芦沢央 『あなたが正しくいられたとき』: 「正義」のリアリティ

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▷ 書評:芦沢央『あなたが正しくいられたとき』(文藝春秋)


芦沢央というミステリ作家の存在を知ったのは、文学賞における「待ち会」について書かれた芦沢のエッセイを、ネットでまたまた見かけたことからだ。
文学賞の候補作に選ばれ、最終選考の当日、候補作家が担当編集者らと共に結果の知らせを待つ、というあの定例儀式である。

最終的にはその賞、例えば芥川賞や直木賞を受賞することになる作家が、過去の「待ち会」の思い出に言及したような文章なら、いくつか読んだことはあった。
だが、もろに「待ち会」のことをテーマとして採り上げたエッセイというのは珍しかったため、芦沢央のことはぜんぜん知らずに読んだのだが、これを読んで私は、なんとなく芦沢央に好感を持った。

それは、内容が面白かったと言うよりも、芦沢の書きっぷりに面白かったと言うべきだろう。
妙に謙虚ぶったりはせず、自身や周囲の心理を分析的に観察している醒めた視点が、じつに正直だし、「この人は頭が良い」と、そんな印象を受けたのである。


で、ほぼ同時期に芦沢のデビュー15周年記念の短編集が出ており、これは、これまでの短編集からは漏れた、スタンドアローン的な、しかし著者自身が著者らしいと言う作品が集まったものだという趣旨のことを書いていたので、それなら試しに読んでみるにはちょうどいいと、そう思ったのだ。
それが、本書『あなたが正しくいられたとき』だったのである。

本書を入手したあと、読書の順番待ちとしてしばらく積んでいたところ、ミステリ評論家では、私が例外的に信頼を置いている千街晶之が、本書をレビューで褒めているのを見かけて、いよいよ本書への期待が高まった。

しかも、千街の褒め方が、ひと通りのものでなかったのだ。

『 たとえ内容自体はバッドエンドであろうとも、切れ味のいい短篇小説を読むと気分がすっきりする。芦沢央『あなたが正しくいられたとき』は、そんな爽快感を味わえる短篇を集成した一冊だ。かねがね著者のことは、連城三紀彦のミステリ作法を最も体得し、なおかつ自分なりのやり方で作風に取り込むことに成功した作家だと思っているが、本書もその美点が色濃く出た作品集で、特に表題作は幕切れの一行に至るまで溜め息が出るほど巧い。一方で、倒叙ミステリのパロディみたいな作品も含まれていて、次に何が飛び出すかわからない点も楽しい。』(※ 全文)



この短い書評で注目すべきは、

『かねがね著者のことは、連城三紀彦のミステリ作法を最も体得し、なおかつ自分なりのやり方で作風に取り込むことに成功した作家だと思っている』


の部分である。

千街が、ミステリマニアとしてミステリを読み耽っていた当時、その最前線で活躍していたのが連城三紀彦であり、その鋭すぎるほどの人間心理洞察とそれを巧みに利用しつつ、あっと驚くような作品を書いてみせた、本格ミステリの名手。それが、私たちにとっての連城三紀彦であった。
連城三紀彦は、恋愛小説家として広く知られた人だが、デビュー作はミステリであり、連城の恋愛小説の特異さも、人間心理の裏(綾)を読み、それを巧みに隠し見せるミステリ作家ならではのものだったと言っても、決して過言でもなければ、贔屓の引き倒しにもならないはずだ。

ちなみにここで「私たちにとって」と書いたのは、私や千街晶之にとって、という意味である。
もう、たぶん20年ほども会ってはいない(最後に会ったのは、池袋の「ミステリー文学資料館」で、2006年に「『幻影城』の時代」展をやった際に、たまたま行き合った)はずだが、私と千街は同世代のミステリファンで、「新本格ミステリブーム」の初期、つまり1990年代前半頃に、同じミステリマニアとして「関西ミステリ連合」の年次大会などで何度か顔を合わし、同じ同人誌に寄稿したりもしていたのである。

