一般のZ世代像(意識高い・起業・SDGsに興味)は、実は1割程の「自己実現タイプ」に過ぎません。対して、若者の半数を占めるサイレントマジョリティこそが「いい子症候群」です。彼らは目立つことを嫌い、冒険よりも現状維持を好む「安定志向タイプ」。キラキラしたイメージとは対極にあり、競争を避け静かに自己を守ることで現代社会を生き抜いています。
そして今、従来のいい子症候群からさらに変化し、独自の「無敵化」が進行しているのが20代半ばまでの若者たちです。上の世代が静かに安定を求めるのとは一線を画す、この「無敵世代」の実態を本書は可視化します。』
『異性交流はリスク!?20代男性の7割近くが妻も彼女もいない
20代独身男性の4割は一度もデートした経験がない──。2022年6月に公表された内閣府「令和4年版男女共同参画白書」は、少子化の不安が高まる中、大きな話題を呼んだ。
白書のもととなった調査は、やはり内閣府が実施した「令和3年度 人生100年時代における結婚・仕事・収入に関する調査」だ。同調査が行われた2022年1月時点で、20代男性の65.8%は妻や恋人がおらず、そのうち39.8%はデートした人数0人。
20代女性も似た傾向にあり、51.4%に夫や恋人がおらず、そのうち25.1%がデート未経験という結果だ。まず、「20代男性の7割近くが妻も彼女もいない」という記述が目に飛び込む。実際のところ、特に男性において20代の既婚者数は少なく、よって「7割」の多くは「彼女なし」で構成される。街では多くの若いカップルを見かけるし、異性との交際を楽しんでいるように見える。しかしその実は、そんな彼らは少数派。大多数の若者は少数の同性同士で多くの時間を過ごす。
奥手で繊細で異性への興味が薄い──。かつて、日本人男性のそういった気質を「草食化」と揶揄したのが2009年のことだ。そこから16年が経ち、草食化どころか「絶食化」の様相を見せる令和の若者たちの姿は、いくつものデータが描写している。(「第6章」より抜粋)
本書では、「恋愛はリスク」「頑張るのは損」と捉え、独自の生存戦略をとる現代の若者の恋愛観についても解き明かしていきます。』
(以上、Amazonの本書紹介ページから)
〈私との共通点〉
・ 安定志向が強く、仕事に対する熱意や欲求がない
・ 自己評価が高い
・ いい子を演じることで上世代と一定の距離を保つ
・ 目立つことを嫌い、冒険よりも現状維持を好む「安定志向タイプ」
・ 奥手で繊細で異性への興味が薄い
以上は、ほぼ同じ。
『いい子を演じる』というのは、ぜんぜん違うと言われそうだが、こんな私も、職場などの「興味のない場所」では、無難にいい子を演じて、やり過ごす(流す)のである。
また最後の『奥手で繊細で異性への興味が薄い』については、私は「繊細」ではない、という条件は付くけれども、結婚には興味がなかったし、見合いは親に勧められて嫌々ながらの一度だけ。コンパに参加したことは一度もない。一一と、消極的なことこの上なかった。
ハッキリ言って「女は面倒くさい」という感じがあった。
もちろん性欲もあれば、美人も可愛い娘も好きだったが、自分とは縁遠いと諦めていた。身の程を弁えていたのだ。
また、そこで妥協するくらいなら、好きな趣味に賭けた方が楽しいに決まっていると、そう割り切っていたのだ。
〈私との相違点〉
・上の世代がためらうような権利主張を平気でする
・努力はその価値があってできる人がするもの
・「言い訳」がないと自分から行動できない
・長文の熟考・深慮・考察
・やりたいことが見付かった友だちから放たれる光と自分への不安
こうした点は、明確に違う。
『権利主張』はするように努力していたが、それが苦手ではあった。つまり「ためらい」があったわけだ。
この点、私は明らかに「古風」である。
