東浩紀 『平和と愚かさ』 :「私もまた有責な加害者である」という自覚

▷書評:東浩紀『平和と愚かさ』(ゲンロン)



『平和と愚かさ』というタイトルだけを見れば「平和を脅かすのは、平和ボケ的な愚かさだ」といったことの書かれた本なのかと、普通はそう考えるだろう。


特に今は、イスラエルとアメリカによる、イランの体制転換を狙った先制攻撃を契機とした紛争が、周辺諸国を巻き込むに止まらず、イランによる原油輸送を人質にとるホルムズ海峡の封鎖を招いて、広く世界を経済的な混乱におちいらせている最中である。

そうでなくても、長びくロシア・ウクライナ戦争イスラエルによるガザでの虐殺などによって、私たちが「もはや新たな戦争の時代に突入したのではないか」との懸念を抱きはじめていた矢先に、世界を巻き込む今回の紛争の発生によって、もはや第三次世界大戦「前夜」的な雰囲気さえ漂いはじめている。

もちろん、多くの国は戦争などしたくはないのだが、アメリカからは「どっちにつくのだ?」と脅され、イランからは「石油が届かなくなってもいいのか?」と脅されて、いやいやながらも旗色を宣明しなければならなくなってきているのである。

つまり、そんな今だからこそ、問題意識のある人は「戦争と平和について、真剣に考えなければならない」とそう感じている。
だから、東浩紀による新著『平和と愚かさ』も、そうした現実を直視して「考えろ」という方向で「戦争と平和」を語ったものなのであろうと思い、その点で共感して、興味を持つはずだ。

その一方、本書のタイトルを見て「また、きれいごとの平和論の本か。そんなものが何の役にたつというんだ」とそう考えて、反発を覚え苛立つ人も、少なくはないだろう。
今や日本は、かつて「タカ派」と呼ばれた高市早苗が首相となり、結構な人気を博する国なのだ。

だから今どき、当たり前の「平和論」が流行らないであろうことなど、本書著者や編集者だって百も承知である。
だからこそ本書の帯には、著者による序文から採られた、次のような惹句が刷られているのだ。

『ぼくたちは平和について語りすぎている。そのせいで平和から遠ざかっている。』


これは、本書が「戦争と平和について積極的に考えて、真剣に語れ」という趣旨の本でないことを明示したものであり、だから本書に、そうした積極性を期待した「意識の高い人」たちは、その予想と期待を裏切られて「えっ?」となることだろう。

また一方、「平和論なんてウンザリだ」と思っていた人は、この惹句にこそ「我が意を得たり」となり、本書に興味を持つはずだ。

つまり本書は、タイトルの「当たり前」っぽさに反して、帯の惹句がその真逆をいくことによって、意識の高い人とそれに反発してしている人、両方の興味を惹くものとなっている。
これは間違いなく、意図的になされた演出と見て良い。

東浩紀は、「はじめに」で次のように書いている。

『 本書は、平和と愚かさを主題とした著作だと記した。しかし平和と思かさがどうつながるのか。読者は訝しむかもしれない。
 ぼくの考えでは、平和と愚かさはともに「考えないこと」の表現である点で共通している。ひとはものを考えないときに平和を感じる。しかしなにも考えないと愚かなことをする。
 平和と愚かさが表裏一体であること。ここにはとても重要な問題がある。いまは合理性や配慮が讃えられる時代である。人権問題でも経済格差でもジェンダー(※ フェミニズム的問題)でも気候変動でもなんでもよいが、愚かさと加害の危険を避けるため、社会全体が、もっと調べろ、もっと考えろ、もっと賢くなれ、と人々を急き立てている。SNSとAIがその流れを加速している。
 むろん考えることは重要である。愚かさは罪の源でもある。けれども現実には人間の能力には限界がある。あらゆる問題について合理的な判断を下し、道徳的な正しさを引き受けることができる人間など存在しない。ひとは弱い。だから賢さへの強迫が過剰だと、不安を感じ逃走してしまう。平和を感じることができなくなる。そしてより深い愚かさに突入する。二〇二五年のいま、世界で起きているのはそういうことだと思う。
 だから、いまは「考えないこと」の価値を論じることが重要だと考えた。人々にあるていど「考えないこと」を許すような社会を作ること。それが社会の安定への道である。本書は、そんな課題の哲学的基盤を、考えないことについて考えるという、ほとんど自己矛盾のような作業を通して、問い続けた著作である。』(P8〜9)

