▷ 書評:フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』(ハヤカワ文庫)
1962年に早川書房から「異色作家短篇集」叢書の第7巻として刊行されたのが、星新一の翻訳になる本書『さあ、気ちがいになりなさい』である。

1962年と言えば、何を隠そう私が生ませた年なのだ。それくらい昔の本だということである。
私の世代だと「あの星新一が、一冊丸ごと翻訳した本なのか。そりゃあ貴重だ」ということになるのだが、さて、今の若い人でも、さすがに星新一くらいは読んだことがあるのだろうか?
「さすがに星新一くらいは」というのは、星新一が単なるベストセラー作家ではなかったからだ。
ベストセラー作家など、死んでしまえば「過去の人」となってしまい、驚くほど読まれなくなってしまうもので、いま現在、メディアにも露出して華やかな活躍をしている作家だって、死後10年読まれ続ける作家というのは、指折り数えるくらいしかいないはずだ(そうでないと、資本主義経済は回らないからだ)。
生きて、ごくたまにではあれ新刊を出すからこそ大家として祭り上げられ、にぎやかに宣伝されることもあるのだけれど、新刊が出なくなり、旧作ばかりともなれば、出版社も書店も、力の入れ方が格段に下がってしまうから、徐々に忘れ去られてしまう。
例えば一一と、例に挙げて恐縮なのだが、世界的に売れた村上春樹や吉本ばななでも、死んだら忘れ去られるだろう。
村上の場合、文学史的にはその名を残すだろうが、文学史的価値だけでベストセラーになることはない。
一般の読書好きは、文学史的な価値を有する作品だから読んでおかねばなどとは考えず、いつだって同時代の話題作を読むだけなのだ。
それが純文学に分類される作品であろうと、エンタメに分類される作品であろうとだ。
だから、そうしたベストセラー作家というのとは違い、昔は中高生が読む「定番(鉄板)作家」であった星新一が、今も若者に読まれていたとしても、それはさほど驚くようなことではない。
星新一の本は、ベストセラーや話題作ではないが、ロングセラーと呼ばれるものだったし、近年でもTVドラマ化され話題になったりもしているのだ。
なぜ、星新一がこのように息の長い作家なのかと言えば、それは彼が「ショートショート」の名手だったからである。
いまさら「ショートショート」とは何かという説明をするのも気のひける話なのだが、最近ではあまり書かれない文学形式なので、いちおう説明しておくと、要は「掌編」のことである。
つまり、「短編」よりもずっと短い、文庫本の版面にして、せいぜい4、5ページまでに収まる超短編のことだ。

最近では「実話風ホラー」の方面で、こうした掌編形式の連作本が流行っているようだが、そういうものは普通、「ショートショート」とは呼ばない。
なぜなら、そうした作品は「実話」風であることが重要だから、小説的な造りを最低限に抑えるために短くなっており、そのため、短編小説としての首尾一貫した結構を備えていなくても良いというか、むしろ例えば「オチらしいオチ」の無いものが少なくない。
普通「実話」にはオチなんか付かないのだから、「実話風」であるためには、オチは無い方が、むしろそれらしい「雰囲気」が醸し出せるからであろう。
だが、それに比べると「ショートショート」は、「創作(フィクション)」であることをまったく隠さないし、あくまでも「小説」としての面白さを意識して書かれた作品がほとんどなのだ。
仮に、実話風の一人称の語りを採用したとしても、しかしそこには「実話と勘違いさせよう」というような、メタレベルの意図はない。あくまでも、「小説としてのリアリティ」を高めるための、一つの叙述スタイルとして採用されているにすぎない。
つまり「ショートショート」は、基本的にはあくまでも「短い小説」であり、小説としての首尾一貫した結構を持つ小説形式なのだ。
だが無論、短くするためには、何かを削らなければならない。
では、「ショートショート」で何が削られるのかというと、それは「描写」である。
「人物描写」「内面描写」「風景描写」「状況描写」などなどで、いわゆる「文学作品」と呼ばれるような作品では、こうした「描写」に重きが置かれてきた。
なぜなら、「文学とは、説明するものではなく、描写するものである」と、長らくそう考えられてきたからだ。