『努力はその価値があってできる人がするもの』一一いうのは、本書では「する価値のあるもの」を(できる人がする)という意味ではなく、「する(挑戦する)価値のある(結果に期待できる)、才能や資産に恵まれた人のするもの」という意味だ。才能や環境に恵まれない凡人が、そうしたものに恵まれた人たちと競争するのは、やるだけ「損」だと考えるのである。
つまり、「親ガチャ」的な「被害者意識と諦観」が、その根底にあるのだ。
当然、私はこのようには考えない。
私は、努力というのは「好きなことなら出来るが、好きでないことは出来ない」という極端な人間だし、好きなことについての努力は、そもそも努力だとは感じないので、自分的には「あまり努力をしたことがない」という感じなのだ。
つまり、「損」だから「しない」のではなく、そもそも「出来ない」のである。出来ないものはやれないのだ。他人がどうこうという話ではないのである。
『「言い訳」がないと自分から行動できない』ということはない。
好きなら勝手にやるし、好きじゃないと強いられてもなかなか出来ない。
私が仮にも警察官をやれたのは、趣味の生活を続けるためには避け得ない「方便」だったからだ。
『長文の熟考・深慮・考察』は、得意と言うか、むしろ「好きこそ物の上手なれ」というやつである。
才能はなくても、とにかく楽しくやり続けることが出来たのだ。
『やりたいことが見付かった友だちから放たれる光と自分への不安』どころか、やりたいことが多すぎて、他人の趣味など気にしていられない。やりたいことが見つからないということの方が、私には不思議である。
だから私は、安定指向である反面、その上で、金よりも時間が欲しいと、ずっと思ってきた。
一一まあそんなわけで、「今どきの若者」に対する興味というのは、無いわけではないけれど、本を読んでまで知ろうという気もなければ、その必要性もなかった。
無職なので、直接からむことがないからでもあろう。
だから、本書著者の前著である『先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち』も、そのタイトルからして「なるほど、今どきの若者らしいな」と思う半面、しかし「俺もそうだからなあ」とも思ったから、買うまでには至らなかった。
私も、褒められるのは苦手で、たまに褒められると「過分なるお言葉に恐縮するばかりです」といった遜った定型句で逃げてばかりだし、『薔薇の鉄索 村上芳正画集』(国書刊行会)を監修者として刊行したときなど、何度かトークイベントに出ないかと誘われたことはあったが、所詮は素人のオヤジが、有名人になったような面をして壇上に上がることなど、恥ずかしくて出来ないと、すべて断った。

その当時は、私は自身のこうした感情を、「照れ」だとか「謙遜」だとか「馬鹿と煙は高いところが好き」なのだから、自分が同じことをするのは嫌だとか恥ずかしいと考えていたのだが、本書を読んで気づいたのは、私のそれも今の若者と同じで、目立つ立場は「危険だ」という意識があった、ということなのだろう。
高いところに上れば目立ったりチヤホヤされたりするかわりに、他人からの攻撃にさらされた時に弱い。
なぜなら、相手からこちらは丸見えでも、こちらから相手の姿は見えないからである。これは、フットライト効果とでも言うのだろうか。
ともあれ、このように私には、確実に、安全・安定指向的なものがある。「君子、危うきに近寄らず」なのだ(「安心安全」ではない。安心は、主観的なものにすぎないからだ)。
だが、そのわりには、始終ケンカをしているではないか、あちこちにケンカを売ってるではないかと、そう言われるだろうし、そのあたりが今どきの若者とはぜんぜん違うと言われそうなのだが、その「違い」にも、ちゃんと理由がある。
私と今どきの若者との根本的な違いは、私には「やりたいこと」が常に明確にある、という点なのだ。
つまり、やりたいことだから、ケンカも買うしケンカも売る。