で、その千街が1995年の第2回「創元評論賞」を受賞し、同賞の選考委員である笠井潔の主催した「探偵小説研究会」に入会した際だったか、私は千街に「これまではアマチュアとして忌憚なく作品批評をしていたけれど、プロになれば、作家たちは同じ業界人となり、批判しにくい近い距離の存在になってしまう。しかし、だからと言って、筆が鈍ってはならないので、心してこれからも批評を続けて欲しい」とそんな手紙を書き、いきなり釘を刺してプレッシャーをかけるようなことをしたのであった。

ちなみに、私がこのような手紙を書いたのは、この笠井潔の発案による「創元評論賞」が始まる以前から、笠井潔による新本格ミステリ文壇での文壇政治的な動きを、私は同人誌などで、しきりに批判していたからなのだ。

「本格ミステリというジャンルを盛り上げるためには、是非とも専門的な評論の活性化が必要だ」と主張する笠井の発案から設けられたこの「創元評論賞」も、笠井の構想を実現するための尖兵となる「手駒」の養成という狙いがあると、私はそう見ていたのである。

だから、第1回は、たぶん様子見もあって見送ったのだろうが、千街晶之が受賞者となった第2回には、私は「虚無への垂鉛」と題する論文を投じて、笠井潔の一連の動きを牽制した。読んでないふりはさせないぞと、そんな気持ちから投じたもので、「ミステリ評論というのは、単に作品評、作家評に止まるのではなく、ミステリ界の動向までも視野に入れて論じられるものでなければならない」と、そんな内容のものだったのだ。

当然、この論文はあっさりとボツられたのだが、私はその翌年の第3回「創元評論賞」に、さらに直接的な笠井潔批判論文「地獄は地獄で洗え…… 一一笠井潔批判」を投じて、笠井潔当人には黙殺されたが、選考委員の一人であった法月綸太郎からは、次の言葉(選評)を引き出したのである。

『田中幸一「地獄は地獄で洗え…… 一一笠井潔批判」。これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。むべなるかな。例によって、私も刺身のツマのごとく、批判の俎上に載せられているので、公の選評というには微妙なところだが、作家論としてみれば、あまりにもナイーブで、楽天的にすぎる。太刀筋は決して悪くないのだから、肉を切らせて骨を断つような筆法を身に付けてはどうか。』
(『創元推理 1996秋号』P19)




ここで法月が『これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。』と書いているのは、事実ではなく、法月一流の「からかい」である。
法月は、私が、法月などよりもずっと古い「笠井潔ファン」であることを知っていたから、「そのファンも、これで完全に破門だね」という趣旨で、このように書いたのだ。

で、当然のことながら、千街晶之は、私のこうした一連の批判活動をよく知っていたわけで、その後、竹本健治の実名ミステリ小説『ウロボロスの基礎論』に私が登場した際、千街はある読者から「あの田中幸一って、千街さんのことですか?」と尋ねられて、そんなわけないと否定したそうなのだが、その話を伝え聞いた私は、さもありなんと、ニヤリとしたのであった。
千街がそう言いたくなるほど、田中幸一は当時から、唯一無二の「危険人物」だったのである。


さて、昔話(自慢話)はこれくらいにして、私がこのように30年前に釘を刺し、そして折に触れて「堕落していないだろうな」とチェックを入れてきた千街晶之だからこそ、その批評には一定の信頼を置いていたと、そういう話なのである。
その間ずっと、アマチュアながら私は批評の執筆活動をしていたし、「笠井潔葬送派」を名乗って笠井潔批判を続けてもいたから、千街が露骨な提灯持ち批評などすれば、私が黙っていないということくらいは、千街だって心得ていたはずだからである。


ともあれ、他人事ながら、千街はとんでもない奴に目をつけられたものだと、同情を禁じ得ないところであろう。

さてその後、笠井潔が東野圭吾の直木賞受賞作『容疑者Xの献身』に、「あれは本格ミステリではない」という無理筋の難癖をつけた結果、いわゆる『容疑者Xの献身』論争とか「本格論争」とも呼ばれる論争が勃発した。

そしてこれが、ミステリ界内部はもとより、探偵小説研究会内部からも、笠井潔批判論が出て、その結果、笠井が、小森健太朗などの一部会員ひき連れて、会を割って出るという事態にまで立ち至った。
この騒動の際、千街晶之は、笠井批判の急先鋒であったため、笠井潔との対立は、ついに解消されることはなかったようだ。