このすこし後に、結論的な言葉として、帯に引用されていた、

『ぼくたちは平和について語りすぎている。そのせいで平和から遠ざかっている。』(P10)

という一文が来る。

つまり、本書において主張される「考えないこと」「語りすぎないこと」というのは、当然のことながら、「適切に考えよ」「ただ語れば良いというものではない。語り方を考えよ」というような、ある意味「当たり前の話」でしかない。

だが、このトリッキーさ、著者・東浩紀の言う「アクロバティック」さが読者の目を惹き、そこに何か新しいものを感じさせるのだが、こんな手口に簡単に乗せられるようでは、その読者は、あまり利口だとは言えまい。

「適切に考えよ」「ただ語れば良いというものではない。語り方を考えよ」というのは、まったくの正論ではあるけれども、そもそも「考えられない」「考えが足りない」のでは、お話にならないのである。

したがって、本書のタイトルと惹句のギャップ、序文における主張のトリッキーさは、ウケを狙って意図的に演出されたものだということくらいは、認識すべきであろう。
なにしろ、著者はプロの作家なのだから。

無論、だからと言って私は、本書を無視しろと言っているのでもないし、大したことは書かれていないと言っているのでもない。
いささかハッタリがましい演出がなされているとは言え、中身的には面白い指摘が沢山なされていて、読むに値する本だというのは確かなのだ。

だから、私がこのレビューで言いたいのは、著者が本書で語っていることと、その趣旨においては、だいたい同じことなのだ。

つまり「絶賛すれば良いわけでもなければ、全否定的に貶せば良いというのでもない」ということ。
そうした、単細胞にわかりやすい両極(二極)のいずれかに安住するのではなく、そんな安直さでは済まされない現実の難しさを直視して、そのどちらでもない視点を探り、困難であってもそこから語れ、ということなのだ。

著者は本書で、「加害者視点と被害者視点という二極の、いずれかだけではなく」とか、笠井潔の「大量死」理論を援用しての「大量死と大量生」という二極、あるいは、「数値化による忘却と固有名の回復による記憶」という二極、あるいは「博物館と団地」といった、いくつもの二項対立図式を示しながら、そのわかりやすさに安住する思考的怠惰を批判し、その上で村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に描かれた、「井戸に潜る」という二項二極には囚われない「第三の視点」の重要性を訴えている。

『第三の視点を手にして、はじめてぼくたちは、悪について正面から考えることができる。
 忘れるのでも、非難するのでもなく、「考える」ことができるのだ。その選択はとても抽象的で哲学的だけれど、しかし同時にきわめて政治的で、具体的なものである。』
(P231〜232)

しかしまたそれは、二極のどちらでもない「中間的なもの」を意味するものでもない。

著者はそのあたりのことを、國分功一郎の「中動態」の理論を参照しつつ、「中動態」的なものの「負の面」を強調する。


國分は、その著書『原子力時代における中動態』においても、「中動態」の良き側面を強調する立場を採っているのだが、「中動態」にも正負両面のあることに十分に配慮し得ていないと、東浩紀はここで、「中動態」的な態度の負の面をクローズアップして見せる。