私のやりたいこととは、忌憚なく自由に、自分の意見を公にすること、言いたいことを言うことである。
だから、そのために必要なケンカなら辞さないし、それも好きでやるのだ。
当然、そうした目的に合わないようなケンカなどしない。
私のケンカは、自分の「自由な言論」を守るために必要なものだからやっているのであって、自分の立場を危うくするためにやっているのではない。
自分の立場とは、あくまでも「自由に発言ができる」という立場であり、「こいつは言いたい放題の自由なやつなんだな」と、そう認めされるためのケンカなのである。
だから、そこさえ担保できるならば、別に目立たなくてもいいし、カネを稼げなくてもかまわない。
カネは別口に稼ぐから、金儲けのために筆を曲げたり、口を慎んだりしなくてもいい。そのために、趣味と仕事は分けているのだ。
「note」でのプロフィール用記事のタイトルも『私自身など どうでもいいんだけれど、書いたものは読んで欲しいので、自己紹介します。』というものになっており、次のような、一見「謙遜」そうなことを書いている。
『偉そうなことを書きます。私は、個人としては目立ちたくない。どっちかと言うと、こちらは見られず、すべてを見たい「屋根裏の散歩者」みたいな人間です。』
つまり、私は一方的に他を観察して、一方的に論じる立場に立ちたい。一一これが理想だし、最も安全な立場だというのがわかるはずだ。
だが、だからといって、よくあるように「匿名」の安全圏から言いたい放題言うというのは違う。
それはそもそも「私の発言」ではなく、「発言(責任)主体なき発言=誰のものでもない雑音」でしかないからだ。
そんなわけで、本書で指摘されているとおり、今どきの若者は、責任主体になることを怖れて、目立たぬよう周囲と歩調を合わせた行動を採りたがるが、この点、私は真逆である。
私の場合は「そんなの、つまらねえ」と思うから、どちらかと言えば、あえて逆を行きたがる天邪鬼である。
つまり、無駄に目立ちたくはないという「安全指向」は同じでも、私の場合は、まず「私は私だ」というのが大前提での安全であり、自分を捨ててまでの安全を求めているわけではないのである。
本書著者の前著『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』は、ちょっと興味は惹かれたものの、購入するまでには至らなかったのに、ではどうして、本書を買ったのかと言えば、それはたぶん『無敵化する若者たち』という、前著とは真逆に近い印象のタイトルに「面白いじゃねえか。俺と勝負する?」みたいな、無敵の若者に対する対抗意識をくすぐられたからではないかと思う。

しかし、本書を読んでみればわかるとおりで、『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』というような遠慮がちな若者たちも『無敵化する若者たち』は、決して別物ではないし、矛盾するものでもない。
今どきの若者たちは「個人として強くなったから、無敵化した」のではなくて、世代人口が減ったせいで稀少性が高まり、その結果として、世代全体としての立場が強まって、無敵化したにすぎないのである。
また、意志を鍛えて強くなったのではなく、「自分を大切に」「あなたはあなたのままで良い」などといって育てられたから、それをそのまま自然なものとしているだけなのだ。
○ ○ ○
そんなわけで、「無敵化した若者たち」は、敵視するほどの存在ではなく、「まあ、今どきの若者たちって、なるほどこんな感じなんだろうな」と、私はそうした若者たちに関する情報を、一般教養的なものとして、かなり覚めた目で見て、本書の前半を読んだ。
だが、最終章を含む全9章のうち、終盤の第7章に至って、本書は俄然おもしろくなった。
たぶん、多くの人はそうは感じないだろうけれど、私にとってはそうだったのだ。
一一どういうことか?
