▷ 映画評:ハワード・ホークス監督『リオ・ブラボー』(1959年/アメリカ映画)
何を見ようかと少し悩んで、手近にあった本作のDVDを手に取った。
主演は、西部劇俳優として知られたジョン・ウェイン。監督は、名前だけは知っているハワード・ホークス。作品も、タイトルだけは知っていた『リオ・ブラボー』。

そもそも、すでに買ってある西部劇映画のDVDは、すべて有名作のはずで、本作もそうした傑作のひとつだと、そう期待して見たのだが、一一正直なところ今ひとつの作品だった。
特に目立った欠点や難点があるわけではないのだが、全体にインパクトに欠ける印象で、ここが良かったというほどシーンや登場人物の魅力といったものがなかった。
それなりに「個性的なキャラクター」が集まっているのだが、その個性というのは、TVシリーズもののキャラクター的にわかりやすい「役割分担的」なもので、個々のキャラクターに厚みが無い。
まず、主人公の保安官であるジョン・T・チャンス(ジョン・ウェイン)からして、個性が曖昧。「良い人だが頑固者」程度のキャラクターだ。

また、かつてはチャンスの部下(保安官補)だったのだが、性悪女に引っかかって町を出、女に捨てられてアル中(重度のアルコール依存症)となって舞い戻ってきた男デュード(ディーン・マーチン)。

チャンスの友人であるホイーラーが雇っていた若いガンマンで、ホイーラーが殺された後、チャンスに協力して保安官補になる、コロラド・ライアン(リッキー・ネルソン)。

チャンスに保安官補として雇われている、片脚が不自由なものの、元気でよくしゃべるスタンピー爺さん(ウォルター・ブレナン)。

この4人の男に加えて、チャンスに惚れる元賭博詐欺師の女フェザーズ(アンジー・ディキンソン)の、総勢5人が「正義の側」ということになる。

一方、悪役の方は、物語の開幕早々にチャンスによって逮捕される、人殺しの無頼漢ジョー・バーデッド。
しかし彼は、悪役は悪役でも、大した活躍はしないまま保安官詰所の留置場に放り込まれてしまい、そのまま最後まで悪役としての活躍はしない。この男の役回りは、物語のきっかけを作ることだけなのである。

次は、ジョーの兄ネイサン・バーデッド。
ネイサンは、金持ちで金で雇った子分や殺し屋を使って、逮捕された弟ジョーを奪い返しに来るという役回りである。
ところがだ、このネイサン自身は、粗野な弟とは違って、いかにも金持ちぶったキザったらしい男で、自分で闘うことはしない、金と口だけの男。
また、このネイサンに雇われて、保安官詰所を襲撃したり、チャンスらを「生捕り」にしようとしたりする殺し屋などの無頼漢たちは、いずれも「その他の悪漢」であって、名前のついた悪役キャラではない。
つまり、一人も悪役としての迫力や魅力を持つ人物がいないのだ。
で、そんな小粒な悪党たちが、ジョーを奪還しようと散発的に襲ってくるのを、チャンスたちが撃退したり、あやうく捕まりかけたりしながら、最後は悪漢たちを退治してバーデッド兄弟を逮捕し、連邦保安官にその身柄を引き渡して、万事めでたしめでたしという、本作はそんなお話なのである。
一一さて、以上の説明からもわかるとおりで、本作の弱さは、まず魅力的な強敵がいないということ。
金の力で無頼漢たちを雇い、逮捕された弟ジョーの奪還にくる兄ネイサンがいるだけで、この何の魅力もないバーデッド兄弟と、あとは名もなきその他おおぜい。
だから、こんな小粒な悪漢たちとの闘いは、どこか終始、緊張感を欠いている。
したがって、この物語の見どころは、正義と悪との対決と言うよりも、チャンスを中心とした正義の側の人間関係やその人柄を描くというところにあるのだが、しかしこれもまた型どおりでしかなく、いまいちパッとしない。
そもそも、主人公であるチャンス自体が、あまり個性的とは言い難い、少々「カタブツ」の保安官というだけで、特別に腕が立つというほどではないし、主人公としては当たり前に「不器用だがいいやつ」的なだけ。
しかも、町が修羅場になるとわかっていたから、詐欺師の女を逮捕せずに「駅馬車でさっさとたち去れ」と大目に見てやったことから、あっさり惚れられる。
その点では、主人公らしいキャラクターではあるものの、これといった説得力や際立った魅力というものがない。
正義の側で、最も凝った人物描写のなされるのが、チャンスの危機を救ったことから、ふたたび保安官補に雇われて、アル中を乗り越えてやり直そうとするデュードなのだが、アル中が治ったような治らないような中途半端な描写が続き、デュード自身のアル中を乗り越えようとする覚悟もいまいちハッキリしない描写が多くて、娯楽作品にしては無駄やわかりにくい人物描写になっている。
また、当初はチャンスから「保安官補にならないか」と誘われ、「そんな厄介事には関わらない」と、賢く覚めた態度を採っていたものの、結局はチャンスを危機から救い、それでバーデッド一味から敵視されて、保安官補とになる若手ガンマンのコロラドも、「覚めた若者を気取っているけれど、本当は漢気のあるやつ」みたいな、よくあるキャラクターである。

