▷ 書評:夏目漱石『坑夫』(岩波文庫)
私に活字の本を読む楽しさを教えてくれたのは夏目漱石の『こころ』であった。高校二年の年である。
それで、その頃に続けざまに漱石のめぼしい作品を読んだのだが、他の本にも興味が広がっていくうちに読みそびれてしまったぶんを、定年退職してからこっち、片づけるようにして読んでいる。
『こころ』を読んだのが、たまたま新潮文庫だったので、私の頭の中にある漱石の本とは、おおよそ新潮文庫に入っている本のことだ。無論、小説中心だということである。
全集に入っているものまで含めれば、とうぜん他にもいろいろあるけれども、ひとまず新潮文庫に入っているのをぜんぶ読んだら、いちおうひととおりは、漱石を片づけたことになるはずだ。
そしてそのでんでいうと、この『坑夫』を読み終えたなら、残すは漱石の絶筆『明暗』のみある。
『明暗』は未完のうえに、分厚い2巻本だから、若い頃には他の本を優先して、なかなか手をつけられなかったのだが、いよいよその頂が見えてきたという感じであろうか。

それにしても、今回読んだ『坑夫』は、かなり退屈だった。
その理由としては、物語らしい展開がないということもあるにはあるのだが、私は『吾輩は猫である』や『坊つちゃん』みたいな物語は、むしろ好きではなく、『こころ』に代表される心理小説が好きだから、物語らしい展開などなくても、深い心理描写がなされていれば、それで満足できるはずなのだ。
ところが本作は、そういう点でも私を楽しませてくれなかった。語り手の青年(主人公)が、とにかくウザいのである。
その幼稚で独りよがりな自意識が一人称で語られるから、とにかくウザい。
だが、小説は、最後まで読んでみないことにはわからないから、我慢しいしい最後まで読んだ。
(ちなみに、「最初の数行を読めば、だいたいその作品の当たりはずれがわかる」などと言っているような本読みは、そのレベルの娯楽作品ばかり読んでいるから、そう言えるだけだ)
その結果、なるほどこういう話だったのかとは思ったが、だから面白いとまでは思えなかった。
穿った見方をすれば、本作は未熟な青年の、象徴的な「死と再生」譚の一種とでも言えるのだろうが、そうだとしても、面白いとは思わない。
むしろ、もっも別なものが込められてでもいないと、それだけでは本作を高く評価する気にはならないのだ。
紅野健介が「解説」の中で、次のような紹介をしている。
『 村上春樹の『海辺のカフカ』(二〇〇二年)に、家出したカフカ少年が図書館で夏目漱石の全集を読みふけるという話が出てくる。
カフカ少年と司書の大島さんは、漱石の作品のなかでも「評判がよくないもののひとつ」である『抗夫』について対話する。この小説には「なにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のありかたについて疑問を持ったとか、そういうことはとくには書かれていない」。しかし、不思議に「なにを言いたいのかわからない」ところに惹かれると少年は語る。』(P313)
カフカ少年の弁ではないが、村上春樹が本作の「とらえどころの無さ」に惹かれるというのは、よくわかる。
さほどたくさん読んでいるわけではないが、村上春樹の小説自体がそうした印象の強いものだからだ。
例えば、昔読んだ村上の代表作のひとつ『世界の終わりとバードボイルド・ワンダーランド』なんかも、そうだ。
この作品は、あきらかにカフカ的だし、そのカフカの作品には、ハッキリとわかるようなかたちで、「教訓」だとか「生き方」だとか「人生」だとか「社会のあり方」といったことが書かれているわけではない。
しかし、一一それでも面白いのだ。
カフカに比べれば、私の読んだ村上春樹の「とらえどころの無さ」は、あまり面白くはなかったし、まして本作『坑夫』は、まったく面白くない。
書かれた時代が違うとは言え、面白くないものは面白くないのである。
解説で紅野健介は、本作の独自の魅力をうまく語っている。
いつもの漱石作品の魅力は無くとも、独自の魅力があるという立場から、本作の魅力を語っており、それはそれなりになるほどとは思わされるのだが、完全に納得することはできない。
むしろ、紅野健介の解釈能力に感心するだけで、本当に本作がそこまでの作品だとは、信じきれないのである。
もちろん、多くの人が本作を、漱石の中ではうまくいかなかった作品だと考えているからといって、私もそれに迎合しようだなどとは寸毫も思わない。
なにしろ私は、熱心な漱石のファンなんだから、できれば本作も褒めたいし、紅野とは別の切り口で、私なりに本作の魅力を語りたいのだが、それが難しいのだ。
本作のあらすじは、次のとおりである。
『恋愛関係のもつれから着の身着のまま東京を飛び出した、相当な地位を有つ家の子である19歳の青年。行く宛なく松林をさまよううちにポン引きの長蔵と出会う。自暴自棄になっていた青年は誘われるまま、半ば自殺するつもりで鉱山で坑夫として働くことを承諾する。道すがら奇妙な赤毛布や小僧も加わって四人は鉱山町の飯場に到着する。異様な風体の坑夫たちに絡まれたり、青年を案ずる飯場頭や坑夫の安さんの、東京に帰った方がいいという忠告に感謝しつつも、青年は改めて坑夫になる決心をして、深い坑内へと降りてゆく。そして、物語の結末は唐突に訪れる。坑道に深く降りたった翌日、診療所で健康診断を受けた若者は気管支炎と診断され、坑夫として働けないことが判明する。結局、青年は飯場頭と相談して飯場の帳簿付の仕事を5か月間やり遂げた後、東京へ帰ることになる。』
(Wikipedia「坑夫(夏目漱石の小説)」)
この語り手の青年が、私にとっては、とてもウザいのだ。読んでいて「いい気なもんだ」とイライラさせられ通しなのである。
しかも、ストーリー自体はきわめてシンプルで、どうこう言うようなものではない。

