有島武郎 『一房の葡萄 他四篇』: 聖女は魔女か?

▷ 書評:有島武郎一房の葡萄 他四篇』(岩波文庫)


有島武郎を読むのは、これが初めてである。

教科書に名前が載っているような文学者なら、代表作の1冊くらいは読んでおかないと気が済まないタチなのだが、不思議と有島武郎を読もうと思ったことはなかった。

私が有島武郎について知っていることと言えば、

(1)白樺派
(2)お金持ちだったが、農地を開放したりした理想主義者
(3)自死した
(4)著者としては『或る女』『生まれ出づる悩み』などがある

といったところだろうか。

なんで有島を読もうと思わなかったのか、つらつらそれを考えるに、ちょっと真面目すぎて線が細い人、という印象があったからかも知れない。
真面目な人は嫌いじゃないし、だから若い頃に読んだ白樺派も武者小路実篤は大好きだった。『馬鹿一』とか『幸福者』とか、素直に感動したと記憶している。

ただ、線が細い人というのは、どこか物足りない感じがして、そのへんで触手が動かなかったのだろうと思う。

自殺した作家といえば、芥川龍之介の場合は、あくまでも技巧派的なところで読んだし、太宰治の場合はあんまり人気があるのでちょっと読んでみたが、泣き言で同情を買うみたいなところが好きではないし、一人で死ななかったところも嫌いだ。あと、川端康成も、かつてはあまりにもメジャーすぎて、かえって読む気がおこらなくなった。
三島由紀夫は、自死と言ってもかなり意味合いが違うから、そこは気にならなかったと言うか、そこで興味を持った部分はあったし、中井英夫澁澤龍彦の友達ってところで、村上芳正が装幀をやった「豊饒の海」四部作の他、あと何冊かは読んで最低限の義理は果たしている。

で、有島武郎の場合は、そんなに話題になることもなければ、ここが嫌いだというところもなく、ただ「良い人」という印象が強かったので、小説家としては、かえって興味が湧かなかったのだと思われる。

だが、そんな有島武郎の、しかも童話作品である「一房の葡萄」を今回読む気になったのは、ひとえに、先般「note」でフォローさせていただいた、椿カヲル子鈴木薫)さんの「一房の葡萄」論を読んだからだ。

読んだと言っても、「note」での連載で、24回+【まとめ】1回の現在でも、まだ続きのありそうな長編評論のため、私はこの連載の第3回までを読んで「「一房の葡萄」って、こんな小説だったのか!」と驚かされ、続きを読む前に本編の方を読まなければと、椿さんの評論を読むのはそこでいったん止めて、岩波文庫『一房の葡萄 他四篇』を入手したのである。


で、短編「一房の葡萄」を含むこの短編集を読んだ後、椿さんの「一房の葡萄」論を、現在公開なさっているところまではぜんぶ読んだのだが、あらためて感心させられた。
こんな真っ当な「文芸評論」なんて、今どきは本屋に行っても売っていないというほどの、正統派の「文芸評論」である。

私のような、直観と思いつきだけで書いているのとは違い、深い教養に裏打ちされた、それでいて、極めてエッジのきいた評論なのだ。
一一私がお世辞で書いていると思うのなら、それこそ第3回まででいいから、椿さんの「一房の葡萄」論を読んでみると良い。必ずや「たしかにこいつは本物だ」と感心せざるを得ないはずだ。

さて、有島の「一房の葡萄」を読まないまま、気楽に読み始めた椿さんの「一房の葡萄」論に、私は何を見つけたのか。

それは、この作品が、形式的には童話でありながら、読める人が読めば「きわめてエロティックな作品」であることを、椿さんの分析を通して知らされたのだ。
それで「これは、読まないではないぞ」となったのである。

 ○ ○ ○

本書『一房の葡萄 他四篇』に、収められている短編は、次のとおりである。

 (1)「一房の葡萄」
 (2)「溺れかけた兄妹」
 (3)「碁石を呑んだ八っちゃん」
 (4)「僕の帽子のお話」
 (5)「火事とポチ」

ごく簡単に紹介すると、

(1)は、子供の頃、教師が全員外国人という学校に通っていた語り手の日本人少年が、後に語る、大好きだった女性教師の思い出。

(2)語り手の少年が妹らと子供だけで海へ遊びに行って溺れてしまい、もう少しで妹を死なせてしまうという羽目に合わせたが、駆けつけた青年に危機一髪で助けてもらったという思い出。