もちろん、片脚の不自由な、しかし元気に喋りまくる保安官補のスタンピー爺さんは、場の雰囲気を明るくするための三枚目キャラだ。
チャンスに惚れる女詐欺師のフェザーズもまた、物語に彩りを添えるだけのキャラクターで、さしたる活躍はせず、べつにいなくても物語は成立する存在にすぎない。
そんなわけで、悪役もパッとしなければ、正義の側の4人の男と1人の女も、今ひとつ輪郭の際立たない、ありがちなキャラクターにすぎない。
さらに言えば、バーデッド一味の襲撃が、中途半端で説得力がない。
ネイサン・バーデッドがゴロツキを多数雇ってリオ・ブラボーの町を包囲しているので、逮捕したジョーを連邦保安官のもとへと護送することができず、連邦保安官がジョーの身柄を引き取りにくる6日後まで、チャンスたちはジョーの身柄を奪還されないよう、町で頑張るというお話なのだが、そもそも、そんなに大勢のゴロツキだの殺し屋だのを雇えるのなら、チャンスたちは4人しかいないんだから、30人ほどで一気に襲撃すれば、すぐに片のつく話なのに、なぜかバーデッドはそれをせず、最大10人ほどを使って、チャンスたちを「生捕り」にしょうとするのだ。
それ以前に、チャンスに協力を申し出ていたホイーラーを、いきなり射殺しておいてである。
つまり本作は、登場人物がいずれも型どおりであり、魅力も薄ければ説得力を欠くというだけではなく、物語の展開の方もとんと説得力がないのだ。
圧倒的な戦力を誇るはずのバーデッド一味は、なぜかその戦力を使わないまま、人質にしたデュードと逮捕されたジョーの人質交換なんていう面倒な手段を選び、その場での比較的小規模な銃撃戦の果てに、あえなく逮捕されてしまうのである。

○ ○ ○
そんなわけで、仮にも本作が「西部劇映画の傑作」だとされているのなら、私はその評価を承服しかねるし、「もしかして、それほど評価の高い作品ではなく、ジョン・ウェインの主演西部劇映画として有名なだけなのかも知れないな」などとも考えて、さて、こんな良くも悪くもない平凡な作品のレビューを、どう書こうかと悩みながら、Wikipediaを確認したところ、次の文章がいきなり飛び込んできた。
『 解説
本作はフレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』に描かれた保安官の姿に不満を持ったハワード・ホークスとジョン・ウェインが『真昼の決闘』へのアンチ・テーゼとして制作したといわれている。』
(Wikipedia「リオ・ブラボー」)
この平凡な作品が、別の西部劇映画への「アンチ・テーゼ」として制作されたというのなら、その作品たるフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』とは、一体どんな作品なのか?