『なぜいつまで経っても日本と(※ その戦争)被害国の関係が正常化しないのか、その謎を解く手がかりがある。戦後七五年を経たいまも、日本は第二次大戦での加害を認めていないと非難され続けている。実際には日本政府と日本人は加害を認めていないわけではない。たとえばハルビンの罪証陳列館にしても、展示内容の多くは日本人の(※ 加害)証言に依拠している。
 にもかかわらず非難が続く理由のひとつは、その肝心の日本人の証言者の多くが一一そして彼ら(※ 戦争被害者)の境遇に同情する日本人の多く(※ でさえも)が一一、表面上は謝罪や後悔の言葉を口にしつつも、ほんとうのところは、彼ら自身は略奪や強姦や虐殺を肯定していたわけではなく、ましてやりたかったわけでもなく、「イヤイヤながらやってしまった」だけなのだと感じていることにあるのではないか。彼らはたしかに加害は認めている。けれどもそれを能動的に行なった(※ 好きでやった)とは認めていない。あくまでも中動態の論理にしたがって、(※ イヤイヤながら)加害するはめに陥ってしまっただけだと主張しているのだ。(※ つまり、実のところ個人としての責任を認めておらず、当時の日本の権力者が悪かったのだ、時代がそれを強いたのだと、他責的に考えているために)だから謝罪や後悔に重みが伴わないのである。』(P272〜273)

『 愚かな悪は中動態的に(※ つまり、自分は加害者ではあったかもしれないが、被害者でもあったのだという中間的な態度において、結果としては実質的に)加害に加担する。殺したいわけでもないが、かといって(※ 殺さないわけにもいかないから)殺したくないわけでもなく、(※  その曖昧な中間性において)なんとなく殺す。(※ ハンナ・アーレントの指摘に反して)そこには(※ 義務を果たすためには、不本意な仕事も引き受けよと命ずる、カント的な)超越者はいない。規則もない。超自我も父もない。(※  中間的で無責任な私がいるだけなのである)』(P278)

『 (※ ドイツの哲学者ギュンター・)アンダースはここでまさに加害の中動態的性格を問題にしている。(※ 被害者の姿が見えないという点において)核兵器の加害は中動態的に起きる。だから危険だというのが彼の主張だ。(※ 國分功一郎とは違い)アンダースは原子力と中動態の関係を、過度に抽象的な議論に依存することなく、きわめて具体的に言語化している。』(P287)

『 ぼくたちはふつう、行為には能動と受動があり、原因と結果があると(※ といった二極二項性)信じている。同じように、害にも加害と被害があり、加害者と被害者がいると信じている。けれどももっとも厄介な問題は、能動とも受動とも分類できない、加害と被害のつながりが壊れてしまった(※ 中動態的に曖昧な)悪=害を相手にするときに生じる。これが、あらためて今回「悪の愚かさ」のタイトルのもとで考えたいことである。
 原子力はあまりにも複雑かつ巨大で、行為と結果(※ 原因と結果)のつながりを(※ 見かけ上)破壊する技術だった。だからほんとうは、それを利用する人間の意志が善だろうが悪だろうが、(※ 人間の意図に)関係なく(※ そこに)悪が生まれると考え(※ その前提で、あらかじめ責任を引き受け)ねばならなかった(※ ところのものだったのだ)。にもかかわらず、二〇世紀の人々は、その(※ 原子力の)中動態的な(※ 不透明な)性格を無視して、利用者(※ である自分たち)の意志によって(※ その)技術が(※ 軍用と平和利用に)区別できると考えた。それが彼らが核兵器と原発を区別した(※ できた)理由であり、「原子力の平和利用」の誘惑に勝てなかった理由である。國分の(※ 「なぜ私たちは、原子力を適切に利用することが出来なかったのか」という)問いには、ほんらいはそのように(※ 加害者でも被害者でもないという、人間の中動態的な態度の無責任性にこそ、問題の本質があったと、そう)答えなければならない。そしてそのように答えることではじめて、ぼくたちは、原子力についての哲学を、悪(※愚かさ)についての普遍的な哲学へと開くことができる。』(P290)

『 悪の愚かさとは、加害の中動態的な性格のことである。ぼくたちは中動態の論理のなかで、いともたやすく巨大な悪に加担してしまう。』(P292)

以上の(補足を加えた)引用で、本書における東浩紀の立場は、おおむねご理解いただけたはずだ。

要は「現実問題における対抗的な思考として、善悪二極的なものではダメであり、第三の視点が必要だ。しかしまた、その第三の視点とは、その中間的で中動態的に曖昧なものであってもならない。それでは、私たちは容易に悪に取り込まれてしまう」というようなことである。

一一では、どうすればいいのか?

