クリストファー・ノーラン監督 『フォロウィング』: ノーランの「原型」的作品

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▷ 映画評:クリストファー・ノーラン監督『フォロウィング』(1998年/イギリス映画)


じつのところ、本作『フォロウィング』については、あまり書くことがない。

作品として、つまらないというのではなく、あまりにも典型的にノーランな作品なので、これまで何本かノーラン作品を論じてきた者としては、今更それに付け加えるべきことなど、ほとんどないからである。

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本作『フォロウィング』は、クリストファー・ノーラン監督のメジャーデビュー作品にして出世作。非常によく出来たサスペンス・ミステリーだ。

だが、その後のノーラン作品をある程度見ている者には仕方のないことなのだが、いまさら見るのでは、さすがに新鮮味には欠けてしまう。

言い換えれば、さほどノーラン作品を見ていないノーラン初心者にはオススメなのだが、次作の『メメント』(2000年)を見ている人には、まったくオススメできない。

なぜなら、本作『フォロウィング』は、『メメント』の原型的な作品であり、『メメント』は、本作『フォロウィング』を、極端なまでに複雑化した作品なのだ。
つまり、『メメント』を見ていると、『フォロウィング』の「謎めいた展開」の意味が、かなり早い段階で推測できてしまうのだ。
そしてその分、終盤で真相を明かされても、おのずと驚きに欠けてしまう。


ひとことで言えば、本作『フォロウィング』は、『メメント』と同様の、「映像による叙述トリックミステリ」だ。
時系列を操作することで、謎めいた展開を見せる物語が、適宜パズルピースをはめ込んでいくようにして、徐々に全体像を浮かびあがらせていくという仕掛けの作品である。

そんな「映像による叙述トリックミステリ」としては、非常にバランスの良い作品で、その意味では『メメント』よりも良くできていると言っても良い。
『フォロウィング』のラストが理解できない者は稀で、ほとんどの人が「そうだったのか、騙された!」と素直に楽しむことができる、そんな完成度の高いエンターテイメント作品に仕上がっている。

それに比べれば、『メメント』の方は、『フォロウィング』の次作であったため、バージョンアップ的に徹底的な複雑化がなされており、最後まで見ても、たいがいの人は『メメント』がどういう構造の作品だったのかが理解できず、「難解」だと言って理解を放棄するか、ネット検索して解説(絵解き)記事を読むかしかないような作品でだった。
つまり、ひとことで言えば、やり過ぎの「異形作品」であり、映画として面白かったというよりは、「よくもまあ、こんな複雑なパズル映画を作ったものだ」と、そこに「感心」させられる類いの作品だと言えるだろう。

喩えて言うなら、普通の映画作家が、100人中90人の理解できる映画を作ろうとするのに対し、100人中5人わかれば良いというような、野心的とも開き直ったとも言える作品が『メメント』なのである。

だから「その意気や良し」とは言えるけれども、ある意味では、非常に「自己満足的」な作品だったとも言えようが、だからこそ『メメント』は「カルト的な人気」を呼びもしたのである。


そんなわけで、本稿は『フォロウィング』の解説でありながら、あまり書くことがない。

本作『フォロウィング』を見ると、やはりノーランは最初からノーランであり、こういう「時間操作によるパズル作品」が根っから好きなんだなとあらためて確認させられ、その点に意義を認められはしたものの、今となっては、「やっぱりな」という感も強かったのだ。

『フォロウィング』の冒頭は、次のような具合である。

『小説家志望のビルは失業中の孤独な若者で、唯一の趣味は他人の尾行(※ フォロウィング)だった。アイデア探しのためで深追いはせず、2度は追わないルールだったが、大きなバッグを持った男を2度尾(つ)けて気づかれ、喫茶店で問い詰められるビル。コッブと名乗った男は泥坊だと自己紹介して、空き巣の現場にビルを連れて行った。

盗みよりも刺激が大事で、他人に興味があるからと、家の様子から住人の人となりを推理するコッブ。帰宅した住人と鉢合せして逃げ出し、次回の盗みの段取りを任せられたビルは、当てもないので自分のアパートにコッブを盗みに入らせた。失業者で作家志望の男の部屋だと言い当てて、何も盗らずに帰るコッブ。』

(Wikipedia「フォロウィング」



本作『フォロウィング』の場合、物語の開始に先立つ「指紋をつけないための薄いゴム手袋をした男が、貴重品か何かをしまった小物入れの箱を開けて、中の物を検分している」という、手先アップの意味ありげな導入シーンからして『メメント』を連想させられるし、それに続く主人公ビルの「尾行を始めた理由の供述」も、のちの「尾行する者とされる者」の立場の逆転というものを予想させてしまう。

そして、始まって30分もすれば、本作がノーランお得意の「切り刻んだ物語パーツの、前後入れ替えによる時間操作もの」だということがわかってしまうのだ。

あとは、その結果として、『メメント』と同様に、物語が合理的な時間軸に収まる作品となるのか、あるいは『インターステラー』(2014年)的なウロボロス的円環構造の作品になるのかと、結末の予測が「2つにひとつ」にまで絞られてしまい、私個人としては、『メメント』とは違う、後者のパターンであることを期待した。

つまり、ポール・オースター安部公房的な「迷宮世界的な余韻のある結末」を期待したのだが、残念ながら、本作は『メメント』と同様、きっちりとパズルピースが収まってしまう作品だった。
そのため、『メメント』を見ていなければ感心もできるだろうが、見ておれば『メメント』以上の要素には欠ける作品として、あまりオススメはできないのだ。

それにしても、本作を見てつくづく思ったのは、ノーランって本当にこのパターン、つまり「切り刻んだ物語パーツの、前後入れ替えによる時間操作」が好きなんだな、ということである。

むろん、映画監督を続けていくからには、同じパターンのものばかり作るわけにはいかないから、こうした「物語構成上の仕掛け」だけではなく、当たり前に「人間描写」や「テーマ性」みたいなものも盛り込んだ、普通の物語寄りの作品も撮っていくわけだが、やはりノーラン本来の指向というのは、本作や『メメント』のような、人工的なパズル的作品なのだろうと、そう確認させられた次第である。

そんなわけで、今後は、まだ見ていない『プレステージ』(2006年)や『ダンケルク』(2017年)、そしてまもなく公開の『オデュッセイア』(2026年)も、いずれは見るわけだが、その場合にも、作品独自のテーマや物語だけではなく、ノーラン本来のこうした好みなり偏執なりが、たぶん抑制されたかたちではあれ、どのようなかたちで作品に表れているのか、そのあたりに注目したいと思う。

「栴檀は双葉より芳し」というけれども、まさにそうした匂いが人並み以上に強い、ノーランの作家性というか、ぬきがたい指向性に注目したい。

そして、鬼才ノーランが、そうした自身の基点から、一体どれだけ遠くまで行く力を持った作家なのか、そこを見極めてみたいと思うのである。


(2026年6月24日)

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