▷ 書評:市川沙央『ハンチバック』(文春文庫)
本作は、第169回芥川賞(2023年上半期)の受賞作で、この文庫本には、障害者文化論と日本近現代文学の研究者で作家でもある荒井裕樹との往復書簡も併録されていて、じつに内容充実となっている。
まず、表題作の中篇「ハンチバック」だが、これが非常に「重厚」な作品だ。

主人公の井沢釈華は、障害者である彼女に両親が残してくれたグループホームで生活する、当年42歳の女性である。
彼女は、先天性の遺伝性筋疾患である「先天性ミオパチー」であり、それに伴う極度の側弯症である。
側弯症とは、背骨が左右に曲がり、多くの場合で背骨が捻れ変形する病気だ。
「ハンチバック」とは、今では差別用語として忌避される「せむし」のことである。
『ノートルダムのせむし男』というタイトルを『ノートルダムの鐘』と言い換えることで、社会的に隠蔽された言葉であり病いだとも言えるだろう。


つまり、主人公の釈華には、生まれた時から畸形があったというわけではなく、幼い頃に発症し、それが徐々に進行して、今に至っている。
したがって、幼い頃には、女性としての人並みの夢や希望もあったのだが、今やそれをすっかり奪われたと言っても良いだろう。
彼女には小説を書く趣味があり、今ではエロ小説やコタツ記事などを書いて、それで小金を稼いでいるのだが、それは自身の生活のためではなく、食べるものにも事欠いている人たちのための施設への寄付に、全額当てている。
彼女自身の生活は、カネの心配だけはいらないのだ。
だが、当然のことなが、彼女は今の生活に満足しているわけではない。
機械に繋がれ、日々の介護を必要とする変形した体では、普通の生活など望むべくもないからで、それはカネで解決できるような問題ではなかったからである。
彼女は、小説やこたつ記事を書くのとは別に、SNSもやっており、そこに、彼女の考える「差し障りのない範囲」において、その想いを綴り、公開している。
そしてそんな彼女が、折に触れてつぶやくのは、「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」であり、せめて「妊娠して、堕胎したい」ということだった。
そして、そんな彼女は、ある時、彼女のことを内心では見下していると気づいた、男性の介護スタッフ田中に、1億5000万円で、自分をセックスして欲しいと持ちかける。
田中は決して裕福な人間ではなく、金銭的に恵まれた釈華を妬んでいるところがあるようだ。
ともあれ、交渉は成立して、釈華は田中に、まずは「精子を飲ませて」と要求し、なんとかそれには成功するものの、それで体調を崩してしまい、その先には進めなかった。
その後、田中は退職して、グループホームから去っていったか、1億5000万円の小切手は、残されたままだった。
一一と、あらすじ的には、おおむねこのようなものである。
本作には、釈華の健常者の無自覚無認識への怒りが率直に語られている。
『 厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、一一5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。私の背骨が曲がりはじめたのは小3の頃だ。』(P26)
私も「本好き」の一人なのだが、ことさらに「本好き」アピールをする人たちには、釈華とはすこし違った角度から、嫌悪と反発を感じていた。
また、他のところでは「健常者優位主義」という言葉に「マチズモ」というルビを振られており、作者は往復書簡の中で、それを次のように解説している。
『 ところで、健常者優位主義のルビは本来ならエイブリズムとするべきところを、わざとマチズモとした私の底意は想定以上の効果を発揮しながら読者の皆様に刺さりにいっているみたいで、実のところ私は今うろたえています。(「言葉が強い」とのご感想に触れるたび、そこまで刺すつもりはなかった、良心ある人々の心を脅かすつもりはなかったと、ひたすら申し訳ない気持ちになっています。)うろたえつつも、至らぬばかりの拙作において唯一会心の出来と言える箇所はやはりそこなのだろうと思います。
エイブリズムではなくマチズモというルビを振った時点で、私は小説家になったのかもしれません。と言いますのも、小説家になれないならば、健常者優位主義にエイブリズムとルビを振るような、つまり学術・批評的な文章で世に出ていくというのはどうだろう、何かそういう道はないものかな、と昨年の私はどこか異様な強迫観念に追いつめられながら考えていたからです。ここからは荒井さんにも面白がっていただきたいのですが、学業(※ 大学の通信教育)が2023年の1月で終わって、もし文學界新人賞の選考に残ったという連絡が来なかったらば(常識的に考えればその確率のほうが高いはずでした)、私は『凛として灯る』(※ 荒井裕樹のノンフィクションの著書)を出されている(※ 障害者問題に理解のある出版社)現代書館の(※ 編集者)向山夏奈さん(当時)に、どうにかしてコンタクトを取るつもりでいたのでした。『季刊福祉労働』に、障害当事者として何か書かせてもらえないだろうかって‥‥‥。
そこまで私を思いつめさせている/いたものって何なのでしょう。電子書籍のない紙の本? 出生前診断の拡大? 少子高齢化を背景とする安楽死言説? 生産性があるとかないとか? 障害者施設で大量殺人犯のやったことは許されないが、しかし‥‥‥のしかしって何、とか?