なおこの分裂騒動の後に笠井が新たに立ち上げたのが、現在の「限界研」で、発足時の名称は「限界小説研究会」であった。

結局、私から「笠井潔の子分」呼ばわりされた「探偵小説研究会」のメンバーの多くは、すでに業界から姿を消しているという事実を申し添えておこう。
また一方、「限界研」の出身で現在もそれなりに活躍しているメンバーは、「探偵小説研究会」からの移籍メンバーではなく、主に東浩紀筋から移ってきた、アマチュアの若手評論家であった人たちである。


 ○ ○ ○

そんなわけで、昔話が長くなってしまったが、私が千街晶之をわりと信頼しているというのは、こういう30年にわたる経緯の裏づけがあるからで、単なる印象論などではない。

そんなわけで、千街晶之が連城三紀彦を引き合いに出してまでほめているというのを知り、本書『あなたが正しくいられたとき』を大いに期待して読み始めたのだが、冒頭の表題作を読んで、一一私は、そのうまさに舌を巻いた。

たしかに同作は、連城三紀彦を連想させる、見事な心理ミステリだったのである。

【※ 以下、本書所収の一部作品のネタをわるので、未読の方はご注意下さい】


本書所収の作品は、上の表題作を含めて、次のとおりである。

(1)「あなたが正しくいられたとき」
(2)「代償」
(3)「薄着の女」
(4)「立体パズル」
(5)「待てば無料」
(6)「投了図」

どれもみな、それぞれにテクニックの光る好短編であり、その意味で本書は、珠玉の作品集と呼んでも良いものに仕上がっている。

だが、表題作「あなたが正しくいられたとき」は、やはり他に抜きん出た傑作であり、本稿では、この作品を中心に、芦沢央という作家を論じてみたいと思う。

まず「あなたが正しくいられたとき」で圧巻なのは、帯の背面に、

『河原で行われた同窓会バーベキュー。
 窪田は、かつての恋人が娘を
 川に突き落とすところを目撃し‥‥‥』


と紹介されている、この「かつての恋人」黒川の心理であり、娘を川に突き落とした、その「動機」だ。
これがまさに「連城三紀彦的」であり、ミステリマニアを唸らせるほど、見事なものだったのである。


本作の場合、そのタイトルからもわかるとおりで、語り手の男性、消防士の窪田の「正義感」に対し、批判的な疑義を突きつける、そんな作品となっている。
それが本作のテーマだと言っても間違いではなく、この批判は、しごく真っ当なものでもあれば、私も深く共感しはするものの、しかし、本作の価値がこうした「批評性」に止まるものだったなら、本作は珠玉の名作ということにはならなかった。

そうではなく、本作は、自分の愛娘を川に突き落とした「窪田の元彼女」黒川の心理であり動機の説明が、ミステリ的に「じつにトリッキーで鮮やかなもの」であり、「窪田の薄っぺらい正義感」とは、言うなればその動機を成立させるための道具として設定されたものだという点が、むしろすごいのである。

「窪田の元彼女」黒川は、なぜ自身の娘を川へ突き落とすようなことをしたのか?

その理由は「記憶の上書き」である。


それは、娘が今も抱えているかも知れない「過去のつらい記憶」を、似たような状況における「好ましい新しい記憶」で上書きする、という狙いによる犯行だったのだ。

今はまだ幼いから、「過去の記憶」の意味をよくわかっていないのかもしれない。だが、娘が成長すれば、その記憶に苦しむことになるおそれがある。
ならば、今のうちに、その残っているか否かが微妙な「つらい記憶」を、似たような状況の、しかし好ましい結果となった新しい記憶で上書きして、娘から「不幸の種」を消し去ろうと、彼女(黒川)は考えたのだ。

だが、この動機は、現実的に考えれば、ほとんどあり得ないことではあろう。

つまり、いくら不幸な結果(娘の溺死)にはならないよう、状況を整えた上での犯行だったとしても、こんな無茶な試みをする親など、心を病んででもいないかぎり、絶対にいないし、やれないことなのである。
つまり、その意味では、リアリティが無い。

けれどもそれが、本作の欠点とはならず、むしろ「稀有な美点」だと評価すべきであると、特にミステリ読み(ミステリマニア)から高く評価されるのは、ミステリにおける「論理美」とは、そういう、ある意味では「現実を超えたところで成立する純粋論理」だからなのだ。

例えば、ミステリの始祖とも呼ばれるエドガー・アラン・ポーの名作「盗まれた手紙」では、政敵に狙われた機密文書である手紙の隠し場所として、なんの変哲もない「状差し」が使われる。
なぜ、手紙を隠すのに手紙を差しておくための状差しを利用したのか?


