▷ 書評:速水健朗『機械ぎらい 機械音痴のテクノロジー史』(集英社新書)
まず、面白かった。そして、これはけっこう重要なことを書いている本だぞと感心した。
多くの人に読んでほしい好著である。
決して難しい本ではないし、180ページほどの本だから、すぐに読める。
しかし、だからと言って、内容まで軽いわけではない。考える頭のある人が読めば、考えさせられる本なのだ。

著者は、私の11歳年下だから、五十過ぎであり、もう若くはない。
だから今どきの「機械もの」には、あれこれにウンザリさせられていること、まず間違いなしだ。私もその年頃には、まさにそうだったのだ。
私は、4年ほど前に退職するまでは、大阪府警察のお巡りさんをやっていた。交番勤務の制服警官である。
警察というと「犯罪抑止」だとか「犯罪者の検挙」といった、身体を動かす仕事というイメージが強い。
だが、そこは役所の例に漏れず、(アメリカの刑事もの映画などでも、たまに描かれるとおりで)何か仕事をすれば、必ず書類仕事がついて回る。書類に残さないかぎりは、仕事をしたことにならないためだ。
人知れず市民のために働くだけでは、上司は評価してくれないし、評価のしようもないからである。
ま、それはともかく、私が若い頃、書類といえばすべて手書きであった。
決まった書式の専用用紙があって、それに手書きして書類を作るのだが、事件関係などの司法書類なら、カーボン用紙を2枚敷いて、複写を2通作る。これは、検察庁に送る2通(原本と正本)と所轄での記録保管用(副本)だ。ちなみに、カーボン複写の下の方、つまり、一番写りの悪い3枚目が、所轄保存用ということだ。
そして、たとえば、自分で覚書的に取っておきたい時には、高価なコピー(PPC複写)ではなく、今はなき「青焼」をしていた。私の若い頃には、コピーすら使わせてはくれなかったのだ(1枚30円の時代)。
ちなみに今では、書類のコピーを個人として取っておくというようなことも出来なくなった。情報管理の関係である。一一昔は、良かれ悪しかれ、おおらかだったのだ。
ところが、私が五十代になった頃か、もう少し前からだったかは忘れたが、書類をパソコンで作成するようになった。
それまでは手書きしていた、被害届も遺失届、拾得届も、報告書の類いも、順次すべてパソコンで書くようになっていったのだ。
そうした「デジタル化」によって紙資料が減らせるし、統計資料なども作りやすいとか、「なにかと便利」ということだったのだが、そうした書類の専用ソフトは、すべて警察内部で作ったオリジナルのものだったので、ものすごく使い勝手が悪かった。
例えば、それまでなら手書きで5分で作成できた遺失届が、当初は30分以上、物によっては1時間以上かかることになってしまった。
慣れてくれば、作成時間を短縮できるとはいえ、手書きの時よりも短時間になることは、ついぞなかった。
例えば、交番に財布を落としたと届け出に来た人があって遺失届を作成受理する場合、その財布の中に、現金の他に、運転免許証や健康保険証などの身分証明証や、クレジットカード、キャッシュカード、会員証、診察券などが山ほど入っていると、その一枚一枚について、発行者名と名義人を聞きながら、パソコンで入力していくので、とにかく時間がかかる。
けれども、手書きの頃は、定型の遺失届用紙1枚に収まる範囲で書けば良かった。
つまり、悪用される恐れのほとんどない、会員カードやポイントカードなどは、省略したり、「他5枚くらい」などと、大まかに書くことも出来たのである。
ところが、パソコンで書くと言うか、入力するようになると、データ上の別紙扱いとなって、いくらでも入力が可能になったから、「その他」として省略することがしにくくなった。時代的にも、手を抜いていると言われやすくなってきていたからだ。
しかし、それで丁寧に細々と入力していると、遺失届の作成に1時間以上かかることにもなる。
すると届出人のほうも、思いのほか時間がかかるのを知って驚き、中には、今は急いでいるのでと言って、途中で帰ってしまうような人も出てくる。するとまた、それまでの30分なりの作業はまるまる無駄になってしまうと、そんな調子のことが長らく続いていたのだ。
書類の作成方式が、一度に全部が変わったわけではないから、私が退職する10年くらい前から、そんなことがずっと続いていたし、退職時でもまだそんな過渡期であったと思う。
昔は「警ら課」と言われた交番のお巡りさんの「地域課」は、本来ならばその名のとおり、街に出るのが仕事のはずなのに、パソコンで被害届を作れば、それに伴う各種統計原票のデータ入力の仕事もあるし、交番の各種簿冊への記録も必要となって、そんなことを交番内でせっせとやっていたのだから、本末転倒もいいところで、当時の私はこうした事務仕事の増加を「クソ」だとぼやきながらやっていたものである。
また、このようにして交番で作成したデジタルデータを、その後どうするのかというと、普通に考えれば、ネット回線経由でそのまま本署に送りそうなものだが、警察のデータを一般回線には乗せられないということで、1日分のデータをUSBメモリに移し、それを翌日、交番勤務を終えた後に、お巡りさん自身が肌身離さず本署へと持ち帰っていたのである。つまり、データ化などと言いながら、交番と本署をつなぐ専用回線など無かったのだ。
さすがに今は、そんなアナログなことはしていないと思うのだが、しかし、なにしろ金のかかることだから、どうなのだろう?