個々のトピックへの意見はともかくとして、何か今の時代の雰囲気が、割とずっと
〝体制派〟を自認してきた私をして(※ 『凛として灯る』の主人公である、反体制的な)米津知子や横田弘に強烈な憧れと尊敬を抱かせるのは確かなのです。
昨年からずっと、彼女や彼の精神と行動と言論の、私なりの継承の仕方を考えている気がします。
だからおそらく、『ハンチバック』は私なりの、「モナ・リザ」にスプレーをかける試みだった、という読み方もできると思います。』
(「市川沙央から荒井裕樹宛書簡」P87〜89)
『「モナ・リザ」にスプレーをかける試み』とは、荒井のノンフィクション作品『凛として灯る』の、主人公の障害者女性・米津知子による「『モナ・リザ』スプレー事件」のことを指している。
私は同作を読んでいないので、詳しいことは知らないのだが、1974年に東京国立博物館で開催された、『モナ・リザ』を看板作品とした展覧会が、「障害者だけではなく、子連れの母親の入場までを禁じた」ことに対し、「障害者を含む社会的弱者を、社会の見えないところへと押し込めようとする社会への抵抗」として、『モナ・リザ』テロという、象徴的な示威行動を決行した、というようなことらしい。

まあ、「見せてもらえない」という差別への憤りはストレートなものでありわかりやすいが、見せてもらえる健常者の私ですら、たった1枚の「美人画」に途方もない値がつけられて、猫も杓子も大騒ぎの大行列をなすというのは、オリンピックでも、万博でも、大谷翔平でも、阪神タイガース優勝でも、同様であって、いつも変わらぬ「健常者」たちの「力あるもの」への嬌態であり、そんなものを見せつけられれば、「私たち弱者が、社会から忘れ去られながらも、ここでこうして生きているということを忘れるな!」と、そんなプロテスト(抵抗)をしたくなる気持ちというのも、容易に理解できよう。
健常者の私ですら、しばしばイライラさせられる「大衆の能天気」なのだから、ましてやそれが排除された障害者の目から見れば、「特権階級の馬鹿騒ぎ」と見えるのも当然のことなのだ。
著者が「健常者優位主義」という言葉に、あえて「マチズモ(男性優位主義)」というルビを振るのは、自身の特権性に無自覚なのは、何も男性だけではなく、健常者ならば女性だってまったく同じであり、自身の「特権性」、つまり「弱者差別」の裏返しである「特権による特別待遇の当然視」に無自覚であるという点では、健常者は男女ともに全員同罪だということなのである。
上の引用部でも触れられている「出生前診断の拡大」については、私は最近、ジャーナリスト堤未果の著書『堤未果の『すばらしい新世界』 スマホで赤ちゃんを注文する日』についてのレビューで、次のように書いている。
『第1章から第3章までは、技術的な進歩が、ますます人々の生命や身体を自由にコントロールできるようになり始めており、それが人間社会の不平等をさらに推し進めるように働いているという現実が、紹介されている。
「もう障害のある子供は生まれてこない」とか「いつまでも若々しくいられるようになる」とか「いつも前向きな気分でいられるようになって、悩みから解放される」などと言うと、そんな「すばらしい」ことはないと、そう思ってしまいがちなのだが、現実はそんなに甘いものではないのだ。
そうした技術によって形成されつつある社会とは、ハクスリーが逆説的な名づけた「すばらしい新世界」そのものなのである。』
「もう障害のある子供は生まれてこない」とは、要は、出生前診断によって、胎児の障害が事前にわかるため、親が望めば容易に堕胎(人工妊娠中絶)できるという現実が、もはや一般化され当然化されている、という現実ことだ。
そしてさらには、遺伝子治療技術が進んで、出生前に胎児の障害が取り除かれてしまうようにもなるから、障害児が生まれてくることもなくなる、ということなのだ。
こうした進歩は、一般的には、何の問題もなく「好ましい」ことのように歓迎されているのだが、しかし、障害者にしてみれば、自分たちの存在が全否定されるに等しいことだというのも明らかだろう。
「あなた方の時代には、出生前診断がなかったから、あるいは、胎児への遺伝子治療ができなかったから、やむなくあなたな方ような障害者が生まれて来ざるを得なかったのだ。それは、避け得なかった不幸だったのである」
一一と、そう言われているも同然なのである。