つまり、「彼は、これこれこういう理由で、とても苦しんでいた」などという説明は、評論文やノンフィクションでも可能なことだが、「文学」の場合は、そうした「安直な形式的説明」ではなく、精密かつ的確な描写によって、それを読者に「感じ取らせ、味わわせる」ものだと、そのように考えられて来たからである。
だが、こうした高尚な考え方(芸術趣味)は、スピード化の時代、あるいは効率主義の時代には、いささかそぐわなくなってきた。
現代の読者は、風景描写が何ページも続くような小説に耐え得なくなり、そうした「筋」に関係ない描写は、最低限で良いと考えるようになった。
要は、せっかちになったのである。
もちろん、これが良いことか悪いことかは、いちがいには言えない。
つまり、昔風の悠長で贅沢な文学作品も、今風にコスパの良い作品も、どちらも楽しめるに越したことはないのだが、まあそういう暇で器用な読者というのは一般的ではなく、大半の読者は「今風」を求めるし、それは今も昔も変わらないことなのだ。
で、ものすごく遠まわりをしたのだが、そうしたコスパの時代にあっては、コスパ小説の先駆けとも言えよう「ショートショート」の大家となった星新一が、今の読者に読まれていても、なんら不思議ではない、ということにもなるのである。
しかも、「ショートショート」の長所というのは、単に短時間で読めてコスパが良いというだけではなく、「描写」が少ない分、物語の抽象度が高まるから、風俗的な部分などで古びにくいということもあるのだ。

だが、いくら古びにくい小説形式としての「ショートショート」であろうと、その大家である星新一の作品であろうとも、永遠に古びないということはあり得ない。
星新一の作品は、オチを明示しないリドルストーリーであっても、物語としての結構は、しっかりしたものが大半だ。
平たく言えば「ああ来て、こう来て、そこに落とす」的な、計算されたしっかりとした構造を持つ作品が多い。
だが、かつて喜ばれた、そうした律儀な造りが、今どきの若者に喜ばれるかどうかというと、私はそこにいささかの疑いを禁じ得ない。
要は、そうした当たり前の「論理的な造り」すら、理解するのが面倒になり、「ワンパターン」にこそ安住し、「雰囲気」だけで満足するような読者が増えているのではないかと、そんな危惧がある。
だから「今でも星新一は読まれているのだろうか?」と、そんな危惧をも抱いてしまうのである。
まただからこそ、そんな「ショートショートの大家である星新一」の訳した短編集だと紹介しても、「今の若者には、そのありがたみが伝わらないのだろうな」と、そのようにも思えてしまうのである。
要は、星新一の面白さがわからない人に、本書を紹介しても仕方がない。
だから、最初に星新一を紹介しようとし、そのために「ショートショートとは何か」ということまで、大回りをして説明したのである。
しかし、言い換えるなら、星新一の面白さがわかる人、知っている人には、ぜひ本書をオススメしたい。
星新一が本書を翻訳したのは、まだ星が小説一本では食えなかった時代だったからなのだろうが、それにしても、だからと言って何でもいいからと、適当に訳したわけではない。
SF作家になった星新一は、もともとSFファンだったのであり、本書の著者であるフレドリック・ブラウンのような、キレの良い短編SF作家が好きだったからこそ、ブラウンの作品を翻訳したのであろう。
もちろん、ブラウンには、SFだけではなくミステリー小説もあれば、長編小説もある。
だが、星新一は、そんな中でもSF短編を好んだのではないか。
また、その影響から短編SFを書き、短編作品を形式的に徹底した「ショートショート」を好んで書くようになって、その世界的な大家にまでなったのであろう。
だから、そんな作家性を持つ星新一が「好きで翻訳した」この作品集が、つまらないわけないのだ。
そんなわけで、星新一の面白さがわからない人には、フレドリック・ブラウンの短編の面白さもわからないのかも知れない。
だが、それはまあ「縁なき衆生」だったということで、諦めてもらうしかない。
仏教においても、仏種(成仏するためのタネ)を持たない人は、正法(正しい教え)に接しても成仏はできないと、そう言うくらいなのだから、「短編小説種」の無い読者には、星新一やフレドリック・ブラウンが、楽しめなくても、それは作家のせいでも読者のせいでもなく、縁が無かったと言うほかないのである。