(3)語り手の幼い少年が、碁石で遊んでいたところ、その碁石に興味を持ったまだ三歳の弟の「八っちゃん」が、その碁石を呑み込んで喉に詰まらせてしまい、大騒ぎになった時の思い出。

(4)父に買ってもらった大切な帽子を、いつも片手に握って寝ていた少年が、いつの間にか帽子が彼の手から逃げ出したのを、町中追いかけまわした、という夢の話。

(5)家が付け火に遭って火事になった際、真っ先にそれに気づいて大騒ぎし、家人に急を知らせた飼い犬のポチが、その火事で大火傷を負い死んでしまうという話。

この中では、無論「一房の葡萄」を中心に論じたいのだが、すでに椿さんによる犀利な評論を読んだ後では、そう目新しいことは、書けないだろうから、そこは他の作品を絡めることで、なんとか少しは違ったことを書こうと思う。

まず、童話と呼んでいい「一房の葡萄」なのだから、普通に読めば、決して「エロティック」な小説などではない。
しかし、幼い頃に憧れた白人女教師の「甘美な思い出」と言えば、どう考えたって、そこにエロティシズムが介在していないわけがない。

その点を椿さんは、作中に登場する「色」などに着目するところから、むしろそのエロティックさこそが、本作「一房の葡萄」の本質だということを、的確に剔抉していく。

例えばそれは、教師控え室の窓の外になっていた葡萄の房をもぎ取り、それを、クラスメートの絵の具を盗んだのが露見してすっかり落ち込んでいた語り手の少年に手渡した際の、その「白い手」という描写だけで、わかる人にはわかるはずだ。

まずは、Wikipediaから「あらすじ」を紹介しよう。

『小さい頃絵を描くことが好きだった主人公の「僕」は、自身の住む横浜の山手に続く美しい海岸通りを絵に描いて再現しようとする。しかし、自身の所持している絵具では、本当の景色で見るような絵には描けない。

ある日西洋人の同級生・ジムの持つ舶来の上等な絵具が羨ましくて衝動的に盗んでしまうが、程なくしてそのことが露呈し、美しい憧れの先生に言いつけられてしまう。泣き続けていた僕を先生は優しく許し、一房の葡萄を渡す。翌日学校へ行くと、ジムが優しく「僕」の手を引き先生の元へと連れていってくれる。そこで2人は葡萄を分け合い無事仲直りをすることができた。

それから時は過ぎ、秋になると葡萄の房はいつでも美しく紫に色づいて実るが、先生の大理石のように白い手が僕の目の前に現れることはもうない。』

(Wikipedia「一房の葡萄」


たしか椿さんは、この葡萄のもぎ取りを「去勢」という心理学用語で語られていたが、まさにそうである。

憧れの先生に、自分のしたことがバレてしまい、きっと嫌われるに違いないと恐れていた少年に対し、先生は、少年を連行してきた他の生徒を教室に帰したあと、少年の反省を確認した上で、それ以上は咎めず、優しく接してくれ、彼を励まそうと葡萄を捥いで、与えてくれるのである。

ちなみに、少年が先生から葡萄をもらうのは二度だ。

最初は、上の窃盗がバレて、先生の控室まで連れて行かれた際。
二度目はその翌日で、おそれを抱きながらも先生との約束で登校してきた少年に対し、絵の具を盗まれた被害者のジムが、前日とはうって変わったフレンドリーな態度で彼の手を取り、再び先生の控室まで連れて行った際だ。
このとき先生は、少年とジムの仲直りの印として、再び捥いだ葡萄を、銀色のハサミで真ん中から二つに切り、二人に与えるのである。