無論これは、決して簡単な話ではない。
実際、本書は500ページもある分厚い本であり、そこで具体的な事例を引きつつ、そうした思考のあり方を探ったものなのだから、私がこの短いレビューで、それを「簡明に説明」できるわけがない。

また、そんな説明をしているかのような書評なら、それこそそれは、誤読に基づく、いい加減な決めつけを語るものでしかないと、そうも言えるだろう。

だから私は、ここで話を少しズラして、私なりのやり方で、本書の提示した問題を考えてみたい。

私は先ほど、

『実際、本書は500ページもある分厚い本であり、そこでいろんな事例を引きつつ、その思考を探ったものなのだから、私がこの短いレビューで、それを「簡明に説明」できるわけがない。

また、そんな説明をしているかのような書評なら、それこそそれは、誤読に基づく、いい加減な決めつけを語るものでしかないと、そうも言えるだろう。』

と断じたのだが、実際、本書のAmazonカスタマーレビューなんかを覗いてみると、そこには自身ありげな「絶賛の言葉」が、いくつも並んでいるという事実を確認できよう。

刊行後3か月が過ぎたとはいえ、「平和論(戦争と平和)」という、難問としての現実を扱って500ページもある浩瀚な本に、現時点(2026年3月24日現在)ですでに87本ものレビューが寄せられており、その80%が5点満点、のこり20%のうちの15%が4点という、極めて高い評価が与えられている。

(2026年3月24日現在)

また本書は、新聞の書評欄などにも多数とり上げられ、すでに3刷しているというのだから、その評判の高さは、際立っている。

もっとも、本書をリベラルな新聞(やそのレビュアー)などが好意的に取り上げるというのは、至極わかりやすいところだ。
なにしろ日々戦争のニュースが絶えない今、本書は時宜を得た著作であり、それでいて、今は流行らない、リベラルが疎んじられる理由である「意識高い系的なもの」を回避した議論なのだから、本書を高く評価するというのは「われわれも、そういう硬直した党派リベラルではありませんよ」という立場表明にもなるからだ。

一方で、当然のことながら本書は、「意識高い系的なリベラルが嫌いな人」にもウケるだろう。
なぜなら、本書で東浩紀は、「正義派の左派リベラル」を「二極」の片方として、それではダメなんだと批判しているからである。

だから、Amazonカスタマーレビューにも、『リベラルの人にこそ読んでほしい』エデ)と題した投稿がなされているのだ。こう言いたくなるような本なのである。

そんなわけで本書は、「二極」の双方を批判することで、かえって「二極」からの支持を取りつけることに成功していると言えるだろう。だからこそ、教養層に属する「二極」には売れているのだ。

ではなぜ、そうした読者の多くは、自分自身は、問題のある「二極(の一方)」でもなければ、かといって「中間的」な立場でもなく、東浩紀が主張するところの「第三の視点」に(すでに)立ち得ていると、そう思えるのだろうか?

そうなのだ。そのように思っていなければ、本書を気易く「絶賛する」ことなど出来ないはずなのだが、そうした自覚のない「読めない人」たちが、本書を「我が意を得たり」と勘違いして、党派的に本書を絶賛しているのである。

本書を読んで「あイタたたた…」とも感じず、「だからと言って、どうしろというのだ」とも思わず、お気楽に「大賛成、私もそう思ってました!」と、党派的な支持表明さえしておれば、それで自分は安泰だと思えるような、「読めない」人こそが、本書の議論をまるで他人事のように、絶賛できるのである。
自分のことを棚に上げていることにも気づかず、本書を読めていないことにも気づかないまま、本書を絶賛するのだ。

つまり、本書を「絶賛する人」というは、ある種の「意識高い系」であり、二極の一方でしかない。

そして本書についてのレビューも書かずに、1点をつけているような人(が1人いた)が、これは、わかりやすい他方の極(意識低い系)か、または、東に批判されている、単細胞な「意識高い系」なのであろう。