ともあれ、現場のお巡りさんの実感としては、そうした書類のデジタル化で、仕事が楽になったとか便利になったという実感は、皆無だった。
むしろ仕事が面倒になっただけだし、地域住民にとっても、なんのメリットも無かったはずだ。
たぶん、一部の事務仕事(内勤)の人の仕事が、若干楽になった程度のことなのではないだろうか。
ともあれ、そうしたことから私は典型的「機械ぎらい」になってしまった。
もともと好きなわけではなかったが、職場のデジタル化のおかげで、「機械もの」が大嫌いになってしまったのである。
そんなわけで、本書に紹介されている「機械ぎらい」の実例なども身につまされて共感できるし、著書の問題意識にも、深く同意できる。
ひと頃に流行ったネットスラングで言う「禿同」だ。
著書自身も、自らの体験として、次のような「機械ぎらいのあるある」を紹介している。
『 たとえば、著者のようなフリーランスの出入り業者が、取引先企業のオフィスを訪れるときだ。事前に訪問を伝えると、入館手続きに必要な認証番号やQRコードがメールで送られてくる。企業のセキュリティは日々厳しくなり、訪れるたびにシステムが変わっていることさえある。
訪問の直前、膨大なメールの中から該当のコードを見つけ出し、セキュリティの通過口にある発券端末で処理をするか、読み取り機に直接かざす。これは、多くの人々にとってなんてことのない作業なのだろう。だが僕の場合、2回に1回くらいの割合で失敗し、入り口で立ち往生する。特に入館手続きのためのメールを見失うことが多い。コードは数日前に送られてくるのだが、毎日大量のメールを受け取る中で、過去のメールを即座に掘り起こすのは容易ではない。検索機能を使えばいいと思うかもしれないが、同じ会社からのメールは山ほどあるし、「入館」という一般的な単語で検索すれば、無関係な通知メールが大量にヒットして目的のものを埋没させてしまう。これは、日頃社員証を首からさげて顔パスで出入りしている内部の人間には伝わりにくい。外部の人間だけが知る、疎外感を覚える瞬間である。』(P12〜13 「まえがき」より)
わかる。非常によくわかる。
私も3年前に北海道旅行をした際、初めて飛行機のネット予約を取ろうとして、エラーの連発でどうしてもうまく行かず、結局は旅行代理店にまで出向いて、手続きをしなければならなかったのだ。
ただでさえ元々インドア派で、旅行になどまったく興味がなかったから、その時が飛行機に乗る生涯で二度目だった。その前の最初の時は、旅行代理店に電話して手続きしたはずなのだが、ともあれ、パソコンを前に(たぶん)5時間以上奮闘したあげく、どうしてもうまくいかず、すっかり疲れ果ててしまったので、そのとき以来、二度と飛行機旅行はすまいと、心に決めたのであった。
そして、もしも新幹線まで、ぜんぶネット予約になったら、もう、私は関西圏から出るような旅行は金輪際しないだろう。
さて、こんなことばかり書いていると、「機械音痴」の年寄りのぼやきとしか、若い人は思わないかも知れない。
だが、今は新しい技術について行けているからと、人のことを笑ったりしていると、自分が歳をとったときに、若き日の自身の傲慢と不明を、必ずや恥じることになるだろう。
一般人が使うテクノロジーのインターフェイスがその複雑化によって、年寄りまで含めたすべての人にとって、当たり前に使えるようなものではなくなってきているという現実を、本書はあらためて縷々紹介しているのだが、そうしたことをよくも考えずに「時代の流れ」だと諦めて受け入れていた不明を、私はいま反省させられている。
本書に書かれているとおり、本来ならば「みんなにとって便利になるはず」の技術革新が、どうして、多くの人を取りこぼしてながら、どんどん先へ進んでいってしまうのか?