(1)『 先生は少しの間なんとも言わずに、僕の方も向かずに、自分の手の爪を見つか
いましたが、やがて静かに立って来て、僕の肩の所を抱きすくめるようにして「絵具はもう返しましたか」と小さな声で仰いました。僕は返したことをしっかり先生に知ってもらいたいので深々と頷いて見せました。
 「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか」
 もう一度そう先生が静かに仰った時には、僕はもうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
 「あなたはもう泣くんじゃない。よく解ったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私のこのお部屋にいらっしゃい。静かにしてここにいらっしゃい。私が教場から帰るまでここにいらっしゃいよ。いい」と仰りながら僕を長椅子に坐らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見ていられましたが、二階の窓まで高く這い上った葡萄蔓から、一房の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝の上にそれをおいて、静かに部屋を出て行きなさいました。
 一時がやがやとやかましかった生徒たちはみんな教場にはいって、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は淋しくって淋しくってしようがないほど悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うと、僕は本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄などはとても喰べる気になれないで、いつまでも泣いていました。
 ふと僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋でいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少し痩せて身長(せい)の高い先生は、笑顔を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌てて膝の上から辷り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して、笑いも何も引込んでしまいました。
 「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたもお帰りなさい。そして明日はどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと私は悲しく思いますよ。きっとですよ」
 そういって先生は僕のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。僕はいつものように海岸通りを、海を眺めたり船を眺めたりしながら、つまらなく家に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまいました。』(P 17〜19)

(2)『 二人の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に戸を開けて下さいました。二人は部屋の中にはいりました。
 「ジム、あなたはいい子、よく私の言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたからあやまってもらわなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友達になればそれでいいんです。二人とも上手に握手をなさい。」と先生はにこにこしながら僕たちを向い合せました。僕はでもあんまり勝手過ぎるようでもじもじしていますと、ジムはぶら下げている僕の手をいそいそと引張り出して堅く握ってくれました。僕はもうなんといってこの嬉しさを表せばいいのか分らないで、唯恥しく笑う外ありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生はにこにこしながら僕に、
 「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
 「そんならまたあげましょうね。」
 そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からふつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。』(P20 〜22)


「愛を持って生徒を指導した、優しい女教師の思い出」と、そう言ってしまえばそれまでだが、文学として読めば、これはどう見たって、かなりエロティックだろう。

一番わかりやすいところは、『もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。』というところだ。

この「死んでしまいたいような気持ち」とは、字面的に「あまりにも辛く悲しいから」ということなのだが、しかし、それでも、ただ死んでしまいたいのではなく「先生に抱かれたまま」死んでしまいたいというのは、先生に抱かれている今この時が、死んでも惜しくはないくらい幸福だ、ということに他らならないからだ。

この時の少年の涙は、もはや窃盗についての後悔のそれでないのはもとより、先生を悲しませたことへの涙でもなく、当人にその自覚は十分に無くても、それは「忘我随喜の涙」なのだ。
「ああ、僕は、あの先生に抱きしめられ愛されているんだ」と、そういう特権的な涙なのである。

だから、濃紫の葡萄を乗せた大理石のように白い手の色彩的な対照性というのは、もぎ取るという行為がなくてさえ十分にエロティックだし、ましてやそのもぎ取りが、「去勢」を連想させるのもごく自然なことなのだ。

そもそも葡萄というと、何やら美しい果物のように思うけれど、醒めた目で見れば、葡萄とは、かなりエロティックな果実だ。
なにしろ、はち切れんばかりの小さくて丸い果実が、あれほどひしめき合って実っているのだから、ある意味でそれは、グロテスクとさえ言ってもよいものなのである。

(有島武郎地震による「一房の葡萄」の挿絵)

例えば、こんなことを言うと、葡萄に対する食欲を失う人もいるだろうが、昆虫が葉っぱの裏に産みつけた多数の卵とか、ナタデココみたいなカエルの卵の塊とか、ああいうものに葡萄はそっくりではないか。
また実際、その「繁殖装置」という本質において、それらに大きな違いはない。

また、マスカットの薄緑色なら透明感もあるけれど、濃紫の葡萄というのは、その重く濃厚な色彩において、ハッキリと性的でもある。
これも嫌がられそうな連想だが、身も蓋もなく言えば、それは鬱血した男性器をも連想させるものだろう。

