デヴィッド・フィンチャー監督 『ゴーン・ガール』: サイコパスは誰か?

26-04-19 ▷ 映画評:デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』(2014年/アメリカ映画)


「【2026年度版】叙述トリックが
すごいミステリー小説15選/読後に世界が反転する名作集」
というタイトルのネットニュースが、私の目を引いた。
【2026年度版】というからには、最近の叙述トリックミステリを紹介してくれるものと思い、読んでみることにした。


私は、ブームの最初期(1989年頃)から10年以上、新本格ミステリにつきあってきた元ミステリマニアである。
だから、「叙述トリック」もののミステリ(以下、叙述ミステリと略記する)は、食傷するほど読んでおり、もはや何を読まされても驚かされることがなくなるほどになってしまった。言うなれば、叙述トリック不感症である。

日本で叙述ミステリを得意とした作家と言えば、新本格ミステリを代表する綾辻行人がまずその筆頭であり、また叙述トリックを極めようと、あえて困難な道を歩んだ奇特な作家・折原一も、同時期デビューの新本格作家であった。

しかもこの二人に限らず、新本格ミステリ作家の多くは、叙述ミステリをほとんど必ずと言っていいほど書いていた。
だから新本格ミステリには、叙述トリックの再発見による本格ミステリムーブメントという側面もあって、そのために広範な読者を獲得することも出来たのである。

叙述ミステリというのは、作者が読者に対し、レトリックによる欺罔を仕掛ける形式のミステリのことで、要は、言葉によって読者の思考の裏をかきに来るわけだ。

当然、叙述ミステリにおける物語展開とは「こういう流れなら、普通ならこうなるだろう」というふうにはならないし、またそうした叙述トリックというものの特性を知っている読者なら「普通のパターンを故意に外すとすれば、こう来るんじゃないか」などと考えながら、その作品を読むことにもなる。

しかし、そうした読者に簡単に裏読みをされるようではミステリ作家としての名折れなので、そうした読者の裏読みを外した、もう一捻りある展開なり真相なりを案出しなければならない。

だがまた、ミステリの場合、裏の裏が表に戻るだけでは許されないから、裏の裏がまた別の裏でなければならないということになって、その種の「アクロバティックで斬新なアイデア」というのは、そうは浮かぶものではない。

また仮に、それを自分の頭だけで案出したとしても、同じことを思いつき1日でも早くそれを世に問うた作家がいたなら、もはやその次以降の同種のトリック作品は「二番煎じ」ということにしかならないし、下手をしたら「あの作品の真似」だとか「パクった」とか言われてしまう。

またそのため、本当に「斬新なトリック」というのは、それこそ滅多なことでは生まれないから、叙述トリックものの大半は、自覚的に先行作品のトリックをアレンジし、マイナーチェンジしたものでしかない。

そうしたわけで、叙述ミステリというのは、基本的にミステリ初心者向けだとも言えよう。
そうした作品を、まだ両手で数えられるほどしか読んでいない読者なら、それなりの高確率で楽しめる作品にあたるのかもしれないが、すれっからしのミステリ読者にとっては、叙述ミステリは、純粋な驚きを期待するというよりも、作家の職人的な手際を鑑賞し、論評するための作品のようになってしまいがちだ。
曰く「情報の出し方がうまい」とか「古いパターンを新しく見せるコツを知っている」とか、そんな論評をするのである。

だが、言うまでもなく、こんな読み方は邪道だ。ミステリ読者が、素直に驚きを求められなくなったのなら、無理してまで叙述ミステリを読まなくてもいいし、ミステリにこだわる必要すらない。
世の中には、もっと多様な驚きや楽しみや知的な喜びがあるのだから、そっちを求めれば良いだけの話なのだ。

だが、なまじオタク的な知識を身につけた者は、得てしてそうした知識をひけらかして自慢したがるものだから、既にそれに感動することもなくなっているくせに、それでも叙述ミステリの新作を読んでは、これはああだ、それはこうだなどと知ったかぶりたがる。

そもそも叙述トリックというのは、書く方は大変だが、読んで楽しむことなら誰にでもできるものなんだし、今どきなら、大して読んではいなくても、ちょっとネット検索をすれば、「叙述トリックとは、どういうものなのか」といった説明くらいは容易に(いくつも)見つかるから、自分の頭を使って、自分なりの説明をする必要もない。

上の「【2026年度版】叙述トリックがすごいミステリー小説15選/読後に世界が反転する名作集」なるネットニュースを読んでみて驚かされたのは、そこに採られて作品の大半が、新本格ミステリブームの頃に書かれた作品か、さらに古い、言わずと知れたような古典的な名作ばかりだったからだ。
何が【2026年度版】だよ、これじゃ叙述トリックですらなく単なるペテンだよと、私はそんなふうに呆れてしまったのである。