だから、以降の説明も、「短編小説種」のある読者だけに意味のあるものと、そうご理解いただきたい。
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本書文庫版『さあ、気ちがいになりなさい』の帯には、星新一による「(初版)あとがき」から、次のような言葉が抜粋されている。
『奇抜な着想をすぐれた技巧でまとめ、その点で他の追随を許さない。恐るべき才能である。』
まったくそのとおりである。
一一そのとおりではあるのだが、しかしこの説明では、たぶん「フレドリック・ブラウンの面白さ」は、今や十分には伝わらないだろう。
しかし、それは星新一が悪いのではなく、近年は凡作愚作でも「最大級の賛辞を惜しまない」嘘つき書評家や提灯持ちライターなどが増えて、言葉(形容)がインフレを起こしてしまったからである。
つまり、星新一の上の言葉は、当時としては、文字どおり「超一流の作家だ」とするものだったのだが、最近の作家の本に同じ文句が刷られていても、その本音は「なかなか書ける作家で、読む価値はありますよ」くらいの意味しか持たなくなってしまった、ということである。
そのため、今どきの読者が、上の星新一の言葉を読んでも、それほど「そそられる」ことはないだろうと、そういうことなのだ。
だから、「異色作家短篇集」シリーズの「新装版」として2005年に刊行された版に追加された、漫画家・坂田靖子の解説「フレドリック・ブラウンの幸福」では、そのあたりを実に的確にフォローしている。

『 読者の予想を裏切るひねりのテクニックに命を賭け、切れ味がよくて何度でも読める。
稀代のストーリーテラーといわれるブラウンの短篇は、漫画家をやっている私にとっては一種の神ワザに近い存在だった。
「なんとかこの意表をつく驚きのひねりをマスターできないもんだろうか‥‥‥」なんて事を考える間もなくすっかり読みふけってしまったりするものだから、あまり学習の効果はなかったのだが‥‥‥。
彼の大ファンである私に紙面を与えてくださった事に感謝しつつ、ふざけた設定とオチの鋭さで有名なフレドリック・ブラウンの作品について、ちょっとだけ書かせていただこうかと思う。
フレドリック・ブラウンは〝ありえない状況〟を描く事がうまい作家だ。
もちろん、SFとかファンタジーとか幻想怪奇とかとかそのようなジャンルに大別される小説は、まあだいたい〝ありえないような状況〟を描いて見せてくれるものだ。
読者の方も〝現実では見られない世界〟を期待して読むのだからそれが当たり前だと思われるだろう。
しかし、フレドリック・ブラウンの場合〝ありえなさ〟のタガが、常識的なこういう小説のラインより、かなりというか激しくはずれている。
ちょっと我々が追いつけないくらいヘンなところに座っているのである。』(P362〜363)
坂田靖子の言うとおり、『奇抜な着想』とか『あり得ない状況』などと言われても、今どき、SFやファンタジー、幻想怪奇はもとより、ミステリー小説を読む読者だって、それは「当たり前」に期待しているのだから、それだけを保証されても、もはやピンとは来ない。
「これは面白い娯楽小説です」とか言われているのと大差がなく、「そりゃあ当然でしょ?」と感じられるからである。
だから、坂田はここで、フレドリック・ブラウンのそれ(奇抜さ、あり得なさ、尋常でなさ)が、「すごい」とは言わずに「タガが(…)かなりというか激しくはずれている。」と紹介したのだ。
もう、当たり前に「すごい」のではなく、「ヘン」なのである。
普通に「すごい作家」は「すごい」だけだけれど、フレドリック・ブラウンの場合は「すごい」と言うよりも、「ヘン」なのだ。むしろ「異常」。
「なんでそうなるの⁈」と呆れてしまう。「先が(オチが)読めない」のだ。
しかし、それは「デタラメ(無茶苦茶)」でもなければ「ズル(アンフェア)」でもない。
SFとしては「あり」なことしかやっていないのだが、作品内での振れ幅が大きすぎ、ホラ(嘘)のスケールが大きすぎて、読者の予想がついていけないのだ。
つまり、「なるほど、うまく落としましたね」という納得感ではなく、「ええ〜っ、そこまでやっちゃうの⁈」という感じなのだ。その意味で、きわめて「自由なSF」なのだ。