前者の「意識低い系」とは、例えばネット右翼などで、とにかくリベラルな知識人である東浩紀が大嫌いであり「東もまた左翼知識人と大差のない存在でしかなく、聞こえの良い抽象論を捏ねては、俗ウケを狙っているだけ」だと、読みもせずに拒絶的に評価しているのである。

後者の「単細胞な意識高い系」とは、その端的な例が、被害者の立場に全面的に依拠して、正義を振りかざす(エセ)フェミニスト知識人などだ(前述の、人権問題や経済格差やジェンダーや気候変動問題などに凝り固まっている人たちのこと)。

実際、東浩紀は本書で、二度ほどフェミニズムについて否定的に言及しており、そうしたフェミニストとは、前々から折り合いが悪いのである。

『 旅行前には、被害者意識ナショナリズムの台頭に批判的だった。犠牲者意識ナショナリズムは、被害の自覚をアイデンティティの核に据える。被害の自覚を核に据えることは、原理的に加害者の糾弾を招き寄せる。他者の糾弾は政治的な支持を集めやすい。だからこそ、そのようなナショナリズムの再編成がいま世界中で流行している。
 けれども、それは要は、犠牲者意識ナショナリズムが、本質的に「敵」をつくることで育まれるナショナリズムだということである。ぼくはそのようなアイデンティティの形成は不健康だと考える。だから(※ それらに対して)批判的な立場を採る。(※ だから)これはナショナリズムにかぎらない。わたしたちは暴力を受けた、経済的に搾取された、世代的に不利な条件を背負わされた、とにかく幸せではない、だから「あいつら」を許せない、味方以外はみな敵だといった負の感情は、いま、人々をまとめ、政治的な運動に駆り立てるにあたってあまりに便利に使われすぎているように思う。それもまた右も左も変わらない。トランプ現象からフェミニズムや気候変動まで、イデオロギー的には正反対の運動で同じ手法が使われている。ぼくはそのような動員そのものに警戒心を抱く。
 とはいえ、犠牲者意識の政治的利用を警戒するあまり、被害者の声を無視したり軽視したりしてしまうのであれば、それもまた過ちにちがいない。』(P432〜433)

このとおりである。
平たく言えば「被害者意識を方法化し、ルサンチマンを原動力とした(エセ)フェミニズムなどの反体制(反加害者)運動は認められないが、弱者に必要な抵抗運動そのものを否定するものではない」という、当たり前だが、しばしば混同されがちな問題に対する、立場表明である。

しかしながら、ここで述べられていることを理解しているのならば、本書の立場を支持して、反「意識高い系」や、反「リベラル」(あるいは、反ポリコレ、反フェミ)といった感情を露わにするような、愚かなことはできないはずだ。
なぜならそれこそが、「もう片方(の極)の愚かな悪」だというのは、明らかだからである。

また、以上のような現実認識において東が、本書の中で「とは言えぼくも、人間は変わらないだろうと思っている」という趣旨の本音を、あえて書きつけているのは、まったく正しい。

『 けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すら繰り返すかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。』(P325)

「個人は賢くなっても、世代交代でそれもパアになる」というのは、たぶん、本書の読者に対する配慮だろう。
つまり「本書を読んでも、たいていの人は賢くはならない」とは、著者としては書けないからだ。

しかし、いくら知識をつけても、行動としては進歩しないというのが、大方の現実である。
実際、本書を読んでも、自身の党派性(二極の片方でしかないこと)にすら気づかない読者の多いことに、それは明らかなのだ。

つまり、「二極」ではダメだという現状認識を前提として「第三の視点」の必要性を訴え、その困難な道を探ろうとする本書を読み、そしてその趣旨を理解したつもりで、本書を絶賛する人たちですら、一見したところの「知的勝ち馬」である東浩紀を称賛することで、自分が「敵」に対して優位な立場に立ちうると考えてしまい、旧来どおりの「正義」の極に立ってしまうという、この愚かな現実をみれば、「人間は変わらないだろう」という、悲観的な見立ての正しさは、とうてい否定し得ないところだし、世代交代の問題だけではないのも明らかだからだ。
さらに言えば、