そもそも、この優しい女教師が生徒から、並外れて信頼され慕われているというのは、彼女がジムをはじめとした生徒たちをあっさり説得して、語り手の少年と仲直りさせたことにもあきらかだろう。

この先生の説いた道理に説得力があったから、生徒たちが従ったというのではなく、「この先生がそう言うのなら、それに従って先生を喜ばせることこそが、自分の喜びでもある」と、そういった感情を生徒たちが持っているだろうことは、ジムの態度などにも明らかなのだ。

つまり、端的に言ってこの女教師は、その「聖女」めいた魅力において、生徒たちの気持ちを虜にしているのだとそう言ったら、それは果たして言い過ぎだろうか?

だが私は、少しもそうは思わない。

大理石のように白く、しかし柔らかくしなやかな手指の上の葡萄は、少年たちに、少年たた自身の、皮被りの小さな性器や睾丸をも、連想させることだろう。
そのことをはっきりとは意識できなくても、葡萄に自己を投影して、まだ経験したことのない射精の恍惚(エクスタシー)を、どこかで予示的に感じているのである。

こんな、生なことを椿さんが書いているわけではないが、これは私が男の側の感性から、そこに語られていることを、剥きつけに指摘しているだけで、別にポルノめいたことを書きたいわけではない。

ただ、ハッキリ指摘しておかねばならないのは、子供には子供なりの性欲があるという事実なのだ。

そもそも、人間の快楽とは、すべて性欲と無関係ではあり得ない。
例えば、ご馳走を口にした瞬間の快楽、短距離走で風に乗ったような感覚を覚えた瞬間の快楽。一一こうしたものさえ、どこかで性欲と繋がっており、そこで感じられる快感は、ほとんど同質のものだというのは、むしろ常識的な議論なのである。

したがって、童話に性欲など無関係だなんてことはないし、ましてや、それを表現してはならない、なんてこともない。

子供を人間としてありのままに書こうとすれば、表面上、性的な表現ではなくても、多かれ少なかれ彼らにも「性欲=生への欲望」が作動しているという事実を、描かないわけにはいかない。

実際、有島武郎自身が、本作を書く動機を語った文章の中で「エクスタシー」という言葉を使っていたのだが、それを無視したのが、長い間の有島武郎研究だったのだということを、椿さんは批判的に指摘しており、これは当然のことなのだ。

有島武郎は、白樺派で理想主義者で子供を愛する「立派な人」だったと、そんな世間並みに外形的なイメージを守るために、性の問題を「穢らわしい」とでも言わんばかりに無視黙殺し、禁忌化する研究者の態度こそ、妙に聖人君子ぶった、偽善者のそれでしかない。

性欲のない人間なんていないということは、その人自身がよく知っているはずなのに、それを「世間体」的なところで無視し排除してしまえるような文学研究など、研究として、そもそも不誠実なものだろう。

自分を隠して自分とすら向き合えない者が、どうして他人の作物に深く向き合うことなど出来ようか。

 ○ ○ ○

さて、葡萄と白い手というところはこれくらいにして、私は、もうひとつの去勢道具である『細長い銀色の鋏』というものを問題にしたい。

椿さんは、文学研究者・石井花奈の有島研究での指摘を受けて、次のように書いている。

『自分の行為によって先生を「苦しめた」と「僕」は感じている。《本作には精神的な痛みを介して「エクスタシー」を経験するさまが描出されており、そのとき先生はイエス・キリストに見立てられていると言える。》という石井の読解は、すでに(16)で引いた。このモチーフは石井によって、「聖痕を最初に負った人」聖フランチェスコと、この聖人が有島の思想や実践に大きな影響を与えたことに結びつけられている。《「一房の葡萄」に描かれている「エクスタシー」もまた、痛みを介したそれであると考えられるのである。》』

『「痛みを通してキリストと一致すること、それが体にあらわれたのが聖痕である。」「一房の葡萄」に描かれている「エクスタシー」もまた、痛みを介したそれであると考えられるのである。」と石井は言う。《「本作には精神的な痛みを介して「エクスタシー」を経験するさまが描出されており、そのとき先生はイエス・キリストに見立てられている。》
 自分の手のひらを見つめる先生は、自分の聖痕を見つめていたのであり(このさまは絵にはかけまいが、ブニュエルの短篇映画で同じ仕草をする男を連想させる)、だからこそ「僕」は、先生が自分と苦しみをともにしてくれていることを知り、先生を相手に「神との「まじわり」としてのエクスタシー体験」(石井)に到達するのである。』