もちろん、主人公が「つまらない奴」である小説などいくらでもあるし、それだからといって小説がつまらなくなるわけではない。
文学が「人間を描く」ものである以上、立派な人や魅力的な人ばかりを描くわけにはいかない。
それは、脇役にかぎる話ではなく、主人公や語り手であっても同じことなのだが、この主人公の場合は、最後まで読んでも「いい気なもんだ」という印象が、さして変わらないのだ。
主人公は、坑道の底の底まで行かされる体験をし、そこで「君はこんなところにいちゃあいけない人間だ」みたいな親切な助言・説諭をうけて、それまでの自分の甘さや自惚れみたいなものについて一定の反省はして、なんだかんだ言いながら、流されるままに、そこまで来てしまった自分を態度を改め、なりたくもない坑夫になることをやめるのだが、いずれにしろそんなもの、最初からわかっていた話であり、所詮は、世間知らずの金持ちのぼんぼんの、初めての社会的底辺経験だった、ということでしかない。
言い換えれば、それに気づくまでの、主人公の語りにイライラさせられる。
特に何度か出てくる「(そんな自分が)可笑しかった」という言葉が、癇に障った。
世間知らずの甘ちゃんのくせに、いや、そうだからこそ、自分の甘さに自覚がなくて、社会の底辺近くで生きる人の、それはそれで見苦しくもあれば愚かな部分を上から目線で「評価」したうえで、自分だってそんなことを言えた義理ではないと、ことさらに自分で自分を嗤ってみせる、その余裕ぶった態度が鼻持ちならない。

自分のことを情けない負け犬だと、ある程度は気付いているから、人のことは言えないが、などと思ってはいても、やはり「この人たちとは人種が違うのだ」というような自意識を隠しきれていない。
そこが「いい気なもんだ」し、イライラさせられる。
紅野健介も指摘しているとおり、漱石の小説の登場人物というのは、漱石自身がそうであったように、基本的に「知識階層」であり、中層階級以上の人間である。
その上で、暮らし向きが良くなくて苦労をしているといった人物が描かれるのは珍しくはないが、いわゆる教養も何もない社会の底辺の人物が、物語の中心に配置されることはない。
もちろん、本作『坑夫』の主人公も、「上層階級」の人間であり、当時の大学生だから、それなりの学もあって、明らかに「知識階層」に属する人間ではある。「知識階層の予備軍」的な人間だと言えば、その方がなお正確かもしれない。
しかし、この語り手の青年以外で本作に登場するのは、ほぼ全員が非知識階層であり、社会の底辺に生きる人たちである。


「貧しいけれど、清く正しく生きている」みたいなものではなく、貧しさのなかで、動物的な生を生きていたり、目が死んでいたり、その日その日を生きんがためだけに生きているというような、ゾンビのように見える者も少なくはない。そんな感じの、あまりお近づきになりたくもなければ、ありがたくもない人たちでなのある。
決して、余裕のある者の視点から、殊更に美化された「貧しき人々」などではないのだ。