そして、私がここで「自由なSF」という表現を使ったのにも理由があって、それは「今どきのSFって、確かに高度化はしたけれど、ちょっと窮屈になりすぎてない?」という気分が、私にはあるからなのだ。
今どきのSFは、ハリウッド映画的な大衆向けSFか、SFマニア向けのSFかに二極分化して、中間層としての普通の小説好きが気軽に楽しめる作品が少なくなっているように思えてならない。
年寄りの懐古趣味だと思われてもかまわないから書くのだが、SF草創期の作品には、誰が読んでも楽しめるような親しみやすさがあったし、それが「文学」方面から軽く見られる理由にもなった。
また、そんな蔑視と闘うために、ハイブロウな文学的SFも書かれるようにもなった。
そういう山あり谷ありの歴史を経て、今のSFがあるのだから、今のSFを否定しようなどというつもりなど、さらさらない。
けれども、走り続けることに疲れた私たちが、それを幻想だと知りながらも「古き良き時代」に郷愁を感じるというのも、それはそれで自然なことであり、いちがいに否定されるべき感情ではないのではないだろうか。
本書が、『さあ、気ちがいになりなさい』というタイトルで刊行された当時、「気ちがい」という言葉が「差別語」と意識されることはなかった。
だからこそ使われもしたのだが、その後、この種の言葉の使用が、禁忌的に自粛されるようになり、そのため本書の「新装版」が刊行されるまでにはかなりの時間がかかったし、それでもまだ、本書をそのままのタイトルで文庫化するまでにも時間がかかった。
こうした「差別を助長しかねない言葉」の使用について、「禁止」あるいは「自粛」すべきか否かの議論については、私としては、一長一短があるから、いちがいに言えないのだが、いずれにしろ「消す」ことはすべきではないと、そう考える。
なぜなら、消してしまえば、どこに問題があったのかという、具体的な議論までもが為されなくなるからだ。
言葉だけではなく、問題意識までもが消されてしまう、いや「隠されてしまう」からである。
だが、このような問題意識のある人も少なくはなかったからこそ、このタイトルが復活して来もしたのだろう。
つまり、私たちは、単純に一直線に「進歩」してきたわけではない、ということなのだ。
問題が発生すれば、それに対処がなされる。
しかしそうした対応は、しばしば形式化されパターン化され自動化されて、無反省に進められる結果、行き過ぎの弊害を生んでしまい、今度はそれが「問題」となって、それへの対応としての「揺り戻し」が生じる。
そして、その「揺り戻し」の補正運動さえもが、やがては自動化して、行き過ぎを生じさせてということになり、私たちは二極の間で振り子のように揺れ動いて定まらない、補正運動としての対応を繰り返すことになるのである。
そんなわけで、「差別語」の使用を消してしまおうとした過去の考え方が正しいのか、「差別語」の問題を理解し意識しつつ、適切に使うことを考える現在が正しいのか、それはたぶん、人間が不完全であり完璧ではあり得ないからこそ、どちらが一方だけが正しいとは断じえない、一長一短のある「解決し得ない問題」なのであろう。
だから、私たちが「古き良い時代」や「古き良き作品」に惹かれるのは、いま当たり前にあるものの有り難さが見えなくなっているせいである蓋然性も低くはないのだが、しかし、今は失われてしまったと感じられるものがある以上、時には立ち止まって、「過去」をふりかえることも決して無駄事ではないはずなのだ。
「さあ、気ちがいになりなさい」
そう言われている私たちは、果たして、すでに「気ちがい」である可能性はないのだろうか?
一一そんなふうに考えてみることは、決して無駄ではないだろう。
SF的に「宇宙人から見れば」、今の地球とは「発狂した惑星」ではないと、私たちはそう言い切れるだろうか?
私たちの気ちがいぶりと、フレドリック・ブラウンの作品の気ちがいぶりを比較してみることは、決して無駄ではないのではないだろうか。
つまり、本書を楽しめない読者とは、果たして正常なのか、それとも狂っているのだろうか?
一一そんなふうに問うてみても良いのである。
(2026年10月6日)
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