それは、狙われている大切な手紙なら、普通は金庫や秘密の場所に隠すはずであり、だからそれを盗もうとする側も、当然そうした場所を探すはずだ。だからこそ、そうした隠し場所は「かえって危険」であり、逆にまさか、そんな大切な手紙を、他のどうでもいい手紙と同じ場所に差しておくことなど「あり得ない」からこそ、思考の盲点としての「状差し」が「かえって安全」である、という理屈になって、そこに件の手紙を差しておいたのだと、そんな説明のなされる作品なのである。
つまり「逆転の発想」の面白さというわけだ。

一一そして、まさにこうしたものが、「本格ミステリ的な発想の妙味」なのである。

だが、このアイデアに、当たり前の意味での「リアリティ」があるのかと言えば、無論そんなものはない。

あくまでも「盗まれた手紙」における「発想の妙」とは、「当たり前の発想」ではない「逆転の発想」ゆえのものであり、「逆説」の面白さなのである。

誰も普通は思いつかないけれど、それはそれで「理屈が通っている」という「理屈(論理)の非凡さ」こそが、本格ミステリにおいて尊ばれる「論理」というものなのだ。
言い換えれば、ただ「現実的」であることは、凡庸だということであり、その意味で、何の価値もない、ということにしかならないのだ。

もうひとつ例を挙げれば、一一「あまりにも貴重かつ大切な絵画だからこそ、他人の手に渡る前に、自分の手で燃やしてしまう」とか、そういった発想もそうだ。

「普通に」つまり「リアルに」考えれば「あり得ない」こと(燃やしてしまっては、元も子もないの)であり、その意味では「リアリティが無い」にもかかわらず、「理屈(論理)」的には、一定の説得力を持つ「抽象的な論理」の面白さがそこにはあって、そうした非凡なものこそが、「本格ミステリにおける論理」なのである。

だから、本作「あなたが正しくいられたとき」における、娘を川に突き落とした動機について「現実にはあり得ない」として否定するのは、お門違いなのだ。

ミステリにおける「論理」とは、論理として筋が通っていさえすれば良く、そんなことを「現にする者が、いるか否か」は問題にならない。

言い換えれば、「本格ミステリにおける論理」とは、「狂人の論理」であってもかまわないのだ。
「たしかに筋は通っているが、現実的には歪んだ理屈としか言いようがない」もの(論理)であってかまわない。

むしろ本格ミステリにおいては「現実妥協的なヌルい論理」など歓迎されはしないのだ。フィクションなればこそ、論理性が徹底されているべきだし、だからこそそれは非日常的に面白く、美しくさえもある。

そもそも、そうした「極端にまで振れた論理の美」というものが認められなければ、シャーロック・ホームズの推理だって「現実にはあり得ない」のひと言で片づけられてしまう、フィクションでしかないのだ。


だからこそ、本作「あなたが正しくいられたとき」における「被害者のためになされた、記憶の上書きのための犯行」という逆説は、私たちの想像を超えた「極端な論理性」の賜物として、稀有なものであり、その意味で素晴らしい。

したがって、本作の傑作性とは、「薄っぺらな正義に対する批判」などといった、ネット上でさえありふれたものに、あるのではない。

そのような「薄っぺらい現実」を利用して、本作における「本格ミステリの論理=極端な純粋論理の逆説」を成立させたところにこそ、本作の功績があるのである。

 ○ ○ ○

ただし、以上の説明は、本作「あなたが正しくいられたとき」を「本格ミステリとして」正しく評価するためのポイントを論じたものであって、決して、作者・芦沢央の「社会批評性」を軽視するものではない。

たしかに芦沢央には、その鋭い人間観察による非凡な批評眼があり、その結果、「あなたが正しくいられたとき」の正義漢・窪田の「薄っぺらい正義感」の問題点を鋭く射抜いて、その結果、窪田は「過酷なまでの批判」に晒されることにもなった。