『 概要
それまでの西部劇では、悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、(※ 本作『真昼の決闘』では、主役の保安官が)暴力を恐れる普通の人間として描かれていることに、この映画の最大の特徴がある。
また、協力者が真っ先に逃げ、自らが守ろうとしているはずの町の住民が関わり合いを恐れて協力や手助けを拒み、しかもその日結婚式を挙げたばかりの新妻からも見放されて、孤独感に苛まれながら主人公が1人で決闘に向かう姿を描いている。
共に決闘に加わってくれる者を探して町を彷徨う保安官の姿に、それまでの西部劇にあったヒーローも、そして共に戦うという友情も開拓者魂もない。
この映画以降、西部劇の主人公の描き方は劇的に変わっていった。』
(Wikipedia「真昼の決闘」)
『 製作の背景
この映画が製作された時代は赤狩りの時代と呼ばれ、映画界においても、数百人の映画人が(※ 身内の密告などにより)ハリウッドを追われた。
この作品の内容は、体制(※ 国家権力)による思想弾圧を黙認する(※ 意気地のない)アメリカ人を批判したものと読み取ることも可能であるが、監督のジンネマンは「政治的な意味はない」と否定している。
脚本のカール・フォアマンは、この作品の撮影中から赤狩りの対象となり、完成後、英国へ亡命した。
ジンネマンは「最初にこの映画の脚本を読んだ時に、これは傑作以外の何物でもない」と思ったと自伝で語っている。
製作者のスタンリー・クレイマーは「誰も守ろうとするガッツが無かったので滅んでいった町についての話だ」と語り、ジンネマンは「これは良心に従って決定を下さなければならない男の話だ」と語った。
(※ 脚本の)フォアマンはこれをマッカーシー時代の彼自身の政治的経験のたとえ話だと見ていた。
しかしジンネマン自身は「深い意味がある」と感じ、「普通の西部劇神話ではない」「これはタイムリーでもあるが、時間を超越した今日の生活に直接結びついている何かがある」「これはどこでも、いつでも起こり得る話である」と述べている。』
(Wikipedia「真昼の決闘」)
これで、おおよそのことはわかった。
私は、ジョン・ウェインが政治的には「タカ派」(強硬保守)であり、ハリウッドでも吹き荒れた「赤狩り」に協力した側の人物だと知っていたからである。
『政治的にはハリウッドのタカ派として知られ,1968年にはアメリカのベトナム侵略を鼓舞する《グリーン・ベレー》をみずから監督,主演した(監督作品はほかに,これも〈愛国精神〉に貫かれた西部劇大作《アラモ》(1960)がある)。』
(『改訂新版 世界大百科事典 』宇田川幸洋)
『1971年にプレイボーイ誌の取材で「私は白人至上主義を信じている」「5世代、10世代前にそれらの人々(黒人)が奴隷だったことに何の罪悪感もない」と発言。反LGBT(性的少数者)、反先住民(インディアン)的な考えの差別主義者だったことも問題視されている。』
つまり、ジンネマン監督にどのような真意があったかは別にして、『真昼の決闘』という作品は、ハリウッドの映画仲間(同僚)たちを国家権力に売った人たちには、とてつもなく嫌な作品、自分たちが責められているとしか思えない、嫌味な作品に映ったのだ。
だから、『リオ・ブラボー』のWikipediaにある、
『フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』に描かれた保安官の姿に不満を持ったハワード・ホークスとジョン・ウェイン』
というのは、じつのところ、『真昼の決闘』に描かれた「保安官の姿」が不満だったと言うよりも、作品そのものに腹を立てた、ということなのである。
そのため、リアリズムに徹して「嫌な現実」を描いた『真昼の決闘』に対して、『リオ・ブラボー』は、型どおりで陰影に欠ける主人公たちによる、型どおりの「勧善懲悪」の物語を描かざるを得なかったのだ。
なぜなら、登場人物たちに「陰影をつける」というのは、リアリズムに近づくということであり、ジンネマンの『真昼の決闘』に対して、「こっちこそが西部劇の王道だ。こっちの方が面白いに決まっている」と、そんなケチな対抗意識による「エンタメに徹した作品」だったからこそ、本作『リオ・ブラボー』は、「なんでこんなTVシリーズめいた作品になったのだろう?」と思わせるような、陳腐で型どおりの作品になったのであろう。