往復書簡でも、触れられているとおりで、「ハンチバック」の主人公・釈華の、こうした「健常者を告発する言葉」を受けて、「芥川賞受賞作」を喜んで買って読むような「意識の高い読者」の多くは、その「感想」として「健常者の傲慢に気づかされた」というような反省の言葉を、今更のように語ったようで、著者は、良心的な読者の心を痛めさせてしまったことには申し訳なさを感じる、みたいなことを書いているが、無論これは、本音そのものではなく、著者の「もうひとつの社会的な意識(見解)」(二重化された意識の片方)でしかないと思う。
そもそも、そうした読者が、何も「思い知らされてなどいない」ことくらいは、作者だって百も承知だからである。
実際、「ハンチバック」を読んで感じるのは、著者の精神の「重厚」とでも呼びたくなる強度だ。
最初に本書を「重厚な作品」だと評したのも、そうした意味においてである。
私がここで言いたい「重厚さ」とは、若干の「暗さ」はあっても、決して暗いばかりではあり得ない、「明晰さ」と「強靭な意志」とを含むものだ、というニュアンスを込められたものなのだ。決して「柔弱な暗さ」などではない。
同情を惹くための、泣き言としての「同情なんかいらない」というような、ありふれた感情などではなく、「お前らの安っぽい同情なんか、反吐が出る」からいらない、というような攻撃的なまでにハードな意志が、そこには感じられるのだ。
私はそれを「重厚」と表現したのである。
で、私が本作「ハンチバック」を読んで感じたのは、障害者への同情でもなければ、障害者を忘れていた私自身の「健常者優位主義(マチズモ)」についての反省でも申し訳なさでもなく、「私が、こんな身体に生まれていたら、どんな気持ちで生きていられただろうか」というような、「重い恐怖感」のようなものだった。
腹の上に、10キロもある錘を置かれているような、そんな曰く言いがたい感覚に、本作を読んでいる間中とらわれていたのである。
つまり、はっきり言えば、私は障害者に対して、引け目や申し訳なさといったものは、ほとんど感じてはいない。
男性たる私が、フェミニズムに関して「女性に対する申し訳なさは感じないが、男性の一人としての歴史的かつ現状の男社会に対する加害責任は(論理的に)感じるから、女性の力になりたいとは思う」というふうに語るように、私にはもともと、自分が「マッチョ」な人間であるという自覚があり、力があるからこそ、弱者に対して相応の責任を引き受けなくてはならないと、そんなヒロイズムに生きている。
その確信犯的な意識のため、障害者に対しても、今更のような申し訳なさなど感じず、「あらためて、障害者の力にならなければならない」と、そう思うだけなのだ。
これは反省などではなく、ましてや障害者への同情などでもない、主体的な責任の引き受け意識であり、個人的な矜持の問題なのだ。
例えばそれは、朝鮮の人たちへの加害国家である日本の国民たる、日本人としての「戦後責任」の引き受けと、似たような感覚である。
ではなぜ、そのように感じるのかと言えば、それはたぶん、生まれてくる際に自分では性別や国籍を選べなかったのと同様、私は自分で「健常者として生まれたい。障害者に生まれるのは嫌だ」と、そんな選択をしたわけではないからであろう。
私はたまたま健常者として生まれただけなのだから、たまたま障害者として生まれた人に、その点において負い目を感じる必要はないと、そう感じられるのだ。
それに、私は結婚もせず、子供も作らず、他者とのセックスもしないのだから、生まれてくる子供の事前選別をすることも、進んで放棄している人間である。
つまり、子供を作れば、出生前診断も受けるだろうし、障害があれば堕胎を選ぶかもしれないとは思うが、それをしないためにも子供を作らないのであれば、自分が意識して拒否した選択にまで、責任を負わなければならないとは思わないのである。
本書所収の往復書簡において、著者は「プロチョイスかプロライフか」と言えば、自分は素朴なプロライフ派だと語っている。
プロチョイス、プロライフとは、人工妊娠中絶をめぐって、「母親の選択(中絶するか否か)」という「選択権」を優先するのか、「胎児の命」を優先するのかという、二つの立場を示すものだが、私は以前から「プロライフ」派であることを明言してきた。
それは、著者が言うような、素朴な「生命尊重(優先)主義」ではなく、私なりの「論理的な帰結」である。