「『一房の葡萄』(19)先生の爪とは何か」より)

『 子供たちが罰を求めて「僕」の罪を言い立てたあと、先生は「僕」を責めることなくーーこれは確かにイエスの行いであるーー彼らを(※ 教場へと)かえし、(※ その場に一人残された)「僕」の方を見ることすらせず、ただ自分の手のひらの幻の聖痕に眼を落すことで受苦による無言の連帯を「僕」に示した。あまつさえ「僕」との距離をゼロにして、「ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。」という状態におとしいれた。』

「『一房の葡萄』(20)羞恥とエクスタシー」より)


先生が「自分の爪を見ていた」という行動の謎解きとして、イエスが磔にされた際にできた(聖なる)傷跡の幻視という線が語られて、アッシジの聖フランチェスコが参照されて、先生とイエス・キリストが重ねられていくのだが、私はこの読みには、かなり無理を感じるのだ。
先生の持つイメージは、聖フランチェスコでもなければ、イエス・キリストとも違う。

まず、有島武郎が聖フランチェスコに惹かれたのは、たぶんフランチェスコが裕福な家の出であるにもかかわらず、すべてを捨てて神に使え、最も蔑まれた者(らい病者)に使えることでその信仰を証した、といった経歴を自分の経歴と重ねた結果であろうと、そのように想像される。
つまり、聖痕の方で結びつけるのは、いささか牽強付会な感じがするのだ。

それはイエスと結びつけることも同じで、先生のイメージは、イエスのイメージとはだいぶ違う。

たしかに、フランチェスコとは違い、女性聖人のいくたりかは、イエスに抱かれるという幻視体験をした後、その身に聖痕が表れるという奇蹟があったのだが、聖人伝やそれを元にした絵画に描かれた「フランチェスコの聖痕」の場合は、イエスに抱かれるといった幻視をしたわけではない。

(「聖フランチェスコの聖痕」の絵画群。天使に抱かれているような作品もあるが、天使のようなキリストから光が放たれているようなも表現が多いようだ)



つまり、先生をイエスと見立てて、それが苦痛を伴う聖痕を与える際に、それを受ける者に至福としてのエクスタシーが与えられるというのは、少年の立場からすれば、その与え手のイメージとして、イエスにはあまり性的な印象が薄く、「白い手の」先生とは重ねにくいのである。

しかし、「一房の葡萄」に描かれた、先生と主人公を含む少年たちとの関係は、やはり明らかに「崇拝的」という意味において、「宗教集団」的な匂いがする。

では、イエスでなければ、ましてや聖フランチェスコでもないとしたら、他に誰がいるのか?

まあ、普通に考えれば「聖母マリア」の名前が挙がるだろう。
マリアの胸に抱かれて死ぬイエスの姿を模った「ピエタ」は、あまりにも有名だが、あの像は、死を描き、母の嘆きを描きながら、しかしどこかで「甘美な死」なのである。

ミケランジェロ『ピエタ』

ただし、私としては、先生と聖母マリアを重ねようというのではない。
それでは、あまりにも図式的であり安直なのだ。

そもそも先生には、「母」のイメージはない。

先生は、少年たちの崇める「女神」であり、実のところ「美による支配者」なのだ。一一というのが、私の読みである。

ここで、話を少し戻して言うならば、先生は、たしかに「優しい」とは言えるのだが、性的なイメージとして重要なのは、むしろ「大理石のような手」における「不可侵の硬質性」なのではないかと思う。

たしかに、それは「柔らかい手指」ではあろうけれど、しかしそれは「柔なもの」ではない。
あくまでも、葡萄をもぎ取り、去勢し、「細長い銀色の鋏」を使って葡萄を断ち切る「大理石の手」なのだ。
触れば温かくとも、それはやはり、ひんやりとした白い手なのである。

つまり、それは「聖母の手」ではないと、私はそう言いたいのだ。
「母」の手は、息子にとってのそれは、どこまでも温かく柔らかく優しいものだからである。

では、先生の手は、誰の手なのか?