だからこそ、主人公がそうした人たちにやがて馴れていき、最初のうちはなにやら怖しげで理解不能な存在に思えたけれど、そうではないのだと気づくようになっても、その気づきが感動的だなんてこともない。そんなのは当たり前の話だからである。
もちろん、元警察官であり、友だちづきあいの範囲では知ることもなかったであろう社会の底辺に位置する人たちとも、多少は接しざるを得ず、話のひとつもしなければならない経験をし、そうした経験を経た上で、すでに還暦をすぎた老人である私からすれば、語り手の青年が、無知で愚かで「いい気な奴」に見えるのも、それは致し方のないことだというのはわかっている。
なにしろ彼は若いし、経験に乏しいのだから、わかっていないというのは、むしろ当然なのだ。わかっている方が、つまり、社会の底辺で生きる人たちの生がどのようなものであり、彼らがどのようなものであるかなどということを承知していたり、ましてやそれを悟っていたりすることの方が、不自然なのである。
だから、この語り手である「いい気なお坊っちゃん」は、その意味で、きわめてリアルなのだ。一一だから、イライラさせられる。
なぜ漱石は、このような「例外的な作品」を書くことになったのか。
その事情は、次のようなことであるらしい。
『ある日突然、漱石のもとに荒井某という若者が現れて「自分の身の上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのです」という話を持ちかける出来事が起きる。漱石は当初、個人の事情を小説として書きたくないという思いから、むしろ君自身が小説化した方がいいと本人に勧める。しかし、時を同じくして、1908年(明治41年)の元日から『朝日新聞』に掲載予定だった島崎藤村の『春』の執筆がはかどらず、急遽漱石がその穴を埋めることとなる。そこで漱石は若者の申し出を受け入れ、漱石作品としては異色と言える実在の人物の経験を素材としたルポルタージュ的な作品が生まれる。』
(Wikipedia「坑夫(夏目漱石の小説)」)
無論、本作『坑夫』は、この荒井某の話を、そのまま小説に移しただけのものなどではない。
当然のことながら、本作は、荒井某の語ったところを漱石の視点から解釈され再構築され漱石の狙いが込められて作り直された、漱石の小説(フィクション)である。

読めばわかるけれど、本作の形式は、きわめてシンプルなビルドゥングス・ロマンであり、「教養小説」と言っては誤解を招くから、自己形成小説あるいは成長小説と訳す方がわかりやすい、そんな類いの小説である。
つまり、未熟な主人公が、さまざまな人たちと出会い別れ、さまざまな経験を重ねて苦労をしていくなかで、徐々にこの世のことを学んで成長していく、
という物語である。
だが、本作が、そうしたビルドゥングス・ロマンとしての魅力を持たないのは、語り手の青年の最後にたどり着く人間観や社会観が、言うなれば「当たり前のこと」であり、そのレベルの話でしかないからだ。
それは、読者の大半には読む前から常識的に理解されていたところのものでしかないから、主人公が苦労を重ねた果てにそれを悟ったとしても、少しも有り難くはない。
それを読まされて「ああ、こんなに深い境地に達したのか」などといったような感動は得られない。
「そんなこと、最初からわかっていたことじゃないか」としか思えないのである。
ではなぜ、漱石は、わざわざこんな小説を書こうと思ったのであろうか。
ここまであれこれ書いてきて、私が気づいたのは、この語り手の青年の愚かさは、かつての私自身の愚かさでもある、ということであった。
だから、その無知、その愚かさに、イライラさせられたのだ。
だとすれば、もしかすると漱石も、荒井某の話を聞きながら、同じようにイライラさせられるものを感じ、やがてその理由に気づいて、そこに書くべき価値のあるものを見出したと、そういうことなのではないだろうか。
私たちは、小説を読むときに、今の自分がまだ持たない何かをそこから得たいと、少なからず、そのように考えるだろう。
自分の知っていることだけを、そのレベルでそのまま書かれても、何もありがたくはない。
だが漱石は、荒井某の話を聞きながら、「くだらないな」と思いつつも、その「くだらなさ」は、かつての自分の中にもあったものだし、たぶん今の自分の中にもあるものだと、そう洞察したのではないだろうか。
つまり、この愚かな青年は、私たちの「明晰な鏡像」なのだ。見たくない瘢痕(あばた)や吹き出物まで、克明に映してくれる鏡なのである。
だとすれば、これは書く価値があると、そう漱石は考えたのではないだろうか。
だとすれば、たしかに本作は「読む価値のある、不愉快な小説」なのである。

(2026年4月18日)
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