本書は、そのあたりの問題を、取りこぼされていく人たちの目線で、丁寧に浮き彫りにしている。
『セルフレジとグレーバーの官僚制
思い起こすべきは、デヴィッド・グレーバーが(※ その著書『ブルシット・ジョブ 一一 クソどうでもいい仕事の理論』で)指摘した官僚制の話だ。
現代のテクノロジー装置とは、実質的には官僚制そのものの焼き直しみたいなものだ。
合理化や効率化を促すものだと多くの人々は信じて疑わないが、実際のところ人々の書類主義が生み出すのは、膨大な手続き(※ 手間)と、ルールのためのルール増大である。
人々が役所においてよく体験するのは、たらい回しである。専門ごとに分かれた窓口の都合に合わせ、別の窓口に足を運び直す。官僚制の特徴は、文書主義と専門分業制。利用する側は、役所の都合に合わせて、複数の窓口で書類を提出する必要がある。これが俗にいうたらい回しだ。
まさに、(※ 英国のTVドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』の登場人物で、まだ三十代半ばの)ワトソンが(※ 戦争から戻って、初めて)セルフレジの前で迫られたのは、流れ作業でいくつもの作業を矢継ぎ早にこなすこと。立っている場所こそレジの機械の前だが、同じ場所にいたまま(※ 「あれをして下さい。次にこれをして下さい」と)たらい回しの刑に遭っている(※ ようなものだ)。手続きのどこかで失敗したら、その作業は最初からやり直しである。ワトソンは「エラーです。やり直してください」と理不尽な手続き業務を命じられていた。この姿は消費者のものというより、むしろ下級公務員が命じられる行政的な業務の側の労働に近い(※ 惨めな)ものだったかもしれない。』(P168〜169)
みんなにとって便利なはずのテクノロジーが、実際には高齢者を置き去りにするようなかたちで進められている。
そしてそうした現状を問題だとも思わず、機械の前でおろおろしている人を見下しているような者は、いずれ自分もそのような目に遭うことにもなるだろう。
だから、自分がいつまでも、新しいテクノロジーについていけるわけではないというくらいのことには気づいて、そこで他人事ではない問題意識を持たなければならない。
『テクノロジーの受け入れにおける「35歳」の壁
たったの3年間、(※ 戦争のために)ロンドンを離れたワトソンが、セルフレジの操作に戸惑い、対応できなかった。ちなみにワトソンの年齢設定は不明だが、その役を演じたマーティン・フリーマンは1971年生まれである。ワトソンの設定年齢も大きな違いがないとして、このエピソードの放映年が2010年であることを考えると30代後半くらいと見ていいだろう。
新しい装置の操作に戸惑い、それに順応できなくなる年齢ではないように思われるが、人が新しいテクノロジーに向き合う際に、年齢が35歳よりも上か下かが重要だという指摘をイギリスのSF作家ダグラス・アダムスがしている。彼はまさに自分の名を冠した「ダグラス・アダムスの法則」として、次の三箇条を記している。
1 生まれたときに世の中にあったものは、普通で当たり前で、世界を動かす自然の一部である。
2 15歳から35歳の間に発明されたものは、刺激的で革命的と感じ、その分野でキャリアを積むこともできる。
3 35歳を過ぎてから登場してきたものは、自然の秩序に反するものである。
アダムスがこの法則を紹介したのは、1999年8月にイギリスの新聞“TheTimes”紙に寄稿したエッセイの中だった。背景には、当時の著名ジャーナリストが「インターネットなんて1950年代のハムラジオのような一時的な流行に過ぎない」と語ったことへの反論があった。アダムスは、こうしたインターネットへの無理解に対して皮肉を込め、自らの法則を披露したのである。
ダグラス・アダムス自身は1952年生まれ。つまり、彼がこの法則を書いたのは40代後半、インターネットに初めて触れたのも35歳を過ぎてからだっただろう。得意不得意は個人差があるし、あくまでこの法則も、エッセイで披露したジョークの一部とはいえ、説得力のある内容でもある。』(P 160〜161)
著者も書いているとおり、個人差はあって、50になっても60になっても、新しい技術についていける人も、稀にはいるだろう。
だが、それはあくまでも例外でしかないし、そうであるにも関わらず、大半の人に強いられた無益な苦労を、他人事として鼻で笑うようなことをしておれば、その人はまた、こうした技術的なこととは別のところで、きっと社会から冷たくあしらわれる目に遭うことになるだろう。
私はこのレビューで、著者が本書で訴えた内容を、ほとんど紹介していない。
けれどもそれは、著者の問題意識を共有するためには、それ以前に「弱者への思いやり」が無ければ、そもそもそんなことは不可能だと思うからだし、だからこそあれこれと、「実例」的な話ばかりを長々と書いたのである。

他人を「情弱」だとか「時代遅れ」だなどと嘲笑うような、そんなつまらない優越感しか持てないような人とは、本書の問題意識を理解することなどとうてい不可能な、「心の不具者」なのだと私は思う。
本当にそれは、「できて当然」のことなのか?
そうではないとすれば、どのように改善されるべきなのか?
人間は誰しもいずれ衰えて、できたことが徐々にできなくなっていく。
そしてそんな情けなさを噛みしめているときに、親切な社会と冷たい社会の大きな開きを、私たちは嫌でも痛感させられることになるだろう。
また、こうした想像力を欠いた人が増えれば増えるほど、社会は生きづらいものになっていく。
本書は、「今は元気な人」からは見落とされがちな、そうした問題を考えるきっかけを、きっと与えてくれるはずだ。
「情けは人の為ならず」なのである。

(2028年6月23日)
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