一一そう考えて間違いはあるまい。
ちなみに、『リオ・ブラボー』のWikipediaの「解説」が、
『本作はフレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』に描かれた保安官の姿に不満を持ったハワード・ホークスとジョン・ウェインが『真昼の決闘』へのアンチ・テーゼとして制作したといわれている。』
などという「曖昧な書き方」をしたのは、あくまでもこの項目が『リオ・ブラボー』のためのものなので、もろに批判的な書き方になるのを避けて、誤魔化したということなのであろう。
だからこちらには『真昼の決闘』が孕んでいた「社会批判」的な含意には、ひと言も触れなかったのである。
ちなみに「タカ派」ジョン・ウェインが『真昼の決闘』に反発したというのは、わかりやすい話だが、では、『リオ・ブラボー』の監督であるハワード・ホークスが、ジンネマン監督の『真昼の決闘』に反発した理由とは、奈辺にあったのだろうか?
それは、普通に考えれば、ホークスもまた、政治権力に迎合して、映画仲間の「共産党員(赤)を売った(密告した)」側の人だったのだろう、ということになろう。
そういう目で、ホークスのWikipediaを見てみると、目につくのは、
『 生涯
インディアナ州ゴーシェン出身で、生家は製紙業はじめ不動産や石炭会社など地元経済の大黒柱として知られる一族で、母親の家系もウィスコンシン州の産業界の重鎮で、裕福な家庭に長男として生まれる。学生時代はあまり成績は良くなかったが、1914年にコーネル大学に進学し、機械工学を専攻する。この頃、祖父から買って貰ったレーシング・カーに乗って、カリフォルニアのアマチュア・レースに参加していた。』
(Wikipedia「ハワード・ホークス」)
という「恵まれた出自」である。
つまり彼は「資本家の側の人間」だったのだ。
だから、労働者の権利を訴える「共産党員」を以前から嫌っており、それで「赤狩り」の際にも喜んで協力した、ということではないだろうか。
また、「評価」の項目は、次のようなものである(全文)。
『 評価
1975年、アカデミー名誉賞を授与されるが、現役時にはアカデミー賞の受賞どころかノミネートも1度しかなく、また作品も同じく賞に縁がなかったアルフレッド・ヒッチコックのような際立った独自のスタイルがなかったため、これほどの傑作を世に放ちながらもホークスは生涯を通じて、批評家からは通俗的な娯楽専門のB級映画監督としてしか見られなかった。
しかし、1950年代に入ってからは、ヒッチコックと共にフランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌のジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどから、多くの作品で企画、脚本、キャスティングにも関わるなど、自分のビジョンを貫き通すホークスの徹底的な作家主義の姿勢に関して大きな評価を受け、世界的な映画作家という評価が高まっていく。このことは皮肉をもこめて「ヒッチコック=ホークス主義」と呼ばれるが、ホークス自身は自分を職人監督だと割り切っており、ストーリーを語っているに過ぎないと述べている。
またアメリカ本国でも、1960年代から1970年代にかけて、ピーター・ボグダノヴィッチはじめ若い映画研究家からの評価も高まり、多くのホークス研究文が世に出始め、またホークス自身も彼らからのインタビューを快く受けていた。
アーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・フォークナーとアメリカ文学界の重鎮たちとの交流も深く、特にフォークナーとは親友であり、脚本家としてホークスの映画制作に4作品ほど参加していた。
「ヴィクター・フレミングに『風と共に去りぬ』の演出の助言をした」「飛行中に病気で倒れたパイロットの代わりに旅客機を操縦した」など虚言癖がある人物で、晩年、若い映画評論家とのインタビューで語ったエピソードも信憑性が低いと云われている。また人と付き合う際、距離を置き、また手紙や日記といった類のものは残さない性格で、そして上記の虚言癖ゆえに、幼少時代から映画界入りするまでの詳しいエピソードはあまりよくわかっていない。