普通に考えて、窪田は、とても「いい人」である。
たしかに「他人の立場や感情」に対する洞察や思慮が足りず、単純に「善かれと思って、善行とされることを、何の迷いもなく行なっている」のだが、しかしそれは、それだけだと言えばそれだけなのであって、決して「重大な罪」などではない。

だから、本作での窪田への処遇はいささか過酷なものにも思えるのだが、しかしそれは作者も承知の上であり、たぶん作者は窪田のような「くそ真面目タイプ」だけを批判しているのではないのだ。
「くそ真面目タイプを、自分のことも顧みずに、くそ真面目に批判している人」までも含めて、批判しているのである。

例えば、本書所収の短編(4)「立体パズル」には、次のような描写がある。

『 雄一郎が子どもの頃は、(※ 保育園などで、自分が遊んでいる玩具を、別の園児から)「貸して」と言われたら「どうぞ」と渡すようにと教えられていた気がするが、たしかに(※ 現在、指導されているように)「もうちょっと待って」の方がいい(※ そう応える方がいい)。貸して、とさえ言えば貸してもらえるものだと思うのも、貸してと言われたら必ずすぐに渡さなければならないと思うのも、よく考えたら不健全だ。
 どちらかが一方的に我慢するのではなく、コミュニケーションの中で折り合いをつけていく一一なるほど、教育論も進化しているらしい。』(P147)


この指摘などは、「あなたが正しくいられたとき」のような、特定の「くそ真面目な正義漢」への批判などとは違い、「教育的には、そう教えるべきだ」として、かつては広く一般に推奨され受け入れられていた、過剰な「きれいごとの強制」への批判だと言えるだろう。

そして、こうした「無自覚かつ問題含みのきれいごと」というのは、今もありふれており、私たちはしばしば、そのことに気づいてはいない。

『 ワイドショーで事件が取り上げられる回数は減ってきていたが、雄一郎は以前にもまして報道をチェックするようになった。
 事件の捜査はどのくらい進展しているのか。犯人はまだ捕まらないのか。
 もはや他人事ではない視点で情報を探すと、どの番組も取り上げている長さの割に中身がなく感じられた。捜査状況についてはほとんど触れず、原因を追及することに終始している。
 コメンテーターの教育評論家は、狙人はなまじ能力が高かったために、社会人になるまで挫折を知らないまま育ってしまったのがよくなかったのだろう、と神妙な顔で語り、息子自身だけでなく両親も子どもの挫折に慣れていなかったのだと論じた。
 元野球選手のスポーツコメンテーターは、どうして息子がおかしくなっていることに気づかなかったのか、と犯人の両親を責める言葉を口にし、精神科や心療内科には通わせていたのか、家を追い出したのはレールから外れた息子に失望し、外聞を気にしたからだったのではないか、と激した調子で言った。
 たしかに、両親は突然「いい息子」ではなくなってしまった息子を受け入れられなかったのかもしれない、と雄一郎も思った。
 それまで自慢に思っていたからこそ、なぜこうなってしまったのか、何が悪かったのかと思い悩み、答えが得られないことに疲弊し、すべてを投げ出したくなってしまったのかもしれない。』

(「立体パズル」P166〜167)


ここで注目すべき言葉は、『もはや他人事ではない』と『たしかに、両親は』だろう。

前者は「当事者視点(の不在)」という問題を指摘するものであり、後者も同様で「たしかに、そうかもしれないが、当事者である両親としては」という意味の反論の言葉である。

つまり、著者が問題としているのは「薄っぺらい正義感」そのものではなく、「当事者意識の欠如」なのだ。
それを欠いた正義感とは、所詮「無責任な独りよがり」だと、そう批判しているのである。

だからここではむしろ、テレビのコメンテーターの言うことを「きれいごと」だと批判している私たち自身が、一体どれだけ「きれいごとではない、当事者性を引き受けた発言」をしているのか、それが問われていると考えるべきなのだ。