私のイメージでは、例えば、聖ジャンヌ・ダルクである。剣を持つ、神の女騎士だ。

男たちは、彼女から命を受け、彼女の指揮にしたがって闘い、それで命を落とすことも辞さない、十字軍の騎士たちである。


つまり、「細長い銀色の鋏」とは「銀色に輝く剣(あるいは槍)」の隠喩であり、銀色とは、ジャンヌのまとった「鎧」の色でもあろう。
それは、ひんやりとして硬質であり、大理石の手に通ずる、フィティシュ(呪物)なのである。

じつのところ私は、先生に、「聖母」と言うよりは、少年たちを誑かす「魔女」に近い印象を持っている。
実際、ジャンヌ・ダルクは、魔女だとの疑いをかけられて殺されたのだが、母とは違う強い女には、危険な魔女の印象がつきまとうし、先生の場合は、

『女のくせに、男のように頸の所でぶつりと切った髪の毛』(P16)

と書かれているように、男のような断髪なのである。

たしかに、ジャンヌ・ダルクは、魔女であるよりは、悲劇の聖女だから、私も、先生をジャンヌ・ダルクだと言いたいのではなく、母親的ではないかたちでの、男性支配的な女性だと、そんなふうに考えたい。
その強く硬質な不可侵の魅力(魔性)によって、男の中のマゾヒズムを引き出すような妖女に近いものを見ているのだ。

例えば、先生と男子生徒たちの関係は、そうした心理面から言えば、かの『家畜人ヤプー』沼正三)で描かれた、「神のごとき女たちと、進んで家畜奴隷となった男たち」の関係に、似てはいないだろうか。

(村上芳正による角川文庫版『家畜人ヤプー』の装画)

男たちをすっかり去勢してしまう、白き妖女。それが、先生の正体であり、そこから、あの「過剰なエロティシズム」が溢れ出しているのではないだろうか。

無論、相当無理な立論であることは百も承知しているが、しかし、椿さんの議論から導き出された、先生の尋常ではない「魔性」とでも呼ぶべきものを考えれば、やはり、イエス・キリストや聖フランチェスコというのは、ちょっと綺麗にまとめすぎなのではないかという印象が拭えない。

そしてそれに比べれば、甲冑姿の聖女や、男たちを獣に変えてしまう妖女キルケーの方が、先生に対する私の「実感」に、よほど合致しているように思われるのだ。

(キルケー)

世の男性諸君、ぜひ「一房の葡萄」を読んだ上で、正直な感想を聞かせてはくれまいか?

 ○ ○ ○

あとは、私の「先生=白銀の甲冑をまとったジャンヌ、あるいは 妖女キルケー」説の補助線として、本書『一房の葡萄 他四篇』所収の他の短編にも、軽く触れておきたい。

 (1)「一房の葡萄」
 (2)「溺れかけた兄妹」
 (3)「碁石を呑んだ八っちゃん」
 (4)「僕の帽子のお話」
 (5)「火事とポチ」

これらの作品に共通するのは、端的に言えば「死への怖れとその魅惑」とでも言えまいか。

(1)「一房の葡萄」は、今となっては「先生を永遠に失ってしまった」というものだし、
(2)「溺れかけた兄妹」は、「大切な妹を失いかけた(死なせかけた)」という「三途の川」的な物語である。
(3)「碁石を呑んだ八っちゃん」は「弟の八ちゃんを死なせかけた」という話だし、
(4)「僕の帽子のお話」は「大切な帽子を失いかけて取り戻した」という物語で、それはどこか、死んだイザナミを追って黄泉比良坂を下ったイザナギの物語や、それと酷似した、オルフェウスエウリュディケの物語を連想させるものがある。
(5)「火事とポチ」も「強いけれど優しい目をした犬だったポチ」が火事で死んでしまう物語なのだが、上のイザナミの死因が「火の神を出産したため」というのは、単なる偶然なのだろうか?