ホークスの映画に登場する、ローレン・バコールに代表されるカリスマ的で機知に富んだ会話をする女性をホークス的女性像と呼ぶ。』(同上)
つまり、ハリウッドにおいては、評論家筋から長らく『通俗的な娯楽専門のB級映画監督としてしか見られなかった。』という点において、たぶんホークスは「インテリ嫌い」だったのだろう。
そして、インテリには共産主義者が多かった。
ところが、アメリカの娯楽映画に憧れを持っていた、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」派のゴダールやトリュフォーなどが、「通俗的な娯楽専門のB級映画」たる西部劇映画や犯罪映画(フィルム・ノワール)などを殊更に持ち上げたおかげで、ハワード・ホークスの世界的な評価が高まり、「有名映画監督」の仲間入りをした。
それで私も、ホークスの名前だけは知っていたと、そういうわけである。
ちなみに、ホークスのWikipediaで他に気になる点としては、
(1)『ホークス自身は自分を職人監督だと割り切っており、ストーリーを語っているに過ぎないと述べている。』という、謙虚に見える自己規定。
(2)『アーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・フォークナーとアメリカ文学界の重鎮たちとの交流』
(3)『虚言癖がある人物』
(4)『ローレン・バコールに代表されるカリスマ的で機知に富んだ会話をする女性をホークス的女性像と呼ぶ。』とされる「クセの強い女性」好み。
といったことだろう。
ここからわかるのは、ハワード・ホークスが「自分に自信を持つことのできない、権威や力あるものにすがりつきたがる、弱い性格の人」だということになるのではないだろうか。
だから、そんな自身を人目から偽るために、妙に謙虚ぶったりはするのだけれど、基本的には、そこも含めての「虚言癖」があったということだ。
つまり、本当に謙虚な人だったら、
「ヴィクター・フレミングに『風と共に去りぬ』の演出の助言をした」「飛行中に病気で倒れたパイロットの代わりに旅客機を操縦した」
などという、自慢話系の大ボラなど吹かなかっただろうということである。
そして、こんな彼なら、周囲から「チクリ(密告)屋」を疑われても仕方なく、そうしたことでも、ホークスは『真昼の決闘』という作品が孕んでいた「裏切り者への告発」を、他人事には思えなかったということなのではないだろう。
したがって、結論として言えるのは、『リオ・ブラボー』がどうして、あんな「小さくまとまった娯楽作品」になったのかと言えば、それはハワード・ホークスの、ジンネマンや『真昼の決闘』に対するケチな対抗意識と、それでいて、自分を「タカ派」とは見せたくないという保身とが相まって、あのような「なまぬるい」作品になってしまったのではないか、ということだ。
ちなみに、そうした「背景」を知らずに本作を見れば、それはそれなりに楽しめる娯楽作品ではあっただろう。
だから『リオ・ブラボー』のWikipediaの「与えた影響・ファン・評価」の項目には、次のような記述もあった。
『仮面ライダーで知られる石ノ森章太郎の代表作である秘密戦隊ゴレンジャー、同作から始まるスーパー戦隊シリーズは本作から強い影響を受けて創作された。』
つまり、『リオ・ブラボー』における、正義の側の5人、チャンス、デュード、コロラド、スタンピー、フェザーズは、ぴったりとは当てはまらないものの、おおむね『ゴレンジャー』における、アカレンジャー、アオレンジャー、ミドレンジャー、キレンジャー、モモレンジャーの「原型」だったのだと言えようし、その意味では「戦隊モノの役割分担的な、一面的キャラクター」でしかなかったから、映画らしい厚みに欠けて「TVシリーズ的」だという印象を与えもしたのだろうと、そういうことになるのだ。
この見解に疑問を覚える方は、ぜひ『リオ・ブラボー』をご覧いただきたい。

(2026年10月7日)
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