そして、そのように考えた場合、そうした「責任を引き受けた発言」をしている人など、ほとんどいないというのが、現実なのだ。

つまり、本書著者によって批判的に問われているのは、一部の「薄っぺらな正義漢」などではなく、本書の「読者」なのだということに、私たちは気づかなければならない。

『「あんたの世界の中では、それでいい。あんたは優しくて、大らかで、正しい人間でいられる。
 だけど、考えたことはある? あんたがそうやって正しくいるために、子どもは混乱して、母親の苦労も増えるってこと」
 姉は、そっと、姪を床に下ろした。が、窪田をちらりと見てから、姉の脚にしがみつく。
「あんたの目から見た彼女は、気が弱くて、守らなければならない相手でしかなかった。あんたは、彼女の危うさは疑っても、彼女が自分を頼ってきているのだということは信じて疑わなかった。彼女が、必死に、誰よりも切実な思いで娘を守ろうとしている間も」
「いや、それは・・・・・・・」
「私は、その黒川さんって子よりもよっぽど、あんたが怖いよ」
 姉は姪の前にしゃがみ、守るように抱き寄せた。その言葉に、黒川の声が重なって響く。
『物語に出てくるヒーローみたい』』

(P52〜53 「あなたが正しくいられたとき」)


例えば私は、先日アップした記事にもらったコメントに、次のようなレスをしている。

『(略)クマの問題で気になるのは、クマを街中に出さない方策だとか、人との生存圏の棲み分け、みたいな話はしても、クマを殺して数を減らすという話は、誰もしない点ですね。
その必要性を感じている人は少なくないはずなのに、誰も自分からは言い出さない。
それと同じことで、野球の7回までの短縮問題もそう。
このまま温暖化が進めば、大人のプロだって、昼間に9回をやるのは危険になってくるのは目に見えている。
それでも、出来ればこれまでどおり9回まででやりたいとか、高校野球などの場合、大人が一方的に決めるのではなく、当事者である子供たちの声を聞いてはどうか、とか言ってる人がいますが、死人が出た時に、誰が責任を取るのか、という話なんですよね、最後は。
いくら、子供たちが望もうが、有識者の意見に従おうが、現に死人が出たら、責任を問われるのは現場の主催者であり、「何も問題は無かったのか」「万全は尽くされていたと言えるのか」なんて言われるんなら、最初から、絶対安全なところで無難にルールを決めようとするのは当然でしょう。
「意見を言うからには、それで何かあった時には、あなたも連帯責任をとるんですよね?」と言われたら、たいがいの人はコメントなんかしないと思います。
匿名の無責任発言と同じで、責任が問われるとなると、途端に逃げ腰になるんじゃないかな。
ま、そんなことだからこそ、いつまで経っても、抜本的な解決策を出さないまま、ズルズルと流されてしまうのではないでしょうか。』



ここで私が批判しているのは、無難なコメントしかしない、コメンテーターや有識者だけではなく、むしろ彼らのことを、「匿名」でなら批判することはできても、自分の顔や名前が出るところでは、テレビコメンテーターと同様の、無難なことしか言えない、ほとんどの人たちの方なのだ。

私が、ここで言っているのは「必要なら、クマでもシカでも、イヌでもネコでも殺さなければならないでしょう。実際、私たちはそのようにして、人間中心の世界を守ってきたというのに、事ここに至ってもまだ、人から〝動物の命を尊重しない人〟だと言われるのが怖くて、自分の本音は語らず、誰か他人が手を汚してくれること期待しているのでしょう、あなた方は?」ということなのだ。
窪田の姉の言う、

「あんたの世界の中では、それでいい。あんたは優しくて、大らかで、正しい人間でいられる。
 だけど、考えたことはある? あんたがそうやって正しくいるために、子どもは混乱して、母親の苦労も増えるってこと」


これは、私が言っていること、そのままなのだ。
「あんたたちは、自分が虫も殺さない心優しい善人のつもりなんだろう。だが、そんなあなた方の生活を守るために、手を汚している人たちのことを、少しは考えたことがあるのか? ないだろう。あれば、そんなことをぬけぬけと言えるはずがない」


これは例えば、私が批判する、今どきの(似非)フェミニストなどにも、ピッタリと当てはまる。

生物学的な(身体的な)性(別)と心の性(別)が一致しない、トランスジェンダーと呼ばれる人たちがいる。
彼(女)らは、心は男あるいは女なのに、身体の性別はそうではないために、社会生活の中でさまざまな苦痛を強いられている。