特に国内作品は、綾辻行人の『十角館の殺人』に始まる、ベタベタなまでに「新本格ミステリ」ばかり。
こんな記事なら、自分が読んでいなくても、「叙述ミステリの傑作」でネット検索しさえすれば、犬や猫にだって書けるだろう。今どきは生成AIもあるから、ろくに文章を書けない人でも心配いらない。

一一と、こう書くと、この指摘に思い当たって腹を立て、「犬や猫には書けないだろう」などと、つまらない文句をつける匿名さんもいるかもしれないが、いやいや、犬や猫でも実際に書けるのである。

ただし、私がここで言う「犬や猫」とは、「犬」や「猫」という、苗字か名前の人のことである。
世の中広いのだ。「吾輩は犬である」と、そう自己紹介なさる珍名さんだって必ずいるのだ。

ちなみにこれが文字情報ではなく、聴覚情報だったなら、「犬や猫」と聞こえたのも、実は「犬谷根子」さんのことだったのかも知れない。

一一叙述トリックとは、まあこういうものなのである。


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そんなわけで、しょうもないなと思いながら、件のネットニュースに取り上げられてる作品名だけをチェックしていたところ、翻訳ミステリの方で、有名作ではあるけれど、私の読んでいなかった作品が目についた。
それが、本稿で扱う映画の同名原作小説、ギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』だったのである。

このところ、ミステリをほとんど読んでなかったし、有名な作品だから、そんなに大きく外すこともなかろうと思い、この文庫で上下巻の大作を、ブックオフオンラインでお安く手に入れた。古い作品は、安くなっているので、誠にありがたい。

しかしながら、新刊とは違い古本というのは、なにも今すぐ読まなければならないものでもないから、つい後回しにしてまたもや積読の山に埋もれさせかけていた。
それで先日「いやいや、そろそろ読まなくては」と手に取った途端に、思い出してしまった。

「あれっ、この作品のタイトル、映画の方で記憶してたんじゃなかったっけか? もしかして、DVDを買ってたのでは?」と、そう思いついて、積DVDの山を崩してみたところ、果たせるかな、そこに見つけてしまったのが、本作、デヴィッド・フィンチャー監督による映画版『ゴーン・ガール』だったのである。

一一で、困ったわけだ。
昔の角川文庫のキャッチフレーズではないが、「読んでから見るか、見てから読むか。」。


しかしながら、叙述トリックものというのは、結末まで知ってしまうと、ほとんど同じ内容のものをもう一度楽しむというわけには、なかなかいかない。
原作小説を読んでから映画を見ても、映画を見てから原作を読んでも、いずれにしろ後回しにされた方の楽しみが半減するのは、ほぼ確実。

なにしろ、完璧なまでの「ネタバレ」なのだから、後に残されたの方は、読むなり見るなりするのを辞めてしまう公算が大でなのである。

だから、少し考えて、私の出した答は、映画の方を優先する、というものだった。

その理由は簡単で、作品鑑賞にようする時間が、上下巻の長編小説と映画では、十倍以上も違うからである。
それでなくとも、読みたい本や見たいDVDの山ほど溜まっている私としては、基本2時間で鑑賞できてしまう映画DVDの方を選ばざるを得なかったのだ。

もちろんこれが、文学作品やその映画化作品ならば話も違って、もともと本読みの私なら小説の方を優先するのだけれども、所詮は、アイデア一発でアッと言わせてくれることだけを期待している叙述ミステリならば、映画の方で十分だと、そのように判断した。

『ゴーン・ガール』がいかに評判の良い作品であろうとも、叙述トリックの新機軸を打ち出した作品だなどとは、毛ほども期待していなかったからである。

○ ○ ○


そんなわけで、デヴィッド・フィンチャー監督による本作の『ゴーン・ガール』だが、総論的には、なかなか良くできた娯楽作品に仕上がっていた。一一しかし、叙述ミステリ映画としては、まずまずといったところだろう。

小説が「文章」で読者を騙すところを、この種の映画は、「映像」によって見る者を欺く。

だからこそ、映画の場合は、小説よりも「叙述トリック」の厳密性がゆるくもなりがちで、本作の場合にも、そうした弱さがある。

小説の場合だと、客観描写と主観描写は厳密に区別しないと、叙述ミステリとしては「アンフェア」の誹りを免れないのだが、映画などの映像作品というのは、厳密な一人称描写というのが、極めてやりにくい。
つまり、厳密な映像的一人称とは、カメラが記述主体となる人の目の位置からの視野とその動きを忠実に再現しなければならないのだが、それでは、映画としてはいかにも不自然なものになってしまう。