つまり、人工妊娠中絶が「殺人罪」とならないのは、「どこからを(物ではなく)人間であるとするかの、恣意的な線引き」のおかげでしかなく、しかし所詮それは「社会的な制度的構築物(取り決め・フィクション)」でしかない。
だから、そうした「恣意的な取り決め」には依らず、合理的に考えるならば、人間とは、出生時から(以降が)「人間」なのではなく、受精卵となった段階で、一個の(未成熟な)人間だと考えるべきだと、そう考える。
これは本書著者が言及しているような「キリスト教カトリック」における教義的な考えなどではなく、物理的合理性を徹底した結果としての考え方なのだ。
論理的に考えるならば、恣意的な「生命の線引き」など、本来は誰にもできないはずのもの(権利のないもの)なのだから、それが「社会生活上、やむを得なく必要な制度」であると言うのであれば、私たちは皆、そんな社会を必要としている殺人者であるとの自覚くらいは持たなければならない。
つまり、障害者を社会的不適格者と「線引き」して虐殺したヒトラーを、責める資格など、私たちには無いのだということを自覚して、そのつもりで生きなければならないと、そのように考えるのである。
そして、私のこうした考え方の合理性を、最もわかりやすく描いた小説が、SF作家フィリップ・K・ディックの短編「人間以前」(別邦題「まだ人間ではない」)である。
この小説では、世界的な人口過剰によって、人の命が安く見積もられるようになり、その皺寄せが、最も弱い立場の子供たちに押しつけられたら未来世界が描かれている。
12歳未満の子供は、まだ人間だとは認められておらず、言うなればペットや家畜などと同じような法的立場におかれている。
したがって、12歳未満の子供たちを殺しても「殺人罪」には問われないし、捨てても「野良子供」になるだけで、子供を捨てる行為は大した罪(要保護者遺棄罪)にはならず、捨てられた子供の方は、「子供狩り」によって捕らえられ一定期間保護された後、引き取り手がなければ「殺処分」にされる。
当然、他人の子供を殺しても殺人罪ではなく、他人の財物を棄損した科によって「器物損壊罪」に問われるだけなのだ。

では、「12歳未満」という線引きにどのような根拠があるのかと言えば、それは「12歳ともなれば、おおよそ人間らしい知能も備わり判断能力も備わるので、人間と考えて良い」という(程度の)ことなのだ。
つまり、12歳未満は、人間のカタチはしていても、実質的には「(他の)動物並みでしかない」と、そういう「合理的な判断」による線引きなのである。
一一このように書くと、「それのどこが合理的な線引きなのか」とおっしゃる方もいるだろうが、しかしそれなら、母体から出てきた瞬間から「人間だ」という線引きは、どれほど合理的なのか?
生まれる直前と直後において、子供自体には何の違いもないのに、恣意的な時間区分によって生命に線引きをするのは不合理だというのは、あまりにも明らかではないか。
生まれた直後の赤ちゃんも人間なら、生まれる直前の胎児も人間だろう。
ならば、その1ヶ月までの胎児だって人間だし、半年前の胎児だって、未熟ではあれ人間であろう。

そのようにして遡っていけば、精子と卵子それぞれは、人間の消費的パーツでしかないとしても、それが結合した「受精卵」が、人間生命の始まりで、未熟な胎児だと、そう考えるべきなのではないか。
線引きが出来るとすれば、そこしかないのではないかというこの考え方は、極めて合理的なものであり、決して宗教保守的に頑迷な考え方(イデオロギー)などではないのである。
そして、そんな観点から人間なり生命なりを見ている私からすると、生まれる前に合法的に抹殺されていった子供たちのことを思えば、私たちはすべて「生誕者優先主義」という、そんなマチズモに生きる、無自覚な差別主義者だということになるはずなのだ。
だから私は、障害者に対して、負い目のようなものは感じず、ただ幸運に恵まれた者の責任を引き受けるべきであるという、そんなマチズモの美学を肯定するのである。
そんなわけで、私の中にも、本作「ハンチバック」の著者のそれに、どこが似ており、しかし明らかに違った「暗い重さ」があるように思えるのだ。
(2026年10月9日)
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