『 殴るものがいて、殴られるものがいた。その物語の外に出るためには、悪の存在を忘却することなく、しかし同時に、殴るものと殴られるものが分かれていなかった時間に遡る必要がある。』(P317)

このように書かれている本書を読み、それを理解したつもりになって絶賛する人たちでさえ、本書を武器にして「殴る側」に立とうとし、事実立って見せている。
そんな体たらくだからこそ、偉そうに「この本を読め」などと、お気楽なことも言えるのだ。

だが、私たちは、東浩紀が次のように書いていることを、決して軽々に扱ってはならない。

ハイデガーは人間を世界への配慮で定義した。いまのぼくには、それはいかにも二〇世紀前半の哲学者が考えた定義のように思われる。
 世界に配慮するのはよい。むろん配慮すべきだ。ただしそこで配慮される世界は、いまや、ハイデガーの時代よりも複雑かつ多様になり、おまけにはるかに高い解像度で把握されている。
 ぼくが口にしている果物は熱帯雨林を切り裂いた農園で栽培されたものかもしれない。ぼくが着ている服は人権問題を抱える国で縫製されたものかもしれない。ぼくが声をかけたホテルのスタッフは少数民族で、リゾートで働く背景には深刻な貧困と差別があるのかもしれない。(※ だとすれば)ぼくはどこまで「配慮」するべきだろうか。そもそもそんなことを言ったら、飛行機に乗ること、冷房を使うこと、肉を食べること、つまりは文明的な生活を送ること、すべてが加害になる(※ 他者の犠牲の上にのみ成り立っている生活を選んでいるということになる)のではないだろうか。(※ すなわち)生きること自体が加害になるのではないだろうか。実際にそのように主張する活動家もいる。けれども、それでは人間の世界そのものが壊れてしまう(※ 罪を犯したくなければ、全人類が自殺するしかない)。(※ しかし、それでは)なんのために(※ 正義に基づく他者への)配慮が必要だと訴えていたのかわからなくなる。戦争と平和の関係と同じで(※ 正義と平和のために、人間を否定することになってしまうので)ある。
 世界があまりにも高解像度で(※ 不都合な現実が端から端まで)見えてしまうと、(※ そうした不都合や不正義への)配慮そのものが(※ 物理的に)不可能になる。(※ したがって)配慮の行為を続けるためには、見える世界を(※ 否応なく)限定する必要がある。つまり「ものを考えない(※ で済ませる)」場所をつくる必要がある。これは倫理や道徳以前に、人間の生物学的な(※ 非精神論的で物理的な)条件で規定される限界である。』(P476〜477)

ここで肝心なのは、無論、

『 ぼくが口にしている果物は熱帯雨林を切り裂いた農園で栽培されたものかもしれない。ぼくが着ている服は人権問題を抱える国で縫製されたものかもしれない。ぼくが声をかけたホテルのスタッフは少数民族で、リゾートで働く背景には深刻な貧困と差別があるのかもしれない。ぼくはどこまで「配慮」するべきだろうか。』

の部分だ。この、つらい現実認識である。

だが、だからこそ東浩紀はここで、従来の「金持ちリベラル」や「知識人リベラル」が、自分たちのことを棚上げにし、正義漢づらで「この現実を見よ!」とやっていた、「意識高い系」的に無責任な立場を批判している。それが、

『ひらたくいえば(※ 無限の配慮には、無限の)時間と労力が取られる。(※ しかし、それは実行不可能だからこそ、配慮しないで済ませる)「ものを考えない」空間が必要になる。リゾートやテーマパークやショッピングモールはたしかに過剰に快適(※ であるからこそ、じつは罪深き空間)である。(※ その好ましさは、被害者の存在に目を瞑った)非現実的で幻想的(※ なもの)である。しかしその幻想を嫌う人々というのは、なるほど政治的には正しく、矛盾や貧困や不正義には敏感なのかもしれないが、逆にそのぶん配慮の余力には恵まれている一一つまりは暇なのだな(※ 恵まれて特権的な立場にあるのだな)と、ぼくはそのとき冷淡に感じたのだった。
 左派はつねに世界への配慮を要求する。怒りや参加を要求する。しかし(※ 世の中は)そんな余裕のあるひとたちばかりではない。』(P479)