(ミステリではないが、そうした一人称視点を貫いた実験的娯楽作品、イリヤ・ナイシュラー監督の『ハードコア』なんて異色作もあるが、尖りすぎていて一般ウケする作りにはなっていない)

だから本作でも、「現実の過去(回想)」描写と「虚構の過去(イメージ)」描写が、映像的には区別されていない。
あとで「あの部分は、虚構のイメージシーンだったのだ」と種明かしされるだけで、表現自体に区別はないのである。

叙述ミステリ小説の場合なら、文章の「主語」が常に問題となり、その点で、主観的な描写と客観描写の区別が厳密になされ、そこで読者に対するフェアプレイ性も担保されるのだが、本作の映像描写は、そこまで厳密なものではないのだ。

だが、だからこそ映像作品的には無理がなくて美しいし、作品としてもテンポが良い。

(主人公ダンの美人妻エイミーの失踪から、この複雑は物語は幕を上げる)

つまり、映像作品としては、良くできているし、観客の多くは、「叙述の厳密性」なんてことは気にもせず、後出しジャンケン的に提示される「真相」を聞かされて、それでも素直にアッと驚いてくれるし、それで満足もする。
ミステリマニアみたいに、重箱の隅を突くような技巧論など、考えも及ばないのである。

だが、あえて書いておけば、叙述ミステリ映画としては、本作よりももっと厳密に撮られた傑作も、とうぜん存在している。
例えば、M・ナイト・シャマラン監督の『シックス・センス』(1999年)などは、まさにそうした傑作なのである。

そんなわけで、本作『ゴーン・ガール』は、「斬新な叙述トリック」で楽しませてくれるような作品ではなく、よくある映像的な叙述トリックによって、数度のどんでん返しを楽しませる体の作品なのだ。

そしてその意味では、ジェームス・ワン監督の『ソウ』(2004年・シリーズ第1作)に近い、厳密さよりもテンポの良さを優先した、娯楽作品なのだと言えよう。

実際、本作『ゴーン・ガール』のような、複数どんでん返しが成立するのは、本作の主人公が、現実にはほとんど存在しない「天才的サイコパス」だからであり、その点では、まさしく『ソウ』の猟奇犯罪者ジグソウと似たタイプの人間だからなのである。

また、前述のとおり本作の原作小説は上下巻の長編であり、だからこそ複数回のどんでん返しも可能だったのだが、それを2時間あまり(正確には149分)の映画に大筋でそのまま詰め込もうとすれば、そう細かいこと(伏線)も言ってはおられず、展開のスピーディーさで押し切る強引さも、必要だったのであろう。
じっさい本作は、実にテンポが良く、無駄のない作品なのである。

そんなわけで、私としては、本作を「叙述トリックミステリ」として楽しむことはできなかった。

「この段階で、このように描かれるとしたら、この人物が真犯人ではないな」とか「この段階でこうなるのなら、もう一捻りあるはずだ」などと考えては、「やっぱり」ということになったのである。

しかしながら、本作で何よりも興味深かったのは、本作もやはり「サイコパス映画」だったという事実であり、その予想が当たった点で楽しめた。
私は本作を見終えて、「やっぱりな」と思わずニンマリしてしまったのだ。

一一どういうことか。

私が見たデヴィッド・フィンチャー監督の作品はこれが3作目で、前の2作は『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)だったのだが、宗教カルトめいた集団を描いてカルト的な人気作となった前者は、意外なことに「叙述トリック」を駆使していて驚かされた。
だが、「フェイスブック」の創始者として知られる実在の人物マーク・ザッカーバーグを描いた後者を見て驚いたのは、同作の主人公ザッカーバーグが、『ファイト・クラブ』の主人公タイラーと同様の「サイコパス」的な人物であり、人の感情に極端に鈍感だという点で共通していた、という事実である。


なぜその共通点に、驚きをもって興味を持ったのかと言えば、『ファイト・クラブ』のレビューを書いた段階で、私はデヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィーをチェックしており、その中には『セブン』(1995年)や『ゾディアック』(2007年)といった猟奇殺人事件を描いた作品のあることを知っていたからだ。

つまり、どうやらフィンチャー監督は、サイコパスが、好きなようなのだ。
好きと言っては語弊があるかもしれないが、そうした人物に惹かれるところがあるようなのである。

例えば、『ファイト・クラブ』の場合、原作の方は、悪のカリスマ的な人物であるタイラーを批判的に描いているのだが、フィンチャーによる映画版の方は、タイラーをあまりにも美しく魅力的に描いていて、そのせいでタイラーファンが続出して、カルト的な人気を博することにもなったのだ。