それは、一般に本書で興味を持たれるのは「今どきの若者たちの特徴とは、どういうものか」という情報部分なのだが、私の興味はそんなものにはなかった。
そこは、私にとっては「へぇ、なるほどそうですか」という感じの雑学的な知識でしかなく、そんなものは大して面白くはない。
ところが、終盤第7章に至って、そうした「現状報告」ではなく、章題「なぜ「安定指向」の若者たちは生まれたのか」とあるとおり、そこからは著者独自の批評的分析が語られだし、それが面白かった。
しかも、この「歴史的見地からの分析」で面白かったのは、こうした若者たちは「前の世代が生んだもの=社会貢献よりも、まず自分を尊重する態度」であり、それは「歴史的な必然であった」とするものである点だ。
また、それゆえに、前の世代が今どきの若者たちの「在り方」を(今更)否定する資格はない(反動である)し、そうした変化は止むに止まれぬことだったのだから、それを否定しようとか、改善しようなどとしても無駄なのだと、そういった、本書のようなビジネス書系の本には珍しい本質論を、堂々と展開していた点が素晴らしかった。
想定される読者が求めているような話を、求められているように語るだけの本ではなく、「若者たちについて、そういう興味を持っている年長世代のあなた。若者をどうにかしたいとそう考える前に、まず考えなければならないのは、彼らを作ったあなたがた自身の世代のことなんじゃないですか」と、ズバッと指摘しているところが素晴らしい。
だから著者は言う。
若者を変える必要はないし、変えられるものでもない。それは、必要に応じて必然的に生まれてきたものなのだから、それは変えるべきものでもなければ、変えられるものでもないのだ。
むしろ年長世代が考えなければならないのは、彼らを正しく理解することで彼らとどう折り合っていくかであり、その上で、若者たちがより良く生きられるようにしてあげるにはどうすれば良いかと、それを考えることなのだ。
一一と、大筋このようなことを提案しているのである。
では、こうした著者の提案に対し、私自身は、どのように若者と向き合うのか?
それは、そもそも世の年長者世代に反発してきたへそ曲がりとして、もともと若者を変えようなどという積極的な気持ちなどなかったのだし、そもそも若者であろうと年寄りであろうと、他人にはさほど興味がなく、今回の場合、私の興味はただ「一般教養的な情報として、ひととおり仕入れておいてもいいな」程度のものでしかなかったのだから、そんな私がすることとは、結局のところ、私が「したいことをするだけ」なのだ。
若者であろうと年長者世代や年寄りであろうと、他の人はどうでもいい。
私は「私」として、私を主張するだけであり、世代で自分を括る気などさらさらないのだ。私は「他とは違う」のだと、そういう意識(自負)でやるだけなのである。
一一なんと、今どきの若者と似てもいれば違ってもいるのだろう。
だが、こうした「遠慮のない態度」も、今どきの若者たちとのつきあい方のひとつなのではないだろうか。
妙に若者の顔色を窺ったりもしないかわりに、若者を改造して利用しようとしたりもしない。
私はただ私の道を行くし、それができれば、おのずと(一部の)若者からも理解されるのではないかと、そう思っているのだ。
自分のことを棚に上げて、ああしろこうしろではなく、「私を見よ」一一これなのである。
本書著者自身、若者を変えようとする考え方には反対する反面、しかし、若者たちの「このままで満足」という現状維持指向については、「甘い」と指摘している。
なぜなら、今の社会は彼らが少数派だから、一時的に得をしているだけで、年長者世代が退場していって彼らが社会の中核になった際には、とうぜん社会は、今のようには機能せず、彼ら自身が苦労することになるからだ。
社会のための献身的な努力はしなくても良い。しかし、自分の将来のための社会は作るべきだし、そうしないと損をするのは自分自身なのだ。
したがって、われわれ年長世代がすべきことは、自分の価値観に合わせて若者を改造しようとすることではなく、若者たちを含めたこれからの社会のために、若者たちに提案することなのではないか。
そしてそれは、ああしろこうしろではなく、私はこう思うし、こうしているといった、そんな態度を示すことなのではないだろうか。
若者たちを変えることは出来なくても、あんなふうになりたいと、若者たちに思わせるような積極的な何かを、年長者はその振る舞いにおいて提供すべきなのである。
(2026年4月28日)
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