そこで、トランスジェンダーのためにも、「性別は、性自認に依るべきであり、法的にも性自認主義を採るべきである」と主張するフェミニストが大勢いる。

フェミニストとは、女性という「性」において不利益を被ってきた女性の権利を獲得するための思想たるフェミニズムを信奉してきた人たちのことなのだから、性別によって「不利益を被っている」トランスジェンダーの権利を訴えるというのは、当然のことであろう。

私個人としても、性別などというものは、社会生活上の便宜的な分類でしかなく、本質的なものではないのだから、基本的には「本人の意思」を尊重すれば良いと、そう思っている。


だが、「性別などというものは、社会生活上の便宜的な分類」である以上は、自分の都合、自分の正義だけでは済まされない、ということにもなる。
つまり、個人としては、自分の性別をどう考えようと自由だけれど、社会制度として「生物学的な性別」というものが、長年にわたり機能しており常識的な慣習となって、その中で多くの人が生活をしているという現実がある以上は、「自分の正義(論理)」を訴えるだけでは、「独善」にしかならない、とそういうことなのだ。


例えば、もしも「心は女で、体は男」の人が、法的に「女性」だと認められれば、当然のことながら、その人には、女性トイレや女風呂に入る権利が付与される。

だが、法律で「性別は性自認による」と決めただけで、それで社会が回るのかと言えば、そうはいかない。


「性自認」主義に対しては、当然「それでは困る」と訴える女性が大勢出てきて、「性別は性自認で」と訴えるフェミニストを、現実を見ない、観念的で独りよがりな「性自認原理主義者」だとして批判し、一方それに対してフェミニストの側は「原理的な問題を針小棒大に騒ぎ立てて、トランスジェンダーの権利を認めようとしない性差別主義者だ」と逆批判をして、もはや両者は折れ合うことのできない対立関係になってしまっている。


で、私としては、トランスジェンダーの権利は認められるべきだし、原則としては「性別は性自認で」ということで良いとは考えるものの、問題は、それが原理的に正しかったとしても、それに抵抗を覚える人たちに、それを直ちに強制するようなやり方や物言いは間違っている、という立場なのである。

どんなに正しいことであっても、多くの人が抵抗を覚えるようなこと、納得していないこと、性急に推進して強制しようとするようなまねをすれば、それ自体が(かつての「優性主義」のような)「悪」になりかねないと、そのことを危惧するのだ。

もちろん、「正義」が直ちになされなければ、それが実現されるまでの間は、不正義が温存された状態が続き、そのためにその間、犠牲を強いられる人も出る、ということではある。
だから、「正義は、直ちになさらなければならない」のだけれど、問題は、その「正義」とは、絶対なのか? 100パーセントの正義なのか? どこにも犠牲を出さない正義なのか? 一一と、そういうことなのだ。

しかし、歴史的事実として、人間は何度も、この「正義」を誤って行使し、多くの犠牲を出してきたのである。

だから、これはトランスジェンダーの権利であろうが、女性の権利であろうが、同じことなのだ。

それは、たぶん「正しい」だろう。
だが、それに納得できない人や、現に不利益を被る人がいるのであれば、問答無用の「正義」の強制は、やはりすべきではない。

それなりに時間がかかってでも、話し合い、説得して、相応の理解を得た上で、それはルール化されなければならないと、そのように考えるのだ。

そうでなければ、それはあまりにも自身の「正義」を盲信した、独善でしかないと、そう考えるのである。

『 どちらかが一方的に我慢するのではなく、コミュニケーションの中で折り合いをつけていく一一なるほど、教育論も進化しているらしい。』


 ○ ○ ○

そんなわけで、本書で問題にされているのは、単なる「薄っぺらい正義」などではなく、私たちそれぞれの「正義」が、果たして「独善」ではないのか、ということなのだ。

薄っぺらいとか厚いとかいうことではない。

「当たり前の正義」もまた、じつのところ「当たり前」ではないかも知れないと疑う、そんな慎重さと謙虚さが、私たちにも求められている。

すぐに「当たり前の正義」を振りかざしてしまう態度こそが、本書で批判されている、黒川の言った、窪田の『そういうところ』(P25)なのだ。窪田の姉の言った『物語に出てくるヒーローみたい』(P53)なところなのである。