また、『ソーシャル・ネットワーク』の主人公ザッカーバーグも、一般的に言えば「他人の気持ちがわからない、嫌な奴」なのだが、この映画での描き方は、ザッカーバーグにかなり同情的なのである。

そして、私がその疑いをさらに深めたのは、『ソーシャル・ネットワーク』のDVD特典である、フィンチャー監督によるコメンタリーを聴いていて、フィンチャーがかなりの自信家であり、それを隠しきれていないという点にあった。

つまり、私のフィンチャーに対する「疑い」とは、実はフィンチャー自身がサイコパス的な傾向の持ち主であり、だからこそフィンチャーはサイコパス的な人物に惹かれて、そうした人物を描きたがるのではないか、ということなのだ。
さらに言えば、フィンチャーの並外れた映像感覚の切れと無駄のない構成力は、彼のサイコパス的な性格から出たものなのではないのかと、そう疑われもしたのである。

実際、フィンチャーは、完璧主義者として知られ、リテイク(撮り直し)50回などというのはザラにあって、本作『ゴーン・ガール』でもリテイク100回なんてことがあったようなのだ。

だから、私としては本作『ゴーン・ガール』を見る前に、すでに本作の主人公はサイコパスなのではないかと予想したのだが、果たせるかなその予想はズバリと的中した。
本作の主人公は、絵に描いたようなサイコパスなのである。

もちろん、ミステリ作品には、サイコパスの犯人がしばしば登場する。それくらい徹底した完璧さのある犯罪者でないと、ミステリとしては面白くないからだ。

だが、だからと言って、そうした「完全犯罪」を目論む犯人が、必ずしもサイコパス的な人物として描かれるというわけではない。
よくあるのは、何らかの事情によって追い詰められた人物が、必死の思いで完全犯罪を目論んだ、というようなパターンである。

ではなぜ、こうした「完全犯罪」を目論む「非サイコパスの犯人」が描かれるのかと言えば、それはサイコパスの特徴的である、並外れた論理性や完璧性というのは、「人間」ドラマ的には「リアリティが無い」からである。

完全犯罪を目論んだ犯人を描いたとしても、普通に「リアルな人間」を描きたいと思うような監督なら、犯人をサイコパスにはしない。
「サイコパスだから、そこまで考えられ、そこまで実行できた」というのでは、リアリティがなく、ご都合主義的でつまらないと、そう考えるからである。

ところが、フィンチャーの場合、もともと「リアルな(普通の)人間」たちの、頭の悪さや非効率性というのが理解できないし、そんなものに魅力を感じることもない。
むしろ、サイコパス的なものの「完璧指向」にシンパシーを覚えるからこそ、そういう人物をカッコ良く、あるいは共感的に描いた作品を作ってしまう、ということなのではないだろうか。

そうした疑いを、『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』の2作を見た段階で持っていたので、私は本作『ゴーン・ガール』を見るにあたっても、原作文庫本の帯文などでもすでに明らかだった「叙述トリック」などにはまったく期待はせず、もっぱら犯人の人物像とその描かれ方に注目したのである。


その結果、本作に描かれた犯人は、やはり、「完璧な」という形容をつけて呼ばれたような人物であり、その完璧さとは、世間が思うような好ましいものではなく、非人間的な完璧さであった。

しかしながら、そのサイコパス的な人物(犯人)の描かれ方は、どこか「賞賛的」あるいは「共感的」なものだったのである。



(2026年4月19日)

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【関連レビュー】


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“デヴィッド・フィンチャー監督 『ゴーン・ガール』: サイコパスは誰か?” への2件のフィードバック

  1. オロカメンのアバター

    ぼくはフィンチャーの映画といえば『ファイト・クラブ』以外では、1995年の『セブン』と2007年の『ゾディアック』の二つは見た事があるんですが、確かに両方に共通しているのは、何かしら警察側が「敗北」したかのような結末になっているところでしたね。
    つまり、犯人の描き方にどこか重きを置いているかのような感じです。

    特に『セブン』の犯人の描き方は、インパクトがありましたね~!
    年間読書人さんも仰っているように、犯人に対して≪どこか「賞賛的」あるいは「共感的」≫な描き方をしているという評も、そう言えば確かに!って感じでした。

  2. 年間読書人のアバター

    > オロカメンさん

    ご感想、ありがとうございます。

    私は『セブン』や『ゾディアック』を見ておらず、ただ、この監督の猟奇殺人ものものだとしたら、そういうのになるはずと予想して書いたんですが、大筋で当たっていたようで安心しました。基本的には読み筋を外していなかったなと。

    『セブン』も『ゾディアック』も、それなりには気になるんですが、その一方で、もう似たようなものを見ても仕方がないという気持ちもあります。
    他に見たいビデオ、読みたい本が、山のようにありますしね。

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