しかしだ、ここで非難されているのは、なにも「意識高い系の左派」だけではない。

そもそも、本書を読んでレビューを書いているような人間、レビューまでは書けないにしても、本書を読んで絶賛したり、悪口を言ったりしているような者は、全員「暇」だということなのだ。
食う物にも窮している人が、本書を読んだりはしないし、できない。それくらいなら、他に贖うべきものがいくらでもあるからである。

当然、そんな「暇人向け」でしかない本を書いている著者の東浩紀もまた、程度の差こそあれ暇人であることに違いはない。

一一ただし、東浩紀はそのことに自覚はあるから、呑気な「両極」には与し得ず、第三の道ならぬ「第三の視点」を模索するという、ほとんど徒労にしかならない(なにしろ人間は進歩しないのだから)労作業を、「せめてもの償い」的なものとして、自らに課している。

つまり、本書から最低限まなばなければならないのは、私たちは、単なる「被害者であり、だから罪なき者」などでは金輪際なく、間違いなく「加害者でもある」という、そんな厳しい自己認識なのである。

加害者の側に立ってはならないが、かと言って、被害者の側に立って正義を振りかざすのも間違いであり、私たちはいつでもその両方であるとの自覚に立ち、事実としての「恵まれた加害者」の立場に立って、「攻撃される弱者としての抵抗者」の立場に、あえて立たねばならない。一一と、そのようなことなのではないだろうか。

つまり「優位な弱者的立場」ではなく、あえて「不利な弱者的立場」に立って、この度し難い人間世界へ、せめてもの貢献を、罪滅ぼしとしてのそれをしなければならないのではないかというのが、私の理解であり、私の考えなのである。

そして、そうした立場からすれば、本書を絶賛して済ませるような、お気楽な立場など、とうてい是認し得ないのだ。

 ○ ○ ○

ちなみに、「第三の視点」に立つことの困難さ、「加害者でも被害者でもなく、加害者であり被害者である私」という立場に立つことは、斯様に困難きわまりないことである。

だから、そのあたり議論については、ひとまずこれで終えるとして、最後に、話を戻して、

『ぼくたちは平和について語りすぎている。そのせいで平和から遠ざかっている。』

という背理について、私の専門分野から、ごくわかりやすい具体例を挙げておこう。

政治について語りすぎ、その結果、戦争についても考えすぎたそのせいで、かえって平和から遠ざかってしまったという、至極わかりやすい実例とは、先般の選挙で大敗を喫した、「公明党」である。

『 ノルウェーの学者、ヨハン・ガルトゥングが提唱した「平和学」は、まさにそのような発想に基づいた学問である。ガルトゥングは「積極的平和」という概念を提案した。積極的平和は、たんに武力衝突がない平和(積極的平和)ではなく、貧困や抑圧のような構造的暴力が消えた状態を意味する。そのような状態を実現するためには、むろん不断の政治的努力が必要になる。ガルトゥング自身、若いころは良心的兵役拒否で収監され、のちに研究所を設立した活発な活動家でもある。そのような平和論の蓄積からすれば、平和を「考えないこと」で定義し、平和ボケの存在まで肯定しようという本書の提案は的外れでしかないだろう。』(P69)

この部分を読んで、あっと思い当たった創価学会員は、いったい何人いるだろうか?