ともあれ、こうして見れば明らかなとおり、これらの作品は、童話であるにもかかわらず、「死に魅入られた」作品群なのだ。

語り手の少年自身は死にたくないのだけれど、そこでは大切な存在の死や臨死体験が語られ、少年は無事であった自分にやましさを感じている、そんな作品が少なくない。

言い換えれば、いっそ自分が死んだ方が楽だったとか、そうした生き残ることの苦痛が、死への願望の裏返しとさえ感じられるのである。

そしてこれは、有島武郎の「歴史」的な事実とも、おおむね合致しているように見える。

本書、岩波文庫版の解説者である中野孝次は、次のような事実を紹介しているのだ。

『 (※ 翻案小説は別にして)彼自身の創作になる他の六篇は、『一房の葡萄』所収の四篇と、婦人雑誌に発表した「かたわ者」「火事とポチ」の二篇と、ともに一九二一、二年に書かれた。ということは、彼の自殺の前年と、前々年にそれらは集中して書かれたということである。これがなにを示すのか明らかでないが、あるいは子供たちに残す遺言といった意味合いがあったかもしれない。』(P108)

『 有島武郎は一九一六年、三十八歳のとしに、妻安子に先立たれるという不幸を迎えた。同じ年に父をも喪い、あとに三人の子供と残されて、この不幸と人生の転機に駆りたてられたかのように翌年から旺盛な創作活動に入り、それはまる三年間つづいた。生涯の代表作のほとんどをこの間に書きあげたほどそれはさかんであったが、一九二〇年には、創作は童話「一房の葡萄」と小説「卑怯者」の二備しか書けないという行詰り状態に陥った。
 二〇年夏「運命への訴え」を中途で放棄した直後、札幌時代からの友人で叢文社主の足助素一に「僕の力はもう終焉に来たのではないか」と不安を語っているほど、作家としての危機に陥ったのであった。彼自身の思想的な行詰りに加え、プロレタリア文芸の擡頭という時代を迎えてのそれは危機であったろうが、ここではそのことについては触れない。彼は、一九二二年一月に「宣言一つ」を発表して広津和郎の反論を初め多くの物議をかもし、同じ年七月には北海道の狩太農場の解放を宣言するなど、必死に危機からの脱出を試みたが、結局その翌年自殺によって生の幕を引いたのである。
 『一房の葡萄』は作者がそういう状況にあったときの作品であった。』(P111〜112)


つまり、本書『一房の葡萄 他四篇』に収められた作品は、有島武郎が「死の誘惑」と闘っていたのであろう時期に書かれた作品だということである。

だとすれば、「一房の葡萄」に登場する「白い手の先生」は、文字どおり、少年を「苦しみのない死の安らぎ(眠り)」へと誘っていたのかも知れないのだ。

言うまでもなく、キリスト教において「自殺」は「罪」である。
倫理的によろしくないとか、自分自身の問題としての人生における敗北だといったことではなく、神に与えられた命を全うしないというのは、神に対する背信行為だからである。

だとすればだ、「白い手の先生」は、やはりイエス・キリストや聖フランチェスコなどではなく、死と背負って闘い、騎士(男)たちを率いたジャンヌ・ダルクや、あるいは男たちを(責任能力のない)獣に変えてしまう妖女キルケーだと考えた方が、筋が通るのではないだろうか。

少年が「先生に抱かれたまま死にたい」と思ったのは、文字どおりであり、その死が「甘美なもの」と感じられたからではないのか。

キリスト教的な「(神が招くまでは)死ぬな」という倫理(戒律)ではなく、「私の手の中で、果てて死になさい」と優しく囁く「死の女神」が、先生の正体だったのではないか。
あるいは、少年が先生に期待したものだったのではないだろうか。

むしろ、有島武郎は、そうした「甘美な死の誘惑」を求め、それを失うことこそを怖れていたのではないのか。

先生の白い手によって、生の蔦からもぎ取られ、食べてしまわれることをこそ、有島は欲望していたのではないだろうか。

否定しても否定しても、しかし彼が心の底で望んだ「天国」とは、そのような「死の甘美」に満ちた世界だったのではないだろうか。


(2026年4月30日)

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【関連レビュー】


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