なぜ、「物語のヒーローみたい」ではダメなのかと言えば、現実における「悪」というものは、「物語の悪役」のような「純粋な悪」などではなく、しばしば「もうひとつの正義」である場合が少なくないからなのだ。
そしてそうである可能性を考慮せずに「正義の暴力」をしばしば辞さないのが、私たちの「物語のヒーローみたい」な、薄っぺらい正義だからなのである。

黒川が自分の娘を川に突き落とした動機に、「リアリティ」が無いとする読者がいる。

しかし、にもかかわらず「この動機は素晴らしい」とする者が少なからずいるという現実を、その人は無視すべきではないだろう。

自分の価値観においては「リアリティが無い」ということになっても、別の価値観、つまりこの場合「本格ミステリの価値観」からすれば、黒川の動機は「ミステリ作品におけるリアリティが、十二分にある」ということになるのだという事実を、少しは想像してみる必要があるのだ。

そうした「他者の論理=他者の正義」まで理解した上で、自身の「正義」を、責任あるものとして、語るべきなのである。

本書『あなたが正しくいられたとき』であり、著者・芦沢央の問題意識は、そうした深度から発せられているのだいうことを理解できないかぎり、本書を理解したことにはならないのである。



(2026年6月25日)

 ○ ○ ○






“芦沢央 『あなたが正しくいられたとき』: 「正義」のリアリティ” への4件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    芦沢央で最初に読んだのは「いつかの人質」(角川文庫)
    小泉喜美子の「弁護側の証人」で、真相がズバリと書かれた伏線に唖然としましたが(トリックとか犯人は誰だとか、そういう事を一切考えずに読むので尚更)「いつかの人質」もそれに似た伏線が見事なミステリです。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    そうですか。
    芦沢は、古いところをかなり読んでいる人みたいですね。

    最近のミステリ作家は、新本格以降しか読んでない人が多いようで、ラノベ的な文体や人物描写の人が多く、その点で物足りないことも多いのですが、芦沢はそのあたりとは一線を画して、読める小説の書けるミステリ作家ですね。
    芦沢央については私もあと何冊か読んでみるつもりなんですが、どれを読むか悩ましいところです。

    ちなみにお恥ずかしいところなんですが、私はまだ小泉喜美子の『弁護側の証人』を読んでいません。定番中の定番なのにね。
    何度か読もうとして買っているのですが、そのたびに後回しにして積読の山に埋もれさせているうちに、ミステリから離れてしまいました。
    この機会に読むべきかもしれません。

  3. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    全然違う話ですが、年間読書人さんの笠井潔「夜と霧の誘拐」に関する記事を読んで、ああそうだと東京創元社の文芸誌「紙魚の手帖」vol.29を開いてみたら、第26回本格ミステリ大賞受賞作の発表があり、小説部門で「夜と霧の誘拐」が受賞してました。(有効投票数53票のうち18票。この数字が多いのか少ないのかは分かりません)
    本格ミステリ大賞にどのくらい権威があるのかは知りませんが、乱歩賞ほど話題にならないので、その程度のものでしょうか?

  4. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    『夜と霧の誘拐』が本格ミステリ大賞を受賞したというのは知ってました。
    でも、ふーんという感じでしたね。
    相変わらず手間のかかった大作ですが、それだけのことで、あれが受賞作では、他にこれといった本格作品が無かったのだとしか思えません。

    たしか『夜と霧の誘拐』は、「このミス」と「文春ミステリーベストテン」で、第2位あたりという話だったんで、期待して読んだんですが、何がそれほど評価されたのか、私にはさっぱりわかりませんでした。

    話は変わりますが、伝え聞いたところによると、推理作家協会が運営資金的にかなりヤバいことになってるそうで、下手すると潰れるかも知れない瀬戸際だとか。

    乱歩が作った歴史ある団体ですが、それだけでは存続できないシビアな時代になってきたようです。
    実際、推理作家協会は、近年ほとんど存在感がありませんでしたからね。

    でも、それは本格ミステリ作家クラブも似たようなものだから、他人事ではないかも知れない。
    実際、推理作家協会賞や本格ミステリ大賞受賞作だからといって、わざわざ買う人は、今どきほとんどいないでしょうしね。

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