本書では紹介されていないが、ガルトゥングは、かつて創価学会第三代会長の池田大作と共著を出している、著名な平和学者である。


まただからこそガルトゥングは、私と同様、のちには「公明党には失望した」と批判することにもなったのだ。

公明党は、創価学会から生まれた政党だが、その創価学会は、戦後に急成長した新宗教の例に漏れず、「平和主義」を標榜した。

戦後に与えられ、受け取ったものとしての「戦後日本の平和主義」の波に乗り、自信満々に「絶対平和主義」の旗を掲げ、その理想を実現するために作られたのが、創価学会にとっての公明党なのである。

しかし、あまり物事を深く考えず、ただ指導者(池田大作)の語る「絶対平和主義」を心から信奉した信者からなる(公明党の前身たる)公明政治連盟員の創価学会青年部員たちは、その理想を実現すべく政治の世界に入り、そのために「戦争と平和」のリアルに頭を悩ませ、その結果をリアルに語ったがために、その「絶対平和主義」を、裏からこっそりと投げ捨てることで、「責任ある政党」にならなければならなかったのだ。

だが、平和を求めるのならば、あえて「戦争のリアル」を「考えない」という態度が必要だった。

「戦争のリアル」を考えれば、誰だって「家族を殺されるくらいなら、敵を殺すよ」ということになるのは、避け得ないことであり、私自身、かつて何度かそのように書いているし、東浩紀も本書でそのように書いている。「いざとなれば、ぼくだって銃を取らざるを得ないこともなるだろう」という趣旨のことだ。

では、「いざとなれば」同じように「銃を取るしかない」という結論になるとしても、東浩紀や私に有って、公明党員に欠けていたものとは何なのか?

それは「自分もまた、いつでも加害者である」という視点であり、自己認識である。

創価学会員も公明党員も、自身が「被害者」の側にあると、何の疑いもなく確信(盲信)し、その被害者の立場から、加害者たる「戦争主義者(リアリスト)」を断罪することで、平和を実現することができると、そう考えた。
たとえばそれが、当初の政敵としての、与党自民党だったのである。

しかし実は、その敵である「戦争主義のリアリズム」が、自分の中にもあることには、まったく気づくことが出来なかった。

他宗派から「戦闘的」だと、その「折伏戦」を非難されてさえ、自らの好戦性(戦さ好き、勝負好き)は正義実現のためだと盲信していたから、自身の「加害者性」を毛ほども疑うことが出来なかったのだ。
だがその結果が、日本を戦争のできる(どんな敵からも自衛のできる)国へと変えることへの、のちの加担(政権与党入り)だったのである。

だから、東浩紀が本書で言う、「考えないこと」「語らないこと」というのは、「考えていないこと」「語れないこと」ではないのだ。

あえて「考えない」「語らない」という困難を、自らの「加害者性の自覚」において引き受け、何も考えていない人たちからの「無責任」呼ばわりも、あえてその身に引き受けるということなのである。

その時私たちは、人から「無責任だ」と責められるその被害者性において、批判という加害性を正当な対価として、許されもするのである。

だから、勝ち馬に乗る「絶賛」などは論外なのだ。
それは、かつての「天皇陛下万歳」と大差のない「無思考=考えていないだけ」にすぎない。

そんなわけで私は、本書における東浩紀の立場にも、決して100%満足しているわけではない。全肯定などしてはいないのだ。

『 ぼくたちはSNSに支配された大衆社会に生きている。大衆社会は「楽しい」ことが正義になる社会である。SNSはその原理を純化したコミュニケーション・プラットフォームだ。この条件は、裏返せば、いまや正義が正義であるためには、同時に楽しいものとしても提示されないといけないことを意味している。
 正義と「楽しさ」の融合。あるいは野合。それは現代の政治や市民運動の大きな特徴になっている。』(P359〜360)

いくら「面白くなければ話にならないから」といっても、「絶賛」される立場に安住しているようでは、所詮は、加害者の立場に立つということでしかないと、私はそう考える。

東浩紀のどこか「信用ならなさ」とは、笠井潔の言い草ではないが、いざとなれば「理屈なら、なんとでもつく」といったところにあって、東浩紀のそうした側面を、私も否定しきれてはいない。だから、両手を挙げての支持表明はできないのだ。

『 だからぼくは、ひとを賢くする言説は、つねにひとの愚かさを伝える言説によって補完され続けなければならないと考える。』(P326)



(2